今回は本誌に寄稿する文章では珍しく個人的な話を書かせてもらいます。この間の週末、金曜と土曜に二日続けて「本屋で本を買った」話です。
それだけ? 基本的にはそれだけです。しかし、実はこれは私にとって稀なことで、前にそれをやったのがいつだったか思い出せませんし、次はいつになるか見当もつきません。二日続けてとなると、もしかするともうないかもと思ったりします。
何を大げさなと呆れられるでしょうか。本誌の読者は本好きの人が多いでしょうからなおさらですが、私の場合、リアル本屋——この表現もヘンですが、要はインターネット通販でなく実際の書店——で本を買うこと自体かなり少なくなっているのです。
地方の本屋で本を買うということ
正直に書くと、もう5年以上前から新品は、CDやDVDだとほぼ十割、本や雑誌も間違いなく九割方インターネット通販、つまりはAmazonで買っています。本にしろCDにしろ自室にいながらにして注文でき、それが無料で届けられる——逆にAmazonで買わない理由がないのです。
これがどこまで一般的なことかは分かりません。生活環境の問題もあります。具体的には職場の話で、以前は私が住む福岡で一番の繁華街である天神地区で書店に寄ることも多かったのですが、その後職場が変わり、平日は自室と職場の往復だけの生活になりその機会が激減しました。
また実環境と同じくらい大きいのが、ネット上におけるつながり、いわゆるソーシャルネットワークにおける評判に依って本やCDを買う機会が多くなったというのがあります。「お金はあるが時間はない」という社会人にありがちな状態、 また既に枕元の数十冊の積読本に加え、四代目無印Kindleには20冊を超える電子書籍が未読のままという現状では、本業関係や元から贔屓にしてる人の作品以外は、評判になっているのをネットで見て、興味が湧いたブツをAmazonで買って読むので手一杯なのです。
金曜日に買った山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』(幻冬舎)も、ネットの観測範囲内で取り上げる人を見て興味を持った本でした。
この日は夜に職場の飲み会があり、早めに着いたので会場となる居酒屋の近くにある私鉄の駅に併設された本屋に立ち寄りました。本屋の前の壁には岡野雄一『ペコロスの母に会いに行く』(西日本新聞社)が並べられていました。おそらくはこれが今売れ筋の本、あるいはこの書店として推している本なのでしょう。
15年以上前になりますがこの駅の近くに住んでいた時期があり、このさほど大きくない書店もよく利用したものです。せっかく久しぶりに来たのだから一冊ぐらい買おうと思い立ち、『ここは退屈迎えに来て』が浮かんだので新刊コーナーで探すも見当たらず、日本人作家の本が五十音順に並んだ本棚を辿って一冊だけあるのを購入しました。
『ここは退屈迎えに来て』には、帯に「ありそうでなかった、まったく新しい “地方(ローカル)ガール” 小説です」という山本文緒の推薦文があります。これが「まったく新しい」かどうかは私には分かりませんが、冒頭に置かれた「私たちがすごかった栄光の話」に、よくこれを書いたなという鮮烈さを感じたのは確かです。
ブックオフ、ハードオフ、モードオフ、TSUTAYAとワンセットになった書店、東京靴流通センター、洋服の青山、紳士服はるやま、ユニクロ、しまむら、西松屋、スタジオアリス、ゲオ、ダイソー、ニトリ、コメリ、コジマ、ココス、ガスト、ビッグボーイ、ドン・キホーテ、マクドナルド、スターバックス、マックスバリュ、パチンコ屋、スーパー銭湯、アピタ、そしてジャスコ。
私自身、「私たちがすごかった栄光の話」から上に引用した固有名詞の羅列が当てはまるロードサイドに住む者ですが、そうした「ファスト風土化」した地方都市に住む人間として上の引用を見て、感じはすごく出ているがいささか盛りすぎだなと苦笑するのも確かです。本当にこれだけの店舗が並ぶロードサイドがどれだけあるのか。
個人的に面白いと思ったのは、上の羅列の中にスターバックスが入っていることです。スタバの店舗が都会的なものの証とみなされたのも今や昔(90年代には長野で出店を求める署名運動がありましたっけ)、最初自分の住処の近くでスタバを見たときは少し奇異に感じたものですが、もはや郊外のロードサイドにありがちなものとして共通認識ができていたのかと得心がいきました。
そうした文化的に漂白された地方に身を置き、文化的インプットをネットに頼る自分の生活はどうなのかと考えることはもちろんありますし、「私たちがすごかった栄光の話」の登場人物が感じるような屈託もよく理解できるところです。が、結局は自分の人生がなるようになった結果だと諦める気持ちがあるのも確かです。私自身について言えば、地方に住もうが都会に住もうがいずれにしろ週末は自室にほとんど引きこもっているような内向的な人間では、アウトプットに大した違いはなかろうとも思うわけです。
博多における「天神書店戦争」の顛末
土曜日は朝から夕方までネットセキュリティ系のイベントに参加しました。いい歳して人見知りのため懇親会には参加しませんでしたが、せっかく博多駅近くに出たのだから映画でも観ようと、大々的に改築された駅ビルとともに昨年開業したシネコンに出向いて『アウトレイジ ビヨンド』のチケットを取ったものの、上映まで半時間ほど間があったため、シネコンの階下にある丸善書店で時間を潰すことにしました。
私のような非文化的な生活環境に身を置く人間が、博多という街の文化環境について論評する資格はないのですが、この地が意外にも書店には恵まれているという話は書いておいてもよいでしょう。
「一割経済」と言われる経済規模ながらも、まがりなりにもその九州最大の都市という立ち位置のためか、博多は人口比にすれば大きな書店が多く、ゼロ年代は紀伊國屋書店、丸善、リブロ、八重洲ブックセンター、そしてジュンク堂書店が天神地区に集中し、「天神書店戦争」とも言われました。
意外なところでは、2005年に青山ブックセンターが関東以外では初めて出店したのが福岡天神地区だったりします。ただ青山ブックセンターは、その前年にその運営会社の民事再生の申し立てがあり、書店として存続の危機を迎えた時期でもあります。当時「青山ブックセンターの維持・再建署名運動」を呼びかける文章を読み、その発起人に現在までその仕事を深く尊敬している人がいる分だけ心底脱力し呆れたのがあり(このときばかりは唐沢俊一氏と同意見でした)、青山ブックセンターができたと聞いても、喜ぶより、何やってんの? 大丈夫なの? とまず怪訝に思ったものです。
案の定、青山ブックセンター福岡店は2年後の2007年に閉店してしまいます。このとき「日本の文化の死を意味する」と署名運動をする人間は誰もいなかったことを考えると、どうやら福岡店の閉店は日本文化の生死に何の影響もなかったようです。
話を「天神書店戦争」に戻すと、最終的には後発のジュンク堂が制す形となり他の大書店は撤退を余儀なくされ、結果的に紀伊國屋と丸善は博多駅周辺に場所を移しました。これはジュンク堂福岡店が開店当初から西日本最大規模の坪数を誇っていたのが一番大きかったでしょうが(昨年末増床し、2060坪と日本最大規模の広さとなっています)、それだけでなくジュンク堂が本を選び買う上で最も良い環境を提供したことがあります。
具体的には読書用の椅子と机ですが、これを初めて見たときは、こうやってじっくり本を吟味して買えるのか! と驚いたものです。言うなれば、ジュンク堂はこの地に住む人間にとって、例えばかつてスターバックスがコーヒーにおいてもたらしたのに近い新鮮さを書店としてもたらしたと言えるかもしれません。
地方における「文化的生活」
本来なら映画の時間になるまでの暇つぶしでぶらつくだけでしたが、この日は駅ビルの中で見たポスターが気になっていました。
それは九州国立博物館でやっているベルリン国立美術館展の広告で、結局のところフェルメール、さらにいえば「真珠の首飾りの少女」日本初公開という惹句におっとなったわけですが、少し前に同じくフェルメールの画から着想を得た小説『真珠の耳飾りの少女』(白水社)の著者トレイシー・シュヴァリエのTED講演「絵画に見つける物語」を見ていたという偶然も作用し、私は普段ならまず行くことのない芸術関係のコーナーに足を運んでいました。
案の定、「西洋画家自伝・伝記」コーナーはフェルメールに関する書籍がまとめて立てかけられていました。その中でフランク・ウイン『フェルメールになれなかった男 20世紀最大の贋作事件』(小林賴子・池田みゆき訳、武田ランダムハウスジャパン)が目に留まります。フェルメールの贋作事件については通り一遍(つまりWikipediaで読める程度)の知識しかありませんが、内容紹介を読むだけで、一筋縄に行かない、すごく後味の悪そうな面白さを感じます。
しばらく立ち読みしていましたが、ふと本の冒頭に戻り、そこに掲げられているポール・ゴーギャンの言葉にしばらく考え込みました。
人生はなるようにしかならない。だから人は復讐を夢見るのだ。
『フェルメールになれなかった男』を棚に戻し、隣の「日本画家自伝・伝記」コーナーに目をやると、『芸術実行犯』(朝日出版社)という本の題名が目に入り、またしても芸術×犯罪かと手にとると、Chim↑Pomの本でした。
彼らのこれまでの活動並びに『芸術実行犯』という書名から、私は一見まったく関係なさそうな別の本を連想しました。
それは少し前に読んだマット・メイソン『海賊のジレンマ ──ユースカルチャーがいかにして新しい資本主義をつくったか』(フィルムアート社)で、これ自体音楽、ファッション、ハッキング、ストリートアート、広告と幅広いジャンルにおけるカウンターカルチャーについて書かれたとても面白い本でしたが、構成に欠点があるのと原書が出て時間が経ったため事例が古びてしまったところがあり、そのあたりを更新する本を読みたいと思っていました。
ハッキング方面については塚越健司『ハクティビズムとは何か ハッカーと社会運動』(ソフトバンク クリエイティブ)がぴったりの本でしたが、『芸術実行犯』はアート方面について当方のニーズを満たしてくれる本ではないかと手に取り、レジに向かいました(結論から言うと、その見立ては当たりでした)。
レジで会員カードを作るか聞かれ、普段ならその手のカード類は即座に断るのですが、少し気分が高揚していたのか了承したところ、ネットで登録してくださいとhontoカードを手渡されました。こっちでネットでやれって!?
あらためて、街の本屋にできることは
最後に少しずっこけましたが、久しぶりに本屋で買い物をしたという満足感があったのは確かです。自分のそのときの関心や思いつきで、普段なら通り過ぎる分野に目を向けると知的好奇心を刺激する本がいくつも並んでいて、読んでみることでさらに連想が広がり、書店に入る前はまったく存在を知らなかった本を買う——こういう本屋を歩き本を買うという豊かな体験を知らなかったわけではないし、すっかり忘れていたとしらばっくれるつもりもありません。
しかし、私自身に関して言えば、それをあまりにないがしろにしてきたのは間違いないようです。
正直、先週末から日本におけるキンドル・ストアのオープンとKindle端末の予約受付で盛り上がる中、何を周回遅れな文章を書いているのだと我ながら呆れるところもあります。
しかし、今一度リアル本屋にデジタル配信にないかけがえのない価値があるのか、あるとすればそれは何なのか確かめておく必要があるのではないでしょうか。
コンテンツのデジタル配信に関し、出版業界は音楽業界とのアナロジーでよく語られます。私自身その構図に乗っかった文章を書いていますが、AppleやGoogleやAmazonを「黒船」に見立てる論などその代表でしょう。
私は2005年に『デジタル音楽の行方』(翔泳社)という本を訳しました。その本の解説で津田大介氏は、「アーティストは全員この本を読むべし。レコード会社の人間は絶対読んじゃいけません」と書いていますが、この本には小売店に対するアドバイスもあり、音楽だけでなく特定の文化的嗜好に特化した「ライフスタイル」全体を売ることや他業種の参入(例として出されているのはスターバックス)が挙げられています。
しかし、音楽に限らないマーチャンダイジングは既にやられていたことであり、今にして思えば、デジタル配信の隆盛を前にして、小売店に対する妙案はなかったのかもしれません。事実、現在まで音楽小売店の苦境は続いています。
書店もまったく同じことが言えるわけはないでしょうが、果たして「街のどこにも本屋さんがない!増える書店ゼロの街」式のニュースを前に、何をすべきなのか。
そもそも本はほとんどAmazonで買う私には、そうしたニュースに顔を曇らせる資格はありません。上で青山ブックセンター維持・再建署名運動に冷笑的なことを書きましたが、もし福岡からジュンク堂や丸善が消えたら、私は動揺するでしょうし、ひどく悲しく思うでしょう。しかし、実際にそこで大して本を買ってない以上、それはおらが街にも大きな書店があるという文化的虚栄心と言われても反論できません。
ただ、それならもうAmazonは利用しない、本はできるだけ本屋で買う、と啖呵を切ることもできない自分がいます。おそらくKindle Paperwhiteを買うでしょうし、もちろんそれで読む電子書籍も買っていくでしょう。
最後になって煮え切らない文章ですが、それが正直なところです。私自身についていえば、引きこもってばかりいないで、「福岡を本の街に」というスローガンで毎年開催されているブックオカに足を運ぶあたりから始めていくべきなのでしょうか。
とりあえず、hontoのユーザ登録は済ませました。
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- (雑文書き・翻訳者)
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