第2回 続・本で床は抜けるのか

2012年5月31日
posted by 西牟田靖

友人たちと4人で住んでいた三階建ての一軒家から、木造二階建てのボロアパートへ、2000冊近くの蔵書を移したところ、床が完全に本で埋まってしまった。その様子を写真に撮り、ネット上に公開したところ、まったく違う意見を同時に寄せられた。「床が抜ける」というものと「それぐらいじゃ抜けない」というものだ。

いったいどちらが正しいのだろうか。「本で床が抜ける」という話はときどき噂話として聞くことがあるが、都市伝説ではなく、ほんとうに抜けたりするのだろうか。三面記事を探ったり、専門家に話を聞いたりして、真相を探ってみた――というのが、前回の記事(「本で床は抜けるのか」)のあらすじである。続編の今回は床抜け問題について、さらなる実例や、床が抜けないようにする方法について考えてみたい。

恐ろしい話

軍事ジャーナリスト加藤健二郎さんが話してくれた「本で床が抜けた」知り合いの連絡先を見つけ出した。加藤さんと僕が共通して仕事をしている雑誌編集部、そのルートをたどったのだ。

加藤さんの知り合いとはマスコミ出演が数多い軍事評論家、小山優(仮名)さんであった。突然の電話であるにもかかわらず、小山さんは快く取材に応じてくれた。

床が崩れたのは1997年です。練馬区の中村橋近くの木造アパートに住んで6年がたっていました。ふた間と台所がそれぞれ6畳の2DKという間取りで風呂とトイレ付きです。一つの部屋には机を置き、もう一つの部屋は本だけの部屋としていました。一人で暮らすには十分すぎる広さでしたが、蔵書を5000−6000冊所有しておりまして、本の隙間にやっと暮らしているような、そんな感じでした。利用している本棚はどこにでもある普通のものです。大家の許可を得て、大工さんに作り付けの本棚を壁に固定してもらい、そこに資料を収めていました。洋書や写真集など重い書籍がかなりを占めていました。本の置き方ですが、基本は壁際、一部は床置きという状態でした。

床が抜けたきっかけは地震でした。小さく揺れた後、その5分後にミシミシと音がして、床置きしているところがみるみる崩れていきました…。大型の洋書を重ねてたんです。2冊膝の上に置けば、昔の刑罰になるというぐらいの重い本です。1冊2キロぐらいはあったでしょうか。本棚のある壁際から離しておいていました。崩れたところの床下は木材が弱っていました。ネズミがかじって穴を空けて、一階と二階を行ったり来たりしていたのです。部屋からは見えなかったんですが、あとで一階から見ると、ネズミがおしっこをかけたシミがあったそうです。崩れた後、二人で手分けして本を取り出しました。すぐに出ていかなくてはなりません。引っ越し先は練馬区内に適当なところが見つからなかったので、中野区に引っ越しました。

前回にお伝えした「明日中に全てもって出て行くか、損害賠償を払え」という大家とのやりとりは床が崩れた後の修羅場の中で交わされたのだろうか。

借りていた家に大変な迷惑をかけました。全てが私の原因ではないにせよ。弁護士を通して、交渉し、弁済金を支払いました。建て直すのである程度のまとまった額は払わなくちゃならなかった。おかげでものすごく貧乏になりました。貯金は全てはたきました。だって何百万という大金ですよ。その後、蔵書は実家の物置に置くことができたんですが、背表紙を一望できないじゃないですか。使いづらくなりました。そのころ親の介護も重なっていましたし、大変でした――。

数百万という弁済金を支払わねばならなかったのは、アパートが崩壊し、建て直しを余儀なくされたからなのだろうか。本を持ち出せたのだから、一気に崩れたりはせず、時間をかけてゆっくりと崩壊していったのではないか。部屋は二階だったのか。建物は全壊したのか。自身は怪我をしなかったのか。本は全て取り出せたのか。本を取り出すのを手伝ってくれたのはいったい誰なのか。また、弁済金は立て直しの費用の全額なのか。どうやってすぐにアパートを見つけたのか――。

話を聞いて、様々な疑問がわいてきた。

「お聞きして疑問に思ったことがあります。例えば弁済金の具体的な額ですが、結局のところいくらだったんですか。それは修繕費用の全額だったのですか」
「……」
「もしもし」
「……この話そろそろやめてもいいですか。名前? 匿名にしてくれれば何を書いてもいいです。……ガチャ」

立板に水の如く、しゃべり続けた小山さんだったが、この一件については今も引きずっているようだった。僕が追加で質問しようとすると、途端に口ごもり、電話が途切れてしまった。お目にかかった上で、ゆっくりと話をお聞きするつもりだったのだが、これ以上の話は難しそうだ。

弁護士が入ったというから、この記事が明るみになることで、余計な問題が起こることを恐れているのかもしれない。自分から話すのはまだしも、他人から質問を受け、思い出して詳しく語るほどに、この体験をご自身の中で消化されていないのだろう。

それにしても人の噂はいい加減なものである。結局、小山さんは賠償額を払ったのだ。

正反対のアドバイス

1万冊強の蔵書を持つ東京大学大学院の教授、松原隆一郎さんからいただいたアドバイスは前回話を伺った一級建築士とは正反対であった。

松原さんの活動範囲は実に広い。専門分野である社会経済学、相関社会科学の研究、学生の指導といった本業以外に新聞での書評の仕事、論壇での提言などに加え、フリージャズコンサートの製作に関わったり、格闘家としての顔を持っていたりもする。先生には拙著が文庫化されたときに解説を書いていただいたこともあり、以前から懇意にしていただいている。

床抜けの話を書いてあったけど、抜ける理由は壁に置いているからですよ。壁の回りに本棚を置くと部屋の真ん中がゆがむ。床が上がるんです。そうしたケースがいちばん床が抜けやすいし危険です。そうならないためには真ん中に重いものを置かなくてはならない。全体の重さで床が抜けないのであれば、真ん中にも置いた方がいい。よっぽど強い造りじゃない限り、真ん中を外すのは危険です。木造だったら床の真ん中がボーンとあがる可能性がある。実際、僕の家(書庫にしている木造の一軒家)は真ん中が上がってきている。今は父親の遺品である1000枚以上のCDコレクションを置いているから平気なんだけど、その前はなんとなく、真ん中が上がってきていた。

現に、僕の友達で床が抜けた人がいる。本の重さというものはだいたい分かっていたつもりだけど、自分の家も床が上がってきてたからね。これやばいなあって危機感を持ちました。

前回の一級建築士が話してくれた、梁の上に載せた方がいいという話と食い違う。建築士のアドバイスに従い、強度のありそうな部屋の端に本棚を並べたというのに、その方法こそが問題で、いちばん危険だなんて。いったいどれが本当なのだろうか。

しかし、小山さんのケースも壁に沿って本棚を並べていたという点では、松原さんの説に従うと危険だった、ということになる。反りかえった床にネズミが悪さしたところを小さな地震がとどめを刺した、ということであれば、確かにその通りなのかもしれない。

なお、松原さんには三つの拠点がある。駒場にある東大大学院の研究室、阿佐ヶ谷にある自宅、そして書庫専用に借りている築50年の木造の一軒家である。

書庫にしている一軒家は日の当たらないじめじめしたところなんです。風呂なし、家賃4万5000円、9畳半。そこには学生が使うような普通の本棚が17箱置いてあります。

彼が危惧している、床が上がっている家とは書庫にしている古い木造家屋のことである。

大作家が経験した床抜け

本を置くには部屋の真ん中がいいのか、それともやはり端がいいのか。しかし真ん中に置いたら邪魔でしょうがない。いったいどうしたらいいのだろうか――。結論はひとまず先送りすることにして、別の床抜け事件を追っていくことにしたい。

・マンションの床が抜ける
ノンフィクションの書籍を読んでいると、参考文献リストが本の末尾につけられていることが多い。10ページを越えるリストもたまに見かける。リストを眺めていて思うこと。それは作者が参考にした書籍をどのように管理しているのかということだ。ゴキブリを1匹見かけたら実際は10匹いる、といわれるが、長大な参考文献リストを目の当たりにすると、家にどのぐらい本をため込んでいるんだろうと心配になってくる。

なかでも「知の巨人」と呼ばれている立花隆の蔵書数については以前から気になっていた。脳科学、政治、音楽にセックスなどあらゆるテーマについて雑誌や書籍で大量の文章を書き記している。そんな旺盛な創作を支えるのは「様々な書籍やまだ書籍になっていない専門誌の記事などの大量の文章だ」という話を以前、どこかで読んだことがある。彼ほどの読書量を誇る人であれば、それこそ床が抜けたことがあるかも知れない。

すると案の定、『ぼくはこんな本を読んできた――立花式読書論、読書術、書斎論』(文藝春秋、1995年)という本に自身の書棚と書斎の変遷について次のように書いていることがわかった。この本の存在は以前から知ってはいたが、恥ずかしながら未読であった。

二〇代の一部屋暮しが、三〇代には二DKになったと述べたが、実は、二DKになってからの一部屋は、完全に本に占領されていた。(中略)一部屋時代最後のアパートは、木造であったために、本の重みでこわれかけた。たてつけが悪くなったのはもとより、壁に亀裂が入ってしまった。これはヤバイと思って、マンションに入居してみた。マンションなら鉄筋コンクリート造りだから、いくら本をいれても大丈夫だろうと思ったのである。しかし、そのマンションでも、本の重さで床を抜いてしまった。鉄筋コンクリート造りでも、普通のマンションはコンクリートの上に木で床を張る。その床の作りがチャチだったのである。

前回記した積載荷重の限界値だが、木造建築は1平方メートルあたり180キロ、一般のRC(鉄筋コンクリート造り)住宅などは同300キロ、図書館は600キロである。真ん中のデータを採用するとして、高さ2メートル以上の突っ張り本棚にめいっぱい(1冊400グラム、棚一つ40冊、棚を12段として)載せても、積載荷重の限界値は192キロとなり、まだまだ問題ない。このケースでもRC構造の強さが証明されている。木の床は抜けてしまったが、コンクリートの床は大丈夫だったのだ。

・床抜けをおもしろがっている小説家
担当編集者の仲俣さんに、故・井上ひさしさんの家も床が抜けたそうだよ、と教えられた。

彼の著書のうちエッセイ集ばかりを取り寄せて読みあさってみた。すると、実際、床抜けを題材にしているエッセイがいくつかあった。そのうちのひとつ『続・家庭口論』(中公文庫、1976年)には、床抜けの話が次の通り、記されていた。

わたしの仕事部屋は六畳である。その六畳に本が六千冊ばかり積みあげてある。べつに蔵書趣味はないのだが、整理を怠けているうちに自然にそれぐらいたまってしまったのだ。わたしの家はごくありきたりの建売住宅で、最初は台所兼食事所を入れて四部屋だった。が、その後、子どもと本の殖えるのに合わせて建て増しを続け、現在は八部屋ある。その増築部分でもっとも古いのが、このわたしの仕事部屋で、たしか八年前に二十万円で出来たと記憶する。いくら八年も前のこととはいえ、二十万円は安い。(中略)

第一の惨劇は去年の暮れに起った。(中略)風呂から出ると湯上りタオルを腰に巻きつけ、ビールとコップを持って部屋に戻った。(中略)『旅の重さ』という本を仕事部屋の隅の、本の塔の一番天辺にぽんと置いた。が、そのときである。あの惨劇が起こったのは!

まず、ばりばりという音と共にわたしの躰が沈み、沈んだところへ周囲に積みあげてあった本が流土砂のように凄じい勢いで流れ込んできた。その震動がレコードの上を回転していた針を弾ませ走らせ、ぎゃらごろぎゃらごろぎゃらごろと、ステレオのスピーカーは異様な咆哮をはじめた。壁ぎわの本棚が倒れ、石油ストーブは傾き、その上にのっていた薬罐が転がってわたしの方へ熱湯を飛び散らせた。

二階に寝ていた奥さんは飛び起きて駆け下りてきて、子供たちがおびえて泣き、近所の飼い犬たちが吠え立て、近所の人たちが窓を開けあたりの様子をうかがったと書いてある。被害については次のとおり。

①わたし自身(両膝にすりむき傷、全治二週間。精神的衝撃による執筆不能、三日間)②ステレオ針(使用不能)③書籍十数冊(薬罐の熱湯を浴びての表紙の反りかえり)④家人(足首の軽捻挫、全治三日間。精神的ショックによる言語多発弁症、全治三十分間)⑤子どもたち(タオル一枚腰に巻き、膝から下を床下に没しつつ呆然と立っていた父親を目撃したために父親に対する尊敬の念失調症にかかる。これは不治)⑥ご近所の人々(軽度の睡眠不足)

この話、どうにもうさんくさい。話が進めば進むほど、矛盾があらわになる。しかしデタラメだとわかっていながらも、読み進めば進むほど、笑いが止まらなくなるということも事実である。真偽のほどはともかく抱腹絶倒のエッセイであった。

・井上家での床抜け話の真相
井上ひさしの先妻、西舘好子さんに真相を伺った。彼女は20歳だった昭和36年(1961年)に井上ひさしと結婚している。1983年にはひさしの作品のみを上演する劇団「こまつ座」を結成し、劇団の運営に関わるも、3年後の1986年に離婚した。二人の離婚はワイドショーでずいぶん騒がれたので、当時、高校生だった僕も当時の騒ぎを何となく覚えている。西舘さんは床抜けの話について、次のように語ってくれた。

昭和42年(1967年)ごろの話かしらね。市川の国分に建て売り住宅を買ったのよ。床が抜けたのはその家での話です。家の庭の一角に8畳ぐらいの書斎を建て増ししていたんですよ。大量の本を置き、仕事をしているという状態でした。パネル状の四角い建材をはめ込んで作った床が、ある日、本の重みで「ぼんっ」と落ちた。3月ぐらいのことかしら。おっこちたのは部屋の端。本棚の下あたりでした。

「なんだなんだ」って書斎に駆けつけると、本を積んでいたその下の部分がこのぐらい(直径1メートル強の円)にわたって陥没してたのを見つけたの。そこには鉛のような百科事典が積んでありました。重いものを積み重ねているので、床が痛みはじめ、ゆがんでしまって、すき間が広がって、最終的には抜けてしまったんでしょう。

抜けたところには本がダダダッて入っちゃってるんです。だけど、床下は空洞で空気孔があって、そこからよく蛇が飛び出すっていうんで、誰も近寄らなかったわね。お寺が近かったのよ。

好子さんが言う「お寺」とは下総国分寺のことである。当時、市川のあたりは今のような高級住宅地というイメージではなく、もっとのどかな場所であったということが、床抜けの事件の背景に透けて見える。

次にひさしの文章の真偽を尋ねてみる。

当時は畑の中の何軒家かでしたし、隣には姉が住んでいましたから、近所が様子をうかがうなんてことはありませんでした。彼がビールを呑んだりすることもありませんでしたし、湯上がりにタオルだけという姿で家にいたことは私と結婚していた25年の間で一回もありません!

子どもたちは当時まだ赤ちゃんですから、尊敬の念失調うんぬんというのもありえない。ステレオがあったのは書斎ではなく応接室でした。うちは紙の家で、本の管理にすごく気を遣っていたので、石油ストーブなんて置いてませんよ。

本を置きすぎて床が抜けてしまったことは事実だが、枝葉の話はすべて事実ではないのだ。

『続・家庭口論』に書いてあることはあくまで創作です。身近に起こったことが面白おかしく彼のネタになっていく。作家根性といえば聞こえが良いけど、モノを書いて露命をつないでいく人にとっては哀しいぐらいの業なんじゃないかしら。

好子さんはひさしの「嘘」に怒ったり、冷淡な反応をしめすことはなかった。誰よりも井上ひさしが書く意味を理解していたのだろう。井上ひさしは好子夫人という最大の理解者がいたからこそ作家として大輪の花を咲かせたんじゃないだろうか。

床が抜けた後はどうなったのだろうか。好子さんの話を続けよう。

大工さんに来てもらって「おっこっちゃったんだけど、どうしたらいいんだろう」って相談したの。すると「こんな重い物を床の上に載せてたら、たまらないですよ。これ以上何か載せるとホントに陥没しますよ」って注意されました。そのぐらい本が積まれてたんですよね。建て売りが土地込みで500万円しなかった時代でした。私の父が計算をしていたのでよく知りませんが、20万円ぐらいかかったかしらね。そのころから、窓をつけてくれだの、本棚をつくってくれだの、しょっちゅう大工を呼んで家を直してもらっていました。

今の物価に単純換算すると補修費は200万円となる。しかし小山さんのように貯金を使い果たすどころか、しょっちゅう大工を呼んで、家のあちこちを改造していたというから、ひさしや好子さんにとって、床抜けというのは経済的にはそんなに大したことではなかったのだろう。当時、放送作家だったひさしの年収は5000万円もあったそうなのだ。

とはいえ、二度も三度も床が抜けると話は違ってくる。

最初は「抜けた抜けた」って何だか楽しんでたんだけど、また床が抜けて、「こりゃ危ないよ」ってことになって家を建てることになったんです。

昭和50年(1970年)に市川の北国分というところに建てた自宅は敷地200坪、建坪120坪の豪邸で、部屋数19、トイレの数6を誇っていた。

本の重みは並ではないの。そのことを分かっておりましたので、25坪ぐらいの家を書斎兼図書室として建て増ししました。そのときは土台から掘って、本の重みに耐えられるだけの鉄骨をあるだけ全部入れました。木造なんてとんでもない駄目だってことで完全に図書館を作るつもりでそこは作ったわけ。お金は倍かかりました。2000−3000万円かかったんじゃないですか、書庫だけで。その後レール式の書庫を入れてそこに本を置きました。

本の重みを知り抜いていたひさしや好子さんは図書館並の強度を持つ相当に頑丈な家を作り上げた。しかしその家も、1986年の離婚によって、結局は売りに出されることになった。

* * *

立花隆は地上三階地下一階のネコビルを建て、井上ひさしは敷地面積が200坪もある豪邸を建てた。前述の松原さんも立花隆同様に書庫と作業場を兼ねた家を建てる計画があるそうで、今年5月に着工、9月に完成する予定なのだという。

戦後を代表する小説家や知の巨人、東大の教授ではない三文ライターである僕に書庫を建てるだけの財力などあるはずがない。であればほかにどんな方法があるのだろうか。松原さんは言う。

集密書庫がいい。端から端まで全部本。反転できる余裕があるぐらいの幅を残せるぐらいの重さで、倒れる可能性はないんじゃないの。床はいちばん抜けにくい。端っこでゆがむという問題は起きない。

立花隆のネコビルにも井上ひさしの豪邸にも使われていた書架である。普段目にすることは少ないが図書館の閉架式の書架はみんなこれである。経済的なことを考えると、この方法も現実的ではない。もっと安い方法で床を抜けなくする方法はないのだろうか。

格安の方法でアパートの補強に成功する

『アジアの雑誌』というタイ発の日本語雑誌がある。僕もときどき投稿させてもらっている関係上、毎月、編集部から献本されてくる。この雑誌に1960−70年代の懐かしモノをテーマにしたコラムがある。執筆者のプロフィールをふと読んでいて、あ、と思わず声を上げた。「アパートの床が抜けて荷物の大移動を行った」と書いてあったからだ。

連載記事を書いているライターの名前は黒沢哲哉。彼は1960−70年代に流行った歌謡曲やおもちゃの思い出をテーマにしたコラムや、漫画の原作を数多く手がけている。おもちゃや古い雑誌の収集家としても名高く、おもちゃ博物館に自身のコレクションを預け、公開したりもしている。集めているモノの幅は広く、なかには彼自身が「世界一のコレクター」と胸を張る「昆虫採集キット」のコレクションも含まれている。

黒沢さんがいままでに出版した本のタイトルを調べると、僕の処女作『僕たちの「深夜特急」』を担当したフリー編集者S藤さんと仕事をしていることがわかった。S藤さんにさっそく連絡し、事情を話すと、すぐに黒沢さんに連絡をとり、仲を取り持ってくれた。黒沢さんにさっそく電話し、どうやって床が抜けたのか、話を聞いてみた。

黒沢さんが書庫兼おもちゃ置き場として利用しているのは1972~73年に建て替えた木造風呂なしのアパートである。二階建てで一階と二階にそれぞれ2部屋あり、彼は一階と二階の1部屋を借りている。補修工事前は床がすり鉢状にめり込んだり、壁は上になればなるほど内側に傾いたりしていた。床は抜けていたそうだが、小山さんのように劇的に抜けたのではない。施工のため大工さんが畳をあげたところ、ところどころ床が抜けていることが明らかになったそうなのだ。

二階の残る一室を借りていた住人が「もうちょっとしたら窓が桟から落ちる」と言って黒沢さんに傾いた箇所を見せたり、「なんとかしてくれ」と大家に苦情を寄せたりして、騒ぎ出したのが2010年の秋。アパートの状態を確認しにきた大家は、黒沢さんの部屋を見るなり「ああこれは駄目だ。この荷物のせいで傾いてるんだ」と肩を落とした。ちなみにこの大家、黒沢さんの小学校時代からの友人だそうで、釘を打ったり、穴を開けたりという、普通の賃貸契約では許されないことについても、黒沢さんは大家の許可を得ていたという。

年内に建物の補修を始めることになった。黒沢さんの借りている一階の部屋のうち4畳半のほうを先に行い、その後で6畳間も施工することになった。まずは、1か月かけて4畳半の部屋の荷物を運び出した後、大工さんが工事を行ったのは結局、その年の暮れのことであった。

建物は一日で施工が終了。一階の床から二階の天井まで筋交いを通し、床板や床下の束(短い柱)などを取り替えて、床面を補強した。畳は必要ないので取り外したままだという。

震災後の2011年5月、今度は6畳間の補強工事をした。荷物は前もって、施工済みの4畳半に移していた。残る二室の荷物を空いたところに玉突き状態で移動させ、順々に施工したのである。

物件をひどい状態にしたことに対しての弁償――しかも2部屋もあるのだから、小山さんほどと言わなくても、相当、支払わされたのだろう。それを支払った上で、今も住んでいるということなのではないだろうか。

一応、大家が払いました。修理が終わった後、家賃は月額で1万円あがってしまいましたけど。

家賃を増額することで、修理代を月賦で黒沢さんに支払わせているのだろうか。それにしても不思議なのは、大家と黒沢さんはなぜ縁が切れなかったのか、ということだ。建物が傾いて、壁が傾き、畳が腐り、床が抜けるほどのダメージを物件に負わせていれば、いくら幼なじみだとはいえ、関係が悪化するのが普通なのではないだろうか。

補修の跡をみせてもらう

今年の5月下旬、黒沢さんの書籍兼おもちゃ置き場の見学に行った。都内東部にある某私鉄の小さな駅。下町の小さな、しかし観光地としては名高い駅である。駅で黒沢さんと落ち合い、挨拶もそこそこに案内してもらい、5分ほど住宅街を歩くと、物件のそばにたどり着いた。

「ここです」

建て売りの小さな一軒家に典型的な小さな鉄製門扉から10メートルほど奥まった路地の奧に、二階建て木造のかなり古びたアパートがちらっと見えた。外壁は白く、所々にひびを補修した跡が確認できる。背後には五階建てぐらいのマンションが建っていて、件のアパートは回りを完全に包囲されている。

黒沢さんが向かって右側の部屋のドアを開けると、3畳ほどの台所があり、その奥に背丈ほどの本棚が「ヨ」の字を90度左に傾けたような配置になっている部屋が見えた。棚はごく普通のスチールや木の本棚だ。その上に本がごちゃごちゃと積み重なってある。

「ヨ」の字と書いたが、正確には「コ」の字と「−」の組み合わせである。横棒は「コ」の字と離して設置してあり、その間を通れるようになっているのだ。つまり、本棚と本棚の間は「コ」の字の通路になっているということだ。寝そべることは可能だが、本と本のすき間に寝そべるという感じになり、あまり現実的ではない。まさに収納に特化した書庫専用の部屋なのだ。目算するとだいたい5000−7000冊はあるだろうか。4畳半でこんなに本が置けるのかと思うとちょっと感動的ですらある。

光文社の漫画雑誌『少年』やケイブンシャの大百科シリーズ、『がきデカ』で有名な山上たつひこの作品群、学研のひみつシリーズとツボにはまる作品が多い。まさにお宝の宝庫である。『少年』は別として、僕が小学生だった1970年代後半の古い記憶が呼び覚まされる。

3部屋に分けて置いています。一階と二階は本ですが二階はおもちゃです。二階の荷物は一階のものより軽くしてあるんです。とはいえ普通の家より重いでしょうけど。

ではいったい何冊持っているのだろうか。

数えようがないですけど、20年ほど前に住んでいたところから出るとき、段ボールが260箱分必要でした。あの頃のおそらく倍はあるでしょうね。

軽く万は超えそうだ。昭和47年(1972年)から1990年ごろまでの『TVガイド』もあり、押し入れに段ボールが縦に5箱積み重ねられていた。

これでも捨てたんですよ。施工が終わって戻したら入らなくなっちゃったんで。60箱ほどかなあ。捨てたものの中には15~16年連載した『少年サンデー』の掲載分も入っていました。あの掲載分だけで壁一面分ほどもあったからね。

「コ」の字の棚に加え、中央に縦に棚が置かれていた。床は厚さ12ミリのコンパネが敷いてあるだけで畳はない。正面奥の壁には一階の天井を突き抜ける筋交いが走っていた(写真右)。

以前はというと、「本棚は前方に傾いていて、新書サイズの本が平積みの状態のままストンと落ちてしまうほどに間が開いていました。今はもちろん、そうしたことはありませんよ」とのことだ。

名残はいくつかある。畳はなくコンパネが敷かれているし、引き戸の敷居とコンパネ部分は4〜5センチもの段(写真下)になっているのだ。

黒沢さんは床を見ながらこういった。

ほんとだったら桟(敷居)と床はメンイツ(同じ高さ)なんですが、そうはなってないでしょ。

なるほどと思ったが、あとで調べてみると畳の厚さは5センチほどもあるということがわかった。

ともかく、部屋の真ん中は畳があったときでも、敷居に面している部分に比べ、さらに沈み、床がすり鉢状になっていたそうなのだ。

隣の6畳も同様に畳はなく、筋交いが天井を突き抜けていた。こちらで目についたのは『冒険ダン吉』の復刻版と、かなり高価なので僕自身かつて入手を断念したことのある軍艦島の資料集であった。おもちゃ置き場である二階の部屋には段ボールが山積していた。ここは筋交いが通っているだけで、畳が敷かれたままであった。

施工前は部屋の中を歩くと、ぶぶぶーんぶぶぶーんと床が鳴り、カタカタカタカタと窓ガラスが震えました。ほら、音がするでしょ。

二階の床は何も手を加えていないので、確かに音がした。胸騒ぎのする音だ。一階部分はがっちり補強したそうなので、そんなことは起きっこないのだが。

施工業者に話を聞く

黒沢さんのアパートを施工した大工の藤沢さんに電話で話を聞いた。

「黒沢君の荷物がいっぱいで底が抜けそうなんですよ」って大家さんが言うんで行ってみると、確かに床がブワブワしていたんです。真ん中がかなり下がっていた。施工は4畳半から始めました。まずは黒沢君に荷物を片付けてもらって、畳をとったんです。親柱が腐っていれば取り壊しとなるところでしたが、畳を上げて確認すると腐っていませんでした。とはいえ床はところどころ抜けていました。畳と荷物の重さから解放されたせいか、床はトランポリンのようでしたよ。

荒床(床板)にはあちこち穴が空いてましたが、湿気が主な原因です。回りに新しい建物がたったせいで、水がドンドン流れ込んでくる。荒床をめくると、雨のあとの地面のようでした。水たまりがところどころにあるんです。束(短い柱)は3尺ごとなので4畳半で四つ、6畳で六つあります。その束を受けるコンクリートの土台が倒れたりずれたりしているんです。土にじかに打ち込んでたりするので腐っていました。土台と鋼製束を入れ、根太を敷き、その上に垂木という細い角材をのせ、その上に荒床つまりコンパネを敷き、それをビスで留めました。そのほかに6畳の部屋も震災後に施工しました。やったことは4畳半と同じです。その他に筋交いを入れました。

次に仮定の質問をぶつけてみた。黒沢さんの部屋に保管してあったたくさんの本がもし二階にあったとしたら?

二階は二階で乾いていて床が腐ってなきゃ、そうひどい状態にならなかったと思うんですよね。とはいえ、二階が重くて傾くことは実際にあります。一方で、一階の荷物が多すぎて建物が傾いたって話は聞いたことがありませんよ。

ところで修理代の総額はいくらだったのだろうか。

こわしと処分を入れて15万円ぐらいでしたかね。2回合わせて総額で30数万円といったところでしょうか。

思ったよりも安い。修理代金を30数ヶ月で完済する計算となる。毎月1万円の家賃値上げはやはり修繕費の月賦払いを意味しているのだ。

黒沢さんがなぜ未だにアパートに住んでいられるのか。これでやっと腑に落ちた。建物が傾き、床が抜けたのは、床下の湿気による経年劣化という最大の原因に加えて、修理の代金がそれほどではなかった、ということも影響しているのだろう。

小山さんのように数百万という額であれば、問題は簡単には解決せず、禍根が残ったはずだ。30数万円という額ですんだからこそ、大家はいったん修理代を肩代わりし、その後、家賃増額という手段で黒沢さんに払わせるという手段で、手を打ったのだろう。

藤沢さんにはついでに僕や松原さん、立花隆のケースについても聞いてみた。

――部屋の端に本棚を置いて積み重ねると床が上がってきて危険だと言われたんですが本当ですか?

う〜ん、状況によりますね。古くなった建物の場合、端に重いものを置くと梁の接続部に実に重量がかかり分散されないから、金物でとめていても、抜けて床がバターンと落ちることがあります。床が上がるかどうか? ありますよ。置いたものの重量が梁から柱へと重さが掛かっていくんです。一方、(壁を支えるだけの柱と柱の間にある)「間柱」には重量が掛からない。柱は下へ下へと沈む一方、間柱はそのままだから、敷居も鴨居も「へ」の字になって、引き戸の開け閉めができなくなったりする。よくある話です。

――鉄筋コンクリートでの床抜けは?

木造とは根本的に強さが違う。とはいえ、床に格子状に並べる鉄筋のスラブ打ちばっかりに頼っていたらやはり危ない。スラブを壁に引っかかるようにしなきゃ。

立花隆は木の床が抜けただけで済んだが、よっぽどの欠陥マンションにあたってしまえば、RCといえど床が抜けてしまうかもしれないのだ。

――僕も二階の4畳半に大量の本を置いてあります。素人がどのように対処したらいいのかについて話を聞かせて下さい。

ビスすらとめられないんですか? だけど、コンパネを置くだけでもだいぶ違いますよ。

僕が書庫として利用している部屋の押し入れにはすでにコンパネが入っている。しかし畳の下には何も入っていない。今回、専門家のお墨付きをもらったのだ。今後、時間があるときにコンパネを床にも敷いてみよう。ここまで補強をすれば、しばらくは床抜け危機から脱することができるはずだ。

(このシリーズ次回につづく)

※この連載が本の雑誌社より単行本になりました。
詳しくはこちらをご覧ください。

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執筆者紹介

西牟田靖
ノンフィクション作家。日本の旧領土や国境の島々を取材した一連の作品で知られる。「マガジン航」の連載をまとめた『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)をはじめ、著書に『僕の見た「大日本帝国」』(カドカワ)、『誰も国境を知らない』(朝日文庫)、『ニッポンの穴紀行〜近代史を彩る光と影』『ニッポンの国境』(光文社新書)、『〈日本國〉から来た日本人』などがある。