アメリカの非営利団体インターネット・アーカイブ(Internet Archive)の創設者であるブリュースター・ケール氏が国立国会図書館の招聘で5月末に来日し、「あらゆる知識へのユニバーサルアクセス――誰もが自由に情報アクセスできることを目指して」という演題での講演と、国立国会図書館館長・長尾真氏、愛知大学教授の時実象一氏を交えた鼎談が行われました。
すでにご存知の方も多いと思いますが、インターネット・アーカイブは書物から映像、音楽、コンピュータプログラム、ウェブサイトにいたるあらゆるコンテンツを集積し、無償公開しているインターネット上の巨大なアーカイブです。
ケール氏はMITを卒業後、並列コンピュータで知られたシンキング・マシーンズ社に参加。ここでWWW登場以前のインターネットで重用されたWAIS (Wide Area Information Server)という情報検索システムを開発します。ここからスピンアウトして創業したWAIS社を1995年にAOL(アメリカ・オンライン)に売却し、翌96年に非営利団体インターネット・アーカイブを設立。同時に営利企業として設立したアレクサ・インターネットではウェブのアクセス解析をするツールを開発し、こちらはやがてアマゾンに売却されました。
こうした来歴からも分かるとおり、ケール氏は筋金入りのコンピュータ・エンジニアですが、同時にライブラリアンとしての顔ももっています。アレクサというプログラム名は、古代エジプトのアレキサンドリアにあったとされる大図書館へのオマージュだといいます。かつてのアレキサンドリア図書館のように、インターネット上にデジタルな「図書館=アーカイブ」を創り上げることが、若い頃からのケール氏の夢でした。そしてその夢をかなえつつあるのが、インターネット・アーカイブの活動なのです。
インターネット・アーカイブには、現時点ですでに250万もの無料で読める電子書籍が保存・公開されており、1日に1000冊のペースで本のスキャニング作業が行われています。インターネット・アーカイブでは本だけでなく、映像や音楽、ウェブサイトなど、あらゆるメディアのコレクションを広げていますが、ことに「ウェイバック・マシン(Wayback Machine)」と呼ばれるWWWのアーカイブでは、1996年以後の世界中のウェブページが保存されており、URLを入力するだけでタイムマシンのように、当時のサイトを見ることができます(たとえば1996年の橋本内閣当時の首相官邸ホームページなど)。
ケール氏の講演ではインターネット・アーカイブの運営方法が具体的に紹介され、そこでの経験から得た数字をもとに、「あらゆる知識に、誰もがアクセスできる」アーカイブが決して遠い未来の夢ではないというプレゼンテーションがなされました。とくに強調していたのは、「あらゆる知識」をアーカイブするためのコストと時間は、多くの人が想像するほど天文学的なものではないということです。ケール氏によれば、それは「2億ドルから5億ドル(約160億円から400億円)」「5年以内」で可能だというのです。
日本にも全コンテンツのアーカイブを
Googleのような営利企業だけでなく、インターネット・アーカイブという非営利団体が「あらゆる知識へのユニバーサル・アクセス」という理想を掲げたプロジェクトを展開しているアメリカに対し、日本では国立国会図書館が中心となって、同様の試みが始まっています。インターネット・アーカイブを取材したこともあり、デジタルアーカイブの実情に詳しい時実氏を交えたケール氏と長尾氏の対話では、日米両国のアーカイブをめぐる事情の違いが浮かび上がりました。
日本では国立国会図書館が、書物だけでなく、それ以外のメディアも含めた「あらゆる知識」を総合的に収めるアーカイブの役割を果たそうとしていますが、その取り組みは端緒についたばかり。今回の震災に被災した地方自治体のウェブサイトの保存はそのひとつですが、ウェブの収集・保存に関しては著作権の問題もあり、現時点では国、地方公共団体、独立行政法人等の公的機関のものにとどまっています。[追記:この項は国立国会図書館からのご指摘により、下線部などを一部修正・加筆しました。]
東日本大震災に際して、国立国会図書館は復興支援ページを作り、さまざまなサイトへとリンクを張っていますが、これらのウェブサイトのコンテンツを時を越えて保存する行為は、たとえ「東日本大震災に関する記録を後世に伝える」という公共的な目的であっても、個別の許諾が必要なため、短期間に網羅的に行うことができません。この日の講演に先立って配布されたプレスリリースには、こうした事情が以下のように説明されていました。
国立国会図書館が民間ウェブサイトを収集するにあたっては著作権者の許諾を個別に得る必要があるため、現在は国立国会図書館で民間ウェブサイトを網羅的に収集することはできません。IA により、この部分を補完することができます。
インターネット・アーカイブでは、テーマ別に集めたウェブサイトの保存を行う「アーカイブ・イット(Archive-it)」の仕組みをつかい、東日本大震災に関連する3月11日以後のウェブサイトのページを、Collection: Japan Earthquakeとして収集・保存し続けています。国境を超えた共同作業が行われているのは素晴らしいことですが、こうした事業が日本国内では満足に行えないのが残念でなりません。
そうしたなか、著作権問題を専門とする弁護士の福井健策氏が「『全メディアアーカイブを夢想する』―国会図書館法を改正し、投稿機能付きの全メディア・アーカイブと権利情報データベースを始動せよ―」という論文をウェブに転載し、関連法令の改正を含めた試案を提示しています。
この論文で福井氏は次のように書いています。
できる分野から、本書の示すような方向に向かっていこうという意見は、決して少なくはあるまい。誤りがあれば、レビューをおこない直して行けばよい。ディジタルも、著作権も、永遠のβ版でありそれ自体が壮大な社会実験なのだから、これは当然だ。全てが実験である以上、様々なプロジェクトにわざわざ「実証実験」などという堅苦しい名前をつける必要もない。
ケール氏の講演も、福井氏の提案も、要点は同じです。「ベータ版」からはじめることをおそれず、とにかく誰かが「走りだす」こと。実態にあわせて、走りながら仕組みを作りかえていくこと。そうした機運は、震災後にあちこちで少しずつ芽生えているようです。
ところで、この講演の前日、「マガジン航」ではブリュースター・ケール氏へのインタビュー取材を行うことができました(こちらの記事です)。国立国会図書館での講演と同様、このときの会話でもケール氏は、コンピュータは道具であること、そして自分が「エンジニア」であることを強調していました。コンピュータを道具として用い、エンジニアリングの力によって、世の中をよりよき方向に変えることができるという確信が、彼のプロジェクトの中心にあることは間違いありません。
ケール氏は、今後はデジタル・アーカイブだけでなく物理的な本の保存・収集にも乗り出すとも語っています。そこまでいくと、さすがに気宇壮大な夢、 という印象を受けるかもしれませんが、ケール氏の本領は、実現不可能と思われる「夢」をエンジニアとしての優れた能力によって「現実的なプロジェクト」として構想し、実践していくところにあります。インターネット・アーカイブのこれまでの足取りが、何よりもそれを証明しています。
最後に、国立国会図書館での講演を聴き逃した方は、2007年にTEDというイベントで行われたケール氏の講演が日本語字幕入りで公開されていますので、こちらをご覧になるといいでしょう。アップル社のCEOスティーブ・ジョブス氏ばりに身振りをたっぷり交えた熱演は、先日の講演での静かな佇まいとは対照的ですが、案外こちらがケール氏の本来の姿なのかもしれません。
※この来日時にケール氏に「マガジン航」が行った長いインタビューを記事化しました(ブリュースター・ケール氏に聞く本の未来)。こちらもぜひお読みください。
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・時実象一「世界の知識の図書館を目指すInternet Archive創設者Brewster Kahleへのインタビュー」(情報管理 Vol. 52 (2009) , No. 9)
・Brewster Kahle; Building a Digital Library Talk (Community Texts, Internet Archive)
執筆者紹介
- フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。
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