一昨年(2009年)のウィキメディア・カンファレンス・ジャパン2009は、知の構造化センターとの共催で、東京大学(駒場キャンパス)で開催された。国会図書館館長の長尾真、ウィキメディア財団のジェイ・ウォルシュ両氏の基調講演、百科事典とは何か、ウィキメディアのプロジェクトの紹介、そしてウィキペディアをつかったデータマイニング…。予想を超える来場者数で受付の対応が間に合わず、行列ができた。他に例を見ない、ウィキペディアン、研究者、編集者ほか出版などのメディア関係者といった様々な人が交流する機会となった。
昨年刊行された『ブック・ビジネス2.0』(岡本真・仲俣暁生編、実業之日本社)の前書きで、ウィキメディア・カンファレンス・ジャパン2009に言及されているのをみて驚いた。この本が成立する一助となったのならば、スタッフの一員としては、望外の喜びである。もっとも、その直後からスタッフの間では、2009年は、うまく行き過ぎだったという認識を共有していた。ウィキメディア・カンファレンス・ジャパン2009は、一年限りの任意団体として作られていて、たとえば余った運営費はすでにすべて財団に寄付している。
翌2010年のウィキメディア・カンファレンス・ジャパン2010は、より身の丈にあったものだったと言えると思う。当初検討していた会場との交渉が難航したため、かなり変則的で、急場しのぎの企画でもあった。そうした経緯はともかくとして、11月7日にウィキメディア財団の技術運営エンジニア(Operations Engineer)であるライアン・レインを中心として、メディアウィキを取り上げた「TECH」、14日には学術コミュニティに向けての「OUTREACH」と、2回にわけて開催することができた(なお、ライアンはもともと関西オープンソースでの講演のために来日したもの)。
TECHでは「メディアウィキ」という、ウィキペディアで使用しているソフトウェアについて、またOUTREACHでは、データマイニングのようにウィキペディアを「対象」とした学術コミュニティとの拘りではなく、学術コミュニティそのものへのアプローチについてと、ともにWCJ2009では扱いきれなかったテーマを取り上げることになった。TECHには70人ほど、OUTREACHには40人ほどの来場者があり、聴衆を選ぶテーマであることを考えれば、成功と言えるだろう。
TECHでは、森竜也による「分散処理プラットフォームHadoopによるWikipediaデータの解析」(ppt)、中山浩太郎による「MediaWikiの内部クラスと応用研究」、ライアンによる「MediaWiki開発者コミュニティに参加するには」 (pdf、日本語 英語)というプログラムとなった。
OUTREACHは、私(Ks aka 98)が「ウィキペディア」の説明と、学術コミュニティ、学術情報との関わりについて話し、林和弘の「日本学術会議『包括的学術誌コンソーシアム』提言に至る議論と学術コミュニティの将来像」、岡本真の「学術情報流通の未来に向けた博物館、図書館、文書館(MLA)の可能性」、さらに既に行われている学術コミュニティからのウィキペディアの執筆への取り組みとして、土木学会:応用力学ウィキペディア小委員会(ustream)、山田晴通の体験(ustream)を語っていただいた。
▲ 林和弘「日本学術会議『包括的学術誌コンソーシアム』提言に至る議論と学術コミュニティの将来像」
「利用」から「参加」へ
その翌週、今度は図書館総合展が開催され(会場はパシフィコ横浜)、そこでは、24日に「大規模デジタル化時代における『知』との接点―Wikipedia、電子書籍、Twitterの潮流をライブラリアンはどう受けとめるか」(主催:ジャパン・ナレッジ、協力:アカデミック・リソース・ガイド)というフォーラムがあり、渡辺智暁(GLOCOM、クリエイティブ・コモンズ・ジャパン)、長谷川豊祐(鶴見大学図書館)、清田陽司(東京大学基盤センター、株式会社リッテル)、佐藤翔(筑波大学大学院)が登壇、200人を超える聴衆を集めた。翌25日には、清田が「商用百科事典とWikipediaの比較から見えてくるもの~Littel Navigatorの活用による情報リテラシー向上~」と題したプレゼンテーションを行っている(主催:紀伊國屋書店)。
上記フォーラムで渡辺の発表資料の最初には「ウィキペディアは無視できない存在になっている(止めようにもみんな使う)」という一文があった。出版社や編集者、情報学の研究者から関心を集めるようになったのが2009年、技術者にとっても、学術コミュニティにとっても、図書館関係者にとっても、無視できない存在になってきたのが、2010年。一般的な認知度は既に高まっていたが、たとえば大学で教えている人たちとウィキペディアを話題にするときに、レポートへのコピペの問題から、普通に「(専門以外では)使っています」というような声を聞くようにもなった。次は、いかにして「参加」してもらうかというのが、ウィキペディア側の立場から考えるところだ。
「ウィキペディアによれば」という文章が、まともな大学の文書とか、新聞とかにも出てきてしまう。ネット上で誰でも容易に到達できる情報源としては、今後いくらNDLやCinii、大学などの教育機関が頑張っても、グーグルが最大の入り口になっている間は、ウィキペディアを超えることはできないだろう。ウィキペディアの信頼度調査は、英語版を対象としたものでは、おおむね一般的な百科事典と比べて、少し劣るか遜色ないという結果が出ている。ヤフーバリューの調査では、テレビや雑誌を上回る信頼度を得ている(2008年末の調査 、2009年末の調査)。
「ググれカス」という言葉がある。ちょっと踏み込んだ対話に必要な最低限の知識を持たない相手に対して用いられる。グーグルで検索すればすぐに見つけられる程度の情報は、それぞれに得ておかなければならない「常識」である。その感覚は、ネット上では確立してるように思う。今、グーグルで検索すればウィキペディアにたどり着く。「ウィキれ」という表現も見たことがある。日本の常識というのは、ウィキペディア日本語版に書かれていることになってしまった。なるほど、これまでよりも整理されて、もっともらしい記述に出会う可能性は高まった。グーグルの検索結果から信頼できるものを選び取るために求められたリテラシーは、ウィキペディアの記事をどの程度信頼できるか判断するというリテラシーへと変化した。
日本における「知」の問題を象徴するウィキペディア
ウィキペディアの質的改善は、大学のレポートでコピペが云々という程度のものではなく、かなり深刻な、日本の社会的な「知」の問題でもある。
ウィキペディアの信頼性は、執筆時に参照された情報源で担保されるという仕組みになっている。ウィキペディアにおいて、優れているとみなされるためには、記述に対応する情報源を示していなければならない。しかし、これは十分満たされているわけではない。何かを調べるときに、最初にたどりつくインターフェイスであるウィキペディアから、そこに書かれていることを検証し、あるいはより詳しい情報を得るために、「情報源」へと導くことができれば、ウィキペディアの信頼性の危うさは回避することができる。
新しい知見はウィキペディアでは受け付けられない。最先端の研究は、百科事典の主たるコンテンツではないからである。それならばせめて専門家が、各分野において、常識とされているような基礎的な項目を書く、あるいは教育の一環として学生に書かせることはできないだろうか。そして、信頼できないという判断ができるだけの知識を持つ者が、そのまま編集することで、信頼できないという判断ができない者が信じてしまうことを避けるようにしてもらえないだろうか。
「情報源」を抱えるのは、書店であり、図書館である。レファレンス共同データベース(レファ協)や、いくつかの図書館が試みているパスファインダも有用かもしれない。しかし、百科事典的な記述の全文検索は、多くのキーワードを与え、その項目に対して複数の視点があることを知らせ、あるいはどのような文脈に置かれているかを知らせることができる。ウィキペディアを入り口として、図書館への道筋を作ることは、図書館にとっても益となることであるはずだ。図書館関係者が、すでに書かれている記述に、対応する情報源を付与していくような試みはできないだろうか。
百科事典は、専門的な事柄へのエントランスでもある。逆に言えばエントランスでしかない。だから、より専門的な情報が必要となるときもある。Cinii、Journal@rchiveなど、オープンアクセスの波は、自宅にいながら多くの論文を目にすることを可能にした。Amazon.com、bookfinder、ebay、そしてKindleの登場は、これまで研究者個人や研究室でしか読むことが難しかった洋書、洋雑誌を個人で入手することを可能にした。明治大正期の文献は国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」で得られる。
それでも、研究者や学生でなければ、論文や判例や歴史史料や古い新聞のデータベースを、容易に利用できる環境を得ることは難しい。誰もが国会図書館や大学図書館に足を運ぶことができるわけではなく、学外利用者に門戸を開放している大学はまだまだ少ない。個人で契約する道はほぼ閉ざされているし、それが可能でも、あるいは個別に資料を購入できるとしても、それを業として十分な利益を得られる者でなければ支払える額ではない。これらの情報は、物理的なスペースを占拠することなく、全文検索の利便性を得られる「電子化」のメリットを最大限に生かすものである一方で、アクセシビリティをコントロールすることで、情報格差を決定的なものにしてしまっているという面もある。
百科事典とは、蓄積された「知」を誰もが得るためのものである。右往左往しながら、その編集に関わるということは、こんにちの「知」をめぐる状況を、素人なりに、素人として知るということでもある。「誰でも」が、切実に知識・情報を求めたいときに、それが可能な状態に保たれることというのは、社会にとって、とても重要なことだ。電子書籍についての議論の中で、その種の検討はあまりなされていない。
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- (ウィキメディア・カンファレンス・ジャパン2010)
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