本のない公共空間で図書館について考える

2010年10月28日
posted by 氏原茂将

「ブラウジング」という言葉をご存じだろうか。
インターネットのサイトをみてまわることを意味する言葉として知っている方もいるかもしれないが、そもそもの意味は、取り立てた目的もなく図書館の書架のあいだをめぐり、気になった本を手にとることをいった。それをくり返すなかで思いがけない本に出会い、知識や関心に広がりがもたらされることが図書館の魅力のひとつだろう。

メディアセブンという場所

川口市立映像・情報メディアセンター「メディアセブン」(以下、メディアセブン)では、その「ブラウジング」という名を冠したトークイベント「ブラウジングトークセッション」を行っている。さまざまな分野の方をゲストに迎え、話を聞くことで、あたらしい知や情報に出会って関心を広げてもらうための場として企画した。むずかしい話を聞いてありがたがってもらうよりも、その日の話から自分の日常生活をふり返り、いつもの生活がすこしだけ変わるきっかけになれば成功だと考えている。

そのブラウジングトークセッションを主催するメディアセブンは、2006年7月にJR京浜東北線川口駅前の再開発ビルに、50万冊もの蔵書が可能な中央図書館とともにオープンした社会教育施設/メディアセンターだ。ぼくはそこのディレクターとして、インターネットに接続されたパソコンブースや、録音と映像編集ができるスタジオ、そしてホールの貸出・管理業務を日常的に行っている。

それとともに、日常生活におけるメディアとの接し方や使い方を考え、素養として身につけてもらうべく、ワークショップをはじめとする社会教育事業の企画も行っている。もちろんブラジングトークセッションもその一環だ。

メディアセブン内観、壁に直筆でイベント情報などが書かれている。

メディアセブン内観、壁に直筆でイベント情報などが書かれている。

このように書くとメディアセブンが大きな施設であるように思われるかもしれないが、駅前ビル7階のワンフロアに収まるこぢんまりとした施設である。そこには本は一冊も収蔵されていない。しかしながら、日常生活においてメディアを考える上では、数百年ものあいだ知ることと伝えることを一手に引き受けてきた本というメディアの存在感は無視できない。ましてや、端末の登場でもって電子書籍がリアリティを帯びはじめた現在は、デジタルメディアから本について考える時期ともいえる。

38万冊という圧倒的な量の蔵書をもつ図書館に併設された、本のない公共空間であるメディアセブンが、本の現在と未来をどうとらえるのか。「ブラウジングトークセッション」というシリーズ名をスタッフが考えたのも、そういった問題意識が潜在的にあったからではないかと思う。

トークセッションイベントの趣旨

トークイベントそのものは、メディアセブンそのものを考えるための場として、2008年夏にぼくが企画した事業だ。社会教育施設といえばそうだけれど、施設のコンセプトや目的はほかに例がみられないメディアセブンは、運営するぼくたちも、どういった場であるかを自分たちで考案して、それを実践に移す必要があった。そこで、いっしょに考えてくれたり、考えるためのヒントをくれたりする方に話を聞きたいと思ったのだ。

それならスタッフの内部研修会でもよかったのかもしれない。でも、メディアセブンが地域の人たちが共有するパブリックスペースであろうとするならば、そこのあり方を考える場がスタッフだけに閉じられているよりも、ユーザーを巻き込む方が、今後の公共空間のあり方を先取りできるかもしれない。そう考えた結果、イベントというかたちで事業化することとなったのだ。

来場者からの質問を聞く田井肇さん(シネマ5支配人)。

来場者からの質問を聞く田井肇さん(シネマ5支配人)。

トークイベントの皮切りとなったシリーズは「メディアをめぐる、7つの話」と題したもので、メディアセブンの活動テーマとなる7つのメディアを題材としたものだ。印刷、写真、映画、ビデオ、オーディオ/サウンド、コンピュータ、ネットワークーーぼくらの日常生活に馴染んだこれらメディアとのつき合い方を7組9名のゲストとともに考えるものだった。そして、本と人との出会い方をテーマにした「本のあつまるところ」をぼくが企画した後、さまざまな視点から街を観察・分析する「まちの断片」を別のスタッフが企画した。

これらのシリーズを終えて、半年ほどの休眠期間をとった後、あらためて今年9月に「ブラウジングトークセッション」をはじめた。これまでのトークイベントは、シリーズごとにテーマを決めて、各ゲストが話す内容をこえて文脈を提示しようとしてきた。それに対してブラウジングトークセッションは、とくにテーマを決めず、そのときにスタッフが関心をもっている方をゲストに迎えている。だから、ゲストも話題も多岐に渡る。

9月には、フリー編集者で、この「マガジン航」の編集人でもある仲俣暁生さんに電子書籍時代の図書館のあり方についてお聞きした後、建築家であり作家である坂口恭平さんにマーケットに依存せずに都市で生き抜く方法を紹介いただいた。次回11月11日(木)には音曲師の柳家紫文さんに、実演も交えてお話を聞く予定だ。

千松信也さん(猟師)を迎えた10月2日の様子。

千松信也さん(猟師)を迎えた10月2日の様子。

一見するとまとまりのないように思えるかもしれないが、図書館の書架にさまざまな本が並んでいるように、さまざまな分野の方をゲストに迎えることで、偶然にあたらしい発見をもたらすという「ブラウジング」を模した経験を提供しようとしているのである。本ではなく、人がきっかけになるところが、これからの知や情報との出会いのあり方につながるのではないかと考えてのことである。

そして、その人というきっかけは、何もゲストだけにかぎったことではない。ゲストを迎えるスタッフもまた、知や情報との出会いを媒介する要素だと考えたい。トークイベントをメディアセブンという場をいっしょに考える場としようとするならば、そこはゲストとユーザーに加えて、その場をつくる船頭役となるスタッフがいなければ、必要十分とはいえないだろう。

図書館という場の優位性~本・空間・人~

人が知や情報との出会いを媒介するという考え方は、すでに書店という場で多く実践されているように思う。「本のあつまるところ」というシリーズでゲストに迎えたブックディレクターの幅允孝さんや、ギャラリー兼書店のNOW IDeAを営む江口宏志さんの活動はその好例だろう。彼らが関係する書店や本のプロジェクトでは、選書する人やそこで働く方たちの顔が本をとおして垣間見え、その本人への信頼感や期待感から書店に足を運び、本を手にとるきっかけが生まれている。

地域図書館のこれからの姿が、そういった意欲的な書店にすでにあらわれているように思う。つまり、ライブラリアン一人ひとりの個性が垣間見える場となってもいいのではないだろうか。そしてひいては、その図書館を利用する地域の人たちの個性の集合体がにじみ出ていてもいいのではないだろうか。

もちろん、偏りがなく本を収蔵しようとする方針があることは十分に承知しているし、地域図書館の運営する上で一貫性を確保しようという考え方も知らないわけではない。ただ、図書館という場の優位性を考えると、今後のあり方としては人が重要になると考えているのである。

電子書籍が普及して、さらに電子図書館が実現したとしても、じっさいに本を見たり探したりできる図書館という場所の魅力は、すぐには代替されないだろう。データ化されることでより大量の本を記憶できるようになったとしても、いまの検索のテクノロジーでは、「ブラウジング」の魅力を担保できるとは思えない。そして何よりも、司書によるレファレンス/リコメンドの優位性はすぐには逆転しないと予想されるからである。

でも、はたしてそうだろうか。いつかはブラウジングやレファレンスを代替する機能をもった閲覧/検索システムが登場するにちがいない。そのときになっても一般性を担保しようとして偏りや個性を縮減しようという方針があるようであれば、「物理的な本と空間、そして人」の優位性は、ユーザーには遡及しなくなるだろう。その観点ではコンピュータの方が人よりも勝っているからだ。でも、ライブラリアン一人ひとりの偏りや個性は、たとえ文脈に依存した検索システムが登場しても代替されることはない。だから、地域図書館のとるべき方針は、ライブラリアン一人ひとりの個性がにじみ出る空間となることが、ありえるべき方針ではないかと思うのである。

その方針をブラウジングトークセッションという場で先取りしているとは、いまはいえない。ただ、そういった図書館像をイメージして、人が知や情報の媒介となる必要があると考えているのである。本という物質的なメディアがないメディアセブンでは、なおのことではないだろうか。

本のない公共空間で図書館を考えること

ところで、本が一冊もないメディアセブンで、このように図書館のことを念頭に置いているのは、図書館と併設されていることの他にもうひとつ理由がある。それは、メディアセブンが図書館の担ってきた視聴覚機能にその出自をもっていることに関係する。

老朽化した中央図書館の移設計画が検討されはじめたのは2003年だが、それ以前から、デジタルメディアやインターネットの登場で視聴覚教育のあり方が変化をせまられ、メディアリテラシー教育の重要性が認識されはじめていた。そのなかで、あたらしい視聴覚教育を担う施設として、図書館とは独立してメディアセブンが構想されたのである。

本にまるわるワークショップやトークイベントこそ実施してきたが、本以外のメディアが中心となって構想されたのがメディアセブンである。現に、先ほどふれた7つのメディアでも「印刷」とひろく定義されており、「本」はふくまれていない。でも、電子書籍があらためて取り沙汰されるようになって、「ウェブの存在意味に本が気づいた」と仲俣さんが読み解いた状況にある現在では、デジタルメディアを主たる対象としたメディアセブンであるからこそ逆に、図書館を考えることが必要なのではなかろうか。

言論と書物はもはや不可分ではない。そして、さまざまな可能性のあるメディアが登場し、スモールプレスやジンなどの出版活動が展開されてもいる。すでにウェブの到来とともに予見されたことではあるが、別のだれかに著作を「届ける」ことのできるような環境がもっとも整備されているのが現在である。その環境は限られた人たちのもののように思えるけれど、それをつかうことが日常に馴染むときがくるかもしれない。そしてその状況は、社会教育施設であるメディアセブンとしては積極的に実現すべきものだと思う。

しかし、そのとき図書館は何を収蔵するのだろうか。ひとつの回答として、ぼくがいま考えているのは、地域の人たちがだれかに届けたいと願う言論だ。それは書物でなくてもかまわないが、何らかのかたちで地域に住む人たちの言論が地域図書館にアーカイブされれば、その時代の地域の集合的な個性が目にみえるかたちになるのではなかろうか。

先ほど、地域図書館の優位性として人を挙げたとき、ライブラリアンだけでなく、地域に住むユーザーもそこにふくめておいたのは、そういった意図からである。荒唐無稽な話かもしれないけれど、メディアリテラシーを日常的に活かす人を育てようとするメディアセブンの観点からすれば、地域図書館の今後のあり方として期待するところだし、じっさいにワークショップの成果物を収蔵するという試みもはじめている。

もちろん別の可能性もたくさんあるだろうから、その可能性を現場がそれぞれに考えて、実践していく必要があると思う。公共的に本にアクセスできる場の変化に立ち会えるかもしれない現在、端末やビジネスの話もいいけれど、図書館についてもっと話をしたいと切に思うし、メディアセブンがそのための場となればと願っている。