「文庫X」が投げかけたこと

2017年8月1日
posted by 仲俣暁生

例年夏休みが近づくと、書店の店頭では「新潮文庫の100冊」をはじめ、各出版社の文庫フェアが開催される。低価格でハンディな文庫本は、長いこと読書への入り口として機能してきた。ほとんどの文庫本は、すでに単行本として(あるいは海外の原書として)売れた実績をもつ作品が収められている。なかでも夏の文庫フェアでは、それぞれの文庫レーベルにおけるロングセラー、あるいは古典的作品が並ぶ。

ただ、こうした風景はもはや当たり前のものになりすぎて、いわばルーチン化しているともいえる。毎年少しずつラインナップを入れ替えているとはいえ、既視感のある作品(もちろんそれが「古典」ということなのだが)ばかりが並ぶため、どこまでフェアとして起爆力があるのか、外からみているとよくわからないことが多い。

ところで今年の「新潮文庫の100冊」には、昨年大きな話題となった「文庫X」が含まれている。さすがに「新潮文庫の100冊」のラインナップには「これが『文庫X』です」とは謳われてはいないものの、覆面をはずして売られるようになった後も、多くの書店がこの本を「文庫X」当時のカバーを模したダブルジャケットで販売している。

読書への入り口として、「新潮文庫の100冊」のようなやり方と、「文庫X」のようなやり方があるとして、どちらが実質的な意味をもつだろう? そんなことを、ふと考えてしまった。

「共犯関係」を促す仕組みか、それとも反則技か?

「文庫X」の企画は盛岡にある、さわや書店フェザン店の長江貴士さんが発案したものだ。いまも書店で手に入るダブルジャケット版の「文庫X」(すでにその中身は明らかにされているが、この原稿ではあえて伏せる)を手に取ると、長江さんがこの本を売るために強い思いを込めたメッセージを読むことができる。

申し訳ありません。僕はこの本をどう勧めたらいいか分かりませんでした。どうやったら「面白い」「魅力的」だと思ってもらえるのか、思いつきませんでした。
だからこうして、タイトルを隠して売ることに決めました。
この本を読んで心が動かされない人はいない、と固く信じています。
500Pを超える本です。怯む気持ちは分かります。
小説ではありません。小説以外の本を買う習慣がない方には、ただそれだけでもハードルが高いかもしれません。
それでも僕は、この本をあなたに読んで欲しいのです。

私が「文庫X」を店頭で見かけたのは、2016年の秋頃、すでにさわや書店だけでなく全国の書店にこの販売方法が伝わってからだ。「文庫X」はさわや書店が発信元だということは知っていたが、他の書店にまで波及するとは想像しておらず、また、それほど売れるものだろうかと、やや批判的な目でみていた。

そのうちに、どこの書店でも「文庫X」を見かけるようになった。手書きの文字をモノクロコピーしたような「文庫X」のパッケージは、どこか怪文書めいていて好きにはなれず、よく読みもしなかった。書店員がここまでアツくるしく「読んで欲しい」と呼びかけること自体にも違和感があった。本屋の役割は多様な選択肢を示すことであり、中身も明かさずに書店員が、自分を信じて「この本を読んで欲しい」というのは反則技だと思ったからだ。

「文庫X」の中身を詮索したい気持ちはあったが、そのために買うのはなんだか負けたような気もして、「小説ではない」「定価810円(税込み)」という、当時から明かされていた条件から、あの本だろうか、それともこの本だろうか、と想像するだけに留めていた。

ブームの渦中でいちばん私が興味をもったのは、この本はどんな人が買っているのだろう、ということだった。

これだけインターネットやSNSが発達しているなかでも、「文庫X」の正体は、そう簡単には明かされなかった。たまに知り合いから「買いました!」という報告があっても、本の正体に触れることは誰もが避けていた。一種の「共犯関係」があったといってもいい。ミステリ小説の結末(犯人やトリック等)を、未読の人が見るかもしれない公開の場所で明かすことは「ネタバレ」として非難される。「文庫X」の場合も、買った人がその正体を明かすことは、同様の心理で回避されたのだろう。

けっきょく私は、ある書店チェーンがビニール包装を簡略化し、天地のスキマから中身がみえるようになっていた「文庫X」を手に取り、こっそり中身をみるというズルい方法でその正体を知った。

正体を知った後は、単行本ですでに読んでいた作品でもあったので「なるほど」と腑に落ちる部分と「それにしても、なぜこの本だったのか」という疑問の両方が残った。

長江貴士『書店員X』(中公新書ラクレ)と、その後の「文庫X」。

「先入観の排除」は叶えられたか?

先月、中公新書ラクレから長江貴士さんの『書店員X―「常識」に殺されない生き方』という本が出たおかげで、ようやくその舞台裏を詳しく知ることができ、「文庫X」という企画に対して抱いていたモヤモヤの多くが晴れた。

詳しくはぜひこの本をお読みいただきたいが、要点は一つ。「文庫X」という企画が先にあって本があとから選ばれたのではなく、長江さんが「この本はなんとしても売りたい」と思ったその本との出会いが先にあり、その本を売るための最善の手段として選ばれたのが「タイトルを隠す」という手法だった――この順番は大事なことだ。

そもそも、本のタイトルを伏せて売るという手法は、これまでも様々なかたちでなされてきた。タイトルを伏せる代わりに読者に明かされる情報としても、本文の一部がパッケージに印字されていたり、著者の誕生日が示されていたり、薬の処方のように読者の気分やニーズにあわせて選書されていたりと、いろいろなパターンがあったが、どの場合も(偶然的なものにせよ)「選択の余地」は残されていた。

「文庫X」が独特だったのは、タイトルと著者名が伏せられているだけでなく、この本はオンリーワンなのだ、だからぜひ読んでほしいのだ、という書店員の「魂の叫び」とともに売られたことだった。

これまでも書店の店頭でディスプレイされるPOPでは、書店員の主観的な「オススメ」の言葉を読むことができた。しかし文庫本のカバー表ウラを埋め尽くすほどの長いメッセージには、そうそうお目にかかれない。書評の記事をコピーして展示したり、あるいはARのような技術を使えば、個別の本に対して長文のメッセージを店頭で披露することもできなくはないが、仮に「文庫X」に対して、「文庫A」や「文庫Z」が同時に存在したならば、おそらく「文庫X」を単体で売ったときのような事態は起きなかっただろう。

書店の役割における「相対主義」(多様な選択肢を示し、読者がそこから選ぶのをサポートする)と「絶対主義」(単独あるいはごく少数の良書をとくに推し、それらの読書を促す)とでもいうべき二つの原理がここではせめぎあっている。

「文庫X」はしかし、たんなる「良書の押し付け」ではない。『書店員X』で長江さんが強調しているのは「先入観の排除」だ。小説しか読まないという「読書家」は多い。「文庫X」のメッセージが「小説ではありません」と念を押すのも、文庫本の読者の多くが小説ファンであるという現場のリアリティを踏まえてのことだろう。本のジャンルを「ノンフィクション」としなかったのは、読者が逆の意味で限定されるのを避けたかったからに違いない。

たしかに、「ある本を読みたい」という気持ちが起きるために、作家や作品の固有名が背中を押す場合もあるが、その先入観が邪魔になり、本との出会いを妨げることも多々ある。単行本の段階でかなり話題になり、いくつかの賞を受賞した本作のような佳作であっても、小説しか読まない読者にとっては、タイトルや著者名を明かすことでかえって読者層が狭まりかねない、という判断は間違っていなかっただろう。

二度と使えない大技?

ところで「文庫X」の成功(4ヶ月半の開催期間中、さわや書店フェザン店のみで累計5000冊以上の販売実績があったと『書店員X』に書かれている)は、どこまでがこの「先入観の排除」によるものなのか。口コミで伝わった作品そのものの魅力もあっただろうし、「文庫X」というネーミングや覆面本というゲーム感覚の面白さもあったろう。書店員が生の声で語った熱いメッセージが与えたプラスの要素も多いに違いない。

いずれにせよ、「文庫X」は一度きりしか使えない大技であり、今後にあらたな「文庫X」あるいは「文庫Y」「文庫Z」といった企画を成り立たせるのは難しい。それは使い古されたトリックで新作ミステリを書くわけにはいかないのと似ている。「先入観の排除」+「熱いメッセージ」という技は、一度だけだから、その「熱さ」に人はほだされた。二度目、三度目の大技を仕掛けるには、さらなる創意工夫を行い、読者を「共犯者」に仕立て上げつづけなければならない。

長江さんが「文庫X」の企画を考案したときには、もちろんそこまで考えなかっただろう。『書店員X』にも、当初この本は60冊仕入れ、長い時間をかけて30冊を売るのが目標だったと書かれている。その程度の地味な企画として終わっていれば、「今月の文庫X」などというかたちで、同じ手法をなんどかは使えたかもしれない。

しかし「文庫X」はそのレベルを超えてしまった。「先入観を排除」したことによる偶然の出会いは、著者と書名を隠したまま、一種の「匿名性のもとでの感動の連鎖」を生んだ。だが、そこで生まれた「感動」がある意味で別の「先入観」となり、こんどは「『文庫X』という固有名」のブームを生んでしまった。

あらゆるブームとはそういうものだ。書店の店頭はすでに「売れている本がさらに売れる」というフィードバックがネット以上に起きやすい場所になって久しい。いまも「文庫X」を買い求める人が多いからこそ、多くの書店が「文庫X」仕様のダブルジャケットを採用しつづけているのだろう。

『書店員X』が語るのは、「文庫X」が成功した舞台裏ばかりではない。たまに書店を訪れる程度の読者には伺いしれない、本を仕掛けて売るために苦闘する書店現場のリアリティだ。同書は一種の自己啓発本でもあり、長いデフレ時代に成長した世代による一種の「仕事論」でもある。正直に言えば、その読後感は、あまり爽やかなものではない。かなり読者を限定した本だとも言える。

けれども本屋で働く人の一人ひとりが、このような苦悩や試行錯誤のなかで日々を過ごしていることを知るのは、業界外の人にとっても決して無益なことではない。私たちがアマゾンで本を「ポチる」とき、その背景の仕組みを意識することはほとんどない。あえて意識させないようにしているから、人はそこで「ポチる」のだ。

しかし『書店員X』を読んだあとでは、それが「覆面本」であろうとなかろうと、書店の店頭に本が「そのように」置かれていることの意味を意識せずにいることができなくなる。平穏にみえる書店の棚や平台が、人の生死をかけた戦場にさえ思えてくる。

執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。