梅棹、マクルーハン、ケリーあるいは不思議の環

2017年1月10日
posted by 服部 桂

ネットやITが日常化した現在、情報化や情報産業、情報社会などという言葉を聞いて(少々古びてきてはいるが)違和感を覚える人はいないだろう。これらに共通する「情報」は、いまではデジタルテクノロジーが表現するコンテンツを指し、現代社会に不可欠の要素として空気や水のような存在だ。ところがおかしなことに、40年ほど前にこれらの言葉が広く使われるようになったときには、世間はまるで違う反応をしていた。いまでは想像もできないだろうが、そこには何か得体の知れない、いかがわしさが付いて回っていたのだ。

「情報」という言葉は、19世紀にフランスの歩兵の演習マニュアルを訳した際に「敵情を報知する」という言葉から派生して使われるようになったと言われており、戦後の冷戦期においても、敵国の国家機密を探る情報局のような機関がこの言葉を冠していたことからもわかるように、常に軍事機密や陰謀の臭いがする何か影のある言葉だった。特に冷戦が激化した60年代はスパイ映画が多く作られ、「情報戦争」とまで言われ、暗いイメージが付きまとった。

「情報産業論」の先駆者・梅棹忠夫

この情報という言葉を日本で正面切って、現代的な意味で最初に取り上げたのは、文化人類学者の梅棹忠夫だろう。1960年にカラー本放送が始まって間もなく、テレビ局で働く人々を「放送人」と名付けて注目された梅棹は、大阪朝日放送が刊行していた月刊「放送朝日」1963年1月号に「情報産業論」を寄稿し、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などのマスメディア(マスコミ)を、情報を組織的に提供する産業という意味で「情報産業」と呼ぶことで世間を驚かせた。さらにその概念を、マスコミを超えて「興信所から旅行案内業、競馬や競輪の予想屋にいたるまで」、情報を商品として扱っているサービス業にまで広く適用して論を展開することで物議を醸した。

1960年前後、40歳頃の梅棹忠夫。北白川伊織町の自宅(現ロンドクレアント)1階北側の居間に付属した狭い部屋。書斎をつくる前、そこで執筆していた。(写真:梅棹家蔵)

梅棹は情報産業が従来の産業のように、手で触れることのできる<もの>を相手にする「実業」ではなく、情報という<ものではない>何かを扱う「虚業」であることを認め、情報というものは、コンニャクがそれ自体で意味がないものの食品としては意味があるように、実体(栄養)がなくても受け手によって意味が生じるものだとした。そして、そうした何かが産業として成り立つための商品価値は、送り手と受け手の関係性によって左右される「お布施の原理」で決まると説いた。情報の価値は、<もの>の経済のような需要と供給の単純なバランスではなく、坊さんの格やありがたさでお布施の値段が変化するように融通無碍だという説に、世間は度肝を抜かれた。

当時のコンピューターは「電子計算機」と呼ばれ、給与計算や科学計算などのデータを処理して結果を出すことが主な使い方で、電子化したデータ自体を情報や商品として扱うことはほとんどなく、あったのは海外の化学物質や特許などのデータベースを国際回線でアクセスするぐらいのものだった。大量のデータを記録できる媒体はリールに巻かれた大きなテープで、いまの100万分の1程度の伝送速度しかない当時の回線では大した情報を送ることはできず、テープ自体を郵送している時代だった。

梅棹忠夫は1920年生まれで、若いころから探検や登山が好きだった。京大で今西錦司に師事し、朝鮮半島や樺太、内モンゴルなどを探査していくなかで、動物学から生態学、文化人類学へと興味を移していき、ユーラシア大陸を周辺部(第一地域:西欧と日本)と中心部(第二地域:中国、インド、ロシア、地中海・イスラム)とに分けて文明を生態学的に論じたユニークな『文明の生態史観』(1967)は大きな波紋を呼んだ。フィールド調査の記録や情報整理から考案した京大式カードなどの手法を公開した『知的生産の技術』(1969)で広く知られるようになり、大阪万博の企画にも関わり、その後にできた国立民族学博物館で74年から初代館長を務めた。86年に失明したが、文明や日本人、日本語のあり方などに関する著書を精力的に口述で出し続け、2010年に没した。

梅棹の同時代人、マクルーハンの「メディア論」

世界の秘境を調査して言葉の風習もわからない相手の世界観や歴史を探り出す文化人類学的手法を、まだ得体の知れない何かと思われていた情報に当てはめ、まるで異星人のような目で時代の思い込みを排し、マスメディアを情報産業と見切った梅棹の見識に当時の人々は驚いたが、いま振り返るとそれは慧眼であったのと同時に既視感も覚える。

それは梅棹の同時代人で、やはり当時はまだ市民権を得ていなかった「メディア」という概念を論じて、世界的に論争を巻き起こした、カナダの学者マーシャル・マクルーハンのアプローチだ。マクルーハンは工学から文学に転じ、英ケンブリッジ大学に留学し、中世文学を研究した。帰国後にアメリカの大学で教鞭をとることになり、大量消費とポップカルチャーで花開いた若者文化に衝撃を受け、中世文学を研究する手法でその意味を探ろうとして『機械の花嫁』(1952)という本を書いた。彼には中世の教会での説教やステンドグラスなどによる表現が、アメリカの広告や情報文化に重なって見えた。

彼はそこに通底する何かを、「メディア」という言葉で総括し、『メディア論』(1963)で、当時の新しいメディアの代表だったテレビが、活字文化に無意識に支配された近代の呪縛を解く、電子メディアの雄であると説いた。梅棹の言う「情報」とマクルーハンの唱える「メディア」はほぼ同じ領域を相手にしており、そこには文化人類学と文学という別々の分野から、まだ研究の対象として意識されていなかった時代の変節に鋭く切り込む、新しい知の挑戦が浮かび上がってくる。

情報が現代的な意味で学問的対象となったのは、戦時中のレーダーや通信研究から、ベル研究所のクロード・シャノンが提唱した「通信の数学的理論」(1948)が最初だとされる。また、MITのノーバート・ウィーナーが「サイバネティックス」という言葉で人間と機械の情報的結合を理論化し、人間と計算機の関係が定式化された。そして1959年には情報処理国際連合が結成され、日本でも60年に情報処理学会が設立されている。そして60年代の大型電子計算機によって国鉄や銀行業務のオンライン化が始まった後に、70年代には計算機の小型化によるビジネス分野でのOA(オフィス・オートメーション)化も始まり、コンピューターの利用が一般化することで、情報という言葉が少しずつ世間で論議の対象になっていった。

コンピューターはただの科学技術の数値計算や給与計算から、より広い分野にも応用されるようになっていった。70年にできた世界的なシンクタンクのローマクラブは、地球環境のシミュレーションを行った結果を「成長の限界」という報告書で72年に発表し、資源採取や環境汚染が続けば21世紀前半に世界が破綻すると説き世界に衝撃を与えた。77年にはフランスで、社会の情報化を「テレマティーク」と表現したシモン・ノラとアラン・マンクによる「ノラ=マンク報告書」が出され、80年にはアメリカの未来学者アルビン・トフラーが、人類の歴史で三度目の大変革として農業革命、産業革命に次ぐ情報革命が起きると説いた『第三の波』が出版された。

おりしも欧米各国は戦後の産業発展を受けて、公共事業の民営化や自由化を推進し始め、日本でもNTTの前身である日本電信電話公社が85年に民営化されることになった。この時点で、米国も世界最大の通信会社AT&Tを自由化し、英国やドイツもその流れに続き、規制が厳しかった通信事業が情報産業と接続されることになる。パソコンも売り出され、一般人が公衆回線を介しての通信、いわゆる「パソコン通信」を始めた。日本ではこうしたコンピューターと通信の融合を「情報通信」と呼んだ。一般向けの電話とテレビをつないだ情報端末サービスのキャプテンや、テレビの文字放送なども始まり、そうした新しい動きが「ニューメディア」と呼ばれた。

これらの新たな動きのなかで、80年代には情報という言葉がコンピューターを応用したサービスと関連付けられていった。「21世紀に入る頃にはニューメディアが一般化した情報社会が実現する」という、いまのネット社会論のような論議が各所で語られるようになった。梅棹の「情報産業論」などの論考を再録した『情報の文明学』(1988)は、こうした時代の節目に再度注目されて広く読まれるようになった。

ケヴィン・ケリーの「テクニウム」概念

しかし本格的な変化が起きたのは、1990年代にインターネットが一般化したときからだ。それまでの情報化は、あくまでも公共事業や企業のシステムが中心で、家庭や教育現場、個人の利用は限られたものだったが、ウェブによって一般人が情報端末としてのパソコンを操るようになっていった。そしてその中を流れる文章や音楽、映像などが、本やレコードといったパッケージのないデジタル形式のコンテンツとして商品になっていく過程で、情報というものが、何かの代替ではなく、それ自身が意味を持つようになったのだ。

90年代にデジタルをただのテクノロジーやビジネスとしてではなく、新しい文化として扱った初の雑誌「WIRED」の編集長だったケヴィン・ケリーは、梅棹やマクルーハンが大型電子計算機の普及時に感じた変化を、80年代からのパソコンの普及やインターネットの中に見た。マクルーハンはテクノロジーを人間の意思を伝える手段すべてと考え、それが作る環境をメディアと呼んだが、ケリーはテクノロジーをもっと広い概念に拡張した。テクノロジーは人間の意思の道具であるばかりか、人間の意思自体も生み出す環境を創造する宇宙全般を動かしている、もっと基本的な原理と見たのだ。

テクノロジーを国家や企業が人々を支配する手段として敵視していた若い頃のケリーは、ヒッピーとなってアジアを放浪していたが、「ホール・アース・カタログ」で60年代にカウンターカルチャーのカリスマとなったスチュアート・ブランドの元で、80年代にWELLというパソコン通信の会議システムを運営することで、コンピューターが人々を結び付けるメディアを作るテクノロジーであることに気付いた。そして90年代のデジタル化を「WIRED」で体験し、テクノロジーの本質的な意味とメディアや情報について深く考えるようになった。2010年には『テクニウム〜テクノロジーはどこへ向かうのか?』(みすず書房)を書いて、テクノロジーが生命現象の上にあるレイヤーとして宇宙全般に存在するものであることを説いた。

そのケリーが昨年発表した『〈インターネット〉の次に来るもの〜未来を決める12の法則』(NHK出版)では、ネットの持つ基本的な12の力や傾向を分析して、これから30年間に起きるインターネット環境の変化について、情報をアクセスしたりシェアしたりリミックスしたりすることで、人工知能やVR、IoTと社会がいかに関連していくかを具体的に説いている。

情報、メディア、テクノロジーをめぐる新たな宇宙論

この本は個別のプロダクトやサービスを深掘りするのではなく、ネットの持つ本来の性質を明らかにすることで、これからの社会を展望するものだ。彼がアジアを放浪していたときに、失われつつある現地の文化を写真に収め、個々の文化に深く立ち入ることなく全体に流れる本来的な精神を感じたように、デジタル化社会の現象そのものではなく、一歩裏側に入ったテクノロジーの生理を解き明かしている点で、梅棹がモンゴルで感じて書き留めたメモや、マクルーハンが違和感を覚えた戦後のアメリカの若者文化を見るような視線と問題意識をを共有する。

ケリーはこうしたデジタル社会の基本的力学を、『テクニウム』で展開した広い意味でのテクノロジー論から導き出している。彼のテクノロジー論は梅棹の情報、マクルーハンのメディアを成り立たせる問題意識の延長線上にあり、現象として目に見える時代や歴史の奥にある、普遍的な何かを言い当てようとしている。

それは、とりあえず情報と呼ばれる、まだ評価の確定していない、物質世界の個別性や関係性を言い表す何かを多角的に探り出す一つの試みだ。ケリーは『テクニウム』の中で、宇宙を支配してきた基本的な力が、ビッグバンの時点における「エネルギー」から、徐々に銀河や星という「物質」へと移り、その物質が有機的に生命の形態を生み出すことで、個別の関係性の集合体が生まれて、「情報」が優位に立っていくと説く。エネルギーが物質に転化していく関係については、すでにアインシュタインがエネルギーと質量の関係を定式化した。もし物質と情報の関係が定式化されれば、エネルギー、物質、情報を統一的に記述する、物理学における大統一理論のようなスキームを構想することが可能だろう。

話が飛躍するようだが、2010年にアムステルダム大学の理論物理学者エリック・ヴァーリンデ教授が発表した「エントロピック重力理論」は、重力は自然の基本的な力ではなく、「物体の位置に関する情報量の変化によって生じるエントロピー的な力である」と考える。物体の位置が変動することによって、情報量としての乱雑さを表現するエントロピーが変化し、この変化が見かけ上、重力に見えると主張するものだ。そして、この理論は三次元空間内の情報はすべて二次元平面に保存されるとする物理学上の仮説「ホログラフィック原理」とも深く関わっている。こうした発見が、物質と情報の関係を明らかにしてくれれば、情報を中心に考えたまるで新しい宇宙観を論議することも可能になる。

梅棹やマクルーハンが時代の変化の裏に見た情報やメディアの変化を、ケリーがさらにテクノロジーという概念で止揚した姿を、ダグラス・ホフスタッターの名著『ゲーデル、エッシャー、バッハ』(1979)ならぬ、「梅棹、マクルーハン、ケリー」なる論で展開できないかと、密かに考えては思い悩むことも、それほど荒唐無稽ではないような気もする。

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旧梅棹邸を改装したギャラリー・ロンドクレアントでのトークイベント風景。奥野卓司氏(左)と筆者。

本稿は、昨年12月に京都で開催された、展覧会とシンポジウムシリーズ「梅棹忠夫と未来を語る」で、18日に北白川の旧梅棹邸を改装したギャラリー・ロンドクレアントで、情報人類学者の関西学院大学教授の奥野卓司氏と筆者が、梅棹情報学とメディア論について論議した内容を補足するものです。もともと、東大情報学環の暦本純一教授に、ケヴィン・ケリーの『テクニウム』と梅棹忠夫の『文明の生態史観』の類似性を、雑誌AXISの書評で論じていただいたことがきっかけで実現した企画です。

執筆者紹介

服部 桂
元朝日新聞ジャーナリスト学校シニア研究員。1978年に朝日新聞社に入社。84年にAT&T通信ベンチャー(日本ENS)に出向。87年~89年にMITメディアラボ客員研究員。科学部記者や雑誌編集者を経て現職。著書に『人工現実感の世界』(工業調査会)、『人工生命の世界』(オーム社)、『メディアの予言者』(廣済堂出版)。主な訳書にレヴィンソン『デジタル・マクルーハン〜情報の千年紀へ』、マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』、スタンデージ『ヴィクトリア朝時代のインターネット』、同『謎のチェス指し人形「ターク」』、コープランド『チューリング 情報時代のパイオニア』(以上、NTT出版)、ケリー『テクニウム』(みすず書房)などがある。