「作家」を育てるのは誰か?

2016年12月1日
posted by 仲俣暁生

先月は「読書」についての話題だったので、今月は本を「書く」側の話をしようと思う。まず、先日に記者会見が行われたばかりの、日本独立作家同盟による「NovelJam」という試みについて触れたい。

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作家と編集者がタッグを組み、短期間に執筆・編集・電子書籍の制作までを行う、いわば「合宿形式」(泊まり込みではないが)の短期集中型の企画としては前例のないものだと思う。

具体的な企画内容は、公式サイトや、すでに詳細な紹介記事が掲載されている他媒体(Internet Watchのこの記事がよくまとまっている)を参考にしてほしいが、今回の試みでもっとも重要なのは「編集者」の存在だろう。

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「マガジン航」でも何度か紹介してきたが、日本独立作家同盟では「月刊群雛」という投稿型の文芸誌を2014年1月から2016年8月まで刊行してきた。2015年2月に特定非営利活動法人となった際、私も理事の一員として日本独立作家同盟に参加した。

このときに、次のようなことを「マガジン航」に書いた(「日本独立作家同盟がNPO法人化へ」)。

「新人賞」という選考システムは、大学受験や入社試験におけるそれとは根本的に違います。採用すべき人員数に対して、応募者の上位から相対評価で決めていくわけにはいきません。存在しているかどうかわからない才能ある書き手との、偶然の出会いを待つしかない、そのような出会いがなければ「該当作なし」が続いても仕方ない、絶対評価の世界なのです(コルク新人賞が3回続けて「受賞作なし」だったのは、その意味では健全でしょう)。

たった一人の書き手との「出会い」のために、数千から万に及ぶ対象に対して、人力でフィルターをかけるのが、これまでの「新人賞」でした。それと比べるなら、自己出版等によってネット上にすでに公開されている作品のなかから、有望な書き手をみつけるやり方は「ヘッドハンティング」に近いでしょうか。

ますます膨れあがっていく作家予備軍のなかから、優れた書き手(「作家」の卵)を発掘する仕組みとして、「新人賞」というフィルタリング以外の方法が、そろそろ出てきてよいはずです。いまはまだ過渡期ですが、ウェブを介した作品のディスカバラビリティー(被発見性)が、フィルタリングによるそれを凌駕するとき、「自己出版」>「新人賞」という不等式が成り立つようになるのかもしれません。

作家がデビューするための回路が「新人賞」だけに限られていた時代から、ネット上あるいは同人誌・インディ雑誌などで活動する才能ある新人が「発見」される時代へと、文芸の世界は少しずつシフトしている。その基本的認識に変わりはないものの、単純にクローズドな「新人賞」が半公開型の「ネット上のバトルロワイアル」にとって代わられたからといって、それだけで有望な新人作家が見つかるというものでもない。

すぐれた「作家」は、すぐれた「編集者」だった

なぜなら新人とは、たんに埋もれているところを発掘されるだけでなく、「育成」されなければならない存在だからだ。そのための仕組みとして、たとえば「同人誌」がある。これはいわば「新人以前の作家」が相互鍛錬するための場だ。作家つまり「ものを作る者」同士が互いを意識し、切磋琢磨しあうことで結果的に「育って」いく(中島敦の「山月記」を想起されたし)。それは文芸に限らず、他のジャンルの表現でも同じだろう。

考えてみれば当たり前のことだが、出版社に勤める「専業編集者」だけが編集者ではない。日本近代文学史をみても、すぐれた作家は同時にすぐれた編集者だった、というのが常識である。

「文藝春秋」を創刊したのが「作家」の菊池寛だったことはあまりにも有名だ。またロンドン帰りの英文学者・夏目漱石に「小説を書く」ことを促したのは俳人の高浜虚子だった。漱石自身がすぐれた「編集者」でもあったことも、長谷川郁夫氏が「新潮」の2016年10月号から始めた「編集者 漱石」という連載で明らかにしている。批評家の小林秀雄も戦前は雑誌「文學界」、戦後は創元社で編集に携わり、多くのすぐれた「新人」を世に出している。

そもそも、日本の近代文学史に名を残す「文芸誌」のほとんどは、大手出版社が刊行したものではなく(たとえ現在にその名が受け継がれていようと)、もともと作家自身による同人誌だった。現在、大手出版社から刊行されている文芸誌や小説誌は、文芸が産業化した後になってから、「文学作品という商品」をシステマチックに製造するための装置として生まれたものだ(それは現在のマンガ産業において、雑誌連載が「コミックス」という商品を生み出すための装置であるのと似ている)。

現状に限っていえば、文芸誌や小説誌はデビューした後の作家が作品を継続的に発表するための仕組みではあっても、力のある「作家を生み出す」仕組みとしては、それほどうまく機能していない(それどころか、文芸出版そのものが存亡の危機にあることを、小説家の藤谷治氏は「新刊小説の滅亡」という作品で、やや戯画的にだが、リアルに書いている)。出版社が刊行する文芸誌や、それらが主催する新人賞に代わる仕組みが、そろそろ必要なのだ。

その意味で、今回のNovelJamにどんな人たちが「編集者」として参加するか、ということに私は関心がある。「作家」枠で参加する人も、どんな「編集者」とタッグを組むことになるのかに、期待と不安があるだろう。もちろん、NovelJamにはフリーランスの編集者や、出版社に所属する専業編集者が参加してもいい。それを期待する「作家」予備軍も大いに違いない。

でも、もしかしたら出版社でふだんは営業をしている人、あるいは書店で働いている人、それどころかまったく異業種の人が「編集」するというのも、ありではないか。ふだんは「作家」として活動している人に、意外と編集者としての才能があるかもしれない。いずれにしても、文芸作品を生み出すうえでの「編集」という仕事は、たんなる事務作業ではなく、きわめて「人間的」な営みだと私は考えている。

町の本屋が創刊した「文芸誌」

もう一つ、「マガジン航」の周辺では、文芸に関わる新しい動きがあった。赤坂にある書店、双子のライオン堂文芸誌『草獅子(そう・しし)』を創刊した。私も寄稿を求められ、「『文学館』の危機から『文学』の未来をかんがえる」という30枚ほどの文章を寄稿した。

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双子のライオン堂は「選書」専門の本屋としてスタートし、そのセレクションを作家や批評家といった文芸関係者に依頼してきた。『草獅子』の寄稿者は、その顔ぶれとも重なる。すでに一定の人脈があったことが、この雑誌の創刊を可能にしたことがわかる。

とはいえ、一介の小さな町の本屋が創刊する文芸誌に辻原登氏、室井光広氏、絲山秋子氏といった芥川賞作家が原稿を寄せ、それが双子のライオン堂の周辺に集まる若い人たちの作品と並んで誌面を飾るさまを見ると、文芸の未来にも光が射してくるように思える。

文芸誌を創刊することも、書店を経営することも、どちらも「場」づくりであり、メディアをつくることだ。ビジネスとして成り立たせていくのは困難だけれど、そもそも文学というのは、誰かに頼まれてやるものではないし、ビジネスでもない。どうしてもやりたい人間が、やりかたを工夫して、なんとかしてやるものだ。

NovelJamという企画に集まる人たちと、『草獅子』のまわりに集まった人たちとでは、小説や文学に対する趣味は、ずいぶん違うかもしれない。けれども、自分たちで率先して動き、必要な「場」や「メディア」を生み出していくという姿勢においてはまったく同じだ。こうした新しい動きに、ささやかながら参加できたことは、私自身とても光栄である。願わくは、この二つのプロジェクトが継続的に行われることを期待する。

執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。