ジョブズの本で考える、本の適正価格

2011年10月25日
posted by 大原ケイ

今月に入ってずっとマスコミを賑わせ続けた人と言えば、スティーブ・ジョブズ。もうお腹いっぱい、ではあるが、ウォルター・アイザックソンによるバイオグラフィーが世界同時発売ということで、色々と思うところがあったので、それを書いておく。

まずは紙の本での話。アメリカではサイモン&シュスターから出ているハードカバーの希望小売価格が35ドル(約2700円)、アマゾンやバーンズ&ノーブルのオンライン書店ではこれが17.88ドルとほぼ半額となっている。刊行日を前倒しにした「ラッシュ本」とはいえ、これだけ時の人となっている時期に刊行されるベストセラー間違いなしのタイトルなので、卸値価格を考えるとアマゾンもB&Nもハードカバーでの儲けは紙一重の小さいもののはずだ。Eブックの販売も手がけているからこそできる大技。他の書店ではこんなに安売りするわけにはいかない。

サイモン&シュスターではこの本の特設サイトもつくっており、一部抜粋が読める。

これが講談社から刊行された日本語版だと、上下巻で各1995円。合わせると約52ドル。この価格差は翻訳の手間と考えていいだろう。とくにオリジナル原語の発売日と合わせるとなると、相当きついスケジュールなので、特急料金だしね。(翻訳者 井口耕二さんのブログエントリー を参照)

しかも、日本でも知名度が高いスティーブ・ジョブズについて書かれた本である上に、ウォルター・アイザックソンといえば、アメリカでは質の高いバイオグラフィーで知られる著者。版権をとるのにかなりの額のアドバンス(印税の前払い)を払っているはず。この値段が格別高いとは思わない。初版部数は上巻が20万部、下巻が15万部らしい。アメリカではその10倍ぐらいかな? 電子書籍も同時発売なので紙はそのうち150〜180万部ぐらいじゃなかろうか。

で、この電子書籍版の値段で色々と考えさせられることがあるのだが、まず、日本語の電子書籍版は同日発売開始、だけど紙の本と全く同じ値段という設定。いくらなんでも同じってのはないだろう、というのと、同時発売に踏み切ったところは評価したい、という気持ちが半々。だって、こんなに話題になった本なら、取次から「電子書籍版の発売はもう少し遅らせろ」という圧力がかかっていたとしても驚かないからね。だから電子版が同じ値段というのは、取次に対するせめてもの配慮、と解釈している。

それよりこっちが驚くのは、日本じゃまだまだ全国一斉に本を一冊売り始めることができないという事実だ。Twitterのタイムラインを追っていくと、地方の本屋さんから「本がまだ届かない!」という悲鳴が聞こえてくる。アマゾン辺りの宅配の手際の良さを考えると、考えられない脆弱なインフラという印象。アメリカではこの刊行日をかなり重視したシステムになっていて、あのだだっ広い国土で、いい加減な業者もある中でさえ、新刊本は前日の夜までに各書店に届けられる仕組みになっている。この作業は「レイダウン」と呼ばれているが、初日に大量に捌けることが見込まれているタイトルには特に重要視されている。

だからこそ、書店の方でも全国で真夜中に一斉に『ハリポタ』最新刊解禁パーティー!などとという楽しいイベントが計画できるわけだ。ちなみに25日にはアメリカで村上春樹の『1Q84』が刊行されるので、真夜中にイベントを予定している本屋さんもある。それが、日本の本屋さんだと「○○入荷しました!」と後手にまわったイベントしかできなくて、可哀想だなぁ、と思ったり。そしていつも地方の小さいところが冷遇される。これも現行の取次システムの問題だろう。

日本で買うキンドル版が安いわけ

そして個人的にもっと気になっているのが、同じ英語のキンドル版が、アメリカで買うと16.99ドルなのに、日本から買うと11.99ドルになっているということだ。版元のサイモン&シュスターはすでにアマゾンと、値付けは出版社側が決めて、販売するほうは一定率のコミッションを取るという「エージェンシーモデル」で契約しているので、国内ならどこからでも版元が決めた値段で売ることが義務づけられている。だからアマゾンで買っても、iBooksで買っても、グーグルEブックスで買っても、B&NのNook版を買っても同じ値段なのだが、おそらくは海外から買う場合はこのエージェンシーモデルの範疇外なので、11.99ドルというのは日本限定でアマゾンが付けた値段だと思われる(追記:ただし、これは予約販売のみのスペシャル価格だったようで、24日以降はアメリカでのキンドル版の16.99ドルに近い値段になっている)。

ということは、日本語版が4000円近くする同じ本が、英語のEブックだと1000円以下で手に入るということだ。私にはアマゾンが「ほーら、うちに値付けを任せてもらえれば、こんなに安く提供できるんですよ」というアピールに思えてしかたがない。

アメリカではアマゾンがキンドルを普及させるために、人気の新刊のキンドル版を9.99ドルで売り出すプロモーションを仕掛けたことに端を発して、一時期は量販店がハードカバーの紙の本を卸値より安く売って対抗するという事件があったため(詳しくは拙ブログをご覧あれ)、大手出版社が紙の本が値崩れを起こすことを懸念して、行き着いた、というか飛びついてしまったのがエージェンシーモデルなのだが、Eブックの適正値段を探る、という点においてはアマゾンや他のリテーラーに任せておけば良かったのではないかと個人的には思っている。

日本の報道では、アメリカのEブックはなんでもかんでも9.99ドル以下で売っているように思われがちだが、スティーブ・ジョブズの本のようなビジネス、あるいはバイオグラフィーといったジャンルの本は、新刊でもEブックは12ドル以上の値が付いている場合がほとんどだ。

エージェンシーモデルに対する卸値システムは「ホールセラーモデル」と呼ばれ、紙の本などでは版元が定価(というより再販制度がないので小売価格の上限)を決め、後は本を売る側が好きなように小売価格を決定できる、というもので、ディスカウントして大量に売れるようにするか、定価に近い値段で売って1冊ごとの儲け幅を大きくするかは、その店の裁量に任されているということだ。そしてこれは、買い手(=読者)と直接やりとりするプレイヤーが、何をもってその本の適正価格とするかを判断するという意味で、理に適ったシステムでもあったのだ。

日本の読者が、キンドル英語版の11.99ドル、日本語翻訳版の3990円という値段のギャップについてあれこれ思うところがあるのなら、紙の本の適正価格や、翻訳による付加価値というものを再考する良い機会になると考えたい。再販制度を維持したいのなら、出版社は自分たちが自分たちの本に付けてきた価格や価値といったものについてあらためて見直し、今後のEブックにも堂々と自分たちが適正と思う値段を付けるか、あるいはアマゾンのような業者に任せて「市場」に値段を付けてもらうのか、決断をする時期が来たようだ。

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執筆者紹介

大原ケイ
文芸エージェント。講談社アメリカやランダムハウス講談社を経て独立し、ニューヨークでLingual Literary Agencyとして日本の著者・著作を海外に広めるべく活動。アメリカ出版界の裏事情や電子書籍の動向を個人ブログ「本とマンハッタン Books and the City」などで継続的にレポートしている。著書 『ルポ 電子書籍大国アメリカ』(アスキー新書)、共著『世界の夢の本屋さん』(エクスナレッジ)、『コルクを抜く』(ボイジャー、電子書籍のみ)、『日本の作家よ、世界に羽ばたけ!』(ボイジャー、小冊子と電子書籍)、共訳書にクレイグ・モド『ぼくらの時代の本』(ボイジャー)がある。