電子書籍に前向きな出版社が考えてること

2011年7月1日
posted by 沢辺 均

未来なんてわからない

「本の未来はどうなるのか?」ということを2011年に問われたら、その質問の意味は、「本は電子書籍になるのか? 紙の本は電子書籍に取って代わられるのか?」だと考えていいと思う。

もちろん、「出版不況で人はどんどん本離れてる」とか、「ウェブで情報や知識は足りるんだから本なんか必要ないんじゃないか」とか、「本は残るかもしれないけど出版社は要らないでしょ、インターネットでだれでも発信できるんだから」とかいう質問も考えられるけど、ね。

で、紙の本は残るのか、電子書籍に置き換わるのか? といった未来予想についてボクは「わからない」としか答えられないんだ。ホントにわからないし、積極的に「わからない」という態度を維持するのがいいとも思っている。

未来は「わからない」んだけど、でも今起こっていることは全部「正しい」(勝間和代さんの本のタイトルのパクリですけど)とも思っていて、このふたつは両方とも自分にとって大切なポイントなんだ。

たとえば携帯電話。携帯電話は、電話をどこでも持ち歩けて、一人一台なものにしたんだよね。これは、やっぱり必然なんじゃないだろうか? 言い換えれば「正しい」。いくら技術的に、持ち歩ける無線の電話が可能になっても、人がそれを求めなければこれだけ普及したりしない。

一人一台が不必要なら、相変わらず電話は家族(みたいな複数の人間のあつまり)に一台だったと思う。人がそれを求めて、一人一人が持つようになったんだから「正しい」(というか、やっぱり必然かな?)としか言いようがない。

これに立ち向かって、「携帯は家族を解体してしまうので間違っている」といって「携帯禁止法」をつくろうとしてみても、現実は変えられないでしょ。立ち向かいたいんだったら、携帯がなくて、多くの人がマネしたくなるような、携帯に替わるモデルを生み出さなきゃ無理だ。

それでもいろいろ変化は起きている

では、本のありようのさまざまなモデルを考える上で、見ておくべき今起こっていることはなんだろう。

まずはじめに、情報がモノからはなれてデジタル(0と1でいいんだよね)に置き換わったということ。次に、その0と1を使ったりコントロールしたりして人間に、デジタルへの置き換えとアナログへの置き戻しをしてくれるコンピュータが発達して、ついにだれもが持てるものにまで費用を下げたこと(パーソナル化、ですね)。「そして、0と1という特性を利用して、それを線を使って届けあうインターネットというシステムを生み出したこと

これが僕らの周りに起こっていることだ。コンピュータやネットは「多くの人に利用されている」というカタチで支持されているし、支持されたから多くの人が利用できるほどにその費用を下げることができた。

デジタルはとっても便利。0と1によって、音でも映像でも、もちろん文字でも表現できるようになった。おかげで、ボクはiPhoneやiPadやPCで動画を他の人に送り届けることができるし、映画を何本も持ち運べる(もちろん、届けられるってことと、届けて欲しがっている人がいるのか?ってのは別の問題です)。馬車の時代に自動車が生み出されたように、絵筆しかない時代に写真が生み出されたように、もうこの便利さからは後戻りできないと思っている。

馬車の最高スピードの何倍ものスピードが出せる自動車は事故を大きなものにし、多くもしたんだろう。でも、ボクらはそこから後戻りできなかった。どうやって交通事故を減らすか、という方向に進んだし、多分それは間違えていない道だった。

文字情報が0と1に置き換えられる便利さからは、もう後戻りできない。画面の読み辛さとか、装置の重たさを解消して行く方向で、今ある0と1の良くない点を減らして行くってことが、多分正解なんだ。それから、馬や馬車が完全になくならずに残っているように、紙の本がゼロになってすべてが電子書籍になることもない。

ならば、できるだけ電子書籍を運転してみて、そのいいところも弱点も早く気がつきたい。だから、電子書籍に前向きになる出版社でありたいと思っているのです。ボク自身は、かなりの紙フェチなんだけどね。いまだに電子書籍で読み終えた文字物は1冊だけだし、毎晩読むのは紙の本。

でも、こんな想定すら間違っているかもしれないよね。そんなときは、極力素直に、ゴメンナサイと言ってすまそうと思っている。実は未来の問題を語るときにイチバン大切なのは、間違ってたらゴメンナサイというってことなんだ。

間違ってたらゴメンナサイを封印してしまうと、東電みたいに、どう見ても想定を間違えたにも関わらず、「想定外だった」って言いワケばかりをでっち上げて、ゴマカさなきゃならなくなる。それってつらいでしょ。

テキストデータを準備するというカベ

さて、では電子書籍をどうつくるのか、自分のアタマのためにも、あらためて整理してみます。

まず、電子書籍のデータをどういう形式するのかってことから。

・画像で見せる
・画像でみせるけどテキストデータを持っている
・タグテキストをつかってビュアーで見せる

という三つの見せ方に整理してみた。

これ以外には、ボーンデジタルの電子書籍がある。今後、デジタルならではの「書籍」のありようがさまざま構想されていくだろうけど、それらはつくり方も自由なので、紙の本から電子書籍へと移行しつつある現在のつくり方からは、一端ハズしておきます。

はじめからデジタルでつくるワケだから、テキスト以外にも画像や動画や音、3Dとかいろんなデジタル技術を使える。そうしたことに関心がある出版社ならすでにどんどん取り組んでいるだろうから、そのうち電子書籍の表現形式にも定番がうまれるかもしれない。村上龍さんの電子書籍には、音楽や、動画、それから過去の手書き原稿という画像などが使われているから、それも「将来」のボーンデジタルの電子書籍に入るのだと思う。

ここであえて画像と、画像+テキストと、タグテキストの三つに整理するのは、「テキストデータをどうやって得るのか?」ということが、現在の電子書籍が直面しているもっとも大きな課題だから。もちろん、携帯小説のようにもとからデジタルデータで「完成」されているなら、いかようにもできる。問題は、「完成された本のテキストデータがきちんと保存できていない」という状況にあり、そこに出版社が電子書籍を進めるうえでの最大の困難があるのです。

では、テキストをどのように準備するのか?
選択肢は三つでしょう。

・紙の印刷のためにつくった校了データから書き出す
・スキャンした画像からOCRで読み取る
・テキストなし

現在の出版現場を眺めればこのうちの、始めの「紙の印刷のためにつくった校了データから書き出す」が当然イチバンいい。だけれども、これは現在以降つくる本には適用できても、既刊本にはなかなか適用できない。

たとえばMacOS 9時代につくったものは、校了した組版データがあったとしても、今の環境で開くのは難しい。難しいということは手間がかかるということで、結局コストの増大になってしまう。

だから基本的な整理としては、

・既刊本:スキャンした画像からOCRで読み取る→誌面のデータ形式も「画像」(検索用にテキストもつける)。
・これから出す新刊:紙の印刷のためにつくった校了データから書き出す→データ形式は「タグテキスト」(誌面も検索もテキスト)

という流れだと思うのです。

もちろん例外はある。既刊本のデータが存在していれば、そこからテキストを準備できる可能性がある。逆に、新刊をタグテキストにするにも手間とコストがかかるわけだから、組版ソフトから書き出した画像(PDF)にするのも選択肢のひとつ。この場合はPDFに貼付けたテキストはほぼ間違いのないものを利用できる。

ということで、ボクは「イッキに数10万の既刊本をPDFにして販売したらいいのに」という記事に書いたように「既刊本はスキャン+OCR(校正はしない)」「新刊はタグテキスト」が現実的だと思っているのです。

で、この先に、

・著作権処理と著作権使用料の著者への配分のルールと仕組み
・出版社がこうしたことに乗るためにはどんな条件が必要か
・図書館にこうした電子書籍を利用してもらうためのルール
・紙の本のデータをめぐって準備しておかなければならないこと

などということが構想されなけりゃ進まない。このあたりは、そのうちまた書きたいなと思っています。

この記事はクリエイターのためのメールマガジン「デジタル・クリエイターズ」での連載「電子書籍に前向きになろうと考える出版社」の第8回第9回を再編集し転載したものです(「マガジン航」編集部)。

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