読者視点で電子書籍を考えてみる

2010年9月18日
posted by 赤木智弘

電子書籍の話を論評系のWebサイトとか、編集者のTwitterでのつぶやきなどで、たまたま見聞きするときに「電子書籍って、そんなにつまらない話なのか?」と思う。

iPadとかキンドルなどの黒船がやってきて、日本の出版が侵略されるとか、印税がいくらだの、マネタイズがどうの、など云々。

それがタバコの煙で霞んだ会議室で行われている不毛な会話なら、勝手にやっておいてくれればいいのだが、一般の読者も見ているWebやTwitterなどで、さも「私は真面目なサラリーマンです。真剣に書籍の未来を考えています」とばかりに話しているのを見聞きしていると、こちらも「電子書籍の先にあるのは、血で血を洗う修羅の道か……」と、つい感化されがちになる。

その一方で、一般の人達が電子書籍に対してどう考えているかと言えば、電子書籍を望むか望まないか以前に、私は普通の人達が電子書籍の話をしているのを、ほとんど見聞きしたことがない。

もちろん「iPadとかキンドルなどの黒船が」という話をする人もいるのだが、一般読者すらそうした観点でしか電子書籍の話をできないというのは、これまで電子書籍というものが、いかに出版業界の論理でしか語られてこなかったかを示す、証拠といえよう。

書籍の利用法が多様化する

では、電子書籍を読者視点で考えてみるとしよう。

読者視点で考えるということは、読者にとって、電子書籍の存在が、いかに読書の価値を高め、また読者の人生を多様なものにするためのツールとなりうるかを考えるということである。それに足るような、電子化による新しい読書体験とはなにか。私の乏しい想像力で考えるに、やはりソーシャルネットワーク的な使い方が真っ先に思い浮かぶ。

まずは、メモやしおりの共有。各自が重要だと思った部分にメモを書いたり、しおりを張る。それを他のユーザーがチェックして他者の考え方を参考にして、本を読み進める。そこから発展して、ネット上での読書会も可能だろう。会話をチャットやスカイプなどで進行しながら、議題となっているページやメモを、各自が共有して議論することができる。都心などでは、出社前に読書会などを開いている人達もいるようだが、ネット上であれば地方の人達にも、同じ本を読んで語り合う楽しみを、容易に提供することができる。

ソーシャルばかりではなく、個人的な利用にだって、電子化の利点はある。本に書かれた内容を、自由にコピー&ペーストをして、アイデアプロセッサーなどに貼り付けることができれば、本の理解に役立つし、それを保存して、後から見返せば、新しい視点も生まれるかもしれない。

少し考えただけでも、このくらいは電子書籍ならではのアイデアは出てくるのであり、多種多様な人が、さまざまな立場から電子書籍を利用する状況になれば、もっと洗練された書籍の利用法が産まれ、より書籍の存在意義は多様になっていくはずである。

書き手にとっても、電子化は有益である。自らが持つ膨大な蔵書の中から、どこかに書かれていたはずの言論を、気軽に検索で引き出すことはもちろんであるが、自分の蔵書以外でも、書籍の内容が検索サイトなどに提供されていれば、いまだ目にしていない、調べている事柄に言及している新たな著書を発見するような検索の仕方も可能となるだろう。

また、紙媒体では反論するにしても賛同するにしても、どうしても相手の発言を「引用」という形で読者に紹介せざるを得ず、引用側の解釈によって元の文章の細やかな言い回しなどが失われてしまっていたが、電子化された書籍であれば、引用したい書籍が、引用元に対し、引用部分を細かく指定して、その部分だけを書籍を購入していない読者に公開するようなリクエストを出すシステムを作ることも可能だろう。

言論空間のフラット化

私は、朝日新聞社の『論座』(2007年1月号)で論壇デビューを果たした。「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」(双風舎刊『若者を見殺しにする国』に収録)は、論壇にそれなりの衝撃を与えたらしく、賛同や批判など、さまざまに引用され、解釈されたらしいが、私自身はほとんどそれを把握できていない。ネットで自分に対する反応を検索することはできるものの、ネットの言論を調べてもその多くは理解不足で一方的な悪口ばかりで、真摯に批判を探そうとすればするほど疲弊してしまう。

そうしたときに、自分の言論に対する言及をしている図書を検索できるシステムがあれば、他者にとってはもちろんであるが、私自身にとっても、もっと自分の言論を理解することができるのではないかと考えている。それは決してネット言論を軽視しているのではなく、最低でも著者と編集者という2人の人間が目を通し、さらには商業物としての最低限のクオリティを必要とする図書には、単なる悪口などは書かれていないだろうという期待による区別である。

ただ、システム的な話も重要ではあるが、より重要なのは、書籍とネット上の言論が電子化によって並列に並ぶことにより、言論が「どのメディアに掲載されているか」ではなく「どのような内容の言論か」によって評価され、本来、自由なはずの言論が持たざるを得なかった「権威」が解体されていくのではないかという点である。大学の教授や准教授ではない「例外的な出自」を持つ著者が、より多様な言論を持ち寄るようになるのではないかと期待している。

かつて、私のような「ネット上で文章を書いているだけのフリーター」という、社会から与えられたラベルをなんら持たない人間を、編集者が論壇誌に引き上げたのは、そうとうな冒険だったに違いない。

しかし、言論空間が電子化され、紙媒体とネットをフラットに扱えるようになれば、それは当たり前のことになっていく。皆が多くの言論をネット上で見聞きすることのできるような広大な言論空間では、特定の言論や著者を切り出して、世間にプレゼンする編集者の能力が、これまでよりも、よりいっそう求められていくことになるだろう。

本のデータはなぜ違法流通しないのか

文字と絵で構成される書籍は、本来は電子化ときわめて親和性が高いはずである。インターネットなどという文化が根付く前から、ワープロを使って文章を書く作家は決して少なくなかったし、メールやテキスト、ワードなどのデータ入稿は、今や大半の物書きがごく自然に行っている当たり前の行為である。手書きの原稿だって、必ずどこかでテキストデータに変換され、絵などと組み合わせたDTPデータとなって、印刷される。

本の世界にテキストデータは溢れているはずなのに、そのデータは出版社によって厳重に守られ、決して外には流出しない。

思えば、他メディアの電子化は、決して著作権を持つ会社が自発的に推し進めたものではない。音楽は旧体制の「Napster」を始めとした、P2P技術により音楽ファイルが大量に違法コピーされるという事態から電子化は始まったのだし、映像はyoutubeなどの動画サイトで、個人の映像も著作権物も関係なく配信されたことにより、電子化された音や映像が一般層に浸透した。

そうした中から、ユーザー視点による、これまで思いつかなかったような、自由な利用がされるようになり、それを追認する形で業界もまた電子化に踏み切らざるを得なくなったというのが、おおよその電子化の流れである。

では、電子書籍はどうか。「青空文庫」という著作権切れの文章を電子化するプロジェクトはあるものの、著作権の残る書籍が、デジタルデータとして流通する大々的な流れは、どこにもない。せいぜい、マンガ週刊誌をスキャンして動画サイトに流す人がいる程度である。

理由としては簡単で、音楽や映像をデジタルデータとして取り込むのは、今や誰でも簡単にできるが、書籍をデジタルデータに落とすには、いまだに膨大な手間がかかるからだ。1ページ1ページ本を開いて、スキャナにかけ、OCRでテキストデータ化して、誤認識を修正する。それを数百ページにかけて行うなど、興味本位でできることではない。

ユーザーによる電子化は、その大半は著作権を無視した違法な交換に留まるが、それでも利用者が多ければ、その中からこれまで思いもつかなかった自由な利用法が、なにかしら発掘されるものである。

書籍はユーザーが安直にデジタルデータとして流すことができないために、かろうじて著作権は守られてはいるが、それは一方で出版社は、自ら積極的に電子書籍を提供し、その利用法を提供しなければならないという枷を負っているとも言えよう。

もっと「理想」を語れ

こう書くと、さも私が著作権を無視して、書籍のデータを流通させるべきだと言っているように思えるかもしれないが、そうではなく、出版業界にいる人間の数は、一般のユーザーよりも数が少ないのだから、違法にデータが流通する状況の何十倍、何百倍の知恵を絞り出さないと、一般ユーザーの知恵や試行錯誤に追いつくことはできないと言いたいのである。

そうした状況で、「黒船が来たから仕方なく」や「マネタイズ」といった、会社都合の電子書籍観にこだわる出版業界の人達の態度は、「本の楽しさを伝え、知的好奇心を涵養する」という、出版社が持っているはずである理念から、必死になって「逃げている」ようにしか思えない。

紙の本であろうが、電子書籍であろうが、本は本である。本をより多くの人が利用し、生活を豊かにするために活用する手伝いを出版業界は積極的に行うべきである。そしてその方法論が書籍の電子化によって多様になるのであれば、出版業界は、迷ったり、恥ずかしがったり、臆したり、ポジショントークでお茶を濁すことなく、書籍がより良いツールであり続けるための「理想」を、できるだけ多くの人達に向けて、どんどん語って欲しい。

そうしてはじめて、電子書籍の積極的な利用に向けた、前向きな議論がはじまるのではないか。私はそう考えている。

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