電子書籍は波紋を生む「一石」となる

2010年7月20日
posted by 松永英明

2010年7月8日~11日に開催された第17回東京国際ブックフェア。同時開催としてデジタルパブリッシングフェア2010なども開かれた。わたしが前回、東京国際ブックフェアに行ったのは2005年のことだから、5年ぶりの参加となる。その間、電子書籍の動向も大きく変化したように感じた。

5年前と今の電子本

電子書籍化の流れは前世紀末から始まり、今世紀に入ってから加速した。当初は各社がΣBookのような電子ブックリーダーを独自に開発したり、独自フォーマットを開発して「蔵衛門」などの専用ソフトウェアを売る、という方向性だった。しかし、特に独自の機械を開発したところは、残念ながらいずれも頓挫していった。一方、KeyringPDFを採用したパピレスは、ある程度汎用的なフォーマットを採用することで生き延びていった。

2005年のブックフェアではボイジャー社の無料公開セミナーを聴講した。ここで画期的だと思ったのは、ボイジャーの路線変更だ。独自ソフトT-Timeを開発していたボイジャー社は、T-Time5.5で大きく方向転換し、「液晶画面でjpg画像を表示できる機械ならどれでも電子本を読める」ようにした。携帯でもデジカメでもPSPでも読めるということで、デバイスの制約を取り払ったのである。それは確かに正しい方向だった。

しかし、それから約5年、電子本はなかなか広まらなかった。それが2009年からのKindle、iPadの衝撃で大きな変化が訪れたといえる。独自の電子書籍ツール開発競争は、アマゾンとアップルの二大巨頭がほぼ制覇したといえよう。一般ユーザーにとってのパソコンのOSがWindowsかMacの二択となった状況に似ているといえる。それにより、電子書籍のフォーマットも選択肢が絞られてきた。

そんな状況で、果たして紙の本はなくなるのか、電子書籍という黒船にどう対応するのかという話が盛り上がっている。2010年のデジタルパブリッシングフェアは、非常に重要なターニングポイントに位置しているといっても過言ではない。そこで大きな期待を抱いて、会場に向かった。

東京国際ブックフェア2010の会場となった国際展示場

東京国際ブックフェア2010の会場となった国際展示場

「本の消費現場で何が起きているのか」

午前中はシンポジウム「本の消費現場で何が起きているのか?」を聞いた。「読むことに関する環境の変化、消費現場の変化をどうとらえるか」をテーマにしたパネルディスカッションである(登壇者は以下の各氏。敬称略)。

・樺山紘一(印刷博物館館長)
・太田克史(編集者・星海社副社長)
・草彅主税(丸善お茶の水店店長)
・司会:仲俣暁生(編集者・「マガジン航」編集人)

樺山さんは歴史家として、星海社の太田さんは出版社の立場として、丸善の草彅さんは販売店の立場としての発言となる。詳細な内容は来年のブックフェア開催時をめどに出版されるそうなので、ここでは手元のメモ(by ポメラ)をもとに、特に電子書籍化に絡む部分について簡単にまとめておくとしよう(他の部分も興味深いので、ぜひ出版時には全文をお読みいただきたい)。

「冊子」「印刷」「電子化」という歴史

興味深かったのは樺山さんによる「本の歴史」の解説だ。見過ごされがちなポイントだが「書物」という形になったというのは大きな改革だったという。

つまり、冊子として綴じられたもの(コデックスシステム、ブックになっているもの)が登場したのは3世紀のローマ時代のことだった。東洋でも本が綴じられたのはそれくらいの時期だ。それ以前に冊子という形は存在しなかった。欧州は巻紙、東洋は木簡・竹簡で、はじめから書物があったわけではない。

冊子ができることによって情報を適切に盛り込めるようになり、持ち運びが可能になった。冊子形式には、ぱっと開けば見開きで見られるなどの非常に有効なポイントがあった。文庫本・新書版では、適切な大きさの文字で、見開き平均約1分間で読めるという特性がある。このように、書物というのは大変な発明だった(「マガジン航」掲載の津野海太郎「書物史の第三の革命」を参照)。

グーテンベルク以前に、こういうメディアを開発したのは大きな貢献だった。そしてもちろん、活版印刷によって膨大な書物が流通することになり、「西洋近代」は印刷革命と深い関係がある。

つまり、書籍の歴史としては、「冊子」「印刷」「電子化」という大きな展開があったというのだ。グーテンベルク以前/以後とインターネット以前/以後を対比する論調は多いが、冊子化以前/以後も大きな変革だったということになる。わたしにとって、この指摘は非常に大きなインスピレーションをもたらしてくれるものだった。

こういう歴史を考えると、電子化によっても、書物という紙媒体の世界が失われ、無意味になるわけではない。紙か電子かという問いはナンセンスである。共存、選択ができるようになるわけである。これについては仲俣さんも賛同した。実際、いまデジタルで読んでいる人は、紙でも読んでいる人だ、と指摘する。

「ネクストノベル」への期待

太田さんは、ハードの進化のあとにソフトの進化があると語る。粘土版・石版がでてきて、長編叙事詩が生まれた。どんなに才能があっても京極夏彦の小説が石版で出版されたら大変なことになる。電子上の何らかのハードにあわせた文芸作品がでてくるはずだ、と言う。

ところが、今の電子書籍に関する議論では、たとえるなら、ブック(本)の時代に入っているのに、石版の重さを再現するにはどうしたらいいかというような議論も見られる。過渡期にはそれもありなのだが、やがて新しい文芸活動がでてくるだろう。太田さんはそれを次の世界、「ネクストノベル」という言葉で表現した。

マクロ的にいうと、今は「異境の発見」の時代に当たる、と太田さんは言う。デジタルの世界は、紙からすると異境である。それぞれの世界があって、お互いに交流することでお互いの文化の発展となる。紙とデジタルのそれぞれの住人がお互い異境を認めて運動を起こしていくことだ。変化をおそれず立ち向かっていけばいい、と太田さんは考えている。

転換の時期はどうだったか

仲俣さんは、古い形式から新しい形式に切り替わる時代に立ち会った人たちの歴史を、樺山さんに尋ねた。和本から洋本、写本から活版本に変わるとき、人々はどう対応していったのか。対応できなかった人もいるのではないか。

樺山さんは、ユーザーのデマンド(ニーズ)という言葉でそれを説明する。グーテンベルクの印刷革命から50年くらいで活版印刷の時代に変わった。それは非常に大きなインパクトがあった。活版印刷がいやな人もいれば、積極的に推進した人もいた。

いずれにしても書物文化を変えたのは、ユーザーの側である。ニーズがあったからその時代が訪れた。この50年間に、2万5000点、350万冊くらいの書物が出版された。それまでの何百倍もの量である。それだけ、読者の本に対する要求が大きかった。お坊さん、法律家だけでなく、貴族などがこぞって買い求めた。

当時の本は極めて高かった。活版印刷の聖書は今の価値だと数十万円くらいだったというが、それでも190冊程度売れた。ニーズがあったからこそグーテンベルクの革命があったのだ。

もちろん、活版印刷に対する抵抗感が残っている人もいた。ちなみにこれと同時期、銅版画が生まれている。有名なアルブレヒト・デューラーはその画家の一人だ。ところが、「銅版画はいやだ」といって最後まで手を染めなかった人もいる。その代表的な例としては、意外なことにレオナルド・ダ・ヴィンチがいる。こういう人たちは新しい技術へのある種の抵抗感があった。けれども、それはそれでいっこうにかまわなかった。乗った人たちと乗らなかった人たちの両方によって、ルネサンスが作られた。

このときと同じように、電子書籍に関心がある人と、電子書籍がいやという人との対話によって、新しい時代が作られると思う――と樺山さんは語る。

大量出版の時代に向けて

仲俣さんは、電子書籍の話が盛り上がってよかったこととして、「業界だけでなく、読者が興味を持ってきた」ことを指摘した。本という誰もが親しんでいるメディアについて発言できる機会がでてきた。そこで鍵を握るのは読者、売る側ではなく読む側なのである。

去年のシンポジウムの会場は業界の人、ことに男性が多い印象だったという。しかし、今年は老若男女、多種多様な人が集まり、関心を持つ層が変わってきた。そして、その全員が本の世界を作っていくプレイヤーなのだ、と仲俣さんは言う。

なお、電子書籍以外の話題についても、このシンポジウムは非常に興味深い話題が多かった。先日亡くなった梅棹忠夫さんの「本はわかりやすくなければ伝えたことにならない」という考え方、「本は魂の食べ物」という言葉を太田さんに教えた「週刊モーニング」編集長の言葉、立ち読み可能な書店はもともと(クリス・アンダーソンのいう)「フリー戦略」だという指摘、松岡正剛氏とのコラボレーションによる丸善の「松丸本舗」の試み、書店員も編集者も固有名詞を出していく時代、といった話題については、紙幅の関係上、今回は省略する。

キンドル・電書と新しい表現手法

さて、このシンポジウムが終わって、今度はブックフェア本体に向かう。多くの出版社や編集プロダクションなどが出展し、海外の出版社も取引を望んでやってくる。今年はサウジアラビアが巨大なスペースで展示していたが、出版文化や本の紹介というよりは国そのものの紹介っぽい感じだった。

さて、デジタルパブリッシングフェアの区画に向かう。目当てはボイジャーのブースだ。そこで「電子書籍部」部長の米光一成さん、「日本Kindleの会」の漫画家・藤井あやさんが次のトークに備えて待機していた。来週の電書フリマでお世話になることもあって、ちょっとご挨拶。

やがて仲俣さんが司会として、米光さん・藤井さんがブースに登壇する。電書部の活動、Kindleの話などの紹介が行なわれる。印象深いのは、二人ともKindleを実際に手にして、少し使ってみたところ、大きな可能性をそこに見いだしたという話だ。

ボイジャーのブースで行われた「マガジン航」のイベント風景。左が藤井あやさん、右が米光一成さん。

ボイジャーのブースでのイベント風景。左が藤井あやさん、右が米光一成さん。

これについても完全な報告がいずれ行なわれると思うので、わたしが特に興味を惹いた話題について記しておこう。それは、Kindleあるいは電子書籍ならではの表現方法についての話だ。紙のマンガでは、見開きになっているのが普通である。そして、たとえば登場人物が扉を開くシーンは、見開きの最後のコマに置くというようなテクニックがある。そうすると、登場人物と一緒に読者もページを「めくる」という作業が行なわれる。

ところが、電子書籍では1ページ単位で表示されたりするので、そうはいかない。そうなると、今までのやり方だけではだめで、電子書籍に対応した新しい表現技法が必要になってくるだろうと思われる。

午前中のシンポジウムで「ネクストノベル」という話が出たが、メディアの変化は確実に表現方法の変化ももたらすだろうと感じた。わたし自身、どういう媒体に書くか、どういうレイアウト、どういうフォーマットで書くかが決まらないとなかなか文章も書けない人間である。レイアウトが表現方法や内容を規定するという要素もある。単に同じ文字データを表示させればそれでいいというものではない。

電子書籍の登場は、おそらく、利便性だけではなく、表現方法や受け取り方も変える可能性があると感じた。

また、電子書籍が出ることによって紙の出版点数が減り、適正な出版点数になることによって紙の本も健全化するのではないか、という意見もあった。それはよい変化として期待したいものである。

小飼弾:「ネット」接続デバイスが電子書籍ブームを生んだ

このトークが終わった時点で、いろいろと知り合いの編集者の方などともお会いした。そこで合流していってもよかったのだが、あえて次のトークを聞くことにした。小飼弾さんと、ボイジャーの萩野正昭さんの登場である。

弾さんの特徴は、物事をズバズバと割り切って分析することである。今回の話の中心は、なぜ電子書籍が急にメジャーになったのか、ということだった。ボイジャーもすでに18年、そんなに長い間電子書籍をやっていて、なぜ、いまになってようやくメジャー化したのか。

弾さんの結論を簡単にまとめると、一つはiPad/iPhoneやKindleの登場である。しかし、デバイスだけなら今までにも存在した。ではなぜこれらが伸びたのか。答えは「ネット」。通信機能を備えていたからだ、と弾さんは指摘する。この機械一つで購入までたどり着く。特別な作業は何もいらない。そこに大ヒットの理由があったというのである。

たしかにそれは大きい。わたしはKindle 2ユーザーだが、Kindle上でショップを見ていて、何となく面白そうな本を見つけると、つい購入ボタンを押しそうになってしまう。このあいだは「Japanese History」で検索したところ、「Japanese Love Hotels: A Cultural History」という本を見つけて、思わず買いそうになった。定価180ドルがKindle版はわずか42ドル。電子書籍の中では安くはないが、強烈に衝動買いを促すシステムが構築されている。

このように、iPadにしろKindleにしろ、買う作業における障壁が非常に低い。ボタンを一つクリックしただけで本が表示され、買えてしまう。これはついつい買ってしまう。

だが、これまでの電子書籍業界は、購入のしやすさというような「読者の立場」に立っていなかったと弾さんは強く指摘した。それは、用意されている電子本の「点数」にも現われているという。年間何万冊という本が刊行されている。数万冊の在庫があれば、そこに行けば何か買いたいものがあるということになるが、いまの理想書店などの品揃えでは欲しいものがあるかどうかわからない。次にまた来ようということにも繋がらない、という。

このトークで小飼さんが語られた他の内容もまた興味深いものだったが、これもいずれ公開されると思うので割愛する。

電子書籍ビジネス

さて、このトークが終わって、気の向くまま・足の向くままにデジタルパブリッシングフェア、ブックフェアのいろいろなブースを回ってみた。

電子書籍関連では、Google Booksのブースが非常に盛況だったのが印象的だった。ブックフェアに合わせて発表されたGoogle エディションは、「ネット上での立ち読みを促すことで本が売れるようになる」という、主に出版社向けのアピールだと感じた。

電子書籍化するシステムを販売する企業が多かったのも印象的だ。その多くが、ePub形式への対応(すなわち、「iPadやiPhoneで読める形に変換しますよ」)というものであった。Kindle派のわたしとしては、ePubオンリーというのはどうも腑に落ちない。が、この期におよんでも独自フォーマットにこだわるよりは、汎用に近いフォーマットに対応するという方向性は間違っていないと思う。5年前のデジタルパブリッシングフェアでは、電子書籍リーダーやフォーマットが乱立していたが、今年は業界標準に沿った形での提供に流れは変わってきていると感じた。

しかし、こういうところで提供されるシステムは、はっきり言って高い。いろいろなフォーマットに変換できるシステムが200万円(5年リース月額4万円)とか、Word文書をePubに変換するツールが57万5000円とか、個人ではまったく手が出ないレベルである。

米光さんたちの「電子書籍部」のシステムが有志によって作られていることを思うと、あるいはブクログの「パブー」が無料で誰でも電子書籍を作れるシステムとして提供されていることを思うと、ちょっとこれは高い。もちろん開発が大変なのはわかるのだが……。

興味を持ったのは、「Kindleストアで販売するマンガのセリフを英訳する代わりに売り上げを折半する」サービスである。Kindleの売り上げの何割かを支払う契約をすれば、英訳部分を担当してくれるというのである。これはよいシステムだ。いわば印税の中から翻訳料を支払っているわけで、初期費用もかからない分、同人作家を含めて多くのマンガ家さんにとってうれしいサービスではないだろうか。

ただ、文章主体の場合は翻訳すべき量が多いので、別途翻訳料がかかるという。ぜひ利用したいサービスだったが、断念した。

アルクのWePublishに期待

そんな中でわたしが実際に使ってみたいと思うサービスを見つけた。それは、デジタルパブリッシングフェアのブースではなく、一般の出版社ブースの片隅にあった。語学書などで知られるアルク(ALC)の個人向け電子書籍作成サービス「WePublish」である。

サービス開始は8月で、プレスリリースもまだだというのだが、これは非常に興味深いサービスになりそうだ。身も蓋もなく言ってしまえば、ブクログの「パブー」に似た後発サイトではある。しかし、ウェブ上で電子書籍の作成・公開・販売が可能になるサイトが増えることは歓迎したい。

おもしろいのは、ブログツールであるMovable Type形式のデータをアップロードできること。つまり、ブログの内容をMT形式でエクスポートしてWePublishに放り込めば、画像も読み込んで電子書籍に変換してくれるのである。

表示のためには独自の無料アプリ/ソフトを利用する必要があるが、iPadやiPhone上でも閲覧可能。少し突っ込んで聞いてみると、一度PDF形式に変換した上で画像化して表示させているようである。また、縦組みの制作も可能だ(まだ縦中横までは対応していないが)。

専門ソフトを使えない人たちでも気軽に電子書籍を制作できる環境を、という方向性は間違っていないと思う。

Kindle対応のデータは作れますか、と尋ねたら、興味深い回答が返ってきた。

「うちだけを使ってくださいというつもりはないんです。今までは、ここで出版したら他のところからは出せない、ということがあったと思うんですが、うちから出してもらっているものを、他社さん(たとえばKindleストア)で出されてもかまわない。もちろん、その選択肢の一つとして、ぜひ利用していただければということです」

いまの出版契約が一社独占である状態を、あっさり否定してくれた。これは期待せざるを得ない。電子書籍は出版契約も変える力を秘めている。もちろん単独契約もあってよいが(「○○先生の△△作品が読めるのは理想書店だけ!」というウリだってある)、いろいろな条件でいろいろな電子版元から出版できるようになれば、書き手にとっても読み手にとってもよい方向に向かうと思われる。読者の選択肢を増やすことは、決してマイナスではあるまい。

電子書籍という「一石」

今回のブックフェアで話を聞いたりブースを回ったりした結果、いまの電子書籍は視覚表現に対して、文字どおり「一石を投じる」存在であるということを強く感じた。電子書籍というものそれ自体より、それが登場することで「読み物」の世界に生まれる「波紋」が大きく広がるように思われる。

この大きなうねりの中で、わたしたちは表現とは何か、書物/読み物を作る・読むとはどういうことか、新しいメディアにふさわしい表現技法とは何か、といった根本的な課題をもう一度考え直すことになるのだろう。そして、紙にこだわる人も、最先端の流れに乗っていく人も、新しい世界を見つめることになる。

正直に言えば、わたし自身、その新しい表現とはどういうものになるのか、いまの時点ではまったく見えていない。予測もつかない。だが、何だか楽しい時代に居合わせたということだけは間違いないと思う。

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執筆者紹介

松永英明
(文士・事物起源探究家、絵文録ことのは)