電子書籍にDRMは本当に有効か?

2010年5月17日
posted by yomoyomo

日本においては、KindleとiPadを「黒船」に見立てる言説が多いですが、現在の出版業界をかつての音楽業界とのアナロジーで語る見方もよく見かけます。つまり、iPodとiTunes Music Storeが音楽産業において果たした役割を、iPad(iBook)やKindleが電子書籍市場の立ち上がりにおいて担うというわけです。

当然ながらその見方には新しい市場の開拓への期待だけでなく不安も多分に含まれますが、その不安のひとつに音楽業界に大きなダメージを与えたファイル共有などの海賊行為の歴史が、電子書籍においても繰り返されるのではないかという懸念があります。

今年の元旦に公開されたCNN.comの記事はタイトルからしてその懸念をストレートに表現しています。記事の中で、『リザベーション・ブルース』などの邦訳がある小説家、詩人のシャーマン・アレクシーは、「自分がスティーブン・キングやジェイムズ・パタースンといった大ベストセラー作家で、本が片っ端からデジタル化され、簡単に盗まれると考えたらホント恐ろしい。インターネットにおけるオープンソース文化とともに、所有の概念――芸術の所有の概念――は消え去っている。それが怖いんだ」と述べています。

シャーマン・アレクシーは明らかに「オープンソース」という言葉を誤用していますが、それはともかく彼の言わんとすることは分かります。デジタル化による複製の容易化とインターネットが組み合わさることで、自分の作品が簡単に盗まれることへの懸念です。

こうしたオンラインの海賊行為への対抗策として、真っ先に挙げられるのがデジタル著作権管理(Digital Rights Management、DRM)技術です。DRM は電子書籍の海賊行為の防止にも効果的なのでしょうか?

ちょうどオライリー・メディアのTools of Change for Publishingブログに、Kaplan Publishingのデジタルマーケティングマネージャであるブレット・サンダスキーが、DRMと海賊版の問題を考える文章を公開しています。

サンダスキーは「DRMにまつわる3つの神話」とその実情についてあっさりと書きます。

  • DRMは海賊行為を排除する:これは完全に間違い。海賊版のコンテンツは、我々が許可しようがしまいが、いつだって入手できる。
  • 海賊行為は我々の顧客から盗んでいる:海賊版のコンテンツをダウンロードする人は、はじめから買うつもりがない。海賊行為は小売りの替わりではなくて、交わることのないエコシステムである。
  • 出版社は強度なDRMをかけるほど利益があがる:これも間違い。実際には、DRM のかかってないコンテンツのほうが市場価値があがり、長い目でみればより利益があがると考える。

サンダスキーはDRMよりも、顧客が友人とコンテンツを共有する選択肢を与え、それにより新しい顧客にリーチするほうが得策だと説きます。「DRMにまつわる3つの神話」が上の現状の通りだとして、サンダスキーが考えるそれぞれの神話に対する対応策は以下の通りです。

  • 人々がコンテンツを共有したがっているのだから、DRMが海賊行為を抑止しないのは既に分かっている。それに対しては、ユーザー間のコンテンツ共有を積極的に促進して海賊行為を回避し、出版社と消費者の両方にウィンウィンな状況を作り出して出版社の価値につなげるべき。
  • 我々出版社がより優れ、より価値のある体験を提供すれば、海賊たちは我々の顧客から「盗む」ことはできない。
  • 顧客基盤を増やし、顧客データを集め、顧客に直接関わり、積極的にブランドへの忠誠心を育て、賢くテクノロジーを活用する上質のユーザー体験を提供すれば、長い目で見ればより大きな利益につながる。

これを楽観的過ぎると見る向きもあるでしょうが、少なくともDRMには効果がないから頼れないという認識は出版業界においても特異なものではありません。例えば、『マガジン航』に公開されているジョン・シラクッサの「電子時代の読書~過去そして未来」にも同様の考えが示されていますし、事実Amazonも小規模な出版者に対して、DRMを外すのを容易にする選択肢を認めているという現実があります。

また「電子コミック「働きマン」が配信拒否になった理由–電子書籍時代の検閲」においてボイジャー代表取締役社長の萩野正昭氏が語るように、「DRMは幻想ですよ。打ち破られないDRMはないのではないでしょうか」という見方は、音楽分野におけるDRMの経緯を振り返れば、正当である蓋然性が高いでしょう。

ここでまた電子書籍と音楽業界とのアナロジーを持ち出すなら、長い目で見れば、海賊行為への懸念はあれどもそれよりDRMを外すメリットのほうが大きいと考える方向に電子書籍、電子出版の世界も進むと考えられるわけです。

今回DRMについて書こうと思ったのは、この長期的な流れに逆らう、しかも、間違えば大きな影響力を持ちかねない動きが散見されるからです。

今年の3月、総務省、文部科学省、経済産業省が開催した官民共同の懇談会「デジタル・ネットワーク社会における出版物の利活用の推進に関する懇談会」における議論、並びにそれについて伝える報道を見るにつけ、中抜きを恐れる出版関連業界が期待する標準規格というのは、結局日本独自のDRMではないかと疑いたくなりました。

またそれから間もなく一般社団法人日本電子書籍出版社協会の設立が発表され、それにも同様の疑念を感じてしまったわけですが、少なくとも松浦晋也氏が「電子書籍についての考察(その1)10年前の電子書籍コンソーシアム実験を振り返る」 に書くようながんじがらめだった著作権管理により失敗した(要因はそれだけではないでしょうが)電子書籍コンソーシアムの二の舞は避けなくてはなりません。

出版社がDRMさえかければ複製されないと盲信しているだけなら害はなさそうですが、DRMの最大の問題は、それがユーザーの利便性、コンテンツの正当な利用さえも損なうことです。特定の動作環境への依存を強いられ、その技術の恒久的な利用が保証されない問題もあります。

総務省や日本電子書籍出版社協会からは、特定メーカーに電子書籍に関する規格決定の主導権があることへの危機感が聞こえます。これに関する共通規格作りは意味のあることで、それに日本語組版に関する技術が活かされ、電子書籍の日本語環境が改善されれば良いのですが、無謬にこだわる日本人の悪いところが出て、できたのはユーザーの利用を縛るばかりで結局誰も使いたがらないDRMだけというのでは意味がありません。

ただこのままいくと、官民一体で日の丸ロックインな自滅により、元々阻止したかった特定メーカー(早い話がAmazonとApple)によるユーザー支配の実現を助けてしまうことがどうしても懸念されるのです。