IDPFカンファレンスに見たEPUB 3の現状と課題

2012年8月9日
posted by まつもとあつし

さる7月4日に東京ビックサイトで行われた国際電子出版EXPOの基調講演「人々が求める書籍/出版に私たちはどう応えていくのか」には、7月19日に電子書籍サービスkoboのスタートを控えた楽天の代表取締役会長兼社長の三木谷浩史氏をはじめ、講談社代表取締役社長の野間省伸氏、丸善CHIホールディングス代表取締役社長の小城武彦氏、IDPF事務局長のビル・マッコイ氏といったキーパーソンが顔を揃え、会場には出版関係者を中心に2000人以上が詰めかけた。

国際電子出版EXPOで行われた基調講演には業界のキーパーソンが登壇。

壇上で野間氏が「打倒アマゾン」と大きくプリントされたTシャツが掲げるという一幕もあり、名指しはされないもののKindleを念頭に、それに対するkoboへの期待が講演では語られた。Amazonと異なり、出版社側に実質的な価格決定権(エージェンシー・モデル)を認めるkoboは、国内出版業界から見てもWIN-WINな関係を築くものと映ったはずだ。「読書革命」を標榜する三木谷氏の自信を支えているものは、こういった国内出版界からの支持と、買収したカナダkobo社が所有するグローバル版権(大原ケイさんによる記事「楽天、kobo買収の本当の意味」も参照)、そして日本語対応が進むEPUB 3の全面採用だ。

だが、読書端末kobo touchの発売から10日以上が経った現在も、koboのネット上の評価は決して良いとは言えない。端末そのもののアクティベーションが当初上手く行かないケースが頻発したこと、動作速度や使い勝手が良くないこと(たとえばこの記事を参照)、そういったユーザーからのレビューを「緊急処置」としてサイトから遮断したことに加え、肝心の書籍タイトル=コンテンツが不足しているのだ。

楽天は、当初約3万タイトルでサービスを開始するとしていたが、7月末時点でもそれに届かず、青空文庫をのぞくと有料タイトルは現在ようやく1万点に達したところだ(8月6日現在)。筆者はサービス開始前から、EPUB 3への書籍コンテンツの変換がスムースに行われるのか懸念していたが、残念ながらそれが現実のものとなってしまった形だ。

EPUB 3への期待と懸案

kobo発表会で、三木谷氏は「グローバルスタンダードでオープンなEPUB 3を採用」という点を繰り返し強調していた。たしかにEPUBをデファクトとして電子出版が進んでいた欧米市場に対し、特殊な組版が求められる日本でも、対応が織り込まれつつあるEPUB 3への期待値は高い。

スマートフォンシフトやタブレット端末の普及が進む中、XMDFや.bookのような国内独自のフォーマットだけでなく、koboをはじめとした海外製の端末やリーダーアプリが標準で採用するフォーマットに日本語コンテンツが対応することは、電子書籍市場の拡大に不可欠だからだ。

そうした背景もあり、基調講演の直後には、IDPF主催のEPUB 3をテーマにしたカンファレンスが行われた。有料かつ専門性の高い内容にも関わらず、350名以上の参加者が約半日のセッションに熱心に耳を傾けた。

Readiumには世界各国の企業や団体が参加している。

カンファレンスでは、HTMLレンダリングエンジンWebKitをEPUB 3のビューワの基盤として用い、そのレファレンス実装を進めているReadium計画を中心に各社、各団体の取り組みが紹介された(Readium計画についてはボイジャーの萩野正昭氏による「電子出版はみんなものものだ、そう誰かが叫ぶべき」も参照)。

冒頭、IDPF/DAISYコンソーシアムCTOのマーカス・ギリング氏は、「EPUB 3の仕様は決まったが、まだビューアの開発などが進んでいない」としたうえで、「そこで、ReadiumというEPUB 3のリファレンス実装を行うプロジェクトを進めている」とその概要を説明した。これはEPUB 3の仕様で作られたファイルが正しく表示される(=リファレンスとして使用できる)ことを目標としたもので、まだ完了しているものではないが、本カンファレンスでは現時点の成果や課題を紹介するとした。

このプロジェクトには、楽天/koboをはじめ、ACCESS、イースト、ソニー、ボイジャーが日本から参加している。オープンソースであるWebKitを用いることで、EPUB 3での日本語描画に不具合が生じた場合でも、その改善を比較的素早く行うことができる。

ボイジャーの小池利明氏は、EPUB 3で制作した電子書籍「木で軍艦を作った男」を例に、Readiumでの実装状況を解説した。現状、日本語表示にほとんど問題はないものの、開発途中の逸話として、例えば縦書き文章に含まれる記号の90度回転をタグで指定しているにも関わらず、WebKitのバグによりビューア上では表示に反映されないといった実装上の不具合があったことを紹介した(このバグはその後、修正された)。

EPUB 3を構成するCSSとHTML5は共に標準化機関W3Cの正式勧告を控えている状態だ。いまも残る不具合や細かな調整は、Readium計画に参加する企業が自主的に行い、リファレンスへの反映を働きかけている。

先の不具合を修正したACCESSの浅野貴史氏は、「WebKit側の修正を待っていられない」と語る。koboはもちろんのこと、先日、経産省「コンテンツ緊急電子化事業」(緊デジ)がEPUB 3版の書籍も受け入れると発表するなど、EPUB 3の普及を目指す動きが急速に進む中、日本語独自の問題とその解決の成果を、メインストリームである国際標準規格へのマージを随時働きかけている、というのがその実態だ。

フォーマット移行の痛みを越えて

新聞報道等ではEPUB 3にフォーマットが統一されることで、なかなか立ち上がりを見せない電子書籍市場を切り拓く存在であるかのように紹介されることもある。だが、これまでのタイトル数の蓄積から考えても、XMDFや.bookといった既存のフォーマットが一気にEPUB 3に置き換わるというものではない。さらに書籍ファイルは現実にはストアごとにDRMによるパッケージングが施される。DRMによる断片化を考慮しない考察はポイントを外していると言えるだろう。

また、海外の標準フォーマットであるが故に、国産の端末がその参入障壁を失い市場シェアを下げるのでは、という見立ても拙速に過ぎる。Readiumのような地道な努力がある一方で、現時点のEPUB 3が万能であるかのような取り上げ方や拙速な導入は、かえってユーザーの期待を削ぎ「今年こそ」とも言われる電子書籍元年の未来を暗くしてしまうことを筆者は懸念する。

特定の企業に依存せず、オープンな場で仕様が策定され、コミュニティによってその改善が図られるEPUB 3は、日本語のみならず中国語やアラビア語への対応も進む。カンファレンスではNPO法人ATDO(支援技術開発機構)が進めるメディアオーバーレイによるアクセシビリティの向上事例が紹介され、IDPF理事の小林龍生氏からはマイノリティ言語をネット時代に引き継いで行くことへの期待も語られた。

講演するエリザベス・カストロ氏

一方で、オープンな国際標準フォーマットであるが故に仕様の策定には、必然的に時間が掛かる。詳細な仕様が確定しないうちは、変換作業にも手間とコストが掛かるのは避けられない。

また、カンファレンスでEPUB 3の実装について解説を行ったエリザベス・カストロ氏は、「基調講演で野間さんが、複数のレイアウトをサポートするのは避けたいと言っていたが、EPUB 3でFixed Layoutを実現するためには、ツールだけでなく多くは手書きせざるを得ない」と語った。氏のプレゼンテーションは、固定レイアウトのコードを書くためのツールの解説であったが、EPUB 3の可能性を確認できると同時に、実装のための手間やコストも意識させるものであった。

カンファレンス後半では、集英社、ソニー、そしてkoboを展開する楽天がプレゼンテーションを行った。特にEPUBのみをサポートする楽天/koboの取り組みを紹介した安藤連氏(楽天 イーブックジャパン事業 プロダクト担当部長)は「フォーマット移行には痛みが伴う、その手伝いを行いたい」として、以下の4点をポイントとして挙げている。

①変換サポート
②信頼されるビューワ(専用端末だけでなくクロスプラットフォーム)
③相互互換運用性への努力(不完全、曖昧な部分への働きかけ・楽天/koboは独自仕様には興味なし)
④Readiumへの貢献

パネルディスカッションにはIDPFのビル・マッコイ氏も参加。

締めくくりとして行われたパネルディスカッションで、ビル・マッコイ氏(IDPF事務局長)は「EPUB 3は(ここに集った)アクティブなメンバーによる最も高度なHTML5活用」とした。

EPUBという「入れ物」に、HTML5・CSS3などの各種データや定義ファイルが入っていくオープンなフォーマット。オープン故にコミュニティを通じて同時並行的にアップデートしていけると同時に、そこで競争や「どの仕様を採用するか」といった争いも起こりうる。クローズドなフォーマットを採用するプラットフォーマーに対して、どうしても調整コストは高くなるオープン陣営ではあるが、今回プレゼンテーションを行ったような営利企業、とくにEPUBオンリーで国内電子書籍市場を開拓したい楽天/koboの参画によって、その調整も含めたスピードが向上することも期待したいところだ。

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TEDは電子書籍でもトレンドセッターになるか

2012年7月18日
posted by yomoyomo

4月にNHKのEテレで「スーパープレゼンテーション」が始まったこともあり、今や日本でも広い認知を得つつあるTEDカンファレンスですが、今回はそのTEDによるTED Booksという電子書籍サービスを取り上げます。

その前にTEDについての基本的な解説をしておきます。TEDカンファレンスが始まったのは1984年と意外に古く、元々は著名な建築家、グラフィックデザイナーのリチャード・ソール・ワーマンが始めた、自身の人脈中心の文化会議の色彩が強かったようです。

TEDの方向性が変わるのは、コンピュータ雑誌のビジネスで財を成したクリス・アンダーソン(未だに両者を混同する人がいますが、『ロングテール』や『フリー』の著書で知られるWired編集長のクリス・アンダーソンは同名異人です)が設立した非営利財団にTEDの権利が渡ってからです。

TEDカンファレンス本家は、参加者から高額な年会費を徴収し(現在は6000ドル)、優れた業績がある人を呼び講演をしてもらうというスタイルを保ちながらも、TEDがライセンスを与え、第三者がTEDの名前を冠したイベントの開催を許可するフランチャイズコミュニティTEDx(先月開催されたTEDxTokyoもその一つです)、そして(TEDxを含む)講演動画をクリエイティブコモンズのライセンスの下でオンライン公開するTEDTalksなど開放路線をとるようになり、一気に認知が広がります。

TEDは国際化にも熱心で、およそ3年前にスクリプトを各国語に翻訳する公開翻訳プロジェクトを始めており、日本でも青木靖さんなど優れた翻訳者の尽力により、海外で話題となったTED動画の多くが日本語字幕付きで楽しめます

TedTalksの日本語翻訳ページ。

今年に入ってからも、講演における「名言」のシェアを促すTED Quotesが始まっていますが、すべてはTEDが掲げる「Ideas worth spreading(広める価値のあるアイデア)」の実践といえます。優れたアイデアをできるだけ多くの人たちと共有し広めたいという大変な熱意に、医療使節団としてアジアや中東を伝道する親の元に育ったクリス・アンダーソンの出自を感じたりもしますが、今回のTED Booksも基本的な精神は同じだと思います。

小説よりは短いが、記事よりは長い

実はTED Books自体は今になって始まったものではなく、2011年1月に最初の本が出てから現在まで15冊が刊行されています。Kindle、iBookstore、そしてNookという主要な電子書籍プラットフォームで購入可能で、大体40〜80ページの分量でどれも一律2ドル99セントです。

今回、2011年1月に刊行されたニック・マークスの『The Happiness Manifesto』と最も最近刊行されたパラグ・カンナとアエシャ・カンナの『Hybrid Reality』を、筆者が所有する四代目無印Kindleで購入して読んでみましたが、前者はニック・マークスが語る「地球幸福度指数」を素材としながらも章立てや文体などちゃんとした本に仕上げている印象でした。後者はパラグ・カンナが描く国家の未来とはまったく違った内容で、まだTEDTalksに公開されていないTED講演を元にした本なのかもしれません(その内容について知りたい方は、The Hybrid Reality Instituteを参照ください)。

TED Booksのページには、「Shorter than a novel, but longer than an article(小説よりは短いが、記事よりは長い)」と謳われており、やはりここを狙ってきたかというのが正直な感想です。「マガジン航」でも大原ケイさんが「「帯に短しタスキに長し」のコンテンツに朗報?」という文章を昨年書かれており、最近でもコンテンツ配信プラットフォームcakesをまもなく立ち上げる加藤貞顕さんが、デジタルだからできる「短い本」というコンセプトをインタビューで語っていますが、考えるところは同じということでしょう。

オライリーのような電子出版に慣れた出版社がビッグデータなど時宜を得た分野について数十ページの分量の電子書籍を無料公開したり、GigaOMなど人気ニュースサイト系ブログが電子書籍の分野に進出しているのもこのコンセプトに合致しますが、重要なのはTEDの講演自体「小説よりは短いが、記事よりは長い」電子書籍を作るのに適した素材だということです。大体18分前後の講演の内容から書籍の体裁を整えれば、一時間から一時間半ぐらいで読みきれる本に仕上がるようです。

アプリからサブスクリプション契約も可能

アプリ版の『The Happiness Manifesto』。読みながらYouTubeの動画が再生できる。

もう一つTED Booksで注目すべきは、今月発表されたTED Books用アプリで、Digital Book Worldの記事によるとAtavistのプラットフォームを採用しているようです(詳細は下のYouTubeの映像を参照)。

筆者のiPhoneのApp StoreからTED Booksアプリを無料でダウンロードして動かしてみましたが、アプリ内から一冊ずつ購入できますし(iPhoneに表示された価格は250円)、3ヶ月14ドル99セントのサブスクリプション契約も可能です(iPhoneに表示された価格は1300円)。こちらは2週間毎に1冊新作が届くので、3ヶ月で6冊分の契約になりますが、今だと契約者に全バックカタログへのアクセス権を認める特典がついています。

四代目無印Kindleと違い、iPhoneアプリだと電子書籍の元となった講演動画をはじめ、画像や音声などマルチメディアコンテンツとも連携します。アプリ内の説明によると、Androidアプリも現在開発中とのことです。

ボブ・スタインが本の未来はappの未来と喝破したのが2010年ですが、特に昨年からappification(アプリ化)という言葉を時々見かけるようになりました。例えばニコラス・G・カーも昨年末に2012年はメディアのアプリ化の年と予言しています。もはやソフトウェア産業とメディア産業の区別はなくなり、メディア産業のappificationによる有料課金こそ生き延びる道だというのがその論旨ですが、一方でアプリ化の波に乗った出版社はうまくいってないという話も今年になって報じられています。

電子書籍ビジネスを考える上で、TED Booksが志向する「小説よりは短いが、記事よりは長い」分量の電子書籍、そしてアプリ化(と特にサブスクリプション契約)の試みがどの程度受け入れられ、成功するか興味深いところです。TEDは電子書籍の分野においてもトレンドセッターの役割を果たすのかもしれません。

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第3回 本で埋め尽くされた書斎をどうするか

2012年7月11日
posted by 西牟田靖

本をテーマにしたエッセイや随筆、本棚を紹介する本を漁ってみると、僕が知らないだけで、実は「床抜け」はそんなに珍しいことではなく、起こりうるということを思い知った。それどころか床が抜けなくても、本が大量にあるというだけで十分大変だということも、嫌というほどに理解した。

本との格闘

その中から故・草森紳一のケースを紹介してみたい。著書の『随筆 本が崩れる』(文春新書)には次のようなことが書いてあった。

ドドッと、本の崩れる音がする。首をすくめると、またドドッと崩れる音。一ヶ所が崩れると、あちこち連鎖反応してぶつかり合い、積んである本が四散する。と、またドドッ。耳を塞ぎたくなる。あいつら、俺をあざ笑っているな、と思う。こいつは、また元へ戻すのに骨だぞ、と顔をしかめ、首をふる。

これは草森さんが風呂に入ろうとして本の山が崩れ、浴室に閉じ込められたときの様子である。彼の住む2DKの空間の中でまったく本が置かれていない場所は浴室のみ。寝室はもちろん、風呂場に隣接した脱衣所ですら天井近くまで本が山積みになっていた。

草森紳一『随筆 本が崩れる』

草森さんが自宅に所有する本の数は約3万冊にのぼった。加えて帯広の生家に建てられた書庫に収められた分を含むとその倍、つまり約6万冊も所有していた。

2DKにそれだけの本を詰め込むと生活に支障を来す。手前と奧に二段ずつおいても入りきらなくなり、本棚の前に「床積み」した。すると床が本で埋まってしまうため、家の中ではカニ歩きでしか移動できなくなってしまった。気をつけて歩いていても事故は多発した。袖がぶつかっただけでも本が崩れ、ときには本の山が下部からドドッと地響きを立てて、根こそぎ倒壊することすらあったという。

2005年に『随筆 本が崩れる』を出版してから3年後の2008年、草森さんは逝去している。そのときの様子はちょっと尋常ではない。

「部屋には所せましと本が積み重ねられており、遺体はその合間に横たわっていた。あまりの本の多さに、安否を確認しに訪れた編集者でさえ、初日は姿を見つけることができなかった、という」(読売新聞 – 2008年7月30日)

まさに本好きとしてはあっぱれな死に方である。だが、そんな彼ですら、床が抜けたという話は一行も書いていない。

「本で床は抜けるのか」に記したとおり、1平米あたりの積載荷重は、木造住宅等一般住居の場合180㎏、オフィスは300㎏、図書館は600㎏である。一冊400g、草森宅の広さを50平米とすると1平米240㎏。オフィス並の床強度で本を均等に置いていればなんとか大丈夫という計算になる。

床抜けしなかったのは単に運が良かったからにすぎないんじゃないか。じつのところ結構ぎりぎりだったのかもしれない。

増殖する蔵書と書庫――井上ひさしの場合

結婚当時住んでいた牛込のアパートは、6畳の部屋にちょっとした板敷きがついてるぐらいでしたかね。毎日毎日、本を買ってくるもんですから、半畳の台所にたどりつくのに本を踏みつけて行くような状態でした。とにかく全部本なのよ。

そのアパートには数ヶ月しかいなくて、つぎに辻堂の鵠沼の大きな家に、20畳ぐらいのお部屋二間を借りたわけ。そこでは一方が寝ているときに、もう一人が勉強したりしてました。もう一つは突き出た部分が台所になっている部屋でした。その部屋も全部本だらけになってしまった。

あまりにもたくさん本を置きすぎて部屋が軋んだせいかしら。「雨漏りする」と注意されて、結局そこから赤坂に越しました。次が四ッ谷、それから市川に越して……って何度も越してるんですけど、本が減ることはないわけね。で、最後に直木賞を取った後に大きな家を建てたんです。建坪120坪ぐらいでしたかね。

これは前回(「続・本で床は抜けるのか」)にもご登場いただいた故・井上ひさしの先妻、西舘好子さんの話である。彼女のいう「最後の家」とは、離婚するまで二人が住んでいた市川市北国分の家のことである。すごいのは建坪だけではない。部屋の数は19、トイレが6つ。つけっぱなしの冷暖房により、月々の電気代は軽く60万円を超えた。編集者やファンなど来客が次から次へと押し寄せて、中には1年間住み込んだ編集者もいたという。

前回に記した「建て増し」は、この家に施されたものである。書庫だけでなく、母屋には麻雀室や映写室も作った。しかしこの広い家も数年後には、家族の部屋の枕元まで本で埋もれた。

亭主の仕事部屋と、書庫。そして家族の生活する場所。初めはそれぞれきちっと決まっているわけですが、こういう調子で本を買っていきますから、本は書庫からも仕事部屋からも溢れ、廊下へ這い出し、家人たちの枕許まで窺い、インベーダーみたいに家中を占拠していく。別にもう一棟、書庫を建て増ししても追いつかない。(『表裏井上ひさし協奏曲』より)

こんなことになるのも、夥しい量の本を買い続け、しかも買った本は一切捨てないからだ。

建て増しした書庫は、最初のころは余裕があると思っていたんです。ところがそのうちに、神田の古本屋さんがトラックに本を積んでくるのよ。「こういう系統の本を探そうと思うんですよ」と電話すると、「いらっしゃらなくて結構です。こちらからうかがいます」って、山ほど積んでくる。それこそ店ごと持って来たんじゃないか、という量です。いちいち選んでる時間がないので、「じゃあ全部置いてってください」ということで、本代が何百万円にもなったんです。

セレブの外タレが店ごと服を買ったりする話を聞いたことがあるが、井上ひさしは古本でそれをやっていたのである。なんだかぶっ飛んでいる。

しかしすべてがダイナミックかと思えば、他のことではどちらかというとせせこましく、本のことになると規格外のことをする人だったようだ。

井上さんはすごく狭いところが好きなんです。押し入れの半畳とか、そういうところで書くんです。6つあるトイレの一つは井上さん専用でしたが、その便器の回り全部が書棚でした。すき間さえあれば本箱を作ろうっていうことなんでしょう。大工さんには毎日のように来てもらってました。

あの家にはきれいな階段や長い廊下があって、飾り窓から外が見えたんですが、「窓なんか要らない。本置くようにしろ」っていうので、そこも棚にして、本をおけるようにした。唯一、台所と食堂だけがは本がおけない空間なんですが、そこは居心地が悪いみたいなのね。本がないので(笑)。

献本の量はどうだったのだろうか。ちなみに前回ご登場いただいた松原隆一郎さんは、いちばん多いときで積み重ねると高さ1メートルになるほどの献本が毎月あったという。井上ひさしのところにもそれぐらい、あるいはそれ以上の本が届いていてもおかしくはない。

送られてきた本はとっておかなかったと思いますよ。うちはお客が多いので、読みたい人にあげていました。とにかく、蔵書のうち8割は古本でした。

好子さんは、献本の具体的な数は憶えていないようであった。本が増えるスピードが早かったし、来客もひっきりなしなのである。

ところで、井上ひさしは実際にどのくらいの本を持っていたのか。

好子さんとの離婚話が表沙汰になる1980年代中盤、ひさしは郷里の山形県川西町に本を寄贈している。トラックを何度も往復させて運搬した際、数えてみると約13万冊にのぼったという。さらに亡くなる少し前の『ふかいことをおもしろく〜創作の原点』(2011)に掲載されているインタビューでは、約20万冊まで増えたと語っている。

他人の荷物は嫌だ

井上ひさしは夥しい書籍のコレクションについて、「配偶者は嫌だったろうな」(『本の運命』)と述懐している。好子さんが本当に嫌がったどうかはともかく、この言葉をはじめて目にしたとき、僕はアパートに蔵書を移す直前までに本を置いていた一軒家での出来事を思い出した。

2006年夏、僕は映画監督である友人のMらと東京の中野区で三階建ての4DKを借り、シェアハウスでの暮らしをはじめた。メンバーは4人、男女2人ずつだった。二階のダイニングと風呂・トイレが共有スペースで、一人ずつ個室を持つ。家賃は一人当たり41,000-43,000円、光熱費も頭割りするというルールを作った。

Mとは立ち上げから一緒に暮らし始め、よき話し相手になった。Mは尊敬できる存在であった。ノンフィクションや小説、戦記にサブカル……と彼の旺盛な読書欲はすごいものがあった。僕がそれまでちゃんと読んだことがなかった村上龍の作品群に触れたのも、Mが一揃えほどコレクションとして持っていたからである。

Mはプラモデル作りの腕前がプロ級で、実際プラモ作り代行を副業にしていた。日々の時事ネタや芸能、国際問題、軍事問題などを二階のダイニングでしょっちゅう意見交換した。Mの存在は刺激的であった。僕にとってMはいわば親友でありライバルでもあった。彼が活躍していると、僕も頑張らねばと思った。

だが、Mにはどうしようもない欠点があった。片付けの能力が見事なほどに欠如しているのである。最初は一部屋におさまっていたが、次第に本やプラモがあふれ出した。主にブックオフで買ってくる、ちょっと前のベストセラー小説や新書、兵器のプラモなどが共有スペースである玄関や二階のダイニングを浸食した。シェアメイトが退去し空いている部屋に、すかさずMの荷物が侵入したこともあった。

Mの荷物の増え方があまりにすごいので三階へ移ってもらったが、さらに増殖した。三階にあった僕の書斎とMの部屋は向い合わせで、間の幅1メートルほどの踊り場に共通の本棚を設置するも、すべての棚がすぐに彼の本で埋め尽くされた。加えてその床の半分はMの文庫本や私物で埋まった。

僕は2007年に結婚し、シェアハウスの中で借りていた部屋を書斎専用とし、夜は妻の住む近くのコーポに帰るようになった。その後Mは自室で寝ず、深夜にダイニングを占領するようになった。朝になるとダイニングのフローリングに倒れ込んでいたり、同じフロアの浴室の手前の脱衣室の扉を閉め、日中、閉じこもったり、はたまた、書斎の部屋のドアを開けると、中でMが横になっていることすらあった。

こうした彼の姿に出くわすたびにイラッとしたが、爆発することは少なかった。狭くて寝られない、という事情がうすうすと分かっていたからだ。

Mという人間は僕にとって大切な人間だ。彼としか共有できない話題は多いし、シェアハウス時代は彼との会話がなにより楽しかった。だが、空間の問題と人柄は話が別だ、ということに、アパートに荷物を移してから、気がついた。本来なら空いているはずの空間が、他人に浸食されていく日々をもう二度と味わいたくない。他人の荷物で使える場所が使えないということに耐え続ける日々というのは、慣れはするが、知らず知らずに心理的な疲労が蓄積していくのだ。

故・井上ひさしの述懐を読み、まるで彼がMのかわりに弁解しているように錯覚し、僕は「そうだよそうだよ」と膝を打ったのだった。

蔵書と病気――内澤旬子さんのケース

本がたまりすぎると生活スペースを圧迫し、精神衛生上よろしくない。床が抜けたりしたら、住居を追い出された挙げ句に貯金をすべてはたいて弁済させられかねない。そうならないために、床をコンパネで補強するという応急策を前回紹介した。だが、いちばん良いのは本をなくしてしまうことである。

『センセイの書斎〜イラストルポ「本」のある仕事場』(河出文庫)

ノンフィクション作家の内澤旬子さんは、かつては本のすき間にかろうじて暮らしているような状態だったという。しかし今では、蔵書をどんどん売り払っている。なぜそこまで心変わりしたのだろうか。

内澤旬子さんといえば妹尾河童ばりの緻密なイラストを描く、文章も書けるフットワークの軽いライター、というイメージを持っていた。この連載を始めるにあたって、知り合いの編集者に「床抜け」の話題をふったところ、彼女のことが話題に出た。「一度事務所にしているマンションに伺ったことがありますが、足の踏み場がないほどびっしりと部屋が本で埋まっていました。旦那さんの本と彼女の本、どちらもかなり多いそうです」

ところが、「マガジン航」の編集者によれば、いまは本を断捨離しまくっているという。折しもまもなく「内澤旬子のイラストと蒐集本展」という展示会が開催されようとしていた。自らのコレクションを展示し、即売するという。

スタジオイワトで開催された「内澤旬子のイラストと蒐集本展」のポスター。

彼女のようなケースは寡聞にして聞いたことがなかった、なぜ内澤さんは断捨離することにしたのだろうか。会って、理由を確かめたくなり、6月6日に展示会場に顔を出した。夥しいイラストの中には初期の作品であるエロ小説雑誌の挿絵や、癌闘病記『身体のいいなり』の表紙となったイラストや、出世作である『世界屠畜紀行』の一連のイラスト群、そして自ら手製本したハードカバーもあった。単著にはすべて目を通していたが、イラストに関しては初期からごく最近のものまでだいたいすべてそろっているようであった。

即売されている彼女の蒐集本は、装丁や文字フォントの参考になりそうな江戸時代の豆本から、PCの大型ディスプレイ2画面分はゆうにある巨大な中国の本、牛の血を固めた樹脂が表紙となっているヨーロッパの聖書……と、印刷や装丁に関する博物館の展示をまるで見ているようだ。ここに出すからにはすべて売り切るつもりなのだろうか。果たして売れるのだろうか。

午後9時すぎ。会場でのトークショーを終えた内澤さんに話しかけた。僕が行くということは当サイトの編集者を介してあらかじめ連絡してあった。

「初めまして。ライターの西牟田です。拙著を持ってきたんですが、よかったら受け取ってもらえませんか」と挨拶し、『僕の見た「大日本帝国」』の文庫版を差し出した。すると、彼女はまったく予想外のことを言った。

「読んだら売りますけど構いませんか?」

なんて明け透けな人なんだろう。この人であれば本当に断捨離をしていそうだ。手応えは十分である。

後日あらためてインタビューの機会をいただく約束をし、その日は展覧会をあとにした。そして約束当日である6月12日に僕は再び会場を訪れた。

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明日から国際電子出版EXPO

2012年7月3日
posted by 「マガジン航」編集部

明日から国際電子出版EXPOが東京ビックサイトで開催されます(7月4日〜6日。併催の東京国際ブックフェアは7月5日から8日なのでご注意を)。これに先立ち、楽天がKoboの電子ペーパー端末「KoboTouch」の発売と電子書籍サービス開始を発表、またアマゾンもキンドルの近日発売をアナウンスするなど、海外の電子書籍プラットフォームがあいついでサービスを始めることで、ようやく日本でも本格的に電子書籍ビジネスが立上りそうです(Koboについては、大原ケイさんによる「楽天、kobo買収の本当の意味」が読まれています)。

楽天はウェブサイト上でKoboTouchの予約を受付開始。

アマゾンもKindleの近日発売を正式にアナウンス。

2011年の電子書籍市場は前年比ダウン

ここ数年来、「電子書籍元年」との報道が相次ぎましたが、インプレスが本日発表した「電子書籍ビジネス調査報告書2012」によれば、2011年の電子書籍市場は前年比マイナス3.2%の約629億円でした。

なかでもこれまで日本の電子書籍市場を牽引してきたケータイ向けの電子書籍は、前年比マイナス16%と大幅ダウン。他方、期待された新しいプラットフォーム向けの電子書籍は、2010年の24億円から112億円まで伸びたものの、ケータイ向けのマイナス分を埋め合わせるほどではありませんでした。

KoboやKindleといった、すでに海外で一定の経験を積んだ電子書籍プラットフォームが日本国内でもサービスを開始することで、同報告書が予測するとおり、これから電子書籍市場は爆発的に伸びるのか。それともさまざまな問題が残されていて、一気に普及が加速することはないのか。これについてはまったく予断を許しませんが、こうした業界地図の激変のなかで、今年の国際電子出版EXPOは行われます。

EPUB3とHTML5が本格普及?

もう一つの話題は、Koboも採用しているEPUB3の動向です。先日の「国際電子出版EXPOでアジア初のEPUB3会議」でもお伝えしたとおり、国際電子出版フォーラム(IDPF)事務局長ビル・マッコイ氏をはじめとする関係者が来日し、日本側のパネラーとのシンポジウムが予定されています(EPUB3の意義については、先日公開したボイジャー代表・萩野正昭による記事、「電子出版はみんなのものだ、そう誰かが叫ぶべき」も参照)。

今年もボイジャーは HTML5対応のブラウザ上で稼働しEPUB3の閲読も可能な読書システム「BinB」を推進するため、国際電子出版EXPOに参加します。毎年恒例の公開トークイベントも下記のとおり行われ、「マガジン航」の編集人も5日に登壇します。皆様ふるってご参加ください。

今年も恒例のトークセッション行われます。

2012年7月4日(水)〜6日(金)
会場:東京ビッグサイト 西3・4ホール
ボイジャーブース(小間番号21-2)
ステージ:ヤフー株式会社ブース内(小間番号21-1)*ボイジャーの向かい
(招待券をお持ちの方は無料。お持ちでない方は入場料1,200円が必要)

DAY1―7月4日(水)

  • 12:00-12:30
    30分でわかる eBookデザイン講座

    松本弦人(BCCKS チーフクリエイティブオフィサー)
    × 鎌田純子(ボイジャー 取締役/企画室長)
  • 13:00-13:45
    「 i 」で変わる読書スタイル

    大谷和利(テクノロジージャーナリスト)
  • 16:00-16:45
    アプリ不要の書店を「BinB(ビー イン ビー)」で!

    清水勝(ボイジャー デジタル出版部部長)

DAY2―7月5日(木)

  • 12:00-12:30
    30分でわかる eBookデザイン講座

    鎌田 純子(ボイジャー取締役/企画室長)
  • 13:00-13:45
    EPUB3/Readium 日本語対応最新レポート

    ビル・マッコイ(IDPF事務局長)
    × マーカス・ギリング(IDPF/DAISYコンソーシアムCTO)
  • 14:00-14:45
    EPUBにしたら世界が変わった

    津田大介(ジャーナリスト)
    × 萩野正昭(ボイジャー 代表取締役)
  • 16:00-16:45
    マガジン航対談 電子で始めるリトルプレス

    仲俣暁生(マガジン航 編集人)×
    秦隆司(ブックジャム・ブックス 主幹)

DAY3―7月6日(金)

  • 11:00-11:30
    同人誌に学ぶ 愛と戦略の電子本マーケティング
    金田明洋(COMIC ZIN 同人統括責任者)
    × ミハラテツヤ(辺境屋/『電子書籍少女』編者)
  • 13:00-13:45
    本は誰のものか―青空文庫と著作権
    富田倫生(青空文庫 呼びかけ人)
  • 14:00-14:45(Yahoo! JAPAN/ボイジャー 共同ステージ)
    Webブラウザへ進路をとれ!(仮)
    髙田正行(Yahoo! JAPAN ターゲティングメディアユニット長)
    × 萩野正昭(ボイジャー 代表取締役)
  • 16:00-16:45(Yahoo! JAPAN/ボイジャー 共同ステージ)
    新装「Yahoo! ブックストア」舞台裏を大公開!(仮)
    芝野克時(ヤフー株式会社 Yahoo!ブックストア プロダクト企画担当)
    × 吉原数規(ヤフー株式会社 Yahoo!ブックストア ビジネス企画担当)
    × 林純一(ボイジャー 開発部部長)
    × 清水勝(ボイジャー デジタル出版部部長)

 

国際電子出版EXPOでアジア初のEPUB3会議

2012年6月27日
posted by 仲俣暁生

まもなく今年も東京国際ブックフェアおよび併催の国際電子出版EXPOが開催されます。楽天がKoboの電子書籍端末を7月末に発売開始することを発表し、アマゾンも日本でのKindleの近日発売を正式にアナウンスするなど、電子書籍をめぐる動きはあわただしくなっていますが、今後の最大の技術的なトレンドはEPUB3と呼ばれる国際的な電子書籍フォーマットの普及です。

今年の国際電子出版EXPOでは、このEPUB3の策定にかかわる国際電子出版フォーラム(International Digital Publishing Forum=IDPF)の事務局長であるビル・マッコイ氏、EPUB3普及のための「Readium計画」のプロダクト・マネージャであるマーカス・ギリング氏、“EPUB Straight to the Point”の著者エリザベス・カストロ氏を海外から迎え、日本側のスピーカーをまじえたカンファレンスが7月4日(水)の午後に行われます(有料・定員500名。詳細はこちら)。

また4日の午前には野間省伸氏(講談社代表取締役社長)、三木谷浩史氏(楽天代表取締役会長兼社長)×小城武彦氏(丸善CHIホールディングス代表取締役社長)、ビル・マッコイ(IDPF事務局長)が登壇する「人々が求める書籍/出版に私たちはどう応えていくのか」という無料のシンポジウムも開催。さらに翌5日(木)には「EPUB3/DAISYはバリアフリー読書を支援する」と題して、マーカス・ギリング氏と河村宏氏(DAISYコンソーシアム理事)による無料セミナーも開催されます。

※ビル・マッコイ、マーカス・ギリングの両氏は7月5日の午後にボイジャーのブースで行われるスピーキング・セッションにも登壇します(他の日のスピーカーなど詳しい情報はこちらを参照)。

* * *

この会議に先立ち、IDPFの理事もつとめるボイジャーの萩野正昭による、EPUB3の意義とReadium計画の概要をまとめた記事「電子出版はみんなのものだ、そう誰かが叫ぶべき」を公開します。このなかではアマゾンやグーグル、アップルといった先行する海外勢に対抗しうる「一縷の希望」として、オープンな電子書籍フォーマットとしてのEPUB3の可能性が語られています。上記のカンファレンスやセミナーにご参加いただく前に、ぜひお読みください。

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