公正取引委員会から見た電子書籍市場の動向

2013年12月6日
posted by 鷹野 凌

公正取引委員会競争政策研究センター(CPRC)は11月15日、「電子書籍市場の動向について」の公開セミナーを行いました。内容は、「電子書籍市場の現状」などに関する共同研究報告書の紹介と、経済学的な論点提起、米国及び欧州におけるアップルの独占禁止法(カルテル)事例、プラットフォーム事業についての経済学的検証などです。現時点における電子書籍市場の状況を正しく把握するとともに、今後を考える上でも有意義なセミナーでしたのでレポートさせて頂きます。なお、講演資料は公正取引委員会のウェブサイトで公開されています。

「電子書籍市場の動向について」の事業者アンケート結果

セミナーはまず、東京大学大学院経済学研究科教授でCPRC主任研究官の大橋弘氏から、共同研究報告書「電子書籍市場の動向について」の事業者アンケート結果が説明されました。アンケートは、出版社30社、電子取次5社、電子書店4社に対し、昨年11月から今年の2月にかけて行われたものです。

出版社に対する「平成23年度における紙と電子の売上比率」という質問では、電子が1%未満という回答が13社と最も多かったのですが、10%超も2社あるという興味深い結果が出ていました。Kindleストアが日本へ上陸する前の、「新たなプラットフォーム向け電子書籍市場」がまだ112億円(インプレスR&D)と推計されていたころの話ですから、680億円と予測(インプレスR&D)されている本年度では、もっと電子の比率が高くなっているものと思われます。

その「電子書籍」に対し、大半の出版社・電子取次・電子書店は「紙の書籍とほとんど同様で、置き換え可能なもの」という位置付けであると認識しているようです。

また、「紙の書籍の販売価格に対し、電子書籍の希望小売価格はどのくらいが妥当か?」という質問には、「八掛け(20%オフ)」という回答が多数でした。電子化に新たな作業が必要であったり、印税率が紙より高いなど、印刷・製本という物理コストを除いたとしても、制作費が紙とそれほど変わらないということに起因するようです。

出版社の「著作権者から電子化の許諾を得る際の懸念」は、著作者の所在などが分からなくなっていることや、著作者の紙へのこだわり、著作者が直接電子書店との取引を検討していることなどに回答が多く集まりました。

経済学から見た「電子書籍」の特徴と論点提起

次に大橋氏は「私見ですが」と前置きした上で、経済学から見た「電子書籍」の特徴について説明をしました。以下のような、三つの特徴があるそうです。

1. インターネットの役割

「電子書籍」を読むには、「端末」と「コンテンツ」が必要である。さらに、端末とコンテンツを繋ぐインターネット上の「プラットフォーム(仲介者)」が存在する。例えば、ゲーム機とゲームソフト、ビデオデッキとビデオテープと同じように、「電子書籍」が普及するためには端末の普及と豊富なコンテンツ提供の両方が必要となる。ここには相乗効果がある。

2. ネットワーク効果

インターネット上で取引されるコンテンツは、輸送コストが低く、在庫リスクもないことから、「ネットワーク効果(利用者が増えるほど利便性が高まる)」が強く働く。その結果、市場占有率が0か100かに偏る傾向が現れるため、黎明期には過度な競争を生み、成熟期には独占企業による市場支配力(ロックイン)を高める可能性がある一方、プラットフォームの栄枯盛衰が激しいという特徴もある。

3. コンテンツ生産とその特性

「電子書籍」は、紙の本と合わせて出版されているケースが多い。したがって、「電子書籍」の販売が紙の本の販売へ与える影響を考えざるを得ない。その影響が代替的(トータルの販売額は変わらない)なのか、補完的(トータルの販売額は増える)なのか。現状では、代替的だと考えている出版社が多い。また、コンテンツを生産する著作者と、出荷可能な形にする出版社との、権利関係も複雑である。そして、例えば著作者が直接市場へ流通させられるといった、紙の本とは異なる流通構造を持っている。

東京大学大学院経済学研究科教授・CPRC主任研究官 大橋弘氏

これらの特徴を踏まえた上で、大橋氏は以下の三つの論点を提起しました。

1.ホールセールモデルかエージェンシーモデルか

ホールセール(卸売)モデルとエージェンシー(委託販売)モデルの違いは、価格決定権がストアにあるか出版社にあるか。ストアが端末を販売している場合、それが専用端末なのか汎用端末なのかで効果が異なるため、どちらのモデルが良いかは一概に言えない。

また、ネットワーク効果の視点からは、黎明期には普及を促すために端末やコンテンツを安売りして市場拡大を図る場合がある。また、コンテンツ生産の視点からは、紙との代替程度や、コンテンツ提供や販促に伴う交渉力の違いも加味する必要がある。

2.最恵国待遇(MFN)・最恵顧客待遇条項(MFC)

家電量販店によく見られる「当店より安い店があったら、その価格にマッチングします」という条件は、競争を促進する効果があるように見える。ところがこれは、顧客を使って価格変動のモニタリングをしていることになるわけで、むしろカルテルを強固なものにする可能性もある。

3.大規模化に伴う競争上の論点

ネットワーク効果が強く働くことで、プラットフォームが大規模化し市場を独占する可能性がある。それは、小売の交渉力増大や、契約の規格化を招くので、競争上の問題になり得る。また、インターネットは効率的な販売を可能にするとともに、価格比較を機械的に行うことで常に最低価格をオファーできるようになった。その他にも、これまで多くのプレイヤーに分断されてきた電子書籍関連サービスが、小売の大規模化によってワンストップ化する可能性もある。

大橋氏によれば、今後、電子書籍市場が黎明期を脱するにつれて、競争上の問題はますます重要になってくるため、さまざまなビジネスモデルが競争に与える影響を、いろいろな観点から継続的に評価していくことが必要とのことでした。

電子書籍市場と独占禁止法

続いて、京都女子大学法学部教授で元CPRC客員研究員の泉克幸氏から、米国と欧州におけるアップルと出版社の共謀事例と、日本への示唆についての説明がありました。

京都女子大学法学部教授・元CPRC客員研究員 泉克幸氏

アップル及び出版社5社に対する米司法省の民事訴訟

アメリカ司法省の訴状によると、出版社大手5社(アシェット、ハーパーコリンズ、マクミラン、ペンギン、サイモン&シュスター)は、アマゾンによる9.99ドルという電子書籍の低価格販売によって、ハードカバーの売上浸食や価格破壊、小売業者への卸価格低減化、小売業者の出版業参入を恐れていたそうです。アップルは当時、iPadの発売を控えており、9.99ドルという低価格販売とそれに伴う低いマージンでの競争を望んでいませんでした。

そこでアップルと出版社は、2008年9月頃から話し合いを重ね、契約形態をこれまでのホールセールモデルからエージェンシーモデルへ変更し、価格決定権を出版社側に移すことで、小売価格の引き上げと販売競争の制限を図りました。

このエージェンシーモデル契約では、出版社はアップルに1冊30%の販売手数料を保証しています。また、MFC(最恵顧客待遇条項)の保証と、価格帯(Pricing Tier)の設定をすることで、電子書籍の平均小売価格は約10%上昇しました。

この共謀がシャーマン法(カルテル禁止法)第1条違反に該当するとして、2012年4月、司法省は民事訴訟を連邦地裁に提起します。小売価格競争と小売イノベーション競争を阻害するものだというのです。しかし、反トラスト手続・制裁法(司法省が和解を承認する)に基づく同意判決で、被告出版社とはすべて和解が成立し、アップルだけが今なお係争中という状況です。

同意判決の内容は、電子書籍販売に関するアップルとの契約終了、小売価格設定制限とMFC契約の終了、2年間の値引き制限禁止、MFC条項を含む販売契約締結禁止、カルテル禁止、競争上センシティブな情報伝達(事業計画、過去・現在・将来の卸売・小売価格、小売業者との契約条件など)の禁止、反トラスト・コンプライアンス責任者の指名とコンプライアンス検査で、裁判所が延長を認めない限り判決は登録日から5年後に失効するという時限制限になっています。

EUのアップルおよび大手出版社に対する欧州委員会の確約決定

EUでの事例も、被告出版社はアメリカの場合と実質的に同じです。こちらの場合は、「欧州委員会が表明した競争上の懸念を解消します」というコミットメント(確約)をすれば、競争法違反の有無を認定されることはないそうです。確約の内容は、アップルとの代理店契約終了、アップル以外の小売店との小売価格設定制限やMFC条項を含む契約の終了、2年間の値引き制限禁止、MFC条項を含む契約を5年間禁止と、アメリカでの事例とよく似ています。

欧米の事例が日本に示唆するもの

どちらも、小売店の力が強くなったことに危機感を覚えた出版社がカルテルを行ったというもので、日本でも同じようなことが起こり得ます。出版社間だけではなく、出版社と電子書店との共同行為にも注視すべきと泉氏は指摘します。なお、日本の独占禁止法は競争関係にあるものの間で成立するもので、はたして「垂直」的な関係の場合は不当行為にあたるのか? という議論もあるそうです。

アメリカの同意判決やEUの確約決定は、正式な判決や排除命令に比べ透明性や公正性・厳格さの点では劣るものの、実効性のある問題解決や柔軟な問題解消処置の構築が可能となるというメリットがあるそうで、日本で今後、MFC条項を含む契約が結ばれた場合に、それが競争に与える影響を正しく見極める必要があるとのことです。

なお、アメリカ司法省は、紙の書籍市場と電子書籍市場とでは、さまざまな要素が異なるものだと認定しています。日本の出版社・電子取次・電子書店の多くが「紙の書籍とほとんど同様で、置き換え可能なもの」と位置付けているというアンケート結果がありましたが、アメリカの当局は「電子は紙を代替する」のではなく「電子は紙を補完する」ものとして捉えているのです。これは、紙と電子の本を同時発売した方が売上が伸びるといったデータからも明らかなことでしょう。日本の出版社・電子取次・電子書店は、意識を変えていく必要があるように思います。

プラットフォームビジネスとしての電子書籍

次に、株式会社富士通総研経済研究所上席主任研究員の浜屋敏氏から、プラットフォームビジネスとしての電子書籍についての解説が行われました。

株式会社富士通総研経済研究所上席主任研究員 浜屋敏氏

価値創造プロセスの違い

従来の物流における「バリューチェーン」や「バリューシステム」の場合、最終ユーザーへのアクセスは、最下流のプレイヤー(小売業者)に依存しています。そこでの情報の流れや価値創造の流れは、基本的に一方向となります。

ところが電子商取引の場合、プラットフォームが「エコシステム」を形成します。また、初音ミク現象に代表されるn次創作や、ケータイ小説のようにユーザーが価値創造活動に加わることができます。さらには、どのように本を読んでいるといったPoint of Use(利用状況)のデータを含めた、すべての情報がプラットフォームに蓄積されます。つまり、プラットフォームが双方的な「価値共創」の場になる、と浜屋氏はいいます。

浜屋氏も、「電子書籍は紙の本の代替と考えるより、新しい商品と考えた方がいい」と提言していました。しかし同時に、紙の本を扱っている事業者には、そのようには考えづらいであろうと理解を示していました。

プラットフォーム独自の戦略テーマ

プラットフォームビジネスでは、こうしたエコシステムのマネジメントが重要なポイントになってきます。プラットフォーム事業者が、補完製品の参加やイノベーションを促すと、エコシステムの機能や規模・価値が向上します。すると、プラットフォームを利用するユーザーが増えます。補完プレイヤーがさらに多様な製品を投入したり、より多くの補完プレイヤーがエコシステムへ積極的に参加するようになります。

例えば、販売手数料を無料にしてコンテンツを増やそうとする事業者もありますが、コンテンツの品質をプラットフォーマーがどう管理するか?というところが課題になってくると浜屋氏は指摘します。無料にすれば参入障壁が下がる分プレイヤーは増えるものの、品質の低下も免れないということでしょう。

エコシステムの構造の違い

アップル、グーグル、アマゾンといったプラットフォーマーに共通しているのは「垂直統合システム」だという点です。垂直統合であれば、一部の事業が赤字でも他で補うことができます(例えばコンテンツ販売が赤字でも端末販売で補える、など)。かつて、マイクロソフトがOSにウェブブラウザをバンドルしたことが独占禁止法上問題だとされたことがあります。いずれこれらの垂直統合的なプラットフォームでも同じような問題が出てくるかもしれない、と浜屋氏は指摘します。

のちに大橋氏から、水平分離と垂直統合に関する補足として、技術革新が次々起き、それらに強い関心をもつ初期ユーザー(アーリー・アダプター)のみが利用している段階では水平分離の方が望ましいが、技術にあまり詳しくない大多数の人(レイト・マジョリティ)が利用する普及期には、むしろ垂直統合の方がいいのかもしれない、という意見が述べられました。ただし、それが電子書籍においても望まれる方向性なのか、正しいことなのかどうかは、大橋氏にも分からないそうです。

ひとり勝ち(Winner Take All)のメカニズム

浜屋氏によると、電子書籍ビジネスは、寡占状態になりやすいメカニズムになっているそうです。その例として、マルチホーミング(二つ以上のプラットフォームを利用)のコストとメリットが挙げられました。例えば一人のユーザーが複数の電子書店を利用すると、フォーマットの違いというコストが生まれます。それに対し、第三者がマルチホーミングコストを下げる、新たなサービスを提供する可能性もあるというわけです。

プラットフォームビジネスは「ひとり勝ち(Winner Take All)」になりやすい反面、簡単にひっくり返ってしまうといいます。フィーチャーフォンからスマートフォンへの移行のときと同じように、スマートフォンの優位があっという間にひっくり返ってしまう可能性だってあるのでしょう。質疑応答で公正取引委員会委員長の杉本和行氏が「競争環境を確保するには、当局は何をすればいいでしょうか?」という質問をした際も、浜屋氏は「規制をするよりイノベーションを促進するほうが重要」という見解でした。

たとえ競争環境を確保するためとはいえ、当局の介入は影響力が大き過ぎます。仮に日本の電子書籍市場がいずれかのプラットフォーマーによる寡占状態になったとしても、ユーザーにとって不利益(例えば値上げをするとか)がなければ、そのままの状態でも構わない、という考え方もできそうです。絶対安泰な企業というのはあり得ないわけで、独占・寡占状態にあぐらをかいた瞬間に、足元をすくう他のプレイヤーが登場するということなのでしょう。

いずれにしても、日本の電子書籍市場はまだこれからという段階です。多くのプラットフォームが参入し、群雄割拠の状態になっています。恐らく今後、競争に敗れて舞台から去っていくプレイヤーが続出し、寡占化が進んでいくことでしょう。競争に勝ち残っていくためには、「出版社の都合」や「電子書店の都合」ではなく、「ユーザーの利益」を最優先することが肝要だと私は考えます。そして、恐らく最も大きなカギを握るのは、現時点ではほとんどのプラットフォーマーが採用している「DRM(デジタル著作権管理)」の有無ではないかと想像しています。

■関連記事
「電子書籍元年」の先に進むための原則
ウェブの力を借りて「本」はもっと面白くなる
大手出版5社はEブック談合してたのか?
カニバリズムは神話だった

Library of the Year 2013が投げかけるヒント

2013年11月25日
posted by 氏原茂将

2013年10月29日、伊那市立伊那図書館がLibrary of the Year 2013に選出された。

「伊那谷の屋根のない博物館の屋根のある広場」というテーマを立て、歴史や自然はもちろん、社会教育の蓄積豊かな伊那地区と本の街として名高い高遠地区に存在する地域知の創造と発信に、住民とともに取り組む活動が評価された。

審査員としてその選出にくわわった当事者として、Library of the Yearの意味と今年の評価をふり返ることにしよう。

今年のLibrary of the Yearは伊那市立伊那図書館に決定した。

図書館だけでなく、「図書館的」な活動が対象

Library of the Yearは、図書館的な活動をしている機関や団体、活動のなかから、今後の公共図書館のあり方を示唆する先進的な取り組みを表彰するものだ。NPO知的資源イニシアティブ(IRI)によって「良い図書館を良いと言う」をキャッチフレーズに2006年からはじめられ、毎年10月にパシフィコ横浜での図書館総合展で公開選考会のかたちで開催されてきた。

今年も図書館総合展の会場で行われた、Library of the Yearの公開選考会。

「図書館的」という対象のとり方がユニークで、最近では、小布施町立図書館まちとしょテラソ大阪市立図書館といった公立図書館にくわえ、2010年には全国の図書館を横断して蔵書検索ができるウェブサービス「カーリル」が、2012年には知的書評合戦「ビブリオバトル」がLibrary of the Yearを受賞している。

事実、カーリルは図書館に関わる活動ではあるが、図書「館」ではない。さらにビブリオバトルは図書館に適したイベントではあるものの、そもそもは情報工学の専門家である谷口忠大氏らによってはじめられ、大学を中心に草の根で普及していった読書会だ。Library of the Year受賞の影響からか、いまでこそ図書館で取り組まれてはいるが、当時、図書館の現場における注目の度合いはいかほどだったであろうか。

図書館ではなく、「図書館的」というゆるい枠組みで選考を行うからこその選出だが、ひとつには、主催するのが業界団体でもなく専門職組合でもない、図書館関係者たちからなるアソシエーションであることに起因しているだろう。

もうひとつには、Library of the Yearの特徴的な選考方法も、その一助になっているといえる。

Library of the Yearでは、まず一次選考候補をひろく公募する。自薦もあれば他薦もある。事実、ぼくがディレクターを務める川口市メディアセブンも2011年には一次選考を通過していたそうだが、当時はまったく知らず、今回審査員を引き受けるにあたってはじめて知ったぐらいだ。

そこから絞り込まれた4〜5つの候補は優秀賞となり、図書館総合展での公開選考会に臨むこととなるのだが、ここで活動をプレゼンテーションするのも、関係者ではない。各々が自らの推す候補を7分ほどで紹介し、それを審査員と会場で審査する。

まな板の鯉とはまさにこのことで、活動主体の自己評価が入り込む隙間がなく、団体票も機能しない設計となっているのは好ましい。

今後の公共図書館のあり方

さて、今年のLibrary of the Yearで最終選考にノミネートされたのは、伊那市立伊那図書館のほか、千代田区立日比谷図書文化館、長崎市立図書館、そしてまち塾@まちライブラリーだった。

図書館総合展での「まちライブラリー」の展示風景。

まち塾@まちライブラリーは、今年唯一の「図書館的」なる候補だ。六本木アカデミーヒルズの総合事務局長だった礒井純充氏による取り組みで、開設当初は蔵書を持たず、そこに集まる人たちが本を持ち寄りながら蔵書を増やしてく仕組みのことをいう。そこで本と本をつなげ、本と人、人と人をつなげようというポトラック式図書館ともいえそうな試みで、だれでもはじめることのできるパッケージになっている。

博物館並みの展示やレクチャーを積極的に実施する日比谷図書文化館も、市内での高い発症率を受け、医療機関とも連携して癌関連情報を提供する長崎市立図書館も、いずれも突出した取り組みだった。ただ、IRIが審査基準として示す「今後の公共図書館のあり方」という観点から考えたとき、ぼくの審査においては、まち塾@まちライブラリーと伊那図書館の二択となった。

図書館は本の収集・保存・公開を担う施設であり、だれかの知りたいという思いに応える機関だ。そう考えると、日比谷図書文化館の取り組みは知るためのメディアが本以外のものに拡張されたサービスであり、長崎市立図書館は人の生死にかかわるデリケートな情報を扱っているとはいえレファレンスといえる。

それに対してまち塾@まちライブラリーと伊那図書館は、「今後の図書館のあり方」の方に一歩足を踏み出しているように思えた。それは、ひとつにはユルゲン・ハーバーマスが描き出した歴史の末に日本で生じている「公共性の構造転換」の予兆であり、もうひとつには知識の多様性に対するアプローチが感じられたからだった。

まち塾@まちライブラリーは、自治体が設置するのではなく、関心をともにするコミュニティが自らの手でつくりあげた図書館だ。公共空間の担い手は自治体にかぎられなくなりつつある現在にあって、これからの公共図書館のつくられ方を予見させる事例だといえるだろう。

伊那図書館による伊那谷/高遠地域のデジタル地図アプリ「高遠ぶらり」。

一方の伊那図書館は、本には書き留められない地域に潜む知識や情報を住民とともに掘り起し、発信している(たとえばiPad/iPhone用デジタル地図アプリ「高遠ぶらり」)。これまでも図書館は、地域について書かれた本やパンフレットなどを地域資料として収集してきたが、その多くは発行されたものにかぎられていた。それに対して伊那図書館では、職員と住民が協働して新しい知識をつくり出している点であたらしく、本に限定されない多様な知識へのアプローチは望まれるべき図書館の機能ではないだろうか。

くわえて伊那図書館の取り組みは、図書館が地域の方へ足を踏み出し、地域をつくっているともいえる。まちライブラリーとは逆さ向きのアプローチだが、審査員の高野明彦氏が指摘されていたように、この双方のアプローチが重なるところに新しい図書館が立ち上がるように思われた。

だから、フタを空けてみれば審査員票のほとんどを伊那図書館が獲得したけれども、じっさいは票差以上に競っていただろう。公開プレゼンテーションでの選挙方式はエンターテイメント性があって楽しいものだが、今回のような微妙な評価が表れることがなく、この点は改善の余地がある。

真似たらいいことを知らしめる

ところで、審査員評のなかで秋田県立図書館の山崎博樹氏が「真似ることができるものであること」を自らの審査基準として話された。

「図書館にはライバルがいない。だから、よい取り組みはどんどん真似した方がいい。」(山崎氏)

Library of the Yearの意味はここにあるのではないだろうか。賞を獲った取り組みやノミネートされた事例をただ賞揚するのではないし、箔をつけるものでもない。「良い図書館を良いと言う」ことで先進的な取り組みを知らしめ、図書館にかかわる人たちが真似るためのきっかけを提供することに意義があるのかもしれない。

あたらしい取り組みが周知され、それを参照した取り組みが生まれるうちに一般化され、次なる取り組みが模索される―—知識もまた、そのような共有と参照をくり返しながら育まれてきた。その器である図書館も、知識の収集、保存、公開のノウハウを共有し、資源として再活用し、再生産していくことが望ましい。

くわえて、やはりこれからの図書館には知識の生産と発信が期待される。知識を生み出すのは専門家や研究者にかぎられたことではなく、民俗学や文化人類学をふり返れば分かるように、だれもが暮らしや仕事のなかで知を蓄積している。それらはスケールが出ないために商業出版ではあつかいにくいけれども、図書館なら公にできるのではないだろうか。むしろ、本に限定されない知識の全体性をとらえようとするところにこそ、これからの図書館の公共性があるといえるかもしれない。

この観点でいうと、今回のLibrary of the Year 2013に伊那図書館が選出された意味は大きい。伊那図書館を真似る図書館がいくつも登場し、いつの間にか地域知を発掘し、発信することが当たり前になるかもしれないのだから。

■関連記事
図書館の知を共有するために
『はだしのゲン』閉架問題が問いかけること
まちとしょテラソで未来の図書館を考えてみた

第9回 電子化された書棚を訪ねて

2013年11月18日
posted by 西牟田靖

連載の折り返し地点をすぎ、「これから後半ですよ」ということを前回の話で宣言したわけだが、それから一度も更新しないままなんと半年もの時間が流れてしまった。読者の中には首を長くして、更新を待っていた方もいるのかもしれない。遅くなってしまい、本当にすいませんでした。

ノンフィクション作家にとっての本

この連載以外の取材に取り組んでいたことも、更新が滞った一因である。では、いったい何をしていたのか。いまも続いている本の増殖と絡めて、個々の仕事のことについて言及してみたい。

僕が追いかけているテーマのひとつに日本の国境問題がある。本を何冊か出したので、そろそろ次のテーマへ完全移行したいのだが、そうもいかない。尖閣諸島では付近の海に中国の公船が常駐するようになったし、竹島も韓国の閣僚が毎年夏に上陸するようになったりと、国境問題はここ数年で膠着し、日常化してしまったためだ。加えて昨年の尖閣国有化を巡る裏の駆け引きについても、知りたいと思うようになった。そんなわけで、このテーマからますます目が離せず、資料を処分するどころか、さらに本を集めたりして、ウォッチし続けることになった。

加えて最近、本格的に始めたのが、ある未解決事件の取材である。実は僕には未解決事件の被害者となっている友人がいて、その彼女が失踪してから今年の11月24日でちょうど15年がたつのだ。

http://www.tsujidenoriko.jp/top.html

2010年に刑法・刑事訴訟法が改正され殺人事件における時効が撤廃された。そうした事情もあって事件発生から15年がたとうとしている今はもちろん、そのあとも警察による捜査が続くことになった。

事件がなぜ起こったのか、そしてなぜ迷宮入りしてしまったのか、そしてどうやったら事件の風化を防げるのか――。事件の真相に本格的に取り込もうと心に決め、春以降徐々にではあるが資料を集めたり取材をしたりといったことを始めたのだ。

国境に関してはベースとなる本が揃っているので資料がドバッと増えるわけではないが、友人が失踪した未解決事件に関しては違う。雑誌の記事のコピーが少し手元にあるだけだったので、ほぼ一から集めることにした。

法医学のプロファイリング、殺人事件の捜査の方法、警察の捜査本部の作られ方、似たような手口が考えられる事件(大久保清事件)のノンフィクション、未解決事件のあらましを集めたムック、事件が起きたときの集落の人間関係がどうなるか知りたくて買った「名張毒ぶどう酒事件」についてのノンフィクション。こうした図書資料は電子書籍などで手に入れば場所をとらなくて良いのだが、電子化されているものは少なく、紙で手に入れるしかないものが大半だ。

購入して集めた図書資料に加え、現地取材中に手に入れた資料や過去の雑誌記事などをまとめると厚さ10センチ弱のファイルになった。他には、警察など公的な機関のホームページや掲示板の書き込みといったオリジナルが電子データの資料もあるが、一度はプリントアウトして、テーマごとに封筒に入れたりするので、やはり紙のデータが増えてしまう。

とどのつまり、電子化されていようがいまいが、結局のところ、新しいジャンルに取り組むごとにどっと手持ちの資料が増えてしまうということなのだ。

書籍、紙の資料、プリントアウトした電子データ。これらはすべて紙のデータである。これらをテーマごとに段ボールに分類するわけだ。段ボールの存在感が「僕に早く書け」と静かに脅迫する。心理的な圧迫感が、僕に「今、このテーマに取り組んでるんだ!」という実感をみなぎらせ、創作意欲をかきたてる。

本を書くたび増殖する資料をどうするか

前回、「ここ7年の間、引き揚げの体験談を聞かせてもらっている年配者のひとりと、先日再会した」と書いたが、その方から聞いた話を含む、引き揚げに関する書籍の作業が9月のはじめ、ようやく目処がついた。本文の執筆とおおよその直しが終わり、ほぼ手を離れたのだ。2005年に出版した『僕の見た「大日本帝国」』とはコインの裏と表をなすような本で、テーマは同じ「大日本帝国」である。

前作は旧植民地に残る「日本の足あと」を求めて旅してまわるというものであった。それとは逆にそうした地域で生まれ育った日本人がどのようにして日本に戻ってきたのか、というのが次作のテーマである。旧日本領を訪ね歩くかわりに、体験者のもとを訪れ証言を集めてまわってストーリーを練り上げた。本のタイトルは『〈日本國〉から来た日本人』(春秋社刊)である。年内発売予定ですので、興味があればお買い上げよろしくお願いいたします。

その本を製作する過程でも実にたくさんの資料を使った。明治以後の日本人の海外移住という現象についての解説書、旧植民地からの引き揚げ体験記、戦前・戦時中の世相をあらわした小説や解説書、そのころ行われていた戦争に関する小説や体験記といった資料は自前で入手したが、それ以外に、取材させていただいた方からお借りした非売品の同窓会誌とか、玉音放送の直後に朝鮮半島南部から持ち帰ったアルバム(100年ほど前の家族写真が貼られている!)、証言者が少年時代に使っていた昭和13年・昭和18年に発行された地図帳など、なくしたら絶対に手に入らないオリジナル資料も多数ある。

ゲラの最終チェックを終え、本の装幀とタイトル、そして発売日が決まれば、僕の手を離れる。そうなるまでは、これらの資料がいつ何時、必要になるかわからないので、机の下に平置きしている。購入した書籍、お借りしている貴重なオリジナル資料のほか、取材相手にチェックや直しをしてもらったゲラや間違いを指摘する手紙――といったものが入った段ボールが2、3箱分ある。

刊行されればそれらの資料は当分、必要なくなる。そのときは、机まわりに配置する資料の入れ替えをやりたいと思う。とはいえ、使い終わった資料を捨てたり、売ったりといった方法で処分するつもりはない。あくまで遠ざけるだけだ。重版が決定した後の改訂や文庫化のときにすぐ対応できるように資料は残しておかねばならない。それに本を書くためにいろいろと集め、知識を得た資料だから、それぞれの本に愛着がある。だから処分することは忍びない。

遠ざける準備は徐々にではあるがすでに進めている。返却する必要のあるオリジナル資料は手放すと二度と手に入らないので、必要箇所を2日かけてデジカメでブツ撮りしておいた。買った書籍については、まだ整理に手をつけていない。使った本をひとかたまりにし、それ以外の紙資料はすべて封筒やファイルにまとめて、その作品に関してのコーナーをそのうち本棚に設けるつもりだが。

いくつかの解決策

自分の仕事の状況と資料の取り扱いについて、長々と書いたのには理由がある。主に小説やマンガなどを楽しみのために本を読む一般的な読者(かなりざっくりしたカテゴライズだが)と、本を書くために資料をどっさりと集める僕とでは、本の買い方や集め方、そして読み方がかなり違うんじゃないか――。そういった思いが、この連載を続ける中で大きくなってきたからである。僕だって、本を読むという行為に少なからず楽しみを求めていることは確かだ。しかし、それ以上に書くための道具として、本を利用し、活用している。

本が増えすぎてどうするか、という切羽詰まった問題の解決法探しを基点にして始まったのが、本を巡るこの旅である。その途中で、自分の本の集まり方、もっというとどうやって本を購入しようとしているのかを見つめてきた。そして、楽しそうだからとか流行っているからではなく、必要だから買っていることに、次第に気がつくようになった。

書店の店頭に平積みされているベストセラーは、主に娯楽のために消費されるのだろう。万人の心を打つ感動の物語のほかに、時代を切り取るような視点が斬新な新書がベストセラーになったりするが、そうした本も消費される、という意味では似たような買われ方をする(ちなみに図書館のリクエストのランキング上位に掲載されている本のタイトルを見ても最近は同じ傾向にある)。

僕の場合、娯楽の目的だけで本を買い、消費することはまずない。必要だから買い、活用する。その行為は、僕の場合、工業製品をつくるために、原料を買い付けて仕入れるという行為に近い。図書館や新刊書店、ネット書店によって集めた書籍にある情報や取材によって集めた情報が本の原料になるわけだ。いまのベストセラーはほとんどなく、専門書であったり、売れた本でも評価が定まっていてテーマに関係のある古い本であったりする。そしてそれは処分しなければどんどんと増えていく。

連載当初から書いているとおり、本が増え続けるという現象に対する不安は強い。本を書き終わるごとに棚を整理し、本棚にコーナーを設けるという方法ではやがては行き詰まるような気がしてならない。それを打開するには広いところに引っ越すのが一番。しかしそれは無理そうなので、それ以外の打開策を考えるしかない。

①部屋の空いたスペースを探し出し、そこに詰めたり本棚の空きスペースを徹底的になくしたり、という省スペース化を徹底するか、②本の収集をやめるか、③蔵書の大部分を捨てたり売ったりするか、④本を電子化して行くか……思いつくのはそんなところである。

この中で自分にできそうなのは、①の省スペース化か④の電子化だろうか。②は資料を大量に使う以上無理だし、③に踏み切れるほどの勇気はない。④は③に似ているが、データが残るので、集めたという痕跡はバーチャルではあるが残るし、読むことだってできる。

①はすぐに場所が埋まり、また場所を捻出するということの繰り返しで、根本的な解決にはならない。そのことはすでに体験済みだ。とすると、すぐにやれそうでなおかつ根本的な問題解決ができる可能性は④の「電子化」ぐらいしかない。

「電子化」への期待と抵抗感

自炊の話に入る前に、僕が読むという行為を普段どのように行っているのか。いま一度振り返っておこう。

僕はふだん、紙に印刷された文章と、液晶などの画面に表示された文章を同じぐらいの割合で読んでいる。紙に印刷された文章のうち、もっともたくさん読むのは書籍である。PCからプリントアウトしたり、新聞や雑誌、講演中にもらう配付資料や旅行中にもらう観光資料などもあるにはあるが、割合からすると少ない。後者はインターネットのウェブサイトが大半だ。最近ようやく買うのに抵抗がなくなった電子本や、電子化した紙資料、自炊した紙の本のデータもあるにはあるが、大した割合ではない。

紙と電子媒体とでは読み方に違いがある。というのも、紙が基本的に印刷されたものだけで完結する閉じた媒体であるのに対し、電子はネットを遮断していない限りは無限にリンクしていて読み手の意志でそのリンクをどんどんと辿っていける媒体である(電子辞書はメモリーや外付けの記憶媒体にあるデータのみという制限はあるが機器内で限定的にリンクしている)。

リンクは電子媒体の長所でもあり短所でもある。リンクをたどれば、関連している項目を次から次へとたどり、誰も思いつかなかった奇想天外なアイディアを短時間に得ることだってできる。しかし、同時にリンクをたどるという行為に没頭してしまい膨大な時間を無駄にしたり、いらない情報がたくさん頭に入ってしまうこともあるのだ。

そういった問題はともかくとして、書いたり読んだりする行為をPCなどの電子機器を使わずにすることはもはや難しい。すべてアナログですませようとする自分の姿を想像できない。文章を書くためのワープロ機能、仕事相手に限らずあらゆる人間関係を維持するツールとしてメーラーやSNSサービスは僕の生活を支える基本インフラのひとつになっている。

一方、日本では、本といえば紙媒体がいまだに主流である。その流れと同じく、僕が買う本も徐々に電子本の割合が増えてきたとはいえ、いまだに大部分は紙の本である。時代の流れに合わせて僕が買う本もそのうち紙の本よりも電子本をたくさん買うようになるのかも知れないが、そのときのことを現状では想像できない。

日常的に電子画面に接していて、後戻りができないというのに、それでも僕には液晶画面への抵抗感がぬぐえないでいる。その理由は次のような体験を日常的にしているからだ。

例えば、出来上がった原稿を読み直してチェックするときがそうだ。液晶画面で読むのと、プリントして読むのとでは、誤字脱字の発見の精度がかなり違っている。液晶に写し出した原稿で見つけられなかった誤字がプリントした原稿で見つける、ということが多々あったりする(そういうことをわかっているからか、本を出す直前、どの出版社もプリントアウトした原稿をいまだに郵送してくる)。

だからこそ精読したい文章はできれば、液晶などの光る媒体ではなく、紙で読みたいと思っている。昨年の連載開始直後、大量に電子化(400冊以上)した本を、ずっと目を通していなかったのも、「できれば紙で読みたい」という僕の好みが関係しているのだろう。

スキャンしても読まないのだから、新たな自炊に取り組む意欲は起きない。大量の電子化は400冊以上を一度にやって以降、一回もやっていない。

iPadでは「読めた」

2010年の電子書籍ブームには大いに期待した。Kindle2の英語版を買い、電子インクの見やすさを知った。しかし期待は外れた。ページをめくると数ページごとにブラックアウトすること、画面が小さいこと、さくさく動かないことを理由にあまり使わなくなってしまった。そうした前例から、iPadは使う前から、だめな道具と決めつけているフシがあった。液晶だし、Kindleに劣っているに決まっていると思い込んでいた。

ところがである。物は試しにと昨年末に買ったiPadが、思いのほか読書に使える代物であった。「i文庫HD」という読書用アプリがすごく便利だったからだ。

文字の拡大縮小も思いのままだし、ページ送りのアニメも気分を盛り上げる。それに本棚機能によって、検索もできる。物としての質感は本ではなくiPadそのものであるし、紙で読むよりは感覚的に劣る気がするが、それでも紙にかなり近い感覚で読めるようになった。このアプリのおかげもあり、一冊を読み通すことが普通にできるようになった。電子書籍への抵抗感は確実に小さくなった。

いまでは、iPadを手に入れる前はまったく買っていなかった電子本を、紙の本ほどではないが、たまには買うようになった。また、緊急避難的に自炊した400冊あまりの本も、時折読むようになった。

状況は改善されつつあるが、それでもやはり、紙に劣る電子本に蔵書をシフトしていく勇気が僕にはまだない。それはなぜだろうか。さらに読みやすくなれば、自ずと電子本にシフトしていくのだろうか。

抱いた疑問を解決すべく、初回の床抜け危機騒動のときと同じく、人に聞いて回ることにした。果たして世の中には蔵書持ちでかなりの割合を電子化してしまった人は世の中にいたりするのだろうか、いるとしたらなぜ電子化することを決断したのか、電子化して読みにくくはないのか、読書のついでに他のこともするようになって集中できなかったりはしないのだろうか――。そういったことを先駆者の人にぜひ聞いてみたい。

この投稿の続きを読む »

「電子書籍元年」の先に進むための原則

2013年11月9日
posted by yomoyomo

オライリー・メディアが手がけた(電子)書籍の邦訳をボイジャーが手がけた『マニフェスト 本の未来』に続く第2弾となる『ツール・オブ・チェンジ 本の未来をつくる12の戦略』が今月発売となりました。

この二冊ともオライリーのTOC(Tools of Change for Publishing)から生まれた本と言えます。TOCについては『ツール・オブ・チェンジ』の序文である鎌田純子氏の「TOCの始まりと終わり」を読まれるのがよいでしょうし、私も2012年にオライリーが主催したTOC Conferenceのことを「出版に変化をもたらすツールとしてのIT」に書いていますが、『ツール・オブ・チェンジ』はその2012年におけるTOCの活動成果をまとめたものです。

二冊とも複数の著者が書いた文章をテーマ毎にまとめた形式が共通する本ですが、本としてのまとまりは『ツール・オブ・チェンジ』よりも『マニフェスト 本の未来』のほうが上でしょう。ただそれは両者の制作過程を考えれば当然のことで、その分『ツール・オブ・チェンジ』は多様なアイデアが込められ、(主にスタートアップ企業による)多様なサービスが紹介される本と言えます。

実は、『ツール・オブ・チェンジ』の第1章「イノベーション」を読み始めたところ、内容が散発的に感じられて不安を覚えたのですが、アジャイル開発手法への目配せにしろ、他メディアの応用にしろ、ソーシャル機能の導入にしろ、後の章で本の未来を語る上での必然として語り直しされる形になっています。

(主に)アメリカにおける2012年の活動成果だからといって、今読んで古くなっているところはあまりなく、例えば『ツール・オブ・チェンジ』において何度か取り上げられるアマゾンが2012年9月に開始したeBookの連続配信形式Kindleシリアルズプログラムは、日本でもおよそ一年遅れて先月末より「Kindle連載」としてサービスが開始されているなど、ちょうどよい具合に日本の状況が本書の内容に追いついたところもあります。

本の未来を考える上で欠かせない切り口

本書は12の章からなりますが、「収益モデル」、「マーケティング」、「価格」など本の未来を考える上で欠かせない切り口が割り当てられており、一面的ではありません。例えばここでもKindleシリアルズプログラムを例にとると、「イノベーション」の観点から(新聞小説や文芸誌をはじめとする雑誌での連載小説に慣れている日本の読者からすれば、これが「イノベーション」と呼ばれるのはかなり不可思議ではありますがそれはさておき)支払い方法の多様性をもたらすことが出版社に多様なビジネスモデルの創出をもたらす可能性が期待されています。一方で、「DRMと囲い込み」という観点からは、シリアル出版モデルはソーシャル要素を読書に持ち込む有効な手段と評価しながらも、本がKindleプラットフォームに囲い込まれてしまう危険性を指摘し、アマゾンの排他的契約条項を拒否する作家を支持しています。

この第5章「DRMと囲い込み」、そして続く第6章「オープン」に『ツール・オブ・チェンジ』が目指す本の未来の形がもっとも明らかになっているように思います。

『ツール・オブ・チェンジ』に収録された文章のタイトルから引用させてもらえば、「「ビッグ・ブラザー」のようなeBook書店の登場?」や「アマゾン庭園の囲いを高くするレンガ、Kindleシリアルズ」など、2012年時点で(本文執筆時点においてもですが)eBookプラットフォームとして先行するアマゾンに対する警戒心が垣間見られるのは当然として、それならグーグルなりアップルなどのeBookプラットフォームが競合として選択肢を提供してくれればよいというわけでもありません。

もちろん選択肢は必要ですが、それより『ツール・オブ・チェンジ』において重視されるのは、出版の未来は「オープン」でなければならないという原則です。eBookのDRMについては私も取り上げたことがありますが、DRMのコストはたとえそれが軽量であったとしても得られるものをはるかに上回るという、ティム・オライリーが2002年に「海賊版とは累進課税の一種で、オンライン流通の進化の過程(Piracy is Progressive Taxation, and Other Thoughts on the Evolution of Online Distribution)」という文章を書いて以来の主張を崩していません。

そして、「アマゾンの中性化」と題された文章において(ここでの中性化とは無効化という意味です)、TOCカンファレンスでジェネラル・マネージャーを務めたジョー・ワイカートは、以下のようなスタートアップ企業はどうだろうと読者に問いかけます。

  • 簡単な決済ですべてのフォーマット(例:PDF、Mobi、EPUB)にアクセスできるeBook販売モデル
  • eBookはすべてDRMフリーで提供。ソーシャルDRMもありません
  • 好きなデバイスに簡単にインストールできるeBook。購入したeBookは読者のKindle、NOOK、Koboに自動配信されます。USBケーブルでつなぐ必要はありません
  • 自由に再販、貸出可能。読み終わったeBookをどうするか迷ったら、古本屋に売ることも、友だちにあげることも自由にできます
  • 出版社と読者の対話を自社の販売プラットフォームを通して提供するだけではなく、さまざまな方法で積極的に推進します

これを絵空事、どこも実現できるわけがないと笑う人もいるでしょう。しかし、本の未来があるべき原則をきっぱりと示す姿勢には清々しさを覚えますし、そうした理念の土台なくしてeBookに最も求められる可搬性と横断的で一貫した読書体験の実現はおぼつかないでしょう。

「元年」の先へ

私自身この文章を書くにあたり、『ツール・オブ・チェンジ』をパソコン上ではBinB読書システムや提供いただいたPDFファイルで読み(移動中は、同じく提供いただいたEPUBファイルをcalibreでMOBIファイルに変換してKindle Paperwhiteで読みました)、文章で使おうと気になった文章をローカルファイルにコピペしていたら、それが相当な分量になって頭を抱えたものですが、上に書いたことすら簡単にできない/選択肢を提供しないeBookが多いのは嘆かわしいことです。

個人的に『ツール・オブ・チェンジ』でもう一つ面白いと思ったのは第10章「フォーマット」において、国際電子出版フォーラム(International Digital Publishing Forum, IDPF)の事務局長を務めるビル・マッコイが、この本においては例外的な分量を割いてIDPFが普及推進するEPUBフォーマットの擁護をしているところです。

彼の文章は、eBookの未来はEPUBがリードするのか、あるいはウェブ(クラウド、HTML5などにも言い換え可能でしょう)に取り込まれてしまうのか、もしくはアプリ化なのかという論点を含みます(本書の別のところにある、eBookとアプリの間にはっきりとした境界線を設ける現在のディストリビューションモデルは失敗だ、という意見にはうなずくところです)。

日本でも2010年あたり「電子書籍元年」と言われ、しかし、その後も何かにつけてこのフレーズが引き合いに出されます。いったいいつまで「元年」なのか。いい加減その先を見たいと思う人には、法律面など日本にそのまま適用できなかったり、尻切れトンボ気味なところもあるものの、その先にあるべき原則を問う意味で、『ツール・オブ・チェンジ』、そして『マニフェスト 本の未来』のeBookをお勧めしたいところです。

■関連記事
TOCの始まりと終わり
出版未来派のデジタル革命宣言
出版に変化をもたらすツールとしてのIT
電子書籍にDRMは本当に有効か?

K・ケリーの「自己出版という選択」について

2013年11月8日
posted by 堺屋七左衛門

私が翻訳した記事「自己出版という選択」を「マガジン航」に転載していただくことになりました。多くの方に読んでもらう機会ができるのは、ありがたいことです。ここでは、この記事の背景や著者ケヴィン・ケリーについて解説します。転載記事とあわせてご覧いただければ幸いです。

私は、米国の編集者ケヴィン・ケリーの文章を翻訳して、「七左衛門のメモ帳」というサイトで発表しています。翻訳の対象は、ケヴィン・ケリーが自分のブログ「The Technium(テクニウム)」に書いた記事です。その内容は、技術、インターネット、ビジネス、芸術、未来観など幅広い分野に及び、いずれも興味深いエピソードとともに鋭い洞察を示すものです。今回「マガジン航」に転載する「自己出版という選択」もその一つです。

(注)テクニウム 文明としての技術全体を意味するケヴィン・ケリーの造語

ケヴィン・ケリーは、米国の雑誌「Wired(ワイアード)」の創設者の一人で、創刊時には編集長を務めました。また、その前には雑誌「Whole Earth Review(ホールアースレビュー)」の編集者でした。この雑誌はその名前から推測できるように、有名な「Whole Earth Catalog(ホールアースカタログ)」(以下WECと略する)の流れをくむものです。

WECは1960年代後半から1970年代にかけて発行された雑誌で、当時の米国の若者に大きな影響を与えました。スティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチの中で言及したことでも知られています。WECは、さまざまな分野の有益な道具類を紹介する雑誌で、ジョブズの表現によれば「グーグルが出現する35年前の、ペーパーバック版グーグルみたいなもの」でした。

「ホール・アース・カタログ」式の大ページ本

現在、ケヴィン・ケリーは、ネット上で「The Technium」以外にも「Cool Tools」というサイトを主宰しています。「Cool Tools」は、便利な道具を紹介するもので、10年にわたって続いている人気の高いサイトです。工具類に限らず、本、ソフトウェア、電子機器、ウェブサイト、地図、アイデアなど、非常に広い意味での「道具」を扱っています。その趣旨はWECとよく似ていますが、WEC当時のカウンターカルチャー的色彩は、ほとんどありません。

この「Cool Tools」の10年に及ぶ蓄積の中から、主要な紹介記事を再編集したものが、『Cool Tools: A Catalog of Possibilities』というタイトルの紙の本として、まもなく出版されます。

この本のサイズは、11×14インチ(279.4×355.6 mm)と非常に大きいものです。これは、往年のWECとほぼ同じサイズです。電子書籍でなく大型の紙の本にした理由を、ケヴィン・ケリーは次のように述べています。「大きなページに多くの道具を掲載することによって、道具相互の関連を脳が自然に考えるようになる。その結果として、無関係だと思っていたアイデアがつながる。同一種類の道具全体をすばやく見ることができて、必要な情報を選別しやすい。すなわち、ウェブやタブレットよりも、速く閲覧できて、深く検討できる。」(“The Pleasures of a Paper Book” から要約)

「Cool Tools」サイトの記事から生まれた本としては、調理器具に関する情報をまとめた『Cool Tools in the Kitchen』が、2011年に電子書籍として出版されています。このときの出版形態が電子書籍だったので、今後出る本は同様に電子書籍になるのだろうと思っていたら、今回は、予想が外れて大型の紙の本でした。電子書籍と紙の本それぞれの特長を生かして、場合によって使い分けようとしているのかもしれません。

自己出版の苦労話も

今回の新刊の内容は、本を自己出版する方法、3Dプリンタで物を作る方法、ブルドーザーをレンタルする方法、ロゴをデザインする方法、きのこを栽培する方法、丸太小屋を建てる方法など、面白そうなことがいろいろと掲載されているようです。基本的には、すでにウェブサイト「Cool Tools」に掲載されている内容のはずですが、それをWEC式に大きなページに詰め込んで紹介するということなので、どんな本になっているのか見るのが楽しみです。ページ一杯に詰め込まれた道具類を見て、どのような相互作用が起こるでしょうか。

ケヴィン・ケリーは、この本の制作の経緯や裏話について、自分のブログに記事“The Self-Publishing Route”を書いています。新刊の宣伝だろうと早合点してあまり期待せずに読んでみたら、意外にも非常に興味深い記事でした。日本の読者にも読んでもらいたいと思って、日本語に翻訳しました。それが、このたび「マガジン航」に転載する「自己出版という選択」です。(翻訳および転載に関する著者の許諾については後述します。)

この記事には、出版にあたってのケヴィン・ケリーの苦労話が述べられています。電子書籍と違って、紙の本では、印刷、運搬、保管が大きな問題となります。さらに、自己出版の場合には、それをすべて自分で手配しなければなりません。このような問題について、ケヴィン・ケリーはどのようにして解決したのでしょうか。さらに、出版の収支計算も気になるところです。出版にはいろいろ苦労があると言いながらも、ケヴィン・ケリーの場合は、紙の本を作る過程を楽しんでいるようにも見えます。その詳細は、ぜひ記事をお読みください。

CCライセンスについて

最後に、この記事の翻訳および転載に関連するクリエイティブ・コモンズ・ライセンス(CCライセンス)について簡単に説明しておきます。ケヴィン・ケリーのサイト「The Technium」の記事には、CC BY-NC-SA(クリエイティブ・コモンズ 表示-非営利-継承)ライセンスが付与されています。CCライセンスにもいくつか種類がありますが、このBY-NC-SAライセンスは、著者名を表示し、非営利目的で、同じライセンス条件を付ければ、個別に著者の許諾を得なくても自由に使って良いということなのです。

私は、そのライセンスに従って、「The Technium」の記事を日本語に翻訳し、元記事と同じライセンス(CC BY-NC-SA)を適用して「七左衛門のメモ帳」で発表しています。今回の「マガジン航」への転載も、このCC BY-NC-SAライセンスに基づいて実施するものです。(なお、今お読みいただいているこの解説記事は、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスではありません。念のため。)

■関連記事
自己出版という選択