いまそこにある未来(1)

2009年9月29日
posted by 萩野正昭

20090711-matatabi_hagino_480

10年、一体なにをしてきたのか?
1992年、私は電子的な出版という新しいメディアをつくりだす夢を抱いた。技術革新がいくつかの示唆を与え、誰でも一人で「パブリッシュ」というコミュニケーションの原初形態を手に入れることができると確信した。ならば実践してみようということで志願してこの分野に我が身を進めた。なにをしてきたのかは、ここでなにが生まれたかということを通して語ることができる。これを解説し、来た道のなんたるかを話してみたい衝動に私は駆られる。夢とはなんだったのか。

なによりも大きかったのは、一人でやれるという希望だった。この言葉の中には万感の思いが込められている。いかに一人ではできないか思い知ってきたからだ。いまのメディア状況の中でインディペンデントに成立することの難しさは誰もが知るところだろう。情報でさえその流通経路を握られてきたことを考えれば、支配的に形成されたメディアに立ち向かうことはできないことだし、もし徒党が組めたとしてもインディペンデントという独自性を貫くことは多勢がゆえに翻弄される。小さいものであろうとも一人でまともな発信ができることは一つの夢の実現だった。

ボイジャー・ジャパン創立期のパンフレット詳細
エキスパンドブック発刊への宣言
『エキスパンドブック ガイドブック』前文

一人でやれることのなかにはいくつかの意味が含まれる。
作家が一人で創作するような、品質管理上の快適さがまずある。誰にも邪魔されず自分の力で対象にむかう集中ができるということ。一人なら費用的な負担を抑えられる。これは一番の根本問題だろう。品質管理ができ、費用的な抑制が利き、身軽に流浪し、時間・納期のコントロールをもって配信でき、読者をつかみ再生産のための集金力も備える、となれば一つの完結したメディアの体をなす。これらがすべて電子的な技術によって可能となるならば手を出さない方が愚かとしかいいようがないではないか。電子的な出版を実現させることは、まさに小さなメディアの必要をかなえさせる夢だったのだ。

電子本『小さなメディアの必要』

たった一人の術をみつける

私のシナリオには以下のような筋書きがたてられていた。
1. 自分一人でやる自覚をもつ
2. 術をみいだし身につける
3. 確立した方法を分かち与える
4. 流通を起こし対価を得る
5. 再生産の歯車を廻す

シナリオ通りにことが進まないのは世の常だ。だからうまくことが進まなかったとして感傷的になどなってはいけない。どのあたりでこのシナリオが狂ってきたのかは明らかで、3.の「確立した方法」とか、「方法を分かち与える」からだった。いうならばここは最初の山場なのであり、すんなり行くはずもない。
そう考えるなら、山場にさしかかる勾配の道で自分一人でやるということと、「術をみいだし」た、あたりまでをなんとか基準として定着させたのは大きな意味がある。これは電子的な出版が人の心の中に育ませた共有財産として誇るべき10年の成果だったろう。

Robert_Winter

私たちがやってきた例をもって説明する必要がある。もっとも初期の段階(1989年)に作られたとてもシンプルなものを紹介したい。

『ベートーベン第九交響曲』というオーディオCDがある。ロンドン・ジュビリーレーベルのもの、特別なものというより数多ある『第九』のうちの一つだといっていい。これをCDプレーヤーではなく、コンピュータのCDドライブに置くと、音の再生と解説の本が出現して、二つを強い関連のうちに示すことになる。私たちがやったのは解説部分を「本」としてモニター上に表示させ、CDとのリンクを取ることだった。これを『CDコンパニオン』といった。

CDコンパニオン
Videodisc Accessory

作曲された譜面があり、演奏の録音があり、それがCDとしてあり、研究論文や本があり‥‥‥というかたちで記録が別々の媒体に分けられて存在している。これらを一つのまとまりとして提示でき、相互に関連をもって文脈をつけるなど今までに考えることもできなかった。やれることは一人一人が各媒体から情報を取り出して、自分の脳の中で関連のリンクを張ることだった。そんなこと簡単には歯がたたない、誰もができることではない。

テレビがやってきたのは人々に成り代わって咀嚼してみせることだった。
『オーケストラがやってきた』という日曜日の朝の人気番組があった。山本直純や小沢征爾という指揮者が、身振り手振りでオーケストラによる音の再現をし、時には自ら語りかけて文脈をかたちづくり、テーマを解説した。これなど人に代わって、一ランクうえの専門家がリンクしてみせるという構図だったろう。おもしろおかしく誰もが楽しんで学ぶことができるエンターテイメントを仕立ててくれるのがテレビの力だった。

私はある意味でテレビ番組を敵視した。情報の流通を支配し、人材も資金も機械もとあらゆるパワーを放送局に集約させて、増大をはかる彼らの姿勢を良いものとは思わなかった。我慢ならないのはその大衆追随性だった。おもしろおかしく仕立てることに汲々としていることは、この先どこかに大きな破綻があるように私にはみえた。だからどんなにテレビ番組が上手にできていても、これが私たちみんなの将来と深くかかわりあうわけがないと思った。むしろ私たちが理解を得る方法は、私たち一人ができる術を追求することしかないという気持ちだった。

制作クレジット
CDコンパニオン どんなものか?
ボイジャー、勇躍サンタモニカへ

(その2へ)

電子書籍版『戦後マスコミ回遊記』誕生秘話

2009年9月29日
posted by 「マガジン航」編集部

〜ノンフィクション作家・佐野眞一さん、柴田秀利を語る

※これは2002年の東京国際ブックフェアにおけるノンフィクション作家・佐野眞一さんの講演を編集し、再録したものです。

テレビとはなんだったのか

 

有楽町で街頭テレビに見入る群衆。

有楽町で街頭テレビに見入る群衆。

昭和28年12月東京有楽町での街頭テレビに見いる群衆の光景です。右端に 『聖衣』という映画の看板が見えています。この映画はハリウッドがテレビの出現に対抗して導入したワイド画面シネマスコープの最初の作品でした。群衆はしかし、背をむけて食い入るように豆粒のようなテレビ見ているのです。とても皮肉なワンショットといえるでしょう。

こちらは日比谷公園です。「TOKYO MOTO……」の看板が見える。今日本でもっとも規模の大きいショーとなった『モーターショー』は、 1954(昭和29)年に日比谷公園でおこなわれていた。同時期に、これもまたその後に巨大なメディアを形成するテレビも産声を上げていた。公園内にある日比谷公会堂の階段にテレビが置かれ、群衆の目はその小さなボックスに注がれている。

1954(昭和29)年 日比谷公園

1954(昭和29)年 日比谷公園

私はこの街頭テレビの写真を見るのは初めてです。もちろん街頭テレビは知っています。昭和29年といえば小学校へあがるかあがらないか、つまり物心がついた年で、いまこの写真を見ると、鳥打ち帽をかぶったオッさんとか、われわれの周りにはああいうオジさんたちがいっぱいいたナ、懐かしい日本人がいるナ、僕らのオジさんたちだなア、という気持ちを大変強くもちます。

私たちは、このような群衆の中の一人であったのです。

テレビとは何だったのか、どのようにしてテレビは私たちの前に現れてきたのか……?

柴田秀利著『戦後マスコミ回遊記』を電子出版する大きなきっかけは、このような問いの中から生まれてきました。きっかけを与えたのは街頭テレビの写真でした。これらの写真はすべて柴田秀利さんの遺品からひきだしてきたものです。

1953(昭和28)年 静岡公会堂前

1953(昭和28)年 静岡公会堂前

柴田秀利さんと私は、実はとても深く知り合った関係でした。中央公論から出版した文庫『戦後マスコミ回遊記』の解説は私が書きました。そして私は、正力松太郎という人間を、1994年に文藝春秋から『巨怪伝』としてまとめました。大変ぶあつい本です。そのときに、大変重要なキーマン、それが柴田秀利さん、という人だったのです。

たぶん、現存のジャーナリストの中で生前の柴田秀利さんにあったのは私一人だとおもいます。たとえば、渡辺恒雄のことを書いた魚住昭氏の『メディアと権力』という本がありますけれど、そこにも柴田秀利らしき人が書かれています。私もそれを読みました、しかし、生前の柴田秀利さんにお会いになっていないから、非常にゆがんだ人間として描かれていると私はおもいます。

私は生前の柴田さんにお会いして、驚くべき話を山ほど聞きました。芝浦にあった柴田秀利さんの個人事務所で初めてお会いしたとき、ただならぬ人格というものを感じました。以来、柴田さんのところへ通って、信じられないようないろいろな話をうかがいました。テレビとはどういうふうに導入されてきたか……テレビの出現というのは一大イベントだったわけです。その裏には非常に秘められた歴史があるわけです。

私は『巨怪伝』に「正力松太郎と影武者たちの一世紀」の副題をつけました。われわれは、いまだに、良くも悪くも、正力がつくったメディアの権力の中にいます。正力という人はその後初代の原子力大臣となります。原子力開発を押しすすめます。しかしこの裏に、実は立て役者として柴田秀利がいたんです。われわれの生活では、原発でつくった電気を使っているわけです、その電力を使ってテレビを見、サッカー中継などを見て一喜一憂し又翌日新聞でその試合の模様を確認する、という行動の中にわれわれがまだいるわけです。つまり正力松太郎および、その本当の立て役者であるところの柴田秀利という人物が仕掛けたメディアの構造の渦中に、いまだわれわれがいるということです。

masukomikaiyuuki

全巻をまとめ新版の電子書籍として再刊。

『戦後マスコミ回遊記』はすごい本です。大物中の超大物、例えば吉田茂、あるいは最近人気の白洲正子さんのご亭主、外務官僚だった白洲次郎さんなんかは、ほとんど通行人扱いで書いてあります。そういう錚々たる人物が登場するドラマなんです。白洲次郎とも親交があった、あるいは北大路魯山人とも親交があった、そういう関係をさらりと自然に書いている。占領軍はこの柴田秀利に目をつけます。非常に武器になる……この男はできる、やれる、とおもった。アメリカ人というのは非常にフランクな面を持っています。つまりこいつはいけるとおもったらどんどんやらせるという姿勢です。

柴田秀利は、この時代、まだ30を越えるか越えないかの非常に若い年齢です。その若さで、テレビの幕開け、原子力時代の平和利用といった相当な量の仕事をこなした人でした。

私は13の時に宮本常一の『忘れられた日本人』を読んで感動したという話を何回もしたことがあります。私が13の時というと安保闘争、昭和35年、1960年でした。世の中物情騒然としている、政治の季節。それからもう一方では、同時に高度経済成長の時代が始まっている、家電製品がどんどん入ってくる、テレビがはいってくる、電気冷蔵庫、洗濯機が入ってくる、つまり政治と経済が一緒にやってきた季節だったわけです。世の中泡立つような時代だった。

そうした時代に背を向けて四国の山奥でたった一人で盲目の博労の話を聞き取っているオヤジがいる。あるいは対馬の海っぺりにいて、開拓漁民といいますが、一つの漁村を開いたじいさんの話に耳を傾けているオヤジがいる……この姿に私は感動しました。非常に孤独な背中、その姿に感動したんだとおもいます。

宮本常一は柴田秀利とは真反対にあった人だともいえます。つまり私は、宮本常一に感動し、そしてまた真反対の柴田秀利にも感動します。本が売れなくなってきている時代とはいうものの、私は、本というものはまだまだ、それだけ大きなキャパシティーをもつものだということを訴えたいわけです。この幅の広さが読書の大きな醍醐味ではないか、ということが言いたいのです。そしてこの醍醐味を広げていく動きの存在無くして本の未来も無いだろうということです。その意味では電子出版もまた一つの動きとして力を蓄えていって欲しいと期待しています。

電子出版でなにができるか

私は電子出版について専門家じゃないから、その機能についてよく分からないことも多いですけれど、例えば百万言をついやすよりも、ここにある風景、日劇前の街頭テレビの人、人、有楽座というあの文字、シミキンというあの文字、そこから喚起されるものは僕らの世代にとっては莫大なものがあります。 そうだシミズキンイチというのがいたな、という非常な喚起力、こういうものを一瞬にして引っ張り出し、見る者、読む者に訴えかける力が、電子出版というものの中には秘められているのではないか、とまず私はおもいました。

ここでちょっと本の中味について紹介させていただきます。

『戦後マスコミ回遊記』第三部の「テレビ時代の夜明け」を開くと、目次の中から「アメリカ方式525本」という章があります。テレビには大きく3つの方式があります、アメリカ方式とヨーロッパ方式そして、主にかつてのソ連を初めとする社会主義諸国が採っていたSECAMという方式です。日本がアメリカ方式に決まる背景には、戦後から冷戦にいたる政治状況が深くかかわっていたわけです。

記念アルバム

残された記念アルバムの写真を本文に組み込む。

こんなことが書かれています。「私のところに、三人の客人の行動記録を写し、記念に贈呈した、立派なアルバムの二冊だけが残っている。金張りの西陣で表紙を飾った、見事な贈り物の複製である…………この時起ち上がったホールスウセンの通訳として写っているのが、後に国連大使となった加瀬俊一氏である……」。「一同がアッと驚いたことは、壁一面に張りめぐらされた、全日本をカバーするネット・ワーク計画と、多重通信機能が誰にも分かるように図解された、目を見張る革新的計画案が、ズラッと並べられていたことだった……」

本文と写真による対話。

本文と写真による対話。

左の写真を拡大したところ。

左の写真を拡大したところ。

これらの写真を丹念に見ていき、本文に一つ一つ組み込んでいく、そのことによって、いままでの本にいくつかの発展型が生まれ、本文と写真による対話が生まれていきます。

ここにいます弁護士のホールスウセン、それにホールステッドという技術者……みんな大変な大物をアメリカは送り込んできたわけです。何ということもない研究発表のような光景ですけれど、よく見ると明確な極東の地図がおかれていて、日本を含んで朝鮮半島をカバーする反共通信網の青写真が描かれているとうかがうことができるわけです。アメリカが意図する入念に準備された計画ということだったのです。

ある取材で、かつて日本の領土だった樺太の資料がないか、北海道中を探しました。小樽に小樽高商、小樽商科大学というのがありますが、ここの地下倉庫に3日間こもって探しましたがありませんでした。

ところが、りんごの産地で……ニッカウヰスキーでも有名な余市というところの市川文庫というところに膨大な豊原(とよはら)の写真が見つかりました。シスカという一番北端の町、トナカイの群れ、少数民族が閉じ込められた森、すべてを全部写している記録がありました。新発見だとおもいます。 たとえば、これを電子出版化するということになれば、これぞ知られざる樺太、日本領有時代の樺太はこうだったんだ、これぞ新しいんだとという、目に物見せるという仕事なるとおもうのです。

一番大事なのは、一次情報です。そこに人がいて、その人の目で撮った写真は時として本を抜きます。本は最強のビークル(入れ物)だと私はおもいますけれど、人が撮った写真というものは、本にアタッチメントする価値を十分にもつものではないでしょうか。

宮本常一は10万点の写真を残しています。ネット配信もはじまったと聞いています。高度経済成長を迎えようとしていた日本の光景を丹念に、くまなく歩いた過程で写された写真、膨大な情報、膨大な記録、国家的事業にも匹敵する仕事だったとおもいます。これを活用することによって、われわれはどういう事ができるか。

宮本常一は日本の島という島、村という村を、全部歩きました。距離にして地球を4周した男です。行かなかったところはありません。膨大な写真を撮っています。高度成長前の日本が見事に定着されています。例えば日本列島の白地図に宮本常一の足跡を赤インクで記していくと、日本列島が真っ赤になるという有名な話があります。宮本常一の撮った1920年代の写真、1930 年代の写真、1940年代の写真を使って日本の白地図をCTスキャンするように見ていくことができるなら、日本列島の中から何が失われたか、そのありかがわかるわけです。それが一つ。

それからもう一つの電子出版の可能性は、宮本常一が写した写真を見ることによって、あっ、この人見たことある、これはあのオジさんだっ、といった場面、関連が必ずでてくるはずです、それをインターネットで返してあげる。そうすると、新しい形の本が生まれる可能性もあるとおもうのです。たとえば、この章だけ欲しい、あるいはここをもっと読みたいというとき、そこを進化させていくような、自分だけの本、自分が知りたいだけの本というものをオンデマンドにやることができるとおもいます。それが新しいかたちの出版と読者との関係をつくっていくことになるでしょう。まったく新しい関係が端緒をつくりだすという気がします。

新しいモバイル、新しいビークルをつくる

本は20世紀最強のビークルだと私はおもいます。モバイルだし、簡便だし、情報量はたくさんある……しかし、一つの歴史的な変遷の中で、大量生産、大量消費のシステム自体がが崩れていこうとしています。本だけではなく、すべてがです、それは歴史的な流れなのです。残念だとおもってもしかたない。であるなら、我々の知恵で新しいモバイル、新しいビーグルをつくっていくほかはないです。

いろいろなツールが生まれていくことになるでしょう、まさにその中の一つに電子出版の動きもあるのです。ですからいま柴田秀利が電子出版として紹介されていることに、ちょっとした驚きと感慨を感じずにはいられません。柴田さんという人は、それに値する長い視野をいまでも伸ばし続けている人なのでしょう。

講演中の佐野眞一さん。

講演中の佐野眞一さん。

私は、はじめて柴田秀利と会ったとき、この人は総てを知っているすごい人だとかんじました。私流にいえばアドレナリンが出た。この人は本当の秘話を知っている、一読売の内部のことだけではなく、日本のメディアの全体の底流をなす一番重要なことをこの人は語ってくれたなと私はおもったのです。何回か事務所で話しをお聞きするうちに、本当にそんなんことがあったのかという、驚天動地の連続だった。それで、しばらく柴田さんの事務所へ通いましたが、「佐野くん、ぼくはゴルフ大会があるのでアメリカへ行く」ということで、聞き取りはしばらく中断したのです。

ところが、フロリダでゴルフ中に柴田さんは亡くなってしまった。その報を聞いたときは、あー、あれも聞いておけばよかった、これも聞いておけばよかったと、私はおもいましたけれど、生前柴田さんが誰にもいわなかった話をずいぶん私にしてくれたことを誇りにおもい、柴田さんが書き残してくれたもの、そして、奥様の柴田泰子さんがつくられた遺稿集などで補足もさせていただき、不十分ではあるが、私は『巨怪伝』というかたちでいいものが書けたとおもっています。あれから10年くらいの歳月が流れていますが、新しいメディアの誕生を得て、十数年前に僕が通った田町の事務所をここでこういうかたちで見るとは、おもいもよらなかった……なにかこう、非常に感慨深いものをかんじています。

政策研究大学院というところがあります。歴史学者として大変有名な御厨貴さん、伊藤隆さん、近現代史の専門家です……これらの方たちが中心になって、オーラルヒストリー研究会というのをやられています。日本人は一般的に伝記を残さない、記録を残さない民族だと言われていますが、必ずしもそうだとは言い切れないのですけれど、ここで記録を残す運動をしていこうということで、中曽根康弘から話を聞き取って評伝をつくる、あるいは渡辺恒雄から、後藤田正治から話を聞いて記録として残すという仕事を行っています。

昨年でしたか、このオーラルヒストリー研究会の御厨さんから、私は呼ばれました。聞きたいことがあると言われたのです。その中の若手のグループから、あなたの聞き取り技術を聞きたい、特に戦後マスコミの化けモノ中の化けモノ、正力松太郎を私が扱っているということで、どうしてこういうことが構築できたのかというのが、主題でした。

私は、柴田秀利のことを話して、柴田秀利とお会いできたことが、そして彼の残した『戦後マスコミ回遊記』を読むことが、私の正力取材の最大の源泉であったと話したのです。結局は千載一遇というか、その機会を逃すと、やはり永遠に歴史は闇から闇へと葬られてしまうのです。

宮本常一はこう言っています。「記憶に残ったものしか記録に残らない」と。至言中の至言だとおもいます。

振り返ればわれわれは、グーテンベルク以来継承して活字を発達させてきたわけですけれど、いろいろなメディアの開発をへて、こういう鮮明な画像を簡単に得るまでになりました。しかも自分の好きなように出版できるのです。いわばこれは単に読者になるだけじゃない、参加ができるのです。つまり自分の好きなように、この写真をもっと拡大する、この人物は誰だというこちらのアクセスが可能な状態になる。この人物のことがそのときには分からなかったとしても、いつか分かりうる伝達スタイルがきっとできるとおもいます。つまりベーシックな原型があって、それにどんどん付加がつのっていく。

付加をつのらせていくのは、やっぱり人間です。つまり人の素養であったり、堆積であったりなのです。個々の人の知識なのです、あるいは経験なのです。みんなが試されている、この中からなにを読みとるか、つまり読者としても試されているということを私は電子出版にたいしてつよく感じました。

読者であり作者である、作者であり読者である……私たちはこういう存在です。こういう相互に行き来する存在にますます私たちは入ってきている時代に生きています。

私はここで柴田秀利の『戦後マスコミ回遊記』を電子本としてあらためてみました。いろいろなことが頭を巡りました。私が書いた正力松太郎『巨怪伝』のことはもちろんです、あのときお会いした柴田さんのおもいで、そしてここに納められた幾多の写真から触発される私が生きた戦後の情景、そのとき時代は確実に動いていた、テレビ導入にかかわった柴田秀利もそこに激しく活躍していたのです。あの汲めどもつきせぬ問題意識というものは、このテキストのはしばしからからきっと感じられるはずです。たくさんのものがまだまだこの本、そしてこの電子出版には埋もれているんだということを、あらためて申し上げたいと私はおもいます。

※柴田秀利『戦後マスコミ回遊記』の電子書籍はボイジャーの「理想書店」で購入できます。

254x94

本のための綺麗で明るい場所

2009年9月28日
posted by ボブ・スタイン

citylights

http://www.flickr.com/photos/davidorban/ / CC BY 2.0

以下の文章は、多くの仲間に向けたメモ書きの第一弾である。

私はこれからの一連のメモで、「電子出版が成功するには、さまざまな形の本がネットワーク化されたもの、という発想を大きく越えたものにならなければならない」ということを言おうと思う。思いがけないことに、この考えは次の問いにつながる。「書店はどうすれば、アマゾンやグーグル、アップルに対抗して(あるいは彼らを通じて)、出版社のブランド価値を取り戻せるように進化できるだろうか」。

この問題はまだ、私のなかでも考えが固まっていないものだが、他の人々にも議論に参加してほしいため、ここに投稿する。

読書という行為が「印刷された紙のページ」から、「社交的なやりとりが行われるよう設計されたオンライン空間」でなされるようになったときに、いったい何が起きるかを調査していくうち、「本とは、そこに読者が(ときには著者が)集うことができる場所のことである」という考えが浮かんできた。

「作品」という概念を、紙面の余白で行われている活動までふくめたものへと拡張するならば、「コンテンツ」という概念もまた、作品のテキストが生みだす会話までを含めたものとして、再定義されなければならない。別の言い方をするならば、ダイナミックなネットワークのなかにテキストを置くと、読書の社会的な側面が前面に出てくる、ということである。(以下のプロジェクトも参照のこと。Without Gods Gamer TheoryOccurrence at Owl Creek Bridge そして The Golden Notebook )

この投稿の続きを読む »

いまこそ本当の読書用iPodを

2009年9月20日
posted by セバスチャン・メアリー

まず始めに申し上げておきたいのは、この記事は電子書籍がいいものかどうかについて書いたものではない、ということです。私が今朝から考えていたのは、iPodが電子書籍としての役割を果たすときが間もなくやってくる、と期待することがいかに莫迦げており、自分はなぜそれが間違っていると思うのかについてです。私は最終的に、本のもつ「物質的な属性」がその理由である、という結論にたどり着いたのですが、多分それは、あなたが思うような方向ではありません。

まず誰かが最初に、「書籍は立体的で、感覚的で、知識も詰まっている。手触りや匂いもありますよ」と言わない限り、本の未来を議論するための要素は揃いません。たしかに私も、お風呂に浸かりながら読書するのも、余白に落書きなどをするのも好きです。でもこの問題は、私より優秀な人たちによって繰り返し論じられていますので、脇に置いておきましょう。

本の物質的な形態が内容にも影響を与えていることは間違いありません。しかし、そのために電子書籍に適したコンテンツを考えるとき、iPodと紙の本が誤って比較されていると私は思うのです。

本の物理的形態が文章の長さを決めてきた

しばらくの間、本に目を向けてみましょう。18世紀の印刷ブームという出版の開拓時代、本はお馴染みのサイズ以外にも、フォリオ判、パンフレット、ポスター、フライヤー、チラシといった、何でもありの体裁で出版されていました。しかし現代の発達した出版産業のもとでは、流通部数が増えれば増えるほど、本の物理的形状のバリエーションは減ってしまいます。大きな市場を狙った本は、幅が110~135ミリ、高さが178~216ミリという標準的サイズに当てはめられがちです。このサイズだと費用をかけずに容易に出版できるので、市場競争に耐えうる価格で販売できるからです。

本の厚さも、製造上の制約から印刷諸経費にいたる、さまざまな理由で決められています。その結果、書店の棚は『恐ろしいけどやってみるしかない』というタイトルの一文に書かれているぐらいしか内容がないのに、わざわざ一冊分に膨らませたような本で埋まってしまいました。地元の書店の「自己啓発書」や「ビジネス書」の棚をチラッと見てみれば、この手の本がたくさん見つかるはずです。これらはみな、経済的な観点から“適切な”サイズにまで水増しされた出版物なのです。

このことから分かるのは、「一定の長さをもった本という形態は、人がアイデアを伝達する方法として、(親しみがあるだけでなく)最善の手段である」と結論づけることは、多くの人は認めたがらないでしょうが、じつは間違っているということです。そして、これを電子書籍に置き換えて考えれば、長い文章を読むためのiPodのような電子書籍リーダーを期待することは、大きな間違いだとわかります。

ウェブを見てごらんなさい。そこでは「アテンション・エコノミー」が猛威をふるっています。あなたが何を書こうと、ワンクリックするだけで、ウェブには常に、もっとマシで魅力的で赤裸々で価値のある文章があります。私の書いているこの記事だって、長すぎたら誰も最後まで読まないでしょう。印刷出版の伝統のもとでは、一定の長さをもった文章こそが「よい文章」でした。しかしオンラインでは、簡潔さこそが書き手が理性的であることの証拠であり、無視されないための命綱なのです。

「文章に一定の長さがあることは、本質的にいいことだ」と想定するとしたら、ウェブは深く思考するにはふさわしくない場だ、ということになるのでしょうか? スヴェン・バーカーツ氏が『アトランティック』誌に寄稿した「キンドルに抵抗して」という記事でも、この疑問は繰り返されています。しかし、これとは反対の観点からシンプルに見れば、印刷出版のもつ物質的な制限から離れることで、私たちは新しいコミュニケーションの方法を試みているのだ、ということができます。

電子読書における「1曲」は300語の短文

私自身はやむにやまれず、本やブログを読み、ツイッターもします。これらの異なるフォーマットを活用して、異なる体験をしていることに、自分のなかで矛盾はありません。電子書籍は、一定の長さのある文章に有効だとみなされていますが、「一定の長さの文章」を読むという体験こそが、紙媒体や本という製品によって生まれてきたのだという、本質的な事実が無視されているのではないでしょうか。私が言いたいのは、そういうことなのです。

さて、「読書用のiPod」という比喩に戻りましょう。iPod擁護派は、それが「小さくて四角くて、たくさんの“音楽”を保存して楽しむ機器」である以上のことを深く考えていません。だからこそ、iPodが「小さくて四角くて、たくさんの“文章”を保存して楽しむ機器」へと、簡単に移れると考えてしまうのです。iPodにはオーディオ・ビデオ機能、凝ったリンク機能などがあるにもかかわらず、一定の長さの文章を読むための機器でもありうるという一般的な理解が、ことに出版業界の希望として、いまだに残っています。

しかしそのような考えはiPodに(より一般的にはmp3によって)音楽が、どのように配信されているかをまったく見ていません。かつて音楽は、CDやLPとしてアルバム単位で販売されていました。しかし、今では60~75分の長さではなく、だいたい3~4分の曲単位で売られるようになっています。CDやLPで60分ほどの音楽を売ることには、経済的な合理性がありました。同様に、約8万字の文章を本として売ることにも、経済的な合理性があります。しかし、iPod用の音楽は曲単位で売れるのです。ここから推定すると、読書用iPodにふさわしい文章は、音楽でいえば1曲分、つまり約300語程度の短文ということになります。

そしていま、ウェブには「純文学」が溢れています。現在に至るまでの私のウェブ放浪の中でも、「これはとても重要な文章だ」と感じるものとの出会いがありました。そんなとき、その文章を自分のために取っておける機能がウェブにあるかどうかが心配になります。ネット情報をアーカイブしてくれるWayback Machineを別にすれば、サイトへのリンクはいつか切れてしまいます。しかし、すべてをプリントアウトすることもできません。重要な記事はどうしたら保存しておくことができるのでしょう?

デジタル世代のモンテーニュが生まれる可能性

現代の「純文学」を失わないためには、文章をダウンロードしたりアーカイブしたりするために作られた、バーチャル・ライブラリーとしての機能をもつデバイスが必要だと私は考えています。そのようなデバイスや(文章の)プレイリスト、マッシュアップ、お気に入りの短文のコラージュによって、私たちは「デジタル世代のモンテーニュ」となります。私たちが集団制作した文章に注釈が付けられることで、文学としてさらに発展していくかも知れません。

ブログには現実に「純文学」が再び出現しています。ブロガーたちがその瞬間に書いてアップロードした文章にささやかな価値が認められ、バーチャル・ライブラリーのような機器にダウンロードされていけば、長いスパンで見たとき、ほんの短かい作品が、芸術の復興を生じさせるかも知れません。

印刷出版の物理的な制約のもとで生まれてきた「長い文章」を読むための機器として電子書籍をとらえるならば、ニッチな商品にとどまるでしょう。iPodでアルバムを最初から最後まで一気に通しで聴く人は、今でもいるかも知れません。しかし電子書籍デバイスで、長い文章を一気に読んで楽しむ人は少ないでしょう。少なくとも、それが主流になるとは思えません。けれどもそのデバイスで、上手な短文同士を比較したり、ページを並べたりすることができるのなら、私も欲しいです。

だから、小さな液晶画面でトルストイの『戦争と平和』を読んで、目をダメにする変な人たちのことは、もう忘れましょう。そのかわりに文章をダウンロードしたり、アーカイブしたり、注釈のタグを付けたり、共有したり、リンクが切れてウェブのどこかに消滅してしまった短い文章のプレイリストを作って、カテゴリー分けをしたりできるような、本当の読書用iPodをいまこそ実現させましょう。とても短い記事向けiTunesのビジネスモデルを開発し、デジタル短文作品のことを真面目に考えていきましょう。

(日本語訳 小西樹里)

※この記事のオリジナルはこちら
will the real iPod for reading stand up now please?

グーグルとBook on Demandが提携

2009年9月18日
posted by 仲俣暁生

Book On Demand社は9月17日、グーグル・ブックスにアーカイブされている著作権切れコンテンツに対し、同社の開発したオンデマンド印刷製本機「エスプレッソ・ブック・マシーン」からアクセスできるようになったことを発表した

この映像はその発表をうけてYouTubeに公開されたもので、Google Book Teamのプロダクト・マネージャーであるブランデン・バジャーと、On Demand BooksのCEO、デイン・ネラーが登場し、Book On Demand社のオンデマンド出版システムのデモンストレーションを行っている。Googleとの提携を前提に、Googleで閲覧可能なパブリック・ドメイン作品(著作権保護期間を過ぎた作品)のことが語られているが、もちろん、Google以外のネット上の書籍コンテンツに対しても同様のことが可能であると思われる。

この投稿の続きを読む »