キンドルで読書体験の共有が可能に

2010年6月20日
posted by 仲俣暁生

以前、藤井あやさんが「キンドル萌漫」で紹介してくれた、キンドル・ファームウェアのバージョン2.5へのアップデートがついに開始されたようです。うちのキンドルにも、昨日の午後に自動的にインストールされており、さっそくいろいろ試してみました。

キンドルストアから購入した電子書籍や、自分のパソコンからインストールしたPDFファイルがフォルダで管理できるようになったことや、PDF を拡大表示できるようになったことも大きいですが、今回のアップデートの最大のポイントは、読書中の本のハイライト箇所をネット上で共有したり、ツイッターで呟いたりできる、「読書体験の共有」機能でしょう。

kindle_twitter

[menu]>[setting]で連動するソーシャルネットワークを選択できる

現状では英語でしか書き込めませんが、この機能を使えば、本を読み進めながら、気に入ったフレーズに対するコメントをツイッター上でリアルタイムにつぶやいたり、同じ本を読み進めている人の感想を知ることができるなど、ゆるやかな「読書会」がネット上で可能になります。

読書体験がシェアされる時代

今回アマゾンがキンドルで採用したサービスは、川添歩さんの「読書体験のクラウド化」という投稿にあったアイデアによく似ています。川添さんはこのときの投稿で以下の用に書いています。

このことから、次の未来が見えてきます。現時点では、「自分の本」たらしめている自分の書き込んだデータは、自分自身だけが参照するものです。自分の読書は、自分だけに閉じられた体験です。その「自分だけのデータ」を公開できる機能が、いずれ登場するでしょう。それは、メタファーではない、文字通りの「ソーシャルブックマーク」です。読書体験の共有化です。

自分が読んだ本を、ほかの人がどのように読んだのか、どこに線をひいたのか、それが分かるようになる のです。

これらは今回のキンドルのアップデートで、英語に限れば実現しています。

kindle_hilights_01

7人の読者が、この箇所にハイライト(下線)を引いている。

実際にどんな感じになるのか、ロバート・ダーントンの「The Case for Books」でためしてみました。本を前から順に読み進めていくと、こんな箇所に行き当たりました。自分ではハイライトを引いた覚えのない箇所ですが、他の7人の読者がここを重要と判断し、ハイライトを引いたことがわかります。

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遍在する書物 あるいは 夢で逢えたら

2010年6月8日
posted by 永原康史

先日上梓した『デザインの風景』(BNN新社)は、足かけ10年、実質8年半の雑誌連載をまとめたもので、各回2000字前後の原稿が全話、103回分収録されている。内容はデザインエッセイで、デザイン(あるいはデザイナー)という視座からみた、いうなれば雑記である。

雑記とはいえ侮れないもので、毎月10年も続ければそれなりの記録になっている。たとえば、愛知万博など自分がかかわった仕事のほか、住む町や時代の変化を記すともなく書いてきた。あらためて読み返してみると、連載最初のころの考え方が今ではまったく違うものになっていたり、興味の対象がずれていたりするが、案外思考の軸というのはぶれていない。その中にあって、ぶれているどころか軸が定まっていないのが電子ブックの話である。

電子ブックについては都合4回取り上げており、松下(パナソニック)のシグマブックやソニーのリブリエといった読書端末が発売された2004年に2回、2009年、Amazon Kindle2の発売をきっかけにやはり2回書いている。この各々の2回は正・続の態になっており、読み切りベースの連載の中では異質である。ここにも軸のなさが露呈している。

たとえば、2004年当時は1990年代のエキスパンドブックの反省から「ただ本を移植しただけの電子メディアに魅力はない」とし、2009年には、2004年を振り返り「本と電子ブックも同じでいいのかも知れない」と真反対のことを書いている。

やはりこの連載で、日本の電子出版史とまではいかないが、電子ブックのトピックスを時系に並べてみたことがある(『デザインの風景』P376収録)。最初のトピックは日本電子出版協会の設立で、それが1986年だから、おおよそ四半世紀分を記載している。大きくは、1991年の米ボイジャー社のExpandedBookから97年青空文庫開設までの第一の波と、ケータイ小説の流行からはじまり、任天堂「DS文学全集」(2007年)、iPhone(2008年)を経て今に至る、第二の波に分けることができる。その間に先述のシグマブックやリブリエがあるのだが、残念ながら波をつくるまでには到らなかった。

第一の波は、フロッピーディスクやCD-ROMなどでのパッケージ出版が主流で、80年代後半のBBS(主にニフティサーブ)でのスタックウェア(Apple HyperCardをエンジンとしたソフトウェア)のムーブメントが源流のひとつにある。インディペンデントでの流行が、(やはり自主制作に近いとはいえ)一般書店や電気店の店頭に並ぶといった興奮があった。たとえ閉じたBBSであっても、ネットワーク上のデータが“モノ”になって流通するという(今から考えれば)逆転現象が起こっている。90年代初頭では物流こそがパブリッシングであり、電子メディアといえども複製文化の外にはなかったのだ。

一方、第二の波ではクラウド上に本のコンテンツがあり、専用端末から直接ダウンロードすることができる。場合によっては直接アクセスして、ダウンロードすることもなく読むことができる。モノとして現れてくるのは、専用であれ汎用であれ読書端末だから、やれKindleだのiPadだのと騒ぐことになるが、それはまだ複製文化時代のイメージが人の頭を支配しているということだろう。書物はすでに遍在文化の時代に入っている。

「電子書籍 第二の波」で「読著者」が生まれる

第一の波と第二の波の間に何があったかといえば、ワールドワイドウェブの普及である。インターネット上のハイパーテキスト情報システムは、言葉をノードとして、画像や映像をも結びつけることに成功した。瞬く間にウェブは大きな情報の器になった。2005年ごろ、そのウェブにも変化が訪れる。ウェブ2.0である。

おさらいの意味で書いておくと、提唱者であるティム・オライリーは、ウェブ2.0を「送り手から受け手へ一方的に情報が流れる状態から、送り手と受け手が流動化し、誰でもがウェブを通して情報が発信できるように変化したもの」だと定義している。

ウェブ2.0によって、情報技術から情報サービスへと主役が代わった。ブログやSNS(ソーシャルネットワーク・サービス)がその代表格だが、このふたつはまだ完全に送り手と受け手が流動化しているとは言い難い。口コミ操作やカリスマブロガーの存在がそれを証明している。映像や写真の共有サービスであるYouTubeやFlickrもあまり事情は変わらない。しかし、2006年に登場し、わずか3年で利用者が5000万人を超えたといわれるTwitterは、まさに「送り手と受け手の流動化」と呼ぶにふさわしい様相をみせている。Ustreamも然りであろう。そして、電子出版第二の波はそれらと同期するようにして起こっているのである。

松本弦人の「天然文庫」収録作品、『IN THE PRISON』より

松本弦人の「天然文庫」収録作品、『IN THE PRISON』より

書物における「送り手と受け手の流動化」は、BCCKSをその先駆としていいだろうか。BCCKSとは、グラフィックデザイナー・松本弦人が率いる、ウェブ上で本をつくるサービスである。公開当初は本の形式を模したブログの域を出なかったが、情報から物質へと展開した実際の紙の本、「天然文庫」の発行によって、受け手であると同時に送り手でもある、いうなれば「読著者」を成立させるのに成功した。デジタルデータを物質(紙)にアウトプットすることで、複製物としての本ではなく、遍在する本をつくったのである。考えてみれば、電子ブックとレイアウトソフトから直接印刷するオンデマンドプリントは、デジタルデータの出力先がオンスクリーンであるのか紙であるのかの違いしかない。すでに書物はデジタルメディアになっていたのである。

松本弦人は、CD-ROM『ポップアップ・コンピュータ』(1996年)、『ブックメーカー』(97年、未完成)など、ブックメタファーを利用したデジタルコンテンツを早期から制作し、電子ブック第一の波の一翼を担っていた。

もうひとつ、97年から07年の電子ブック空白の時代に起こっていたことは、本と電子情報に対するクリティカルな活動である。まさにこの『マガジン航』の前身といってもいい『本とコンピュータ』誌は、第一の波が終わろうとしている1997年に創刊し、第二の波がやってくる直前の2005年に終刊を迎えている。そして、その間に蓄えられた青空文庫に代表される電子テキスト群が第二の波を先導するコンテンツとなっていることは、記しておかねばならない。

さて、ぼく自身はといえば、91年から97年の間に『タルホフューチュリカ』(93年、ボイジャー)、『カムイ外伝』(97年、小学館)など、6本の電子ブックを制作し、その後、いくつかの大きなウェブプロジェクトを経験して、昨年、epjpという電子出版のレーベルを立ち上げた。

初期電子本については、1998年に現『マガジン航』編集長の仲俣暁生さんにインタビューしていただいた「どんなメディアでも本は本だ ──ブックテクノロジーという考え方」(『季刊・本とコンピュータ』98年夏号掲載)に詳しい。今後電子化すれば読んでもらえる機会もあるだろう。

永原氏がデザイン/出版したキンドル用電子書籍『HERE AND THERE』をiPadとiPhoneで表示したところ。

永原氏のKindleBook『HERE AND THERE』はiPad/iPhoneでも読める。

昨年(2009年)は3冊のKindle Bookをリリースした。Kindleは、米Amazon社が発売した読書端末のことと考えられているが、Amazonが推進する電子ブックサービスの総称と理解した方がわかりやすい。Kindleの名を冠する専用端末のほかに「Kindle for iPhone」や「for iPad」などのブックリーダーを無料配布しており、そこで読める独自フォーマットの電子ブックをKindle Bookという。このサービスの最大の特徴はだれでもが本を出版できるところにある。販売はAmazon.comだが、日本からでも可能である。

リリースした3冊のうち2冊は英語版で、世界各地からダウンロードできるようになっている。しかし、実験的につくった日本語版は米国内でしか販売できない。
人に先に夢を見られると眠れなくなるタチのぼくは、とりあえず真っ先に夢を見ようと眠りについた。が、まだまだ浅い。

■イベントのお知らせ
この記事の筆者である永原康史さんと、文中で紹介されている松本弦人さん、『マガジン航』編集人の仲俣暁生の三人が参加するトークイベント「電子ブックのコンテンツをいかに企画するか?」が6月13日(日)13時より、青山ブックセンター本店内・カルチャーサロン青山にて行われます。詳細はこちらをごらんください。

iPadは蜘蛛の糸!?

2010年6月7日
posted by 大原ケイ

拙ブログで、iPadやキンドルは、不況の海に漂う日本の出版社の前に垂れてきた蜘蛛の糸だと書いた。なのに出版業界やマスコミのこの浮かれ様はなんだろう? 猫も杓子もツイッター特集の次はiPad特集って? そう、細い細い蜘蛛の糸なので、そんなに皆でいっぺんにぶら下がったら切れるってば。

アメリカにおける電子書籍は最初から「ブーム」や「トレンド」ではなく、着々と進みつつある当然のうねりの一つに過ぎない。ってなことをずいぶんと昔からクチを酸っぱくして言ってきたつもりだが、誰も聞いてなかったってことだな。どんな魅力的なガジェットが発売されようとも、どんな売れっ子作家がEブックを出そうとも、急に誰もが電子本を読むようになるわけではない、という当たり前のことさえ忘れてしまったかのようなこのお祭り騒ぎはなんなのだろう、と思う。

日本のビジネス誌は軒並みiPad特集。まさに「猫も杓子も」状態。

日本のビジネス誌は軒並みiPad特集。まさに「猫も杓子も」状態。

こっちでも書籍全体の売上げ(09年の総計約240億ドル)に占めるEブックの売り上げはまだまだ少なく、今年もおそらく約8%。ぶっちゃけまだ一割にも満たない。これが5年とか10年とか近い将来に50%を超えるとか、やがて紙の本がなくなる、などと戯けたことをほざくマイク・シャズキンみたいなコンサルの言うことをまともに信じる輩がいるから困る。そう言っておけば日本のマスコミから取材が来ることを予測しているか、あるいは不純物の多いドラッグでもやっているのだろう。

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読み物コーナーに新記事を追加

2010年6月4日
posted by 仲俣暁生

アップルのiPadが日本でも発売されたこともあり、さまざまなメディアが電子書籍時代の本格的な到来を伝えています。書物の歴史がいま、大きな曲がり角を迎えつつあることはたしかでしょう。では、この先にはどんな本の未来が待っているのでしょうか。

いま私たちの目の前で起こっているのは、たんに「電子書籍」という新しい技術や商品の登場ではなく、これまで長く続いてきた書物の生態系に激変をもたらすかもしれない、書物史におけるパラダイムシフトです。この変化がもつ意味は、出版不況からの突破口といった十数年程度のタイムスパンではなく、百年、数百年、場合によっては数千年という、より大きなスケールで考えるべき問題をはらんでいます。

すでに海外では、ロバート・ダーントンの『The Case for Books』をはじめ、電子書籍の登場がもたらす変化を、書物史のなかに位置付けようとする試みがはじまっています。以前、「マガジン航」にダーントンのこの著作についての書評コラム「グーグル・プロジェクトは失敗するだろう」を寄稿してくれた津野海太郎さんが、今秋、国書刊行会から新著の刊行を予定しています。その本に収録される書き下ろしの文章「書物史の第三の革命~電子本が勝って紙の本が負けるのか?」を、今月から何回かに分けて、「マガジン航」で掲載していくことになりました。

今回掲載するのは、「本と読書の世界が変わりはじめた」と題された第一章です。今後も月1、2回のペースで連載していきます。どうぞご期待下さい。

1 本と読書の世界が変わりはじめた

2010年6月3日
posted by 津野海太郎

いま、というのは二十一世紀の最初の十年がたった現在という意味ですが、そのいま、私たちにしたしい本と読書の世界が大きく変わろうとしている。

そのことを前提としてみとめた上で、この変化を「本の電子化やインターネット化に乗りおくれるな、急げ急げ」というようなあわただしい観点からではなく、五千年をこえる歴史をもつ書物史の大きな流れのなかで、できるだけ気長に考えてみたい。

いいかえれば、いまはせいぜい五年か十年の目盛りで考えていることを、百年、さらには千年の目盛りによって考えてみること。そうすれば、いまの変化が一体どれほどの深さや広がりをもつものなのかがわかってくる。いまはまだ完全にはわからなくとも、あるていどの見当はつくだろう。それがここで私がやりたいと思っていることなんです。
でも、これだけでは抽象的すぎて、ちょっとわかりにくいかもしれません。もうすこし具体的にのべておきましょう。

まず「百年の目盛り」ですが、これは、ついこのあいだ過ぎ去ったばかりの百年、つまり二十世紀とのつながりで現在の変化を考えてみようという意味です。意味というより提案かな。そのさい、ぜひとも頭に入れておいてほしいことがひとつある。二十一世紀生まれのいまの少年少女をのぞけば、私たちのほとんどは二十世紀に本とのつきあいをはじめた。ところが、その二十世紀というやつが、じつはただの百年じゃなく、書物史や出版史の視点から見ると、たいへん特殊な百年だったということなんです。

簡単にいえば、長い歴史をもつ本の力がかつてない頂点にたっした時代、つまり「本の黄金時代」です。それこそが私たちが生身で体験したあの二十世紀という時代だった。

頂点というのは、たんに「かつてなかった」というだけではなく、おそらくこの先もないであろう繁栄の頂点ということ。ここまでいそいで駆けのぼってしまえば、あとはもう峠のさきの坂道を下るしかない、いわばどんづまりとしての頂点。いまのこの変化には、そういう特殊な時代の終りという一面がある。いや、どうやらあるらしいぞということが、ようやく私たちにもわかってきた。それが「百年の目盛りで考える」ということの意味です。

では「千年の目盛りによって」とは、どういう意味なのか。
ようするに、いま私たちがそのさなかにいる変化を、紀元前三〇〇〇年ごろ、メソポタミア南端の都市国家シュメールで人類最初の本が生まれてからの長い時間のうちにおいてみよう、ということですね。そうすれば、いまのこの変化、つまり紙と印刷の本から電子の本へと向かう動きが、じつは「書物史の第三の革命」ともいうべき、もうひとまわり大きな変化の一部をなしていることがわかるにちがいない。なにも私が勝手にそう主張しているわけじゃないですよ。私のような歴史のシロウトにかぎらず、ロジェ・シャルチエやロバート・ダーントンといった人びとに代表されるプロの書物史家たちの多くも、徐々に、そんなふうに考えるようになっているらしい。

「第三」というからには、「第一」「第二」の革命があります。それまで延々と口頭でつたえられてきたことがらを、ついさっき誕生したばかりの文字によって記録するようになった。シュメールの場合でいえば粘土板に楔形《くさびがた》文字でということになりますが、それが「書物史の第一の革命」です。そして長い手写本の時代をへて、印刷技術の登場によって同一の文書をいちどに大量コピーできるようになったのが「第二の革命」――。

エリザベス・アイゼンステイン『印刷革命』(みすず書房)

E.L.アイゼンステイン『印刷革命』

これらの変化を「革命」と呼ぶのは、やはり多くの書物史家たちが好んでこの語をつかっているからなんですね。たとえばエリザベス・アイゼンステイン。彼女は十五世紀なかばのグーテンベルクによる活版印刷術の発明を「印刷革命」とよんだ。同名の主著の翻訳がみすず書房からでています。

でも、どう思います? こうしたアイゼンステイン流の理解のしかたは、私にかぎらず、私たちのような東アジアの人間の目には、あまりにも西欧中心の歴史観に片よりすぎているように見えてしまうんじゃないかな。当然ですよね。もしグーテンベルクの発明だけが「革命」なのだとしたら、それ以前の中国や韓国における金属活字の発明とか、さらにそのまえに中国から東アジア全域にひろがった木版印刷術は、あれはいったい何だったんだということになってしまう。

私の考えははちがいます。むしろ木版や活版の発明をふくめて複数の土地に生じた複製化への試みが何重にも折りかさなり、それがやがて本の歴史に未曾有の大変動をもたらしたというふうに考えておきたい。くりかえし打ち寄せるゆるやかな「波動」であって、一回こっきりの「革命」ではない。だから本当は「革命」の語はつかいたくないのですが、でも「第三の波」といってしまうと、これまた以前どこかで聞いたことがあるような気がするし……。まあいいか、当面、ここは「革命」で妥協しておくことにしましょう。

ともあれ、書記革命(第一)と印刷革命(第二)というかつての二つの革命に匹敵する巨大な変化が、いま、われわれの本の世界にじわじわと到来しつつある。中心にあるのは、いうまでもなく紙と印刷の本から電子の本へと向かおうとする動き。その動きを「第三の革命」として書物史の内側に位置づけようとする意見が、おもに欧米の書物史家たちのあいだで広く共有されるようになってきた。

いや、そんなふうにいうと、
――書物史家ってなにさ。なぜいちいちそんな連中に気をつかうんだい?
と怪訝に思う人がいるかもしれませんね。

念のために、ざっと説明しておくと、二十世紀中葉、一九五〇年代後半から六〇年代にかけて、書誌学や美学や文学研究から歴史学や人類学や経済学にいたる多様なジャンルの研究者たちが、すでにある「科学史」や「芸術史」などとならぶ独立の学問領域として「書物史」というものを確立しようとする運動を同時多発的に開始した。書物史、英語では history of books、フランス語だと histoire du livre です。ひとまず、その流れに立つ学者、研究者たちというふうに考えておいてください。

まえにあげた『書物の秩序』のロジェ・シャルチエ、『猫の大虐殺』のロバート・ダーントン、『印刷革命』のエリザベス・アイゼンステインのほかにも、『書物の出現』のリュシアン・フェーブルとアンリ=ジャン・マルタンを筆頭に、『民衆本の世界』のロベール・マンドルーとか、いろいろな人がいます。広く考えれば、『物語の歌い手』のアルバート・ロードや『声の文化と文字の文化』のウォルター・オングや『グーテンベルクの銀河系』のマーシャル・マクルーハンも、そこにふくめていいかもしれない。あと『プラトン序説』のエリック・ハヴロックや『想像の共同体』のベネディクト・アンダーソンなども……。

本の歴史にも、巻物《スクロール》(巻子本)から綴じ本《コデックス》(冊子本)への転換とか、産業革命にはじまる紙や印刷の大量生産化とか、さまざまな節目があったんです。そのうちから、さきにのべた「口承から書記へ」の動きと「写本から印刷本へ」の動きの二つを、もっとも本質的で決定的な変化としてくっきりと浮かび上がらせた。浮かび上がらせることに成功した。いまは常識化しているが、じつはそれこそが二十世紀後半の書物史運動のもたらした最大の成果だったんじゃないか。私はそう考えています。

そして、それらと同レベルの、あるいはそれ以上かもしれない大きな変化が、いまわれわれの本の世界に生じつつある。長いあいだ、紙の本、物質としての本の歴史に専門的にかかわってきた人たちにとって、それを認めるのはなかなか容易なことじゃないですよ。それがわかるだけに、私はかれらの判断(たとえばダーントンは腹をくくって本の電子化に一歩踏み込み、その決断にシャルチエはやや批判的らしい)に、そのまよいや揺れもふくめていささか共感するところがあるんです。

――いまは五年か十年の目盛りで考えていることを、百年、千年の目盛りによって考えてみよう。

そう私は最初にいいましたが、それはおおよそこんな意味です。私たちが「いまの変化」というとき、その「いま」の厚さが、往々にして、あまりにも薄っぺらすぎる。幅もせまい。それが気にかかる。じゃあ、その厚さや幅をもうすこし大きくとってみたらどうなるか、どんな世界が見えてくるだろう、ということですね。うまくいくかどうかは別にして、とにかく、そんなあたりからはじめてみたいと思っています。

※本稿は国書刊行会から今秋に刊行される予定の、津野海太郎氏の新著のために書き下ろされた文章「書物史の第三の革命~電子本が勝って紙の本が負けるのか?」の抜粋です。これから月に1~2回のペースで1章ずつ公開していく予定です。