「ガジェット」ではなく「サービス」を

2011年8月18日
posted by 大原ケイ

先月、一時帰国したときに、とある電化製品の量販店に足を踏み入れて、はたと気づいたことがあった。それはやっぱり日本では電子書籍が何であるかが根本的に誤解されているのではないかという懸念だ。何かが違う……。この違和感がどこからくるのか、Eブック定着が先行するアメリカとどこがどう違うのか、少し考えてみた。もちろん、アメリカ流にやるのが何でも正しいなどと言うつもりはないのだが。

昨年さんざん「電子書籍元年」ともてはやされ、話題になりながら、今もさっぱり根付く気配がないのも、どうやらどこか誤解があってあらぬ方向に期待をかけすぎているからなのではないかと心配してしまうのだ。量販店で何を思ったかというと、この先、何をどう間違ったとしても、電子書籍というのはさくらややビックカメラでハッピ着た兄ちゃんが「今ならイチキュッパ!」などと声高に叫んだところで売れるものではないだろう、ということ。

電子書籍の「キモ」はここだ

だから今さらながらしつこいと思われようと、ここで再度、電子書籍の「キモ」というか、電子書籍がそもそも何なのか、なぜ出現したのか(だって本質的に紙の本ですべてこと足りているのなら、存在理由もないのだから)、どこが紙の本と違うから良いのか、確認してみたい。

1.Reflowable text(読み手による組版)

電子書籍の利点、あるいは決定的な違いを一言で言うのなら、紙による制約を解き離れたコンテンツのあり方が可能だということだ。紙の本というのは、本を作る側(著者、出版社、印刷会社を含む)が紙面を見せたいように一方的にデザインする。その結果、組版だの装丁デザインだの、マージンだのフォントだの、そして日本では値段までもが(一方的に)決められて、商品として成り立っている。

電子書籍では、そんなものはどうでもいい。電子書籍が便利なのは、ユーザー/読者側が、読みたい文字の大きさで、好きなフォントで、あるいはコントラストを調節して読めるからだ。紙の本を作る側にとっては、こっちだって読むのに最適と思える紙面作りをしているのに勝手に変えられるのがそんなに良いのか、と思うかも知れないが、それは違う。視力が衰えた人なら大きくして読みやすくできるし、戸外や室内の照明の状況によっても読みやすい文字は大きく変わる。それがどんなに便利か、なかなか使ってみないとわからない。

ルビをふるとか、縦書きにするとか、作り手がこだわりがちな見せ方の部分は、それを重視しない読者にとって「オマケ」でしかない。そしてこの先そのフォーマット言語がEPubだろうと、HTML5だろうと、その可能性はどんどん進化していく。「やっぱり紙の本じゃないと」という部分は確実になくなっていくのだ。

それまではぶっちゃけ、ルビなんか括弧に入れて漢字の後に放り込んでおけば用は足りるし、縦書きで読まないと感動が薄れる、などと本気で信じている人はこれからも紙の本を買い続ければいい。ただし、これからはますます紙の本が売れなくなり、欲しい本が手に入りにくくなるから、小売価格も上がるだろうし、それなりの代償を支払う覚悟があるのならば。本を買う、という金銭的なサポートをしないで、「縦書きの本が好きだからなくさないで」などと言うのは資本主義社会においてはおこがましく、厚かましい要求だろう。

そうなると出版社が陥りやすい罠も明確になってくる。電子書籍を作るにあたって、なるべく紙の本を再現しようとするのは間違っているのだ。もう既にPDFファイルにしておけばいい時代は終わった。作り手の思う通りに音楽や映像を入れたりするマルチメディア化も、その恩恵を受けるコンテンツは限られる。

自分たちの思い通りに見せようとして、一時期iPad用の単独アプリが濫造されたようだが、結果としてアップルによって拒否されてしまったタイトルも多いと聞く。紙の本のテキストをそのままリフロー可能にするだけで、電子書籍としての付加価値は充分なのだ。

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「本」はまだ読者に届いていない

2011年8月15日
posted by 沢辺 均

複数の場所で読めるようにする理由

この連載は、デジクリ発行と同時に、我がポット出版のサイトの「ポットの日誌」コーナーに毎回掲載している。また、この「マガジン航」にも掲載してもらっている(編集部注:連載2回分を1回にまとめるなど、転載にあたり少し再編集しています)。つまり、3カ所で掲載しているわけだ。

なぜ、このデジクリ連載をポット出版のサイトと「マガジン航」に掲載したいのか。ボクはせっかく苦手な文章を書くんだから、できるだけ多くの人が読む可能性を増やしたいのだ。文章ってのは、恐ろしく人の目に触れていないとおもっているんだ。いや、ボクの文章だけじゃなくて、もっといい文章も、だ。

それが惜しい。

ポット出版の本で『石塚さん、書店営業にきました。』って本がある。タイトルどおり、出版社の営業がいかにして書店に食い込むのかって本。スゲー狭いでしょ、ターゲットが。出版物は年間8万点の新刊。営業が一人で担当するのが年10冊平均(沢辺試算)だから8千人。そんな小さな市場で、3千部近くが売れた。もう、買うような人はだいたい買ってるんだろうなって思っていたら、一昨年(2009年)の東京国際ブックフェアで100冊近くも売れたことがあった。

本は、その本を読むだろう人に全然届いていないんだって思った。これは本に限らずサイトの文章も同じなのだと思う。デジクリを購読している人と、ポット出版のサイトをちょっと見に来る人、「マガジン航」を見に行く人って、重なっていない人のほうが多いだろう。だから複数の場所で読めるようにしたほうが、読む人が増えてくれるって考えたわけだ。

ここからちょっと本の話に寄る。

既刊本を売ることこそ出版社の使命だ、みたいな言い方がよくされる。半分はそのとおりだけど、でもよっぽどの本じゃなければ、ただ増刷・増刷の繰り返しだけで買われることはないとおもう。化粧直ししないと、売れるキッカケにならない。

たとえば、『星の王子様』の著作権が切れたときに、いくつもの『星の王子様』が発行されたし、一定の注目も集めた。太宰治の『人間失格』にイケメンの写真かなにかのカバーをつけ直して注目を集めてたこともある。ポット出版だって『劇画家畜人ヤプー【復刻版】』 は1万にはまだ届かないけど、復刊したことでそれなりにはもう一度注目を集めることができたんだと思う。

これらの本は「化粧直し」したってことで、注目を集めた。それがなければ、そうした注目は集められなかったのだ。本(=文章)はまだまだ読む可能性を持っている人に知られていないんだ。

電子書籍の時代、つまり、読むことができる文字数が、とてつもなく増える時代に、改めて出版の意味を考えると、見る場所を増やしたり、化粧直ししたりすること、そうすることの意味のあるものを探し出すことに、それがあるのだと思うのだ。

本を「もう一度届ける」のはとても難しい

電子書籍の話として続きを書きます。この化粧直しは太宰治の『人間失格』のようなカバー替えのほか、復刊・増補改訂版・文庫化などという方法が考えられる。

ところがもともと少部数のわがポット出版の本はこれらをやりづらい。カバー替えでも増補改訂版でも、やはり初版のときより売上げは大きく落ちると思う。もとが少部数なのだから、そうした化粧直しで売れるだろう部数はさらに少なくなるわけだ。

石ノ森章太郎の『ジュン』が完全復刊。

ポット出版では、ときどき復刊をやる。今も石ノ森章太郎の『ジュン』という名作の完全復刊を準備中。これはもともと初版や最初の発表時の評価も高く、その後も評価は落ちてない(という判断)ので、少部数での復刊でも採算がとれるだろうと考えたのだ。ポット出版の復刊は、それなりに売れた本をターゲットにしている。

余談だけど、紀伊國屋のパブラインという出版社向けのサービス(有料で月額10万!)があって、店頭の実売を一日遅れでみることができる。さらに、他社の本・雑誌も見ることができるのだ。1990年代の後半あたりからのデータが蓄積されている。これが他社の本の復刊を考えるときに役に立つのだ。

さて、この『ジュン』の例は他社の販売成績の良い(そしてその後忘れられたり、大手出版社の基準では復刊するほど販売が見込めなさそうな)本の例。ポット出版の本では、1000、2000部という販売成績の本もゴロゴロしている。こうした本は文庫にされることもない。文庫は、昔は初版3万部などと言われていたけど、今は1万チョットくらい。それでも1万! いくら文庫にしてもそれほどは見込めないもんばかりだということだ。

さらに、ポット出版は文庫をだすには困難な課題がヤマ積み。文庫の初版部数が多いということは、売れなかったときの赤字がスゴいことになる。毎月定期的に複数タイトルをだすことも取次に求められるようだから、イッパイださなきゃならない。書店店頭に、もうあらたな文庫のスペースを確保してもらうことがそもそも絶望的にむずかしい。

まあ、取次がポット出版が文庫をだしたいといっても、相手にしてもらえないだろうけどね。つまり、化粧直しして、まだまだ読んでくれるだろう人に、もう一度届ける機会をつくるのは、今考えられるパターンではとても難しいのだ。

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本屋の未来と電子書籍の微妙な関係

2011年8月10日
posted by 仲俣暁生

先月の終わりに東京・新宿で行われた《ベテラン翻訳家が語る「電子出版への道はどちらか?」シンポジウム》を聞いてきました。このイベントの告知記事(翻訳家が電子出版について語るイベント)でも紹介されているとおり、ブルース・スターリングの翻訳などで知られる小川隆氏による、アメリカの電子出版事情の解説が中心的な話題でした。

左から小川隆氏、大森望氏、日暮雅通氏。

他にも大森望氏、日暮雅通氏らを迎えた議論は、当然のことながら電子書籍の話題だけにとどまらず、国内外のリアルな出版事情にまで及びました。遠慮なく固有名詞が飛び交うスリリングなシンポジウムでしたが、ここでそのすべてを再録するわけにはいかないので、当日の話から私が重要と感じたことをいくつか書きとめておくことにします。

「出版は資本主義になじまない」

前半の小川隆氏の話でもっとも印象的だったのは、「出版は資本主義になじまない」という冒頭の一言でした。それはどういうことか。すこし迂回することになりますが、小川氏の発言意図を理解するためには、アメリカでここ数十年の間に起きた出版市場の変化を理解する必要があります。

アメリカの出版統計をみると、本の形態として大きくわけて「ハードカバー」のほかに、「マス・マーケット・ペーパーバック」と「トレード・ペーパーバック」があることがわかります。どちらもジャケット(カバー)のない装丁ですが、前者は細長い小ぶりの判型で廉価、後者は判型が大きく値段も高めなのが特徴です。おそらく多くの日本人が「洋書のペーパーバック」として思い浮かべるのは、前者の「マス・マーケット・ペーパーバック」でしょう。

歴史的に先に登場したのは「マス・マーケット・ペーパーバック」で1930年代のこと、「トレード・ペーパーバック」が登場したのは1950年代に入ってからです。ちなみにその嚆矢がダブルデイ社の「アンカー・ブックス」で、これを立ち上げた編集者ジェイソン・エプスタインは、2004年にオンデマンド印刷製本機、エスプレッソ・ブック・マシーンを開発するオン・デマンド・ブックス社を創設しています。

「マス・マーケット」と呼ばれることからも明らかなとおり、前者のタイプのペーパーバックは大衆市場に向けて開発された商品で、空港やドラッグストア、スーパーマーケットなどに置かれるのが普通です。こうした本をわざわざ「マス・マーケット」と断るのは、(現実はともかく建前として)本は文化財であって、「大衆消費財」ではない、という暗黙の前提があったからでしょう。

「モール文化」によって変質した書店

小川氏によれば、1980年代以後、アメリカでは「モール」と呼ばれる複合型の大型商業施設を中心に、都市の中心部から郊外に脱出した中産階級による新しいタイプの大衆文化が生まれてきます。大手書店チェーンが「モール」内に店を構えるケースも増え、「本は商品である」という考え方が徹底されていきます。こうした「モールに入る本屋」では大量販売を前提にしたディスカウントが行われ、その影響もあって独立系書店が減少していく一方、大手書店チェーンの間でも生き残りを賭けた戦いと、栄枯盛衰のドラマが演じられます。

電子書籍と紙の本の併売をし、必死にアマゾンに対抗しているバーンズ・アンド・ノーブルや、倒産により姿を消すことが決まった全米第二の書店チェーン、ボーダーズは、こうした熾烈な生存競争の生き残り組だったわけですが、結果的には第一位のバーンズ・アンド・ノーブルとアマゾンだけが残る結果になりました(このあたりの経緯は大原ケイさんによる「ボーダーズはなぜダメになったのか?」に詳しく書かれています)。そこに流れているのはまさに資本主義の論理であり、小川氏が冒頭でした「出版は資本主義になじまない」という発言は、こうしたアメリカの出版市場の変容をふまえてのものと私は理解しました。

アメリカにおける電子書籍ブームに、大手書店チェーンとアマゾンの長期に渡る戦いの第二ラウンド(あるいは最終ラウンド?)という側面があることは見逃せません。日本では紙の本から電子書籍へ、という一足飛びの議論がされることが多いですが、その背景にある郊外化や人々のライフスタイルの変化、それらが書店に与えている影響にはあまり言及されません。こうした中間段階の検討を抜きにして、いきなり日本にもアメリカと同様に「電子書籍の時代がくる」というストーリーは語れない、という印象を強くもちました。

「電子書籍は小売店主導でないと根付かない」

小川氏は続けて、アメリカにおける教養主義の崩壊や読書文化の変容を指摘していました。これらは日本でも同時代的に起きたことなので理解しやすいかもしれません。

1980年代以後、アメリカでも学生が本を読まなくなったと言われ、それに危機感をもったクノップフ社の編集者ゲイリー・フィスケットジョンがトレード・ペーパーバックによる文芸シリーズ Vintage Contemporaries をはじめたエピソードを小川氏は紹介してくれました。このシリーズからはジェイ・マキナニーやブレット・イーストン・エリス、レイモンド・カーヴァーをはじめ日本でも知られる新世代の作家が登場しましたが、このシリーズも長期的にみると若い世代の読書離れをとめる大きな流れにはならなかったとのことです。

こうした前提をふまえ、小川氏よりアメリカの電子書籍市場の現状報告がなされました。それによると、アメリカの電子書籍で売れているジャンルは圧倒的に「フィクション」であり、販売数で全体の約6割を占めるとのこと。このうち主流はロマンス小説をはじめとする「ジャンル小説」だが、(おそらくファンタジーを含むであろう)「SF」も19パーセントと健闘しているほか、「クリスチャン・フィクション」と呼ばれる宗教小説も大きな比率を占めている。古典を含む狭義の「文学」も2割程度を占めるが、プロジェクト・グーテンベルクなどのパブリック・ドメイン作品が数字を底上げしている可能性大。また「ノンフィクション」は全体の1割にとどまる。いずれにしても電子書籍の読者は基本的に紙の本のヘヴィリーダー層であり、「ふだん本を読まない人はKindleでも読まない」とのことでした。

その他にもさまざまな話題が出ましたが、前半の結論を一言でいえば、「電子書籍は小売店主導でないと根付かない」。価格においても他の利便性においても、供給側の論理ではなく、利用者側の便宜を徹底的に優先しなければ受け入れられない。アマゾンのKindleがアメリカで成功したのは、そもそもアマゾンがネット書店(あるいは総合的な小売店)としてきわめて強力な存在だからで、Nookを成功させつつあるバーンズ・アンド・ノーブルも同様だというのです(こうした論旨のためか、この日はSonyのReaderはあまり話題になりませんでした)。

書店(小売店)が主導権を握るアメリカの電子書籍プラットフォームに比べ、電機メーカーやキャリア、印刷会社が主導するプラットフォームが乱立する状況では、日本で電子書籍ビジネスが成功するかどうか未知数である、というあたりで前半が終了しました。

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読み物コーナーに新記事を追加

2011年7月27日
posted by 仲俣暁生

読み物コーナーに原哲哉さんの寄稿、「電子書籍は紙の本にまだ勝てない」を追加しました。原さんもお書きになっていますが、この文章を掲載するきっかけになったのは、「Wired.jp」に公開された「電子書籍が紙に負ける5つのポイント」という記事です。電子書籍が普及するには、以下の5つの問題を解決することが必要だと、この記事の筆者であるジョン・C・アベル(John C Abell)氏は主張します。

  1. 読了へのプレッシャーがない。
  2. 購入した本を1カ所にまとめられない。
  3. 思考を助ける「余白への書き込み」ができない。
  4. 位置づけとしては使い捨てなのに、価格がそうなっていない。
  5. インテリア・デザインにならない。

電子書籍は「紙の本にはかなわない(少なくとも、簡単にはかなわない)」といいながらも、これらの問題さえ解決されれば「電子書籍は制限なく成長していくことだろう」とも述べており、その将来にはかなり楽観的なようです。

アベル氏が挙げているような問題点については、すでに電子書籍ビジネスを進める側も気づいているようです。さまざまな電子書籍プラットフォームで「購入し た本を一箇所にまとめる」ためのサービスとして、今年の国際電子出版EXPOでは、インプレスR&Dと大日本印刷は電子書籍の読書環境を一元化する「オープン本棚(仮称)」を発表しました。彼の挙げた5つの「問題」は、遠からず解決されていくことでしょう。

しかし、と原さんはさらに疑義を呈します。

「WIRED.jp」の「電子書籍が紙に負ける5つのポイント」という記事を読んだ際、「紙の書籍」と比較されている「電子書籍」の特徴というのは、電子書籍ではなく、電子書籍を読むための「端末」(リーダー)の機能であって、本質的な比較と分析が行なわれていないと思いました。

これまでの他の多くの記事でも「電子書籍」と言いながら、それを読むための「端末」(リーダー)の評価が多く、その上で読まれる最適化された「書籍」とは一体どういうモノなのか、その新しいメディアによって、読む側はどうなるのかが語られていませんでした。これは間違いだとは言えないでしょうが、 間違いに近い。

アベル氏と違って、原さんは電子書籍の弱点を指摘するのではなく、むしろその「利点」として挙げられることをリストアップし、それらは本当に利点なのか、というアプローチで反論を試みています。原さんと同様、大量に本を所有している身としては共感するところが多かったですが、もちろん、異論をもつ方もいると思います。別の立場からの「電子書籍」論の投稿は大いに歓迎します。

日本でもReaderStorehontoTSUTAYA GALAPAGOSなど、新しい電子書籍ストアが昨年から今年にかけて相次いでオープンしており、それらに対応したリーダー端末やアプリもリリースされています。さらに今年の国際電子出版EXPOでも、あらたな電子書店の参入が発表されました。アベル氏や原さんの挙げる問題点が、現実のサービスのなかで少しずつでも解消されていくことを期待します。

電子書籍はまだ紙の本に勝てない

2011年7月27日
posted by 原 哲哉

PCユーザーであり雑誌ファンとしては大変懐かしい『WIRED』日本版の復刊を楽しみにしていた私は、発売日に書店へ駈け付けました。レイアウトもクールで、テクノロジー関連の記事を楽しみ、インターネットのサイト「WIRED.jp」を、誌面との連携を探りながらブラウズしていると、「電子書籍が紙に負ける5つのポイント」という電子書籍の記事を見付けました。

この記事を読んで、「一面的にしか捉えられていなくて、分析が甘い!」「紙媒体が、現在の電子書籍に負けるわけがない」「そもそも、こいつは紙の書物というモノを苦労して読んだ経験が少ないな。言っていることはIT関連のことばかりだ」などと、不満をTwitterでつぶやいていた時、「マガジン航」の編集長から「電子書籍について考えていることをまとめてみませんか」と、声を掛けて頂きました。

私は、かつて約15年間、株式会社アスキーという出版社で編集者をしていました。月刊誌で記事の執筆や編集をしたり、海外の技術者向け情報誌の日本版を刊行したり、単行本やCD-ROMの製作、インターネットが流行してからは「ascii24」(現在のascii.jpの前身)を運営し、その当時からずっと、紙メディアとデジタルメディアとの違い、それを作る際の編集者の意識とビジネスモデルに悩んで来たように思います。

現在は、「ソフトイーサ株式会社」という筑波大学発ベンチャー企業で、VPNソフトウェアの販売をしています。今後の事業として出版にも取り組んで行きたいのですが、なかなか新しいアイデアが見付かりません。それでも『ネットワークの中を通るモノは、すべてが商材』だと考えているので、「電子書籍」は、とても関心のあるテーマです。

読書家の日常生活

私は、紙媒体の新聞や雑誌、書籍を溺愛しています。毎日、何がしかの本を読み、新聞記事を読み広告を眺め、新刊予定を調べては発売日を楽しみにしています。外出の際には数冊の文庫本を持ち、どこの街でも書店を見掛ければ必ず立ち寄って、何も買わずに店を出るのは申し訳ないと、帰りの鞄の重さに喜びを感じます。

夜になると高く積まれた本の背を眺めては、読む順番の検討に長時間を費やしながら、書評誌や週刊誌に掲載される新刊の書評をチェック、様々な文学賞の選考会を楽しみにし、予想して外れていた時には、次の日に慌てて書店へ走ります。

もちろん、その時々の仕事に関係する本や、取り敢えず理解したい場合には、そのテーマ毎の新書も読みますが、実用書やビジネス書、ノウハウ本を積極的に読むことは少ないです。楽しみはミステリ小説で、その他には、主に評価が定まっている文学、哲学・思想、経済学関連の古典作品を読んでいます。

中でも社会科学系の古典作品は「直接的に、仕事には役に立たないだろう?」と聞かれることがありますが、それは、実際に読んでいない人の勝手な想像です。私には役立ちますし、でなければ何百年もの間、読み継がれて来た根拠がないでしょう。ですから、有名だけど読まれていないからこそ「古典」と呼ばれるのも、一面正しいと思います。

読書が生活の一部となり、食事をしに行くよりも書店へ寄る回数の方が多いくらいですから、PCからオンライン書店を通じて、紙では入手し難かった本を買って喜んでいますし、「青空文庫」も読むし、iPhoneでミステリ小説のアプリケーションを買って読むこともあります。その他にも雑誌のバックナンバーやコミックを買い、これまでも電子書籍の利便性を実感していました。

「電子書籍元年」って何だったのか?

「WIRED.jp」の「電子書籍が紙に負ける5つのポイント」という記事を読んだ際、「紙の書籍」と比較されている「電子書籍」の特徴というのは、電子書籍ではなく、電子書籍を読むための「端末」(リーダー)の機能であって、本質的な比較と分析が行なわれていないと思いました。

これまでの他の多くの記事でも「電子書籍」と言いながら、それを読むための「端末」(リーダー)の評価が多く、その上で読まれる最適化された「書籍」とは一体どういうモノなのか、その新しいメディアによって、読む側はどうなるのかが語られていませんでした。これは間違いだとは言えないでしょうが、間違いに近い。

出版業界では、テキストの電子化(電子的媒体)とインターネットを介した流通、それに対する現在の書籍(印刷、紙媒体)出版という二つの媒体の戦争が、多くの団体が作られて繰り広げられて来ました。

更に「売る側」と「作る側」の話題や、電子化に伴うフォーマットやライセンスの問題等が加わり、印税が上がるとか、著者が出版社を介さずに出版できるといった、「送り手」からの視点での電子書籍「ビジネス」の話が多かったように思います。そこには、買って「読む側」からの視点で捉えた内容は、非常に少なかった。

評論家や書評家、ITジャーナリストはいろいろなことを言うけれど、端末の評価に留まっていたり、もしくはもっと大きな、途方も無い未来の文化論へと風呂敷を拡げてしまい、現在の読者にメリットのあることは、なかなか教えてはくれません。

つまり、昨年からの一年間、「電子書籍元年」と騒がれていたのは、デジタル化した書籍を端末に入れて持ち運ぶことができるようになった元年だったのではないか(ケータイ文化では、もっと先を行っているのに)。紙媒体が電子メディアへ移行するのではなく、デジタルデータを販売し提供する環境(ハードウェアやプラットフォーム)が整った一年だったのではないかと考えていました。

ですから、端末の販売台数によって市場規模とスケールが決まると考えると、今年は販売台数の伸びに合わせて、その遅れを取り戻そうとするかのように、各出版社が様々なサイトを立ち上げ、今後の刊行物はすべて電子書籍でも刊行するといった大手出版社も現れ、電子書籍の販売を急ぎ始めたのではないかと考えられます。

昨年の7月、「東京国際ブックフェア」が開催され「電子書籍」が話題になっていた時、私はTwitterで「どこかの出版社が、電子書籍専用端末を無料で配布する」と予想し投稿していましたが、一年経っても配布されませんでした。

また実際に、「電子書籍」とそれを買うためのサービスを開始し、読むための携帯端末も扱っている書店(紀伊國屋書店)へ行って、店頭のデモを見ながら電子書籍についての詳細を尋ねてみました。しかし、私の疑問には答えてはくれませんでした。

つい先日、第145回 芥川賞・直木賞の選考会が行なわれました。芥川賞は「該当作なし」でしたが、直木賞は『下町ロケット』(池井戸 潤、小学館)が受賞しました。その時facebookで話題になったのは、「受賞作が発表されたらすぐにダウンロードして読みたいのに、作品が電子書籍として売っているのかどうかが、まず分からない」。そして「売っているとしたら、どのサイトかが分からない」ということでした。

結局、「電子書籍って、まだまだこれからだな」という話で終わってしまったのですが、残念ながら該当作がなかった芥川賞にしても、文芸雑誌に掲載された作品は、候補作が発表された時点では揃えて読むことが難しい。だったら電子書籍でサラッと読めれば嬉しいのに、そういうこともできない。やる気あんのか? と思うわけです。

書店に行っても売ってない。直木賞は増刷されるまでには時間が掛かる。芥川賞は発表された雑誌がバラバラだから読めない。ダウンロードできればすぐに買って読むのに、出版業界の大イベントにも関わらず、それさえできない。かつてフィッツジェラルドが言ったそうですけど「出版はタイミング」だと思うのです。

「電子」「書籍」とは、何なのか?

紙媒体は、創作物としては恐らく完成形であって、それを、たとえばスキャンしてPDFデータなどにして、携帯端末で読める形にしたものを、単純に「電子書籍」と呼ぶのは間違っていると思います。

現在販売されている「電子書籍」の多くは、書籍の「デジタル化」、つまり紙の本の写真データ(影印)です。既存の書籍をデジタル化するのでは、カセットテープの音源をMP3に置き換えているだけに過ぎないということです。

では、どういった書籍をデジタル化して読んだら、理解し易いのかを考えてみると、内容面では、経済や法律、技術等、何かを「解説」する書籍、または「実用書」なら向いているのかもしれません。また、目次によってツリー状に「構造化」がし易い文章、学術論文等は向いているのではないかと感じます。

小説や哲学書といった、読者が常に「問い」を自分自身に語り掛け、それが登場人物や、他の学説などと複雑に絡み合った内容の場合は、向いていないのではないかと感じました。いわゆる答えが一つではないジャンルです。

また、最初から最後まで、シーケンシャルに読み通さないと意味を掴み難い、かつ、章立てによって難易度が異なる複雑な構造で、コンテンツ強度の強い書籍は、私の場合、頻繁に振り返り、章や頁、それに貼り付けた付箋の間を行ったり来たりする作業が発生するため、紙媒体を選択せざるを得ません。

そして、インターネットが始まった時から感じていたのですが、Webブラウザで表示して読んだ記事が、どうも記憶に残らないといった問題があります。キチンと読んで理解するには、わざわざ印刷してからペンを片手に読むといった作業が必要で、これは接している対象が「情報」だからであり、読む行為が「身体化していない」という言われ方をする場合もあります。どうも私の場合、ディスプレイに表示された情報を読むと、「脳への定着率が悪い」のです。

しかし、会社の若い技術者たちは、iPadなどで英語のペーパーバックを、英単語などを辞書を参照して引くプログラムを作ったりしながらサクサク読んでいるので、(あまり好きな言葉ではありませんが)「世代」によっては、既にディスプレイでの読書習慣が当たり前になっているのかもしれません。つまり既に彼らは、認知過程が変更されているのかもしれません。

ですから、現在流行している電子書籍端末のハードウェアが、無理に紙の書物の手触りや動作を真似たとしても仕方がないという気もします。「慣れ」とは恐ろしいもので、紙媒体における一定の決められた操作が、これまでずっと頁をめくってきたように、これから電子リーダーでの操作も、無意識にできるような透明性を帯びて行くのかもしれません。

ある作品を読む際、文字を追い掛け「頭の中で黙読」する現在の読書(特に文学など)の認知過程とは異なる、聴覚や視覚や触覚を伴ったインターフェイスを持つ書籍とはどうなるのだろうかを想像してみると、デバイスの変更で、読書態度も変更を余儀なくさせられるのかもしれません。

それにネットワークの世界を見ていると、情報の「共有」という面で、今後「読書」に応用されるのではないかと感じる要素が沢山あります。

別々の場所と時間にいる視聴者が、コメント機能によって同時に動画を観ているような錯覚を起こさせる『ニコニコ動画』の「擬似同期性」などを体験してしまうと、ネットワークの長所を使って、電子書籍のマーカーやメモ機能を使い、多くの読者が一冊の本を読み、そのメモを集約することによって、様々な意見や感想、ポイントなどの「共有」ができたら、読書も楽しくなるのではないかと思います。

分からない部分を他の読者はどう考え、どのようにして理解しているのかはとても気になります。既に始まっているサービスもありますが、まだまだこれからだと思います。

元も子もありませんが、「読書」とは、基本的に個人の孤独な作業であり、自分との対話に近い性格がありますが、そこに「電子教科書」などでの利用を想定してみると、生徒が学習する際に、どこが大事だと思ったか、どこが分かり難いと思っているかなどが、教師の手元に集約できたら便利だろうと感じます。

果たしてデバイスの「機能」なのか、その上に載ったコンテンツの「力」なのか、ネットワークの力を借りた「共有」なのかは分かりませんが、人の「認知過程」そのものを変更せざるを得ない力を持った「電子」書籍、もしくは電子「書籍」というものが、どういうものなのか? を考えると、これからがとても楽しみです。

現在、既に「リアル書店」といった言葉さえあるくらいですから、将来「紙で本を読んでいる」という言葉に違和感を感じる日が来るのかもしれません。

私は「本は紙だ」と思うし、その考えを覆すような電子書籍(もしくは端末)が出て来ない限り、「紙」で読み続けるでしょう。これは決して習慣に囚われているだけではありませんが、情報が記載された紙の書籍という物体そのものを「神聖視」していることは否めません。

「電子書籍」のメリット

電子書籍は、いろいろな雑誌やWeb媒体、テレビにまで大きく取り上げられ、その「メリット」が語られて来ました。数多く挙げられるとは思いますが、だいたい以下のようなポイントに、まとめられるのではないかと思います。

  1. いつでも買ってダウンロードすればすぐに読める。
  2. 紙の書籍よりも値段が安い。
  3. 汚れたり劣化したりせず、半永久的に保存できる。
  4. 本棚も要らないし、置き場所にも困らない。
  5. 端末に保存し、沢山の本を持ち歩くことができる。
  6. 検索が容易にできる。
  7. 若者が多くの活字に接することができる。
  8. 膨大な数の書籍が電子化されていて、自由に選ぶことができる。

これらの各メリットについて、私の読書生活を照らし合わせて考えてみました。

>もう買ってあるから、急ぐ必要はない。
私は明日、仮にこの世からすべての出版社と書店が消えたとしても、残りの生涯時間すべてを費やしても読破できない蔵書を持っているので、この(1.)はメリットではありません。

それでも参考文献で欲しい本を見付けるとAmazonで検索し、つい注文ボタンを押してしまいます。数時間後には手元に届く。私にとってAmazonは、専用の本棚みたいなものです。

自分の欲しい本がどういう装丁で、帯には何が書かれていて版面は読み易いかどうかを、確認したい衝動に駆られることがあります。その時には書店へ行き、実物を手に取って触ってみて買うことにしています。

しかし、過去に発売された現在では入手が難しい絶版本をインターネットで検索したり、実際に古書店を訪ねたりして探すこともあり、店主に依頼しておくこともあります。確かに、本そのものを入手する魅力はありますが、見付かるまでにとても時間が掛かる場合もある。電子書籍で発売されていたら、すぐに買って読むことでしょう。

>「電子書籍」の価格は、魅力的ではない。
価格の問題(2.)ですが、現在の電子書籍はそれほど安くはありません。物理的な材料の紙と印刷工程がなくなることを声高に叫んでいるにも関わらず、紙の書籍の値段と同じことも多い。ですから私は、紙の本を選びます。

先日、facebookで電子書籍が話題になった際、かつては、発売から時間の経過した海外からの輸入雑誌を、高い値段で買って悔しい思いをしていたデザイナーさんが、iPadではすぐに、そして安く買えると言っていました。これは凄いメリットだと思います。

どんなに安い本だとしても、私は「読み捨て」的な扱いが嫌いです。自分で買った本は売ったことがない(実は、ずっと昔に結婚した時、あまりに貧乏だったために、大切に揃えていた全集類をすべて売り払ったことがありますが、その後、当時では信じられないような安さで買い戻しました)。また自分が死ぬ間際には、全蔵書を買い取ってくれる約束を古書店の店主としていて、蔵書を売って手に入れたお金を使い切って死にたいと思っています。

>百年前の本だって、立派に読めます。
(3.)では、何を以って「半永久的」としているのかは分かりませんが、紙の本だって少なくとも百年は保存できるし、現に百年前に刊行された本だって綺麗に残っていて現在でもキチンと読めます(それを考えたら、買った人間の寿命の方が短いです)。電子書籍のハードウェアがずっと使えるか、新しくなっても、常に互換性を保っていて貰わなければ困ります。

先日、iPhoneで購入した書籍のアプリケーションがエラーを出して起動せず、読んでいる途中だったので困ったことがありました。私も書籍や雑誌、辞書をiPhoneで購入して読んでいますが、OSのバージョンアップや機種変更の際の移行手続きの方が心配になります。紙の本がエラーで、ページをめくれなくなることはありません。

電子書籍では、いわゆる「ハードとソフトが分離」しているからこそ、こういう心配が発生するのですが、電子書籍ビジネスでメリットがあるのは、IT産業側だけなのではないかと思うことがあります。逆に「ハードとソフトが分離」しているからこそのメリットを、認めないわけではありません。そのメリットとは、特に(4.)の保管場所と(5.)の持ち歩きに効果があることです。

>家の中の「本」が、そんなに邪魔なのか。
人によっては、書棚に未読の本を並べて、これからどれを読もうかと悩んで楽しむタイプと、既読の本を並べて達成感を味わい、再読を検討するタイプに分かれるのではないかと思います。私は前者ですが、そもそも「本棚を買うお金があるくらいなら、そのお金で本を買え!」というスタンスです。

一体「置き場所に困る」って、一般的に何冊くらい、もしくは書棚を何棹くらい持っている場合に言うのかが分かりません。まあ猫や犬がいれば齧られたり汚されたりする心配もあるし、家族が多かったら場所は限られるのでしょうが、それなら図書館を有効利用すればいい(これは(2.)の価格の問題とも関連しますが)。

でも、電子書籍は「貸し借り」ができない(実際に紙の本を貸すと戻って来ることは少ないのですが)。特に家庭では、書棚に並んでいた本が、子供が(絵本を除いて)最初に読む本のきっかけになることが多いと思います。

>「本」が重いのなら、箸も重いんだろ。
確かに電子書籍は、(4.)の外出時の本の持ち歩きに効果があると思います。私は日常的に電車の中で読む本を、2冊は持って出掛けるのが癖ですが(どうして2冊かと言うと、もし1冊読了してしまって、読む本がないと不安だからです)、読んでいる最中に別の本を参照したくなる場合があります。

そのような時は付箋を立てておき、帰ってから調べるようにしています。この機能は非常に羨ましい。しかし、何千冊も持って歩けたとしても、そんなには読めません。安心感だけだと思います(安心感があることは、決して悪いことではないと思います)。

確かに分厚くて重い本を持ち歩くのは辛い時もあります。しかしそれが反面、紙の本のメリットになっている部分もあるでしょう。最初はこんなに厚い本が読めるのだろうか、こんなに分冊の多い小説を読み終えるのだろうかと考えながら、毎日僅かながらでも読み進めて、半分まで進んだとか、もうすぐ読み終わるといった、読書の途中での確認や読了した時に達成感が味わえるのも、紙の本ならではの醍醐味だと思います。

それに紙の本には「カバー」や「帯」がある。それらの要素には明らかに、その本を売りたい編集者のメッセージが込められていて、帯だけでも作品として認められる秀逸なものもあります。私は帯の言葉を読むのが好きで、誘いに乗ってつい買ってしまうこともあります(その他にも、書店の平台に立てられているポップやフリーペーパー、テーマ毎のフェアや各社が行う「夏の文庫100冊」なども、本の一部として捉えることができるかもしれません)。それに電子書籍では、豪華な付録も付けようがないでしょう。

またミステリ小説の場合などは、表紙の挿画や版面にトリックが仕掛けられている場合もあります。これは余談ですが、私がとても驚いたトリックのミステリがあり、facebookに投稿したことがありました。それを読んだ知人が、そのトリックに気が付かなかった。なぜかというと、彼は「自炊」してデータを取り込んだ携帯端末で読んでいたから、見開きの版面に仕掛けられたトリックに気が付かなかったというわけです。

>まず、紙の本の「索引」を充実させて欲しい。
そして、電子書籍が騒がれ始めた時から、(6.)の「検索」は、索引好きな私としてはとても重要な機能だと思っていました。しかし、これまでは残念ながら「検索機能が優れた電子書籍」にお目に掛かったことがありません。

これは「電子書籍」よりも、そのプラットフォームの問題なのかもしれませんが、「検索」機能が充実したら「電子書籍」を見直すことになるかもしれません。そもそも腹立たしいのは、「索引」の付いていない紙の新刊書籍がまだまだ沢山ある(あれは出版社・編集者の手抜きだと思います)。その上、造本まで悪くなって来ているという始末です。

「電子書籍」の場合、対象とする情報の表現形式が、分散した情報同士がつながるハイパーリンク構造であるからこそ、その恩恵を受けることができるのに、そのメリットを活かした書籍が刊行されないのは勿体無い。

それでもiPhoneを使っていると、「大辞林」などの辞書類は愛用しています。でも、辞書は読むことでも楽しめる。岩波書店の「広辞苑」が新しくなると、すぐに買って「あ」から最後まで通読します。辞書の電子版は、目的の言葉を検索するのには大変便利ですが、紙の辞書を通読することによって「こんな言葉があったのか!」と知ることも嬉しい体験です。

学生時代に、雑誌か何かに掲載されたインタビューを読んだ際、三島由紀夫が「辞書は、分からない言葉があった時に引くための道具ではなく、予め読んで勉強しておくことによって、分からない言葉を減らすための書物だ!」と語っていたのに感動して、辞書を通読するようになりました。

>「活字離れ」よりも「紙離れ」。
自分の書物に対する行動を振り返ると、かなりの量の活字に接しているように思いますが、(7.)に関して、現在の若者たちは、毎日沢山の電子メールを書き、WebやSNSの情報に接し、昔に比べたらはるかに多くの活字を読み書きしていると思います。

ですから、現在の状況は「活字離れ」ではなく「紙離れ」だと言う評論家も多いし、一面正しいように聞こえますが、問題は接している「活字(文字)情報」の中身と、その「見せ方」にあるのではないかと考えることがあります。

それに出版不況とは言いますが、本が売れなくなったのではなく、元々売れていなかったのではないかと疑いたくなります。そして、「本が売れない」とぼやく編集者もいますが、もっと買って読めばいいと思います。

確かに電車に乗っていても、乗客の多くは携帯電話を触っていて、新聞を広げている人が、とても少なくなりました。若い人に限らず、以前から「新聞離れ」が止まらないといった話を耳にしますが、どうも新聞の良さを新聞社が上手く伝えられていないのではないかと疑っています。

あの、こなれたインターフェイスを使い、その日の一面トップで、何を伝えたいのかが見出しの大きさや写真で明確に分かる。面をまたぎながらも関連ニュースを網羅して行き、それぞれの面では、何が問題になっているのかを提示している部分に価値があると思います。

それでいて文字量は新書約一冊分に相当し、伝統的に確立された文体とノウハウで明確に表現している。広告だって、世の中の動きを知るための貴重な資料だと思います。だから私は新聞が大好きです。

こういうことを言うと、速報性ではインターネットの方が優れていると言われますが、だったらニュースサイトのインデックスを眺めればいいことですし、RSSでも購読ツールでも良いものが沢山あり、話題になりそうなニュースなら黙っていてもTwitterやGoogle+に流れてくる。それに、誰より早く知ったとしても、元々のニュースソースは新聞社やTV番組のサイトが多く、せいぜい半日か一日遅れだったとしても、その遅れが原因で困ることは少ないでしょう。

以前、新聞の全記事が、どのような時系列で書かれインターネットで公開され、追加・修正されて紙に印刷されるのかをトレースしたことがありました。紙の新聞を読んでいると、サイトには公開されない記事があることに(その逆にも)驚きました。

>自分に必要な本や情報は、どこにあるのだろうか。
(8.)を考えると、確かにさまざまな電子書籍のサイトが立ち上がり、膨大な数の書籍が電子化され販売されていますが、私が読みたいと思う本は、とても少ないのが現状です。先日、新潮社と講談社、それに学研が、これから刊行する書籍は、すべて電子化すると発表しましたが、紙の書籍が単純にデジタル化されているだけだとしたら、私は迷わず紙の書籍を選ぶでしょう。

それに沢山の電子書籍サイトができ、端末やアプリケーションに依存しているのも好きではありません。あれを読む時はこっちのアプリ、これを読む時はあっちのアプリと選択しなければならないのは、大変おかしな話だと思います。

以前販売された雑誌で、買い損ねた号や知らなかった特集を読みたい場合などは、バックナンバーを買って読んだりもします。でも電子化された雑誌からは、広告が削除されてしまっていて、とても間抜けに見えます。

結局、そんなに沢山は読めない

では、頑張って読書して何冊位読めるのかというと、せいぜい週に2冊、年間約100冊が目安です。調子の良い年は150〜200冊読めることもありますが、私にとってはこれが限界。最大値が決まっている以上、問題になるのは、何を読めば楽しめて役に立つのか、そしてその本をどうやって見付けるかということです。それは、以前からネットでも問題だと思っていたことに似ています。

ちなみに、もっと沢山の本を読むには「速読」という手があり、私も練習して試してみたことがあります。単行本の小説などは一冊30分くらいで読了することができるようになりました。しかし、表現をじっくり味わうといった、読書そのものの楽しみが減ってしまうし、速読で『資本論』や『精神の現象学』、『純粋理性批判』は決して読めない。こんなことがありました。マイケル・サンデル教授の『白熱教室』が話題になり、来日した際に六本木ヒルズで行なわれた講演会に参加したことがありました。その時、速読で有名なブロガーの方が英語で流暢に議論をし、質問をしていた。しかし、その質問の答えは、丁寧にサンデル教授の著書を読めば明確に書かれていることなのに、その方は気が付いていなかった。笑う前に、恥ずかしい上に時間の無駄。その時、速読ってその程度のものなのかと感じました。

検索エンジンを使えば、目的の情報を簡単に見付けることができます。目的のニュースでも、買い物をしたい製品の口コミでも、会社情報でも。しかし、その検索されて出て来た情報以外に、そこに表示されない役に立つ情報があるかもしれないけれど、それが分からない。

これはネット検索のジレンマだと思うのですが、基本的に検索情報はランキングですから、皆が見ていて上位に表示される情報だと言うことです。Amazonでも、ある本を選んだ際、「その本を買った読者はこの本も買っています」という情報が表示され、役に立つこともありますが、それもランキングです。

私は、この世の中に存在する大変面白く役に立つ本で、その存在を知らず、読まずに死んでしまうのが、とても怖いと感じます(膨大な量の本が隠れているのは明らかでしょう)。つまり、見付からない本や情報に、どのようにしたら辿り着けるかが、問題なのではないかと感じていました。

その問題を解く鍵も、電子書籍のデバイスの「機能」か、その上に載ったコンテンツの「力」、もしくはネットワークの「力」にあるのではないかと考えています。実際に私も、電子書籍端末を使いながら、これからその可能性を探って行こうと思います。

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