0円電子書籍端末から本の公共性を考える

2012年3月22日
posted by 橋本 浩

読書とは元来、金はないが、時間だけは十分過ぎるほどに持て余しているという貧乏人が、ああでもないこうでもないとだらだら思索しながら、ひねもす布団の中で読み耽ることができる道楽であった、と誰かが言っているのはどうかは分からないが、自身に照らし合わせてみれば、私が学生時代にたいして金も持っていなかった頃、古本屋で投げ売りされている本を買い漁ってきては、日がなだらだらとひねもす布団の中で読み耽っていたことは確かだ。

それが本来の読書形態のあるべき姿だとは言わない。しかし、読書形態のひとつであることは確かだろう。

日本における出版の流通形態を考慮すれば、本というモノがある程度の価格形態にならざるをえないことは十分に理解はできる。言うまでもなく、本というモノは商品であり、一冊の本というモノが書店、及び、読者の手に渡るまでには相当数の人間が関わることになる。本というモノの流通に人間が関わるということは、そこに様々な労働があるということだ。もちろん、それはその本を書いた作家の労働も含めてである。そして、労働があるということは当然対価が発生することでもある。その意味において、本というモノがある程度の価格形態にならざるをえないということは十分に理解できる、と先に私は述べた次第である。

それらのことを踏まえた上で、しかし、それでも敢えて私はこう主張してみる。本というモノは安ければ安いほど良いのだと。極論を言えば、無料なら尚更良いということにもなる。

例えば、あなたが書店に入り千円出して本を買ったとする。その後、同じ本がAmazonかどこかのオンラインショップで一円で売られていたとすれば、そのときあなたはどう思うだろうか。あるいは、あなたは作家に敬意を表して千円を妥当だと思うかもしれない。その気持ちは私にも当然ある。しかし、本というモノは商品である。そう考えるならば、商品を購入する消費者としては、千円よりは格段に安い一円の方が良いに決まっているのではないだろうか。それが商品に対する消費者の態度というものではないだろうか。

0円電子書籍端末が露呈した「本末転倒」

今現在の動向を見て、そう呼ぶに相応しいかどうかは限りなく疑わしいが、ここでは通例に習い2010年をいわゆる電子書籍元年としておこう。2010年という年は、ある作家に「グーテンベルク以来の文字文化の革命だ」と言わしめたほどに、出版に関わる人間が騒ぎ立てた年だった。その後、様々な企業が電子書籍ストアを立ち上げ、様々な端末も販売された。それらの混沌は現在においてもまだ行方が定まっていないようだが、ここではそれは特に問題にはしない。

私が問題にするのは、本来、読みたい本が、読みたい時に、瞬時に購入できるはずだと思われた電子書籍というものが、実は全くそうではないということである。ある本がどこのストアにあり、どの端末で読めるのかが分かりにくいということもここでは特に問題にはしない。それはいずれ時が解決するだろうと思われるからだ。

私が提起している、「読みたい本が、読みたい時に、瞬時に購入できるはずだと思われた電子書籍が実はそうなってはいないという問題」は、端的に言えば、現状では電子書籍を購入するためにその電子書籍を読む高価な端末を購入しなければならないということに尽きる。更には通信費まで支払わなければならない。私は電子書籍を購入したいのであって、高価な機械を弄りたいわけではないのだ。本末転倒とはまさにこのことではないだろうか

奇しくも、その本末転倒をある意味投げ売りによって更にもう一度転倒してくれた端末がここにある。2010年末にKDDIが発売した電子書籍端末「biblio Leaf SP02」である。この端末が2012年1月18日~2月29日までのキャンペーン期間中の契約に限り、実質端末代0円、通信費0円で手に入る。詳細を言えば、このキャンペーン期間中に契約すると初期事務手数料2835円が必要になり、その後二年間は端末代も通信費も0円で使い放題、二年経過後は通信費が525円必要になるが、ただし、二年経過後はいつ解約しようとも解除料は一切必要ない。そして、重要なのが無線LAN接続にも対応している点だ。

これが意味するのは、つまり、キャンペーン期間中に契約し、二年経過後に解除料無しで解約、その後は無線LAN接続で使用する場合に限り、実質、初期事務手数料2835円のみで電子書籍端末を入手できるということだ。青空文庫の作品100点がプリセットされているから、2835円で端末及び100冊を購入できたという言い方もできるかもしれない。

もちろん、ネットに無数にある「biblio Leaf SP02」の動作面における批判的なレビューは私も知っている。実際に私も使用してみて多々突っ込みたくなる部分はあった。しかし、これはあくまでも2835円でほぼ永久に使える電子書籍端末なのである。この価格で電子書籍を購入でき、更には、夏目漱石や芥川龍之介などの著作を無料でまともに読める端末が他にあるだろうか。

KDDIがなぜこのようなキャンペーンをしているのかは分からない。あまりにも端末が売れないことによる一時的なLismo book storeへの誘導作戦なのかもしれない。あるいは、KDDIはもう「biblio Leaf SP02」を捨てたのかもしれない。それはいずれ分かることだと思う。しかし、ここで重要なのは、おそらくは苦肉の策であろうと思われる今回のKDDIのキャンペーンが、奇しくも、ユーザー側からの電子書籍へのアプローチの仕方を明確にしたという点であろう。

私は「読書がしたい」だけなのに

私自身は電子書籍の今後というものを以下のような五つの角度からの視点で推測している。

(1)大手及び、中小出版社によるこれまでの紙媒体を継承した形において紙媒体と同時に発行されるテキストベースの電子書籍

(2)紙媒体で出版社からの出版経験のない作家によるほぼ自費出版的な有料無料入り乱れるテキストベースの電子書籍

(3)出版社からの出版経験の有無を問わず幾多のクリエイターによってアプリ化された動的ないわゆるリッチコンテンツとしての電子書籍

(4)ボイジャーのBinBのようなもはや電子書籍を読んでいるのか縦書きのブラウザテキストを読んでいるのか分からないような電子書籍

(5)上記からDRMを外した状態でネット上に公開されWikipediaのように複数人が書き込みできるような主体としての作家不在の電子書籍

ここに公共図書館の蔵書電子化の問題も絡んでくると思われるが、それは(1)を拡張したものとして現れてくるのではないだろうか。(2)においては既にパブーやwookがサービスを提供している。(3)においても株式会社G2010などが発行する電子書籍はこれに当て嵌まるだろう。(4)においては何かを言うまでもない。問題は(5)だが、私自身の推測としてはWeb及び携帯端末アプリにおける娯楽としての電子書籍はあのような方向へ進むだろうと思っている。それを書籍と呼べるのかどうかは甚だ疑問だが、DRMを外せば一部はそういうある種ゲーム的娯楽の方向へ進むのではないだろうか。

しかし、一読者としての私自身が最も期待しているのは(1)の充実及び、それに伴う公共図書館の蔵書電子化である。特に後者には大いに期待している。どのような形で公共図書館からの電子書籍の貸出が実現するのかという技術的な問題は私のような者が考えることではないが、おそらく、公共図書館の全ての蔵書が電子化されたとき、そのときにこそ私が思い描く電子書籍のあるべき形態、つまり、読みたい本が、読みたい時に、無料で、瞬時に自分の手元に届くという形態が実現するのだと思う。

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電書メランコリーの蚊帳の外で

2012年3月5日
posted by Kazuya Yasui(夜鷹)

「マガジン航」への寄稿を編集人の仲俣氏より依頼された時、正直言って自分は「場違い」だろうと感じたものだ。

本や出版と聞いて「普通の人々」が最初に思い浮かべるのは書店で売られる小説や雑誌の類いである。物書きを生業として四半世紀以上の歳月を生きながら、そうした商業出版物とはまるで縁がなかった──むしろ避けてきた──自分は少なくとも、その分野の達人たちが集うメディアに寄稿者として与する手合いではなかろうという思いがある。

しかし今回このような機会を与えていただいたことは光栄であると同時に、縁あって昨年末に人生初の商業出版物として上梓した「憂鬱なe-Bookの夜明け(仮)」の内容と関連させて自身の考えを世に示すチャンスであると思い直し、こうして寄稿させていただく次第である。

コンテンツ表現の視点からの電子書籍論の欠如

電子書籍元年と騒がれた一昨年あたりから「本と出版」について数々の議論を見聞きした。しかしビジネスの話かと思いきや文化論が持ち出されたり、あるいはその逆であったり、揚げ句の果てにリーダー環境やその機能性の是非が語られるなど、とかく論点が右往左往するばかりで収拾が付かないまま終るケースが少なくなかった。

「本と出版」との接点や取り組み方も各人各様だからこその「混乱」──あるいは単にポジショントークのぶつかり合い──とも言えるが、そうした状況を少しばかり好意的に捉えるなら「本と出版」は誰にとっても日常的で、普段そのように意識しなくても、何かあれば情緒的にならざるを得ないくらい「本と出版」は人々のライフスタイルの根幹を成しているのだと、ある種の感慨と共に再認識したりしたものだ。

その一方で「本と出版」に関する議論のほとんどがメディア論に終始し、メディアを通じて語られる当のコンテンツについては(少なくとも筆者には)実に軽んじられていることも再認識できた。そもそも議論の軸が「電子書籍」というメディアだから仕方ないとも言えるが、それにしても出版関係者が多く参加する場において、コンテンツ表現の視点からメディアが語られることが如何に少ないことか。

恐らくその場に参加していない大多数の普通の読者──物言わぬ顧客──にとって「本と出版」の第一義はコンテンツであろうと仮定すれば、先ずはメディアありきで論じられる「本と出版」は手段の目的化に違いなく、そうした姿勢が読者の興味を失わせ、失われた二十年と足並みを揃えてきた「出版不況」の一因となっていそうなことは容易に想像できる。

原義にさかのぼって「出版」と「本」を考えると

コンテンツとメディアの間には「鶏が先か、卵が先か」の如き、永遠のジレンマがある。それはそのまま、しばしば作家と出版社の間で持ち上がる「権力闘争」にも似た諸問題に当てはめられる。各々が相互に補完し合えば美しい「本」というパッケージが完成し、そこに読者が加わることで「本と出版」に関わる幸せな関係は成立するが、コンテンツとメディアは本来異質なものである。読者には見えにくい部分だが、その種の堂々巡りを避ける意味で「文化」としての出版と「商行為」としての出版は全くの別物である点には着目しておきたい。

「出版」の原義が「世に出して知らしめること」であるのは、英語の “publish” が “public” からの派生語であることを考えても明らかで、本来そこに商行為の匂いは一切含まれない。同様に「文化」を表す “culture” は “cultivate” からの派生語だ。原義の「土地を耕して耕作地にすること」から転じて「知識・教養を育むこと」となり、そうして得られた知識はコミュニティの中で伝承・共有され、そのコミュニティの「文化」となる。

つまり文化の形成プロセスで、知識を伝承・共有する手段として「出版」が行なわれるのであり、そこでは出版業界(今日では出版社・取次会社・書店により構成される流通システム)はそれを手助けする仲介人(メディア)の位置付けになる。ちなみに商法第502条6号には「営業的商行為」として「出版」が規定され、それが商人による仲介業であること──出版業界は作家と読者〜生産者と最終消費者の間に介在する立場であることが明示されている。

さらには「本」の意味だ。最近はとかく紙本と電書の二元論で語られがちな「本」を表す英語の “book” の原義は「記録」である。ブックキーパーは帳簿係で、ブッキングは予約を入れること──どちらも記録に関わる行為であるのは明らかだ。その文脈で考えれば、本は音楽で言うところのレコードと同じ意味になる。取り留めもない思考の流れ──表出する傍から消えてしまう精神的な活動を文字や絵で書き留めたものが本であり、語りや音楽として音溝に記録したものがレコードである。会議の議事録から、授業中に取ったノート、走り書きのメモ、あるいは、幼い子供の落書きに至るまで、それぞれの記録はそれぞれの文脈で何らかの意味を成す内容──コンテンツを備えているのだ。

コンテンツこそが「本」の出発点

コンテンツはそれを作り出した本人以外には全く無意味なこともあるが、それでも「本」の出発点には違いない。そんなパーソナルな記録を自分以外の誰かに見せることが「出版」の始まりだ。重要なことが記されていたり、内容的に優れているコンテンツなら「書写」や「複写」は普通に行なわれるだろう。そこにある意味合いは、几帳面な学生が要点を整理したノートが試験前に価値を持つのと全く同じであり、それは「本」や「出版」は誰にとっても本来とても身近な行為・営みということを意味する。

コンテンツが広く公共の利益に供するなら、活字が組まれ「版」を起こして大量に印刷されるのは間違いない。実際それこそが「出版」の歴史に他ならず、そのために様々なテクノロジーが編み出されてきた。しかし今日でもなお、何百年・何千年前の昔から何ら変わることなく「本」や「出版」はひとりの人間のごく個人的な精神活動〜パーソナルな営みから生じているのもまた事実だ。

わざわざ語源を遡ってまで筆者がこうした主張を繰り広げるのは、情報共有のためのテクノロジーが飛躍的に発展し、作家と読者がエンドツーエンドでつながれるようになった現在、本や出版に係わる営みは過去のどの時代よりも直截で、誰でも容易に取り組めるようになっている事実を改めて実感してほしいからだ。メディア論者の列に加わり、理想のプラットフォームやフォーマットを求めて終りのない議論を繰り返したり、最新のアプリやサービスの試用に埋没するよりも、むしろテキストエディターでも開いて自分にしか書けないストーリーを描き、少しずつ賛同者──ファンを獲得する努力でも始めるほうが多分はるかに生産的だ。

そうした営みが直ちに収益につながることはほとんどないかも知れない。それでも自分のストーリーを書くことを勧めるのは、それを読む人々との「関係性」が生まれるからだ。それは趣味を通じて人々とつながるのと同じで、つながることで自分ひとりの思考・経験からは及ぶべくもない展開──新しいストーリーが生まれることが期待できる。単に自分のアイディアを広めるだけでなく、アイディアを一人歩きさせて自立的な拡張・発展を促すのも「出版」の本来の目的のひとつなのだ。

何かをキッカケに人々が集い、言いたい放題ざっくばらんの意見交換(ブレインストーミング)を続けるうちに、頃合いを見て誰かが「まとめ」を作ったりする。それが記録としての「本」である。そのプロセスは某匿名巨大掲示板やツブヤキ系ソーシャルメディア界隈では日常的に見られる光景そのままだ。このように考えてみれば、いわゆる「出版不況」は関連ビジネスの周辺で局所的に起きているだけで、少なくとも作家と読者──この文脈で双方は表裏一体の存在──のコラボレーションによって形成される「出版文化」には何の影響もないことが分かる。

一枚岩が砕けた後のガレキの上から語る

無論それは原初的な「文化」に限った話だ。メディア産業の枠組みの中で生業を得る人々が危うい状況にあるのは変わりなく、同時にそうした大きな枠組みの中でしか生まれ得ないコンテンツも存在することを忘れてはいけない。

行き過ぎたヤラセやステマは問題だが、時にはそれらを駆使した「雰囲気作り」や「世界観の構築」がコンテンツを周辺から盛り上げることも欠かせないのだ。事実そういうコンテンツに囲まれて我々は育ち、それなりに楽しんできたのだから、メディア産業の衰退を「自業自得」と冷淡に突き放すのも考えものだ。何せメディア産業の本質は「商人」であり、日本人の8割は「商人」として生業を得ていることを思えば「明日は我が身」の状況なのだから。

何はともあれテクノロジーは今後も発展を続け、既存の枠組みを壊し続けるのは疑いようもない。テクノロジーそれ自身は何もしないが、それを共有・利用する我々自身が選択した行動の結果だ──後悔先に立たずどころか、今なお新しいスマートフォンやタブレットの登場を世界中が待ち侘びている。

そうして一枚岩が徐々に崩れて散り散りの細石になっても、そこに残された作家や読者──我々には自己表現のためのツールとチャンスが等しく与えられているのは幸いだ。ならば次の一言はガレキの上から自分で語ろう。この文脈では「つぶやく」ボタンやメニューコマンドの「共有」は等価である。自分で押す「いいね」は自己表現に何の貢献もない。

新しい時代の「本と出版」はそのように始まっている。細石がふたたび巌となるかも知れない。それが新たなジャパンパワーにもつながるのだ。

「電子書籍」の前にまず「電子出版」を

2012年3月5日
posted by 仲俣暁生

posted by 仲俣暁生(マガジン航)

「憂鬱な e-Book の夜明け (仮) アトムとビットのメディア考現学」という電子書籍を上梓されたKazuya Yasui(夜鷹)さんにご寄稿いただいた、「電書メランコリーの蚊帳の外で」という文章を「読み物」コーナーに公開しました。私はこの文章を読んで、ここ数年、自分のなかでずっとすっきりしなかったことが、ストンと腑に落ちる思いがしました。

Yasuiさんは、「文化」としての出版と「商行為」としての出版は全くの別物である、とした上でこう書いています。

「出版」の原義が「世に出して知らしめること」であるのは、英語の “publish” が “public” からの派生語であることを考えても明らかで、本来そこに商行為の匂いは一切含まれない。同様に「文化」を表す “culture” は “cultivate” からの派生語だ。原義の「土地を耕して耕作地にすること」から転じて「知識・教養を育むこと」となり、そうして得られた知識はコミュニティの中で伝承・共有され、そのコミュニティの「文化」となる。

つまり文化の形成プロセスで、知識を伝承・共有する手段として「出版」が行なわれるのであり、そこでは出版業界(今日では出版社・取次会社・書店により構成される流通システム)はそれを手助けする仲介人(メディア)の位置付けになる。

ここで言われている意味での「文化」としての出版と、「商行為」としての出版の混同が、電子書籍をめぐる議論をきわめてわかりにくく、かつ不毛なものにしていることは確かです。「文化」のほうが偉くて「商行為」は劣る、などといいたいわけではありません。また文化が結果的にお金をもたらす場合もあれば、商行為のつもりが儲からないこともしばしばです。ですが、概念としては両者の間で一線を引いたほうがわかりやすい。だからこそ、Yasuiさんは「出版」や「文化」を――そして引用箇所の後では「本 book 」の意味までも――原義にさかのぼって再確認しようとしているのです。

「出版」の新しいエコシステムを

いまの時代に、もっとも簡単に「世に出して知らしめること」ができる手段はインターネットです。だからネット上で何かを「公開」することも、英語ではごく普通に publish といいます。「出版」というと、どうしても「版」という漢字のイメージに引きずられ、印刷(あるいは少なくとも組版)されたものと思いがちですが、原義はもっとシンプルで、ようするに何かをプライベートな領域からパブリックな領域に移すことが「出版」です。

「電子書籍」という言葉で表現されているものは、本来の「出版=Publishing」の試み(電子書籍でなくてもメルマガでもブログでも構いません)と、業界内でのジャーゴンとしての「電子書籍」に、おおよそ二分できます。かつて「電子出版」といえば、CD-ROMなどの固定メディアによる流通しか手段がありませんでしたが、その制約はなくなり、すでに多くのコンテンツが電子的に「出版」されています。他方、最大の当事者であるべき出版社は、新しい情報環境のもとでの「出版」が不得手なため、プラットフォームに対するコンテンツの提供元にとどまっている。その一方で、出版業界とは無縁のベンチャーが「出版」の心意気をもっていたりします。

いや、出版社だっていろいろと電子的にも「出版」しているよ、という声も聞こえてきそうです。だったらこう言い換えましょう。アマゾンのKindle Direct PublishingやアップルのiBooks Authorなど、「黒船」と呼ばれることもある米国のITプラットフォームは、たんに既存の本の「電子書籍」版を売るだけでなく、あらたな「出版」の仕組みを自社のサービス(より正確に言えばエコシステム=生態系)のなかに備えています。

既存の本や、これまでと同じように紙でも作られる本の電子化という意味での「電子書籍」以外にも、インターネットやスマートフォン、タブレット端末、さらにはソーシャルメディアなどの新しい情報環境にふさわしい、これまでの出版社/者以外にも開放された「出版」の動きが日本でも起きています。しかし、両者はなかなかひとつの流れになりません。

これは他人事ではなく、私自身、これまでにない「出版」を促進しうるプラットフォームとしての電子書籍と、既存の本のカタログが一気に電子化されることで生れるコンテンツ・アーカイブとしての電子書籍の両方に心惹かれています。しかし、両者の間には思いのほか、大きな裂け目があることもだんだん分かってきました。そのどちらにもなりきれない日本の「電子書籍」は、なにか大きな誤解の産物、とまではいかなくとも、大きな迂回路をめぐっているのではないか、という気さえしてきます。

いずれにしても、「電子書籍」が生れるためには、誰かが「電子出版」をしなければならない。そのことが等閑視され、「出版社/者」の主体性が見えないまま、電子書籍の数合わせ、帳尻合わせが進むだけだとしたらあまりにも不幸です。この4月にも設立されるという出版デジタル機構が、たんなる「電子書籍」の制作管理団体にとどまらず、出版社が(できうることなら既存の出版社以外の「パブリッシャー」も含め)本来の意味での「電子出版」の主体となれる環境を整備してくれることに期待しています。

東北を遥か離れて:電子化事業への5つの疑問

2012年3月4日
posted by 鎌田博樹

posted by 鎌田博樹(EBook2.0 Forum

大震災から1周年。東北に少なからず縁のある者として、その復興には強い関心がある。そして出版のデジタル化にはこの3年ほど、それなりに取り組んできた。しかしこの2つを結びつけた今回の「緊急」事業には、残念ながら筆者の理解と想像力を超えたところがある。オープンに議論が交わされた形跡を発見できないのも気になる。どなたか、以下の疑問を氷解させ、愚問であったことを教えていただけることを期待したい。

日本出版インフラセンターの「コンテンツ緊急電子化事業」特設ページ

第1の疑問:東北復興の「緊急」事業なのか

東北復興予算の趣旨は、地域圏の産業・社会基盤を再建することで、産業・社会・文化活動の自律性、持続性の回復を支援することであると理解される。それと書籍の電子化とがどう関係するのだろうか。雇用創出というのならば、どのような技術を使い、どのくらいの雇用を、どこで創出するかが問題だ。東北の出版社、印刷会社、書店、図書館、そして読者たる一般市民にどのような利益がもたらされるのかについての情報はないのだが、どこで得られるのだろうか。そもそも主体であるべき東北も、支援の対象としての東北も見えてこないのだ政府によれば、国家財政は破綻寸前で増税が必須というが、その中で実施される緊急性はどこにあるのだろうか。

第2の疑問:電子化6万点に10億の根拠

単純計算では、補助率50%として6万点に10億というのは、1点当たり3.3万円を想定していることになる。電子化の中身は明らかではないが、その程度として見積もられていることになる。これは出版社に負担できない金額だろうか。流通やコンテンツ管理といったプラットフォームまで含めるのだとすると、10億でも少なすぎるが、電子化サービスと流通基盤構築とは区別されないと 困ったことになる。政府として出版流通基盤を支援するという話なら、後述するように市場への関与について、国際的にも説明責任が生ずるだろう。一方でTPPを推進する政府の姿勢との矛盾を衝かれるのではないか。出版デジタル機構(仮称)は純粋な民間企業で、他から出資や支援を得るべく行動しているようだが、これは東北はもちろん「電子化」とも直接の関係を持たない。またまた攘夷論の復活であるとしか思われない。

第3の疑問:市場社会と非競争領域

出版デジタル機構の植村氏は、出版流通を「非競争領域」にしたいという考えを表明しておられる。思想としては理解できない話ではない。日本の出版業は、江戸時代以来、版元が協力し合い、市場の機能を限定しつつ、注意深く運用されてきた伝統がある。それを空気のようなもの、絶対に護るべきと感じておられる方、市場主義を嫌う方々の価値観が間違いという気はない。立派な見識だと思う。しかし、現実のデジタル出版は、まさにコンテンツよりも流通において起きているもので、それはアマゾンの通販が日本でも最大の書店となった時に明らかになっていたことだ。E-Bookは印刷本のオンライン流通として始まったデジタル革命の最後の仕上げにすぎない。このことに目を塞ぎ、国際的に主戦場となっているオンライン流通において「非競争」のサンクチュアリを創造することは、それが純民間ベースで行われるならば美挙というべきものだが、遅すぎると思う。業界や政府を巻き込むにはあまりにリスクが大きい。「非競争領域」はいい響きだ。 アマゾンもアップルも、それぞれの仕方でこれを追求している。しかし、出版はビジネスであり、水道でも電力でもない。競争の排除は副作用が大きすぎる。また業界の合意も取れていない。E-Bookの流通は多様であるべきで、出版者自身にでも出来る。非競争が高価格を意味するなら、消費者は納得しないだろう。

第4の疑問:価格維持は絶対か

出版社は事業の存続のためにより多くの売上を必要とする。他方で本(著者)は読まれることを欲し、消費者はより多くを読みたいとすると、「公正な価格(水準)」というものはあり得ず、結局は市場で形成されるしかない。さもないと旧ソ連の「国家出版社」のように、「有識者」の監査の下に計画生産し、適正価格で販売し、編集・制作・流通・販売に携わる人々は適正な給料を受け取り、赤字が生じたら国家が負担するという仕組みしかあり得なくなってしまう。営利企業として、出版社は競争している。競争は企画や制作だけでなく流通段階を主戦場として行われるのは、資本主義の下では当然だ。出版だけを区別することは現実的ではないと思う。さらに、本誌(EBook2.0 Forum)が強調してきたように、印刷本とE-Bookはまったく別の商品だ。その適正価格は誰も知らない。E-Bookは利用が制限され、転売も出来ず、デバイスと通信料は利用者の負担という、不自由この上ないものだ。これが印刷本と同じ価格とは、消費者として納得できないし、受け容れられない。受け容れられない価格で売り出しても、経済的スケールでの販売には結びつかない。印刷本連動価格という呪縛は、出版社のためにならない。

第5の疑問:名義と実質は対応するのか

どうも東北から始まって、はるばる遠くへ来てしまったものだが、「東北→電子化→流通基盤→価格維持→?」と水を引いているのは、筆者のせいではない。日本出版インフラセンターが 「コンテンツ緊急電子化事業」10億円の受け皿となり、それを出版デジタル機構という、まだ出来ていない「企業」が実施するという構図だが、この企業の性格、この分野での他の事業者との関係は明らかではない。事業はセンターのパブリッシャーズ・フォーラム(有識者委員会)が方針策定・承認を行うことになっているが、常識的に考えて「有識者」は出版業界外の第三者で「東北」を何らかの形で背負う人が好ましいように思われるのだが、ここにも東北の影は見えず、出版が前面にいる。緊急時らしい。東北を助ける話なのか、出版社を助ける話なのか。「必ずや名を正さんか」(論語)ではないが、筆者のような人間は、名義と実質の対応が、今ほど重要な時代はないと考えている。恣意的に操作すれば信を失うからである。

※この記事はEbook2.o Weekly Magazine で2012年3月3日に掲載された同題の記事を、著者の了解を得て一部を再編集のうえ転載したものです。

鼎談「本は、ひろがってる?」USTREAM配信

2012年2月24日
posted by 「マガジン航」編集部

ウェブブラウザ上で読めるBinB方式による「マガジン航」のアンソロジー電子書籍、『本は、ひろがる』のリリースを記念して、紙と電子書籍のどちらにも片寄らない立場で本に関わるお二方をゲストに迎え、今夜19時30分よりボイジャーのオフィスからUSTREAM配信による公開鼎談「本は、ひろがってる?」を行います。

※ BinB版『本は、広がる』はこちらから無償で閲読できます。

ゲストはブックコーディネーターとして活躍するnumabooksの内沼晋太郎さん、誰でも本を作り読むことができるサービスBCCKSのチーフ・クリエイティブ・オフィサー、松本弦人さんのお二人です。テーマは「本はこれからどうなるのか。そのためにデジタルはどう役に立つのか」。ボイジャーの事業企画担当の鎌田純子と開発担当の祝田久も参加します。どうぞご期待ください!

USTREAM配信「本は、ひろがってる?」

~本はこれからどうなるのか。そのためにデジタルはどう役に立つのか~

日時 2012年2月24日(金)19:30~21:00

USTREAM URL http://www.ustream.tv/channel/v-ch
【中継は終了しましたが、録画でも御覧いただけます】

Twitterハッシュタグ #magazine-k

出演者プロフィール

司会:
仲俣暁生(マガジン航
フリー編集者、文筆家。「マガジン航」編集人。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、 twitter:@solar1964

ゲスト:
内沼晋太郎(numabooks
ブック・コーディネイター、クリエイティブ・ディレクター。numabooks代表。著書『本の未来をつくる仕事/仕事の未来をつくる本』(朝日新聞出版)。 twitter:@numabooks

松本弦人(BCCKS
株式会社BCCKSチーフ・クリエイティブ・オフィサー。90年株式会社サルブルネイ設 立。グラフィックを中心とした様々なジャンルの企画、デザイン及び、著者・原作者としてデジタルメディアなどの企画制作の2軸で活動。07年より、雑誌や 書籍、絵本や写真集、日記などの本(ブック)が作れるWebサービス「BCCKS」をスタート。