絶海の孤島の中にある日本語のヒップホップ論戦

2017年9月12日
posted by 川崎大助

すこし前に奇妙な事件があった。「ヒップホップ」と「自民党」という、普段あまり一列に並ばない単語がセットになって、そして日本語のインターネット空間のなかで「炎上」していた。「燃やされた」のは自民党の新潟県連だ。このとき同組織に投げつけられていた悪罵の数々を簡単に要約すると、「自民党はリベラルではない」から「『ヒップホップ』なんて口にするな!」というものだった。なぜならば「ヒップホップとは『つねに弱者の側に立つ』カウンターカルチャーだから」と……この経緯の一部は朝日新聞にも載った。7月の半ばごろの話だ。

と聞いて「えっ、ヒップホップってリベラルだったの?」と素朴な疑問を持ってしまったあなたは、正しい。ゆえにこの事件について、僕はここで腑分けを試みてみたい。その内側には、音楽文化への「日本にしかない」とてつもない誤謬が含まれていると考えるからだ。

日本語のインターネット空間は絶海の孤島か

まずは事件の概要から追ってみよう。

とっかかりは、前出の自民党新潟県連が作ったポスターだった。同県連主催の政治学校の生徒募集のためのもので、若い女性向け、若い男性向けの2種が制作された。問題視されたのは後者、男性向けのほうで「政治って意外とHIPHOP。ただいま勉強中。」というキャッチ・コピーの「前半」のみが物議をかもした。また、県連青年部局のツイッターから発せられた「#政治とはHIPHOPである」というハッシュタグも火に油を注いだ。このポスターは7月10日に貼り出され、15日ごろからツイッターを中心に批判の声が上がり始めた。「自民県連HIPHOPポスター、批判相次ぐ 新潟」と題された朝日新聞ネット版の記事は、同21日にアップされている。

LDP新潟政治学校 第2期生募集のサイトやポスターで用いられた文言が物議をかもした。

このとき、批判の急先鋒となった観があったのが、ベテラン・ラッパーのKダブシャインだった。上記の朝日の記事のなかでも彼は「自分たちが大切にしてきたヒップホップ文化をただ乗りされ踏みにじられたように感じ、受け入れがたい」とコメントしてる。さらに彼は、自身のツイッターでも、この件について盛んに意見を発表していた。たとえば、以下のように。

「持たざる者、声なき者に寄り添うことでヒップホップはここまで世界的に発展して来たのに(中略)消費税、基地建設、原発推進、はぐらかし答弁、レイプもみ消しに強行採決と、弱者切り捨て政策ばかり推し進めておいて、そこに若者を集めることのどこがヒップホップなのか解説して欲しい」(7月16日のツイートより)

そして、基本的には「この観点」と「この論調」に沿って、数多くの人々が、ツイッターそのほかで自民党新潟県連に襲いかかった。

朝日新聞記事の前後に、いくつかのメディアがこの事件を報道した。しかしこの原稿を執筆中の8月31日現在、同県連の政治学校ページには、該当のポスターと同じものが、いまなおそのままに掲げられている。以上が事件のあらましだ。

といった経緯を見て僕は、とても気持ち悪いものを感じた。なぜならば、単純にまずこう思ったからだ。

「リベラルな内容」のラップ・ソングはもちろんあるが「まったく逆」のものだって大量にあるし、そっちのほうが多い。ゆえに、ラップが、ヒップホップが「リベラル専用(あるいは、リベラル寄り)」と言うには、だれがどう考えても語弊がありすぎるし、さらに、それをもってして他者を攻撃するというのは、明らかに間違っている。いくら自民党が嫌いであっても。

同時に、このときに批判者のなかに「ヒップホップはカウンターカルチャーである」という意見も多かったのだが、これも不正確きわまりない。「カウンターカルチャーとして機能する」ものも一部あるにはあるが、アメリカのヒップホップとは元来「対抗文化(Counter-culture)」とはなり得ない。というよりも、あからさまに「体制擁護」的な本質がある。後段で詳述するが、ロックと比較してみればすぐにわかる(あるいは、フォーク・ソングとも)。

だから「ほぼ完全に」間違った意見が、歪曲したものの見方ばかりが、猛烈な速度でこのとき世間に流布されていた、と言うしかなかった。日本語のインターネット空間は、世界の言論状況から切り離された、まるで絶海の孤島のようではないか。いったい全体、なんでそんなことになったのか?

日本の右翼ラップ

そもそもアメリカのヒップホップ音楽におけるラップ・ソングとは、その歴史の最初から、つねに世間の良識派から眉をひそめられるような存在だったことは、だれもが知るところだろう。とにかく詞が、言葉が、ラップの内容が問題視された。強烈な男性原理に支配された上での、女性蔑視、セクシズム、ホモフォビア、暴力や犯罪礼讃、カネや権力へのあからさまな執着――といった要素を詞に含む楽曲がとても多く、さらには目立ったために非難された。日本でだって、カタカナ語の「ビッチ」がここまで一般化したのは、すべてアメリカ製のラップ・ソングのせいだ。

アメリカのラップ・ソングは、まず最初に「目の前の現実」をこそ詞にするものだったから、そうなった。ファンタジーではなく、ドキュメンタリーだ。理想を歌うのではなく、まず最初に現実を活写する(ときには、それを誇張して表現する)ことが得意だった。つまり、当初はラッパーの置かれていた環境が「やばい」ものであることが多かったので、「やばい」内容の曲が量産されたわけだ。

黒人が社会的弱者だから「助けてあげよう」と寄り添った、なんて行動原理があったわけではない(あるわけがない)。自分たち自身が「黒人だから」というだけの理由で社会的強者から抑圧されたから、「なめるな!」と怒っただけのことだ。「当たり前の人間としての、最低限の尊厳と権利」を主張しただけだ。声高に。

そしていまや、アメリカの商業音楽シーンの主流(Mainstream)で売れているものの大半は、ヒップホップ音楽もしくはその影響下にあるものばかりだ。ゆえに、いまとなっては超保守ラップもある。クリスチャン・ラップも、白人至上主義者によるKKK礼讃ラップすらある。ありとあらゆることが「ラップ・ソング」になった。

あのキッド・ロックだってそもそもはラッパーだった。サラ・ペイリンとテッド・ニュージェントとともにトランプにホワイトハウスに招待され、「ホワイト・トラッシュのラシュモア山や!」とCNNでコメンテイターのポール・ベガラに失言させてしまったほどのレッドネック野郎の彼だって、いまでもラップはとても上手い。

だから「右翼ラップ」と呼ぶしかないものも多い。それこそ「安倍政権よりもずっと右」なことを主張しているラップ・ソングだってある。もちろん、ここ日本にも。

日本の右翼ラップについて、最初に名前を挙げるべきは「英霊来世(エーレイライズ)」という3人組のグループだ。メンバー名は、七生報國、一億一心、明鏡止水。2005年に活動を開始し、10年にアルバムとシングルを発表。靖国神社と関係が深く、奉納ライヴもおこなっている。彼らのナンバー「開戦」では、こんな詞がラップされる。「リメンバーパールハーバー/こっちの台詞だ 忘れるもんか/世界を変えたあの轟砲 もう一丁響かそうぜ同胞」。そのほか「中国 韓国 北朝鮮 ロシア アメリカにも気は抜けん」というタイトルの曲もある。

「英霊来世」の公式ウェブサイト。

ソロ・ラッパーの「Show−k(ショック)」もよく知られている。介護士をしながら活動を続け、14年の東京都知事選挙では田母神俊雄候補の街頭演説車の上に立ってラップした。彼のナンバー「そうだ! 靖国へ行こう!」はこんな内容だ。「配慮はいらない堂々と 英霊に敬礼!!/8月15日は靖国へ行こう」。そのほか「今でも安倍」という安倍総理応援ソングもある。13年の参院選公示直前の6月に発表されたこの曲は、彼の具体的な政治的主張が見えてくるものだった。

英霊来世もShow−kも、商業的な音楽シーンのなかで高く評価されているわけではない。政治活動の一環としてラップを披露している、と見るべきかもしれない。しかし彼らのルーツと呼ぶべきラッパーは、まさに「シーンの大立て者」のひとりだ。だれあろうそれは、今回の騒動で批判者の先頭に立っていたKダブシャインだ。

95年、ヒップホップ・ユニット「キングギドラ」の一員としてレコード・デビューしたKダブシャインは、のちにソロに転向。そして02年、映画『凶気の桜』の音楽監督をつとめる。窪塚洋介が主演し、右翼活動へと没入していく若者を描いたその映画の内容に沿って、タイトル曲ではこんな内容がラップされた。「もうあれから60年にもなるゼロ戦/神風頭に浮かべ 勇敢な魂 持ってたら歌え」――この映画が話題となったころが、右翼的な内容の日本のラップ・ソングの起点となった時期だ、とよく言われる。

もっとも、Kダブシャインの詞がいつもこの調子かというと、そんなことはない。例えば00年に発表した「日出ずる処」は、こんな内容だ。「耕す米 美しいヨメ 山を夕焼けが 真っ赤にそめ/午後の6時 空が告知 栄養バランスのとれた食事」「長すぎた戦争が 終わり占領下 低い円相場 まさにゲームオーバー/再出発する 日本人 大復活する 自尊心」――ここから立ちのぼってくるのは、素朴な愛国心だ。「日本に生まれた男として、当たり前に日本を愛する心」といったものが、Kダブシャインのラップの心棒となっているように僕には思える。彼の靖国神社参拝も、右翼団体「一水会」への接近も、同じ源泉からのものなのだろう。そして、彼が愛する日本をまさに「破壊しようとしている」のが、現在の自民党の政策なのだ……というのが、理解の筋道だろう。

また、Kダブシャインが築いた「愛国心」を鼓舞するラップという橋頭堡の上に続いた者として、般若の名も挙げなければならない。彼は05年、映画『男たちの大和/YAMATO』にイメージ・ソング「オレ達の大和」を提供する。同映画の主題歌を担当した長渕剛のツアーで前座も務めている。これらの土壌の上に、英霊来世もShow−kもいる。

そしてまた、愛国心から国粋主義、排外主義へと突き進んでいく道のりは決して遠くはない。その路程を駆け抜ける際に燃料として欠かせないのが、和製英語で言うところの「マッチョイズム」だ。

ヒップホップはその当初から「男根主義的だ」とのそしりを受けてきた。この部分が、「アメリカ以外」の国へと伝播したとき、そこの地場の「男らしさ」と過剰に結びつくことで、「愛国」の烈士を生み出す触媒となってしまうのだと僕は考える。だから日本以外の「ヒップホップ輸入国」でも、同様の現象は起こっている。右翼どころか、極右ラップまでが増殖している。

欧州やオーストラリアにも広がる

たとえば、15年、オーストラリアのアデレードで開催された極右団体「リクレーム・オーストラリア」主催のイスラム教徒排斥集会にて、オージー・ディガーと名乗るラッパーがパフォーマンスを披露し、新聞ダネになった。「もう沢山だ(I’ve Had Enough)」と題されたその曲は、こんな内容だ。「オージーの二日酔いに効くのは/卵とベーコンのサンドイッチ/なにがあったって変わるわけない/だからお前も好きになれるはず/じゃなきゃ出ていけよ」(原文英語 筆者和訳 以下同)

イスラム教徒にとって飲酒や豚肉食は絶対的な禁忌であるからこそ、それを「オーストラリアに住むための踏み絵」として迫る、という詞だった。こんな曲を彼は、オーストラリア名物のベジマイト(日本でいう納豆みたいに「外国人には馴染みにくい」発酵食品の同国代表)のボトルの着ぐるみ姿の男を従えて、「楽しげに」ラップした。そして周りを固める極右仲間が大声で唱和した。

こうした動きと同様のものが、ノルウェーなどヨーロッパ諸国でも顕在化し始めている。これらすべての先駆けとなったのが、ゼロ年代初頭からドイツで頭角を現したギャングスタ・ラッパー「ブシドー(Bushido=武士道)」だ。アメリカのエミネムや50セントに影響を受けたと評される彼は、暴力的で国粋主義的なラップで人気となった。ブシドーの代表曲のひとつ「エレクトリック・ゲットー」ではこんな一行が繰り返される。「敬礼! 気を付け! 俺は『A』のようなリーダーだ」――この「A」とはアドルフ・ヒトラーを指すものだとして、ドイツでは大変な物議をかもした。しかしそれが逆に、ネオナチ指向の若者に受けに受け、後続への道を開いた。

ブシドーには女性蔑視の詞が多い。ゲイを差別し攻撃する詞も多い。「ベルリン」という曲はこんな詞だ。「ベルリンは再びハードになる/ホモのクソ野郎全員を俺らがぶん殴るから」。「理由なき戦い」では、「ホモの豚は拷問される/野郎はチンコ吸わない、これすげえ普通のこと」とラップされる。そしてこの曲には、ドイツ緑の党党首の名前を出して脅迫する一行まであった。「俺はクラウディア・ロートを撃ってるところ、ゴルフ場みたいに穴いっぱいだぜ」――これを受けて、2013年、当時のベルリン市長、社会民主党所属でゲイを公表していたクラウス・ヴォーヴェライトは法的措置も辞さない構えでブシドーを非難し、やはり新聞ダネになった。

と、このようにあらゆる批判を集めながらも、今日もなおブシドーは旺盛な活動を続けている。ドイツで屈指の知名度と人気を誇る「極右」ラッパーが彼だ。

「コーク」と「ペプシ」の違いにすぎない

では「ヒップホップが生まれた国」であるアメリカでは、ラッパーの政治性はどんな色合いなのか?――と見てみると、これは比較的わかりやすい。おおよそ「民主党支持者が多数だ」と見てもいい。とはいえ、じつはここにこそ「日本人が見誤った罠」がある。「ヒップホップが『社会的弱者の側に立つ』ものだ」なんて勘違いしてしまった、最初の落とし穴はこれだ。

なぜならば、政治を観察するモノサシの最初の最初から、言うなればその目盛りが狂わされている、からだ。つまり「日本人なのに」アメリカの政治風土にのみ表層的に毒されすぎている、と言おうか。

「保守とリベラル」とは、元来、政治思想の両極として対立するような概念ではない。これを「あくまで「自由主義」の枠のなかでの「右」と「左」の違い、いわば「コーク」か「ペプシ」の違いに過ぎない」と喝破したのは、慶応義塾大学の渡辺靖教授だ(WEB RONZA『米国にとって「リベラル」と「保守」とは何か』より)。

広い世界の民主主義のなかには「保守(アメリカであれば共和党)」と「リベラル(同、民主党)」しかない、わけではない。なのに「日本も同じだ」と考えてしまったとしたら――というか、そう考えている人がとても多いようなのだが――それは致命的な錯誤でしかない。世界はアメリカだけではないからだ。

そもそもの日本語の政治概念用語としては、保守の対義語は「リベラル」ではなかった。保守の逆は「革新」に決まっている。「右の反対が左」であるように。しかし旧社会党の凋落以来、日本の政治空間のなかで社会民主主義勢力は退潮の一途をたどり、ついこのあいだまでは、なんと日本も「アメリカ型の二大政党制」を目指さねば――なんてことになって、いつの間にやら、だれも「革新」なんて言葉を使わなくなった。リベラルだの「左派リベラル」だのだけが、跳梁跋扈するようになった。

かくして近年の日本では、アメリカ限定印付きの意味での「リベラル」という言葉が、まるで「革新」や「社会民主主義」と置き換え可能であるかのように、大いなる勘違いのもとで使用されるばかりとなった。だから、じつのところ今回のこの騒ぎも、僕にはまるで「コップのなかの嵐」であるかのように見えた。まさに「コークとペプシ」の対立であるかのように。

なぜならば、愛国心旺盛な「リベラル」派は、ごく普通の政治概念では「保守的自由主義(Conservative Liberarism)」と区分される。もうすこし右に寄せると「自由保守主義(Liberal Conservatism)」となる。そして、このどちらも標榜している政党は、日本では、英名が「Liberal Democratic Party」である自民党だ(とWikipediaの英語版には書いてある)。このようにアメリカ型の「リベラル」と「保守」とは、それほど遠い存在ではない。欧州の政治と比較して見るならば。

たとえばイギリスの「二大政党」は、アメリカとはかなり趣きが異なる。保守党と労働党だ。だからかの国には、アメリカとはまったく違う「政治風土」がある。立憲君主国に近い体制の日本では、「イギリス型」のほうが体質に合うはずだったのに、と僕は思うのだが……しかしそっちには進まなかった。

アメリカの話に戻ろう。前述したように民主党支持者が多いヒップホップ・アーティストなのだが、これももちろん「全員がそうだ」というわけではない。それどころか、かなりの大物にも「共和党支持」を公言している人物すらいる。LLクールJ、50セント、それからN.W.Aの故イージーEといったところがよく知られている。KRSワンも「ヒップホップの初期には共和党は仲間だった」と発言したことがある。また銃を好むラッパーも多いから、あの悪名高き全米ライフル協会(NRA)の会員も多い。ネリー、キラー・マイクが有名だ。

さらにこんな統計もある。CNNの調べによると、1989年から2016年までのあいだに、さまざまなラップ・ソングの詞においてドナルド・トランプの名が言及されたこと、なんと318回(!)を数えるのだという。このうち、批判的にトランプを取り上げたものは、(最近になるまで)かなり少なかった。多いのは、「派手なカネ持ちの代表例」としてのトランプ像だ。面白がっている、いやもっと正確に言うと「あこがれて」さえいるかのような扱いが「定番」だった。なぜなら、ヒップホップの基本概念として「おカネがあるのはいいこと」だからだ。それがカタカナ語にもなった「メイクマネー」というラップの決まり文句の出どころだ。

たとえば、大人気歌手アリアナ・グランデの恋人としても有名なラッパー、マック・ミラーが11年に発表した曲「ドナルド・トランプ」は、13年にはプラチナムを獲得するほどのヒットともなった。こんな内容だ。「俺がドナルド・トランプだったら世界征服だ/見ろよこのカネ全部、ちょっとしたもんだろ?/ヘイターズが怒り狂う隙に、俺ら世界征服だ/ていうのが、俺のビッチーズがみんなワルい理由」

つまりこの曲は、傍若無人な大富豪としてのトランプを、ヒップホップらしく誇張して、多分に肯定的に戯画化したものだった。なので、16年の大統領選にトランプが出馬してからの大騒ぎは、ミラーにとって「想定外」だったようで、急遽彼は「自分は政治家としてのトランプは支持していない」とのコメントを発表、釈明に追われた。しかし当然のこととして、選挙戦時のトランプ候補の破竹の快進撃にともなって、16年にはふたたびこの曲がよく売れた。

ヒップホップは資本主義社会の音楽

なんでこんなことになったのか?――というと、資本主義とヒップホップ音楽とは、コインの裏表どころではない、からだ。「表と表」の関係だからだ。ゆえに大半のヒップホップ音楽は、当たり前の帰結として、まったくもって「カウンターカルチャー」とはなり得ない。アメリカのヒップホップ音楽のほとんどすべては、その本性がアメリカの国是と同様に「資本主義を肯定している」からだ。

このことについて、音楽で資本主義的に「成り上がった」ヒップホップ大富豪の筆頭、ジェイZがとてもわかりやすく説明してくれている。インタヴュアーの「ロックの世界では『企業』は汚い言葉とされてきたが、ヒップホップではどうなのか?」という質問を受けて、彼はこう言った。

「ロックとは全然違うね。成功したロック・アクトはアンクールになる。でもヒップホップでは『成功はいいこと』なんだ。みんなゲットーから脱出しようとしているからね。だからもしきみがペプシのコマーシャルに出ても、セルアウトしたってことにはならないのさ」(17年6月、UK版『GQ』のインタヴューより)

そのジェイZが、こちらもトップスター・ラッパーと呼ぶべきナズとコラボした曲に「黒い共和党員(Black Republican)」(06年)というナンバーがある。曲中でジェイはこんなふうにラップする。「黒い共和党員みたいな気分になるぜ、ばんばんカネが入ってくる/地元には背を向けられねえ、あいつらのことが大好きだから」――もちろんここの「共和党員」は比喩であり、アイロニーなのだが、自分たちは資本主義という、「カネ」を主役とした情け容赦のない社会体制のなかで、「ゲームのルール」に従って勝負して、勝利をおさめつつあるのだ、という現状の「ドキュメンタリー」とも言える小品だった。

こうしてアメリカのラップ・ソングを概観したとき浮かび上がってくるものは、まず最初に「資本主義社会の音楽だ」ということだ。リベラルか保守か、民主党か共和党か、なんて二分法は最重要ポイントではない。アメリカが「自由世界の盟主」であり、その立場を維持する最大の装置が「カネ」である現実をまず直視しているのが、僕が知る同国のラップ・ソングの、第一の特徴だ。資本主義という「厳しい現実」に、雄々しく男らしく立ち向かっていくための音楽、とでも言おうか。

たとえば60年代には反体制派が大多数だったロック音楽の世界にも、70年代になると右翼化する一群が出現した。一時期はあたかも「カウンターカルチャー」の象徴みたいだったロックですらそうなったのだから、そもそもが「まったくカウンターカルチャーではない」ヒップホップ音楽がいま極右化したり、保守化したりすることは、自然な流れの範囲内だと言えるはずだ。「男性原理」と「資本主義の肯定」こそがヒップホップ音楽が元来持つ両輪だからだ。この現実を「見たくない」人が、日本にはとても多いようなのだが。

ともあれ特定の政党や政治家が嫌いだったり、自らを「リベラル」あるいは逆に「保守」と規定したからといって、「自らが好きな音楽ジャンル」を偏向した見方で縛り上げることなど、できるはずがない。だれかになにかを「聴くな」なんて強要することも、不可能だ。神様が止めたって、聴きたい奴は聴く。

あるいはまた「音楽に政治を持ち込むのが是か否か」なんて低級な議論がよくあるが、そんなもの「音楽にはなんだって『持ち込める』」んだから、やりたい人がやればいい、それだけの話でしかない。

もっと正確に言うと、「音楽と政治」とを切り離すことが可能だと思う人がいる、そのことのほうがよっぽど問題だ。できるわけがないからだ。今日のロック音楽の源流のひとつ、ヒルビリー音楽のオリジンとなった18世紀のバラッドに、すでに「オレンジ公ウィリアム3世」の戦歴を賞賛するものが多数あるほどなのだから。

たとえば西洋美術の歴史において「アートに宗教を持ち込むな」ということがまったく不可能だったのと同様、音楽には「つねに」政治も宗教も、愛も憎しみも、絶望も、天にも昇るような歓喜も、それらのすべてが「持ち込まれ」続けている。なぜならば元来、それこそが「歌の言葉」――歌詞というものだからだ。「日本語以外の世界」では、歴史上一度も途切れることなく、連綿と。

とはいえ、忘れてはいけないのは、いかなる政治信条や哲学よりも、つねに「音楽そのもの」のほうが上位にある、ということだ。いい音楽は、歌は、そこに存在するだけで、それを作った人間の全人生よりもずっと崇高なる価値をそなえてしまう場合もある。神というなら、神の領域にも近くなる。このことに意識的であり続けた者のひとり、ボブ・ディランが昨年ノーベル文学賞を受賞した。つまり「歌の言葉」とは、今日、人類の文化のなかでかくも高い位置に置かれて賞賛されているわけだ。

そんな時代のなかで、最もポピュラーな方法で「音楽的な言葉」のありかたの最前線にて躍動し続けているのがヒップホップだ。だからぜひ、僕としては自民党の党員や支持者の人にもヒップホップ音楽を、できるかぎり数多く聴いてもらいたい。

というか、そもそも安倍政権下において実施された「教育改革(2012年の学習指導要領改訂)」にて、中学校でヒップホップ・ダンス(現代的なリズムのダンス)が必修となったのだから、きっと自民党にはすでにヒップホップ好きの人が何人もいるのだろう。同時に必須となった「武道」と同じぐらいには。ただあのポスターの仕上がり、キャッチ・コピーのテイストは個人的に最悪だとは思うが(そもそも、なんだって男と女の募集ポスターを分けなきゃいけないのか?)。

次の国政選挙の際は、前哨戦として各政党の候補者や支援者がラップ・バトルをしてもいいのかもしれない。かなり盛り上がりそうな気がするのだが、どうだろうか。

執筆者紹介

川崎大助
1965年生まれ。88年、ロック雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー・マガジン「米国音楽」を創刊。主幹として編集/発行/グラフィック・デザインを手掛ける。レコード・プロデュース作品も多数。2010年より、ビームスが発行する文芸誌「インザシティ」に短篇小説を継続して発表。著書に評伝『フィッシュマンズ 彼と魚のブルーズ』、長篇小説『東京フールズゴールド』(いずれも河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)がある。