ワシントン・ポストをベゾスが買ったワケ

2013年8月7日
posted by 大原ケイ

アマゾンCEOのジェフ・ベゾスがワシントン・ポスト紙を買収、というニュースに椅子から転げ落ちた。ポストの記者もI was floored.とツイッターでつぶやいていたので、誰にとっても青天の霹靂といったところだろう。

私は一瞬「アマゾンが?」と思ったのだが、これは間違いで、一説には250億ドルとも言われるベゾスの個人資産の中からワシントン・ポスト紙とその関連企業を2億5000万ドルで買い取ったという話。ってことは彼にとってはこの大金もお財布の1%というハシタ金。1万円持ってたから100円使ったった、みたいな。

とりあえずこのニュースのバックグランドを説明しよう。どういう影響がありそうかも。

首都ワシントンのリベラル系老舗紙

ワシントン・ポストは言わずと知れた創業135年という老舗。ニューヨーク・タイムズ、ロサンゼルス・タイムズと並び全米で影響力の大きい新聞で、本社が首都ワシントンというのもあってとくに政治関連記事に強く、いままで獲得したピューリッツァー賞の数もダントツだ。読者層はニューヨーク・タイムズとかなりかぶり、首都ワシントンとその周りのバージニア州やメリーランド州に住んでいるインテリ層、リベラル寄りの人たち。さらにオンライン版で全国に読者がいる。最近はネットで#WaPoで通じるぐらい。

アメリカでは新聞に限らず、書籍や雑誌の会社は株が非公開になっていて(ユダヤ系の)オーナー家族がいるところが多い。たとえばニューヨーク・タイムズといえば、サルツバーガー・ファミリーだし、雑誌社のコンデ・ナストと言えばニューハウス・ファミリーだし。日本でも大手出版社の一部は野間家(講談社)だったり佐藤家(新潮社)だったりするので、そのへんは同じ。

ただ、某紙の某オーナーのように、マスコミのコンテンツや野球チームの監督の人選にまで口出ししてくるのは御法度で、どちらかというと守り神的存在。まぁアメリカにもルパート・マードックという「オレのもんなんだからオレの思う通りに書け」みたいな勘違い爺もいるわけだが、これはむしろ例外。彼はジューイッシュじゃないし、アメリカのメディア界でもオーストラリアからきた珍獣扱いである。

そのマードックも2007年にウォールストリート・ジャーナルというビジネス紙の至宝を掌中にした。もっとも彼は以前パーフェクトスカイTVを中国で展開しようとしていた時期に、傘下の書籍出版社ハーパーコリンズから出ていたヒラリー・クリントンの自伝から、中国政府に対して批判的な部分を内緒で削除させたこともあるという、よろしくないタイプのオーナー。取材対象者の電話の盗聴がバレたイギリスの大衆紙、ニューズ・オブ・ザ・ワールドの経営に関わりすぎて側近が有罪判決を受けるなど、痛い目に遭っている。いま、中国妻との離婚訴訟でモメているのも何かの報いかと。

一方、ワシントン・ポストは戦後(1940年代半ば)あたりからグラハム一家(初代はメイヤー姓でその娘一族が受け継いだ)がずっとオーナーで、新聞のmastheadと呼ばれるスタッフ欄にpublisher(発行人)、という肩書きで君臨してきた。普段は表に出てこないし、人事にもコンテンツにもクチを挟まない。例外的なケースとして、70年代にニクソン大統領が再選のために違法に裏金をまわしてたのをすっぱ抜いた「ウォーターゲート事件」がある。つまり、コンテンツに口を出したり経営に介入したのではなく、国家への反逆罪に問われるぞという脅しに屈せず、現場の記者をどこまでも支えるという決意を示したのである。

カール・バーンスティンとボブ・ウッドワードというポスト紙の2人の若手記者をデスクのベテラン編集者ベン・ブラッドリーが支え、「ディープスロート(内部告発者)」という言葉をアメリカのレキシコンに加え、ついには現役大統領を辞任に追い詰めた一連のスクープ記事のことは、のちに映画化(『大統領の陰謀』)されたこともあり、覚えている人もいるだろう。この時ワシントン・ポストの発行人だったのは二代目オーナーのキャサリン・グラハム女史で、後継者と目されていた夫が急死し、父の新聞を継ぐことになった。ちなみに彼女の自伝Personal Historyはその辺の事情が詳しく書かれており、お薦めの1冊だ。

ウォーターゲート事件の記事が紙面をにぎわせていた頃に、ニクソン政権からワシントン・ポスト紙に相当の圧力がかけられ、司法長官だったジョン・ミッチェルが「そんなことを暴露したらケイティー(キャサリンのこと)のおっぱいがきりきり締め上げられることになるぞ」とバーンスティン記者を脅したというエピソードはとても有名。買収発表に寄せたメッセージでベゾスが、「(おっぱいはないけど)体の部分を締め上げると脅されるのはイヤだけど、平気だよ」と言っているのは、そういう意味なのだ。

ウォーターゲートにあった民主党選挙事務所に忍び込んだ盗聴犯への資金の流れに端を発し、大統領辞任に至るまで、下手なことを書いたら新聞が潰されるかもしれない…それでもキャサリンは圧力に屈することなく、ブラッドリーを全面的に信頼してウォーターゲート事件の記事を発表し続けるのにゴーサインを出した。キャサリン・グラハムの引退後は息子のドン・グラハムが引き継ぎ、かつてほどの影響力も購読者数もないにしろ、口出しをせずに見守ってきた。ドンはスタッフにも好かれているみたいだ(下の映像は買収発表時のドンの肉声)。

現在のポスト紙の発行人は上のキャサリンの孫娘にあたる、キャサリン・ウェイマス・グラハムだ。ハーバードとスタンフォードで法律を勉強したアウトドア派のバリキャリ47歳。49歳のベゾスと同世代だ。この買収劇が発表になる直前に、ちょうどNYタイムズでプロフィールを読んだところだったけれど、次期オーナーとして何かやらかしそうな感じ…と思ったらジェフ・ベゾスに売ったってことだね。

とりあえず今後も発行人として彼女は残るし、ベゾスはとくにスタッフを入れ替える予定もないと言っているので、ワシントン・ポストのコンテンツが変わるというわけではなさそう。でも、常識的に考えてアマゾンを一方的に攻撃するような記事は載せにくくなるだろう。

というのも、最近オバマ大統領がアマゾンの流通倉庫を訪問して、その際に国内の雇用を支える企業を支持するという主旨の演説をしたばかり。雇用を生み出すといってもアマゾンの流通倉庫の仕事は低賃金で、労組もなく、キツい仕事だというのは周知の事実。アマゾンのせいでどれだけの本屋が潰れて、低賃金雇用ばかりが増えたと思ってるの?と業界の人は怒りを顕わにしていた。リベラル寄りのワシントン・ポストもこのことについては厳しい見方だった

でもジェフ・ベゾスがワシントン・ポストのオーナーとなったら、首都ワシントンで行われる政治家のパーティーにもお声がかかり、それはそれでロビイストを雇うのと同じ効果があるだろう。ワシントン・ポストに好意的に取り上げてもらおうと議員もアマゾンにすり寄っていくだろう。

一方で、折しもEブック談合裁判で米司法省がアップルに勝訴し、これからiTunesストアにも刑罰を与えようとしている。アップルは元々ロビイストにあまりお金を使ってこなかったから、そのとばっちりを受けているとも言える。アマゾンはそれに比べるとなんとしたたかなことかと思うわけで。

だからワシントン・ポストがこれからもジェフ・ベゾスという新オーナーとは一線を画し、中立的な立場を守っていけるのかどうかは、これからの同紙の労組や、最低賃金や、中流階級の雇用などに関する記事で判断できるだろう。

「個人」として買収した理由

ジェフ・ベゾスがアマゾンという企業としてワシントン・ポストを買収しなかったのにはいくつか理由がある。

まずひとつは、ワシントン・ポストの財政問題。ワシントン・ポスト社の資産内訳を眺めても、オンライン版の広告が増えていてはいるものの、大部分を占める紙の広告は他の新聞と同じで、どんどん落ちている。スタッフ削減で退職金の支払いもバカにならず、赤字が累積しているのが実情だろう。これを買収してアマゾン傘下の企業とするには、株主に対し、この赤字をどうしていくのか、説明が求められる。大がかりなリストラ策を打ち出せば、社内の人間に嫌われるだけだし、いくらアマゾンでもAmazon.comのトップページでワシントン・ポストの割引き購読を宣伝するぐらいじゃ、黒字に転換したりできないだろう。新聞というメディアそのものが衰退しているのだから。

そしてもう一つは、メディア買収の際にFCC(連邦通信委員会)から求められる情報開示のプロセスだ。アメリカではマスコミ企業が買収される場合、クロスメディア・オーナーシップ法に違反してないか徹底調査される。要するにテレビもラジオも新聞も同じ資本の会社です、ってのは許されない。アマゾンはいまのところマスコミ企業ではないけれど、ビデオのストリーミングサービスや、Eブックビジネスなど「コンテンツ・プロバイダー」である点が今後違法となる可能性もないわけではない。

アメリカでもレーガン時代から続く規制緩和政策の一環としてFCCの規制を緩めろという声があるが、緩めるとマードック爺みたいなのがのさばるだけなので、そういう懸念もあってまだ揉めている状態だ。だからもしアマゾンがワシントン・ポストを買収するのであれば、いままで絶対に公開してないEブックの売上げなども細かく公示する必要がある。それはベゾスもいやだろう。だから個人としてのお買い上げ、となったと察する。

それとそろそろジェフ・ベゾスも五十路の声を聞く頃。自分の「レガシー」というものを考え始めたのもあるだろう。アマゾンのCEOとして「通販キング」「安売りの殿堂タコ入道」 「書籍ビジネスを破壊した男」として歴史に名を刻むより、やっぱりハーストやサルツバーガーと並び称される「メディア王」の方がいいだろうし。アメリカの歴史を振り返っても、Fourth Estate(第四の権力)の覇王として、オーソン・ウェルズの『市民ケーン』のモデルとなった新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストのように、フィクションの世界でもマスコミ・オーナーは名士扱いされてきた。ベゾスもこれでそうした「名士」の仲間入り、ともとれるわけ。

……ってなことを椅子に這い上がりながら考えてみた。どう思う?

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執筆者紹介

大原ケイ
文芸エージェント。講談社アメリカやランダムハウス講談社を経て独立し、ニューヨークでLingual Literary Agencyとして日本の著者・著作を海外に広めるべく活動。アメリカ出版界の裏事情や電子書籍の動向を個人ブログ「本とマンハッタン Books and the City」などで継続的にレポートしている。著書 『ルポ 電子書籍大国アメリカ』(アスキー新書)、共著『世界の夢の本屋さん』(エクスナレッジ)、『コルクを抜く』(ボイジャー、電子書籍のみ)、『日本の作家よ、世界に羽ばたけ!』(ボイジャー、小冊子と電子書籍)、共訳書にクレイグ・モド『ぼくらの時代の本』(ボイジャー)がある。