新宿から電車で西へ1時間あまり。電車を降り、駅の外に出て、歩き始めると周囲は次第に郊外の光景となっていった。高い建物はなくなり、そのかわりちらほら紅葉が混じる林と、うねうねカーブする渓流が現れる。橋を渡り、沿道に杉林が広がる坂道をひとしきり上ったあと、坂の途中で右に折れ、少し下る。するとこぢんまりとした集落が見えてきた。
集落の一角には目的地の建物があった。二階建ての全面が薄い水色の建物は廃校になった田舎の小学校の趣きで、思いのほか小さかった。
とても辺鄙なところにある「館」
訪問前に確認したこの建物の公式ホームページには次のように書かれていた。
1997年3月、少女まんがすべての永久保存を目指し、 東京都西多摩郡日の出町の地に産声を上げた、少女まんがの専門図書館(の赤ちゃん)です。 通称は“女ま館”といいます。
古いけれども広~い一軒家を借り受け、ともかく、日々打ち捨てられていく数多くの少女まんがのため、救済活動を始めました。
2002年8月から、一般公開を始めました。 しばらくは週一回とこぢんまりやっております。まだまだ、ぜんぜんひっそりとしょぼいですけど、これから、すこーしずつ、本当にすこーしずつですがヴァージョンアップを図っていきたいと思っています。
照れまじりの、内輪向けっぽい文章からは、「マニア」というか「オタク」というかその類いの雰囲気が漂っている。数年前に現在の東京都あきる野市に移転した「女ま館」には、少女マンガばかり約5万冊が収蔵されているのだという。
集落から隔絶された高台の上にぽつんと一軒だけ建っているのではないか――。
公式ホームページに載っている外観写真を見て勝手に立地を想像していた。しかし実際の立地は想像していたものとはずいぶんかけ離れていた。駅から15分ほどの小さな集落にそれはある。家と家は隣り合っていて、隔絶していないのだ。正面には破風の屋根があり、下には引き戸、間には満月のように丸い黄色い看板がある。それには「少女まんが館?」と人を食ったような疑問符がわざわざついている。
やる気があるのかないのか。独特なデザインである。
建物を見ていると同行の編集者が、建物から出て来た館主夫妻を見つけ、あいさつした。
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
「女ま館」を運営する中野純さんと大井夏代さんのご夫妻には共通点がある。著書を持つフリーライターで少女マンガ好きであるということだ。しかし、第一印象からは、「少女マンガの救済活動を続けねば」という強い信念のようなものは伺えない。「館」の看板についている「?」からしてそうだが、もっと力を抜いた感じでやっている感じがする。こうした施設を運営してしまうほどの行動力や情熱は彼らは本当に持っているのだろうか。そんなことを思いながら、僕もあいさつをする。
中野夫妻は僕ら二人を歓迎してくれた。
「ようこそこんな辺鄙なところまでいらっしゃいました。さあ二階へどうぞ」
そういって僕らを建物の中へ招き入れてくれた。
少女マンガという遠い世界
僕とマンガのつきあいは小学生低学年のころからだ。1980年前後、大山のぶ代の声による『ドラえもん』のテレビアニメが始まったころ、人気があった月刊「コロコロコミック」を欠かさず買い、毎月、穴が空くほど読んでいた。学研の出していた学習マンガ「ひみつシリーズ」は数十冊買い集め、読破した。
中学に上がるころは『Dr.スランプ』『キン肉マン』『北斗の拳』などにはまり、「週刊少年ジャンプ」を主に愛読した。毎週読んでいるうちに『こち亀』のファンにもなり、100巻近くのコミックスのうち50冊以上を集めたりもした。そのころ月刊誌は1年分ほど、週刊誌は2、3ヶ月分ぐらいは溜めたことがあったが、親に捨てられたのか、手元に当時のマンガの類はほとんど残っていない。
大学生になってからは「ビッグコミックスピリッツ」「ヤングジャンプ」を毎週買っていた。ずっと一人暮らしだったので溜めることだってできた。しかし部屋が狭くなることを気にしたのか。当時買ったマンガ雑誌はやはり手元には見つからない。コミックスは現存しているが、残っているのは数えるほどしかない。
一方、少女マンガとなると、買って読んだ経験はおろか、家にそれらがあった記憶もない。読んだことがあるのは学年誌の「小学○年生」に載っていた『うわさの姫子』シリーズ、そして男の子向けのマンガ雑誌に載っていた『うる星やつら』や『あさりちゃん』ぐらいのもの。『ベルばら』すら読んでいないのだから、まったく読んでいないも同じである。「目の中に星がキラキラと入っている少女キャラクターが、現実離れした恋をする」というステレオタイプなイメージしかない。読んでいるだけでクラスの友達から弱虫扱いされるかも、と思ったのも読まなかった原因なのだろう。そんなわけで少女マンガにはとっかかりのないまま大人になった。
それなのになぜ、今回はマンガの話なのか。このシリーズの第一回で取り上げた「床が抜けた」事件は、マンガと深く関連している。マンガについてはいつかじっくり取り上げるべきだと、うすうす思っていたから、担当編集者に「女ま館」を紹介され「行きませんか」と声をかけられたとき、「今回こそがマンガを取り上げる機会なんだな」と直感的に思った。
マンガはかさばる。くだんの事件は新聞や一般雑誌・マンガ雑誌を溜め続けたために起きた。コミックはシリーズが基本で、刊行のスピードは週刊誌の連載だと数ヶ月おきと早い。古紙回収の日にビニール紐で縛られゴミとして出されている新聞やマンガ雑誌は毎週のように目にする。マンガ週刊誌を長年捨てずに溜め続けたりすれば、みるみる居住空間を圧迫してしまい、ひいては床抜けの原因となるかもしれない。
その観点からすると、「女ま館」はあり得ないことをやっている。僕にとって縁遠いジャンルである「少女マンガ」だけを扱っていることは別としても、ただでさえかさばって仕方ないマンガ雑誌やコミックスを、しかも他人の所有していたものを一手に引き受け収蔵しているというのだから。
もうひとつ「ありえない」と思ったことがある。一般の人に広く公開するのであれば、都心に作ればいいものを、なぜわざわざ東京の外れの山の中に作ったりしているのか。編集者に誘われて、はるばるこんなところまでやってきたのは、そうした、「ありえない」ことをやり続けている理由に興味を持ったからだ。
「女ま館」に入る
建物に入る。すぐ正面には階段があり、立ち塞がるように上へ続いている。床はいきなりコンクリートになっていて、天井には尋常じゃない数の根太が張り巡らされている。戦前の木造校舎なら、床は板張りのはず。とするとこの「館」はいったい、いつ作られたのだろう?
壁と壁の間には、マンガが入ったままの段ボール、そして手作りの木製の棚やスチールラックなど規格のそろっていない棚が、人が一人通れるかどうかという狭い間隔で雑然と並んでいる。すべての棚には寸分の隙間もなくマンガが並んでいて、二階へ続く階段の、段と段の間さえも棚の一部として利用している。暖色の背表紙が並ぶ様は内壁の水色と不思議と調和している。
「ぶーけ」「少女フレンド」「りぼん」「花とゆめ」といったメジャー雑誌に、聞いたこともないレディコミ。1970年代発刊の古いものがあるかと思えば最近のものもある。300ページほどの通常サイズから1000ページ近くもある分厚いものまで、ありとあらゆる雑誌、そしてコミックがシリーズ別に並べられている。二階には読書スペースのちゃぶ台とざぶとんがあり、長時間浸れるようになっている。
少女マンガのファンだった人であれば、懐かしさがこみ上げてきたりするのかもしれない。しかし僕は読んだことがないのだから、何を見ても懐かしくはならない。それよりも、女の子の部屋にいきなり入り込んでしまったような気恥ずかしさがあった。
「少女マンガ事典」を作りたかった
こうした施設を作るに至った経緯やきっかけについて、「女ま館」の共同管理者である中野純さんに話をうかがった。
1995年に、「ファーストクラス」というパソコン通信用のシステムをつかって友達とよくやりとりをしていたんです。当時はリアルでもネットでも、同じ友達どうしがつながっていました。僕の入っていたBBSには出版関係者だけでなくデザイン関係の人やミュージシャンも参加していて、その中にはいまの辛酸なめ子さんもいました。
あるとき、大井がBBSに「少女マンガが好き」と書き込みをしました。すると「実は私も」と「私も」と次々に名乗りをあげる人がいました。当時は「少女マンガ好き」を公言することが憚られるような、言いづらい雰囲気があったんです。だからこそ、少女マンガを話題にして、わーっと盛り上がったんですね。
BBSはさらに盛り上がり、ある計画が浮上する。
「少女マンガ大事典」のようなものを作ろう、ということになったんです。それには作品についての正確な知識が必要ですから、実際に膨大な作品を手に入れたり、それを置く場所が必要になってくる。だったら、いっそのこと少女マンガを収蔵する館を作ろう。そんな風に話が膨らんでいったんです。こどもの空想のレベルですね。夢物語のような軽い気分です。この建物を図書館とせず、ただの「館(やかた)」としたのも、そのイメージがあったからです。
子どもの空想のような話だけに館のイメージは「お菓子の家」であった。童話の「ヘンゼルとグレーテル」に出てくる、子どもなら一度は憧れたあの家である。
次に「女ま館」設立の具体的な経緯を語ってもらった。
1997年に不定期で開けるスタイルではじめました。当時、世話人が10人いて必要経費を出し合っていました。非公開というわけではないですが、主に関係者を対象にしたプライベートな場所です。場所は日の出町(東京都の西多摩地区)。そこにしたのは、BBSメンバーのKさんが「うちの実家空いてますけど」と言い、築百年の古い家屋を提供してくれたからです。日の出町に落ち着いたのは偶然でしたが、結果的にはすごく意味がありました。
最初の夏に合宿をやったりして、盛り上がったんですが、出入りしてワイワイというのは最初の半年だけでした。夏以降はほとんど誰も来なくなった。僕にしても、自宅のある世田谷区の豪徳寺から通い、部屋の空気を入れ換えて掃除したら帰るか、という感じでした。それで自然と足が遠のいていきましたね。
やがて中野夫妻は大きな決断をする。
2001年暮れ、言い出しっぺの僕たち夫婦が思い切ってこちらに移り住むことにしました。これには覚悟が要りました。我々ライターは編集者など仕事相手と簡単に会ったり、資料を得たりできるかどうかが仕事の命綱なんです。打ち合わせしたり、雑談したり、ポジフィルムを一緒に見たり、写真やゲラを手渡ししたり、といった作業をしなければ仕事が成り立ちにくい。また、資料を得るためのまともな書店、まともな図書館などには西多摩の田舎にはなかったんです。
だから、こちらに引っ越すことで、仕事を失ってしまうんじゃないかと、危機意識を抱いたんです。「そのうちにネット環境が日の出町あたりでも便利になり、ここでも仕事ができるようになるだろう」と希望的観測をしましたが、その通りになりました(笑)。
日の出町に移り住んでからの日常ですが、来る人の数よりも届く本のほうが圧倒的に多い。「二度と読めなくなるかもしれない」という危機意識を抱いて少女マンガを集めていたので、ゴミとして出されているのを見つけたら、それも「女ま館」で引き取りました。
前掲のホームページには、開館当時の経緯がさらに詳しく書いてある。
ある人は、図書館のリサイクルコーナーに目を光らせ、少女まんがを捕獲してはリュックにつめて背中にかつぎ、女ま館へ。ある人は、ゴミ置き場から少女まんがを救済しては、キャリーバッグをごろごろ鳴らせて、女ま館へ。また、ある人は、夜中、車をぶっとばして、手持ちの少女まんがを詰め込んだ段ボールを抱えて、女ま館へ。また、ある人は、友人知人に声をかけ「捨てるつもりの少女まんががあれば、とりあえず、捨てないで、捨てないで~」と喧伝する、という塩梅でした。
そうした懸命だが、ちょっと突飛と思える彼らの行動に集落の人たちは、はじめは不審な目を向けた。
まわりからオウム(真理教)じゃないかと見られたりしたこともありました(笑)。だから地域になるべく入るようにした。翌年、子どもができてからは、不審な目で見られなくなりました。
曜日を決めて定期的に「女ま館」を公開するようになったのは2002年8月である。その後、やはり西多摩のあきる野市に書庫ごと引っ越すことになる。
2007年ごろ、本が増えすぎて困っていました。置ききれないんです(笑)。生活空間を浸食して最後は一部屋のみになったんです。そこで、庭に増築したいと話を地主にしたところ、突然に立ち退きの話が判明したんです。また自分たちで調べてみたところ、すでに競売にかかっていることにも気が付きました。親戚からは「これを機会にやめたら」と言われました。しかし、「女ま館」に寄贈されたマンガにはいろんな人の思いが詰まっているんですから、ここで止めるわけには行きません。
「ある程度の距離感がいい」ということを日の出町にいた時代に知っていたので、転居先として東京の田舎を探しました。また古民家的な家を探しましたが、そういう家はあるじが亡くなるタイミングしか売りに出ないのでなかなか難しい。とにかく短期で見つけなくてはならず、その期限ギリギリになんとか見つけたのが今の場所です。
意外なことに、この「女ま館」は新築したのだという。
土地は100坪。友人の建築家のエンドウキヨシさんがストックしていた建具を使い、外壁は赤土を混ぜました。そんな風にして半セルフビルド的な「館」になりました。書庫を蔵のようなものにしたい。倉庫建築として美しいものにしたいと思っていたことも、こうした作りを後押ししました。
設計から本棚づくりや植樹までやってくれたエンドウさんは、阪神大震災の惨状を見て建築家になったという人です。地盤がすごく固かったのと、徹底的に筋交いを入れたこともあって、3・11のときも、一冊も落ちませんでした。
鉄筋コンクリートでもないのに、どうやってこれだけの本の重みを支えているのか不思議だったが、徹底的な補強ぶりを聞くと、なるほどと膝をうった。なお新生「女ま館」は翌2009年3月に竣工、4月にオープンした。
水色のイメージ
なぜこの「館」は水色なのだろう。ストレートに中野さんに聞いてみた。
理由はいくつかあります。まず、川辺に住みたい、というのがわれわれ夫婦の念願でした。ここは秋川という川と、弁天山という「川の神様の山」に挟まれている土地なんですよ。それに少女マンガの本は、だいたい赤とかピンクといった暖色なので、水色にすることで引き立てあいます。水色というのは最高の火伏です。本にとって火は大敵ですからね。
どちらもエンドウさんのアイディアなんですが、木目や木の風合いが分かるようにペンキに大量の水を混ぜたり、いろんな人(大人も子どもも)に塗ってもらったりしました。ひとりひとり塗り方が違ってその違いがいい味になるからです。あと、竣工後に気がついたことなんですが、内壁の色が水色だとなぜか食欲がわかないんですよ。だから読書や仕事に意外と集中できるんです。
ところで、これだけの本を二人はどうやって集めていったのか。
最初は自分の家から137冊をバックパックに詰め込んで持って来たんです。その程度の、いい加減な気持ちでのスタートでした。
最初はそれこそゴミ収集場などからもマンガの古本を収集していたが、そのうち寄贈の割合が大きくなる。
新聞に記事が出た後、全国から寄贈が相次ぐようになりました。「明日捨てなきゃならない」とパッキングしたときに、たまたま記事を見て「ここだ」と直感し、電話をかけてきた人が本を送ってきたこともありました。大口の場合は「亡くなった家族の遺品」、それに引っ越しなどの理由が多いです。
なかにはのべ2万冊以上も送ってきてくれた人もいます。その人は、ネットオークションで競り落とした本をいったんチェックし、梱包した後、送ってくださるんです。寄贈された本のなかには、明治から昭和までの少女雑誌や1970年代以前の少女まんが雑誌、貸本などなど、貴重なものがたくさんありました。
こうした奇特な人たちの存在は、「女ま館」が少女マンガのアーカイブとなり、価値のある本や雑誌を残して欲しいと考える応援団だと受けとればいいのだろう。
二人はふだん「女ま館」をどのようにして運営しているのだろうか。また、お客さんはどんな人が来るのだろうかも気になった。
現在、僕たちは川崎市の百合ヶ丘に住んでいて、そこから通っています。オープンは週一回。自分たちには余裕をもってやれる、このくらいのペースが合っています。開館は土曜の午後1時から6時まで。冬期は閉めていますが、それ以外の季節は僕がここを住居や仕事場に使っています。自分の家が図書館っていうのは、すごく居心地がいい。自分と気があう人と交流したいので、そこを「半開き」にして公開しているんです。
公開しているスペースは建物のすべて、どこの本を読んでも無料です。最初、開架は6畳程度だったんですが、ずかずか入って来て本を荒っぽく扱うような危ない人は、わざわざここまで来ないということが分かったからです。距離が人を淘汰するんですね。
淘汰されずにやってくるのだから、ここまでやってきたお客さんは真剣だ。
勇気を出してやっとの思いでやってくる。帰って行くときは皆、晴れ晴れとした表情です。お客さんの幸せそうな顔を見るたびに、「女ま館」を続けてきてよかったと思います。
本がどんどん増え続けたら、今後はどうするつもりなのだろうか。
蔵書が2万〜3万冊になったとき、「これでもう散逸することはないだろう。ここまでくれば、我々が死んでしまっても社会がほっとかない。どこかが引き取ってくれるだろう」と思いました。 ただ、これ以上増えると、増築用の土地は確保していますが、建てる金がない。なんとか金をつくって増築したいのですが、蔵書を引き受けて図書館をやりたいという人がいれば、無償で譲ってもいい。その一方で、「女ま館」を娘に継いで欲しいという思いもあります。シロアリに対する不安はありますが、建物は娘の代までは楽々持つはずなので。
ずっと中野さんの話を聞いていた大井夏代さんも、ひとこと、こう言った。
思春期に没頭して読んでいた少女マンガの繊細な世界っていうのは、多くの女性にとって「心のゆりかご」だったと思うんですね。でも、女性は実際の恋愛体験や結婚や子育てなどを通して大人になっていき、その頃の気持ちを忘れてしまいがち。封印しなくてはならなくなった少女マンガへの思いを、「女ま館」で存分に見つけてほしいと思っています。
和歌山県には淡嶋神社という、人形を預かる神社がある。女性たちの思いのこもった人形を納め、3月3日の行事「雛流し」では、手こぎ舟に満載された人形を海に流す。沖へ進んでいく無人の舟には女たちの思いがこめられている。波しぶきをうけ、ゆっくりゆっくりと沈んでいく。手を合わせたり、涙を流したりしている女性たちが岸で舟を見つめている。
大井さんの言葉で僕ははたと気がついた。「女ま館」は単なる資料のアーカイブではなく、女性たちの思いを受け止めたり、思い出したりする場なのだ、と。住宅環境や結婚などもろもろの理由によって手放されたマンガを引き受ける。そしてかつて読んだマンガを読み返し、少女時代のことを思い出す。女性たちの思いがこもったものは、なにも人形だけに限らないのだ。
近い将来、紙ではなく電子版のマンガが主流となったとき、人びとはマンガとどのように付き合っているのだろうか。そのときも「女ま館」のスタッフが少女マンガに込められた思いのこもった荷物を受け止めたり、忘れていた思いをお客さんが思い出す手助けをしたりしているのだろうか。それとも今とはまったく違ったつきあい方がなされていたりするのだろうか。
現代マンガ図書館と米沢嘉博記念図書館
マンガのことをもう少し考えてみたいと思い、担当編集者の勧めで、早稲田にある現代マンガ図書館を訪れた。これは1978年に設立された、日本初のマンガ専門図書館だ。創設者である内記稔夫さんは2012年に亡くなっている。
18万点に及ぶ内記さんの個人コレクションのほとんどが、ここに収蔵されている。細長いビルの二階に図書館の入り口があり、上層階は住居になっている。なぜか一階のガラス戸は閉じられていて、そこからは入れない。ガラス越しに見えるのは整理されていないマンガ本の山。衣装ケースが積み重ねられていて、まるで引っ越しの荷造り中の部屋のようだ。入ってすぐに受付があり、カウンターには手書きの索引ファイルが十数冊。あとは4人が腰掛けられるテーブルと書棚があるだけだった。
アポイントなしの訪問だったが、取材の旨を伝えると、閉架書庫を見せていただくことができた。集密書庫で管理しているのかと思っていたら、置いてあるのはスチール製の本棚ばかり。大変貴重な昭和30年代頃のものとおぼしき貸本が、背表紙を見せるようにして並べられていた。手書きのタイトルが目立つのは中身しか残っていないための苦肉の策なのだろう。古い紙のにおいのせいなのか、喉がぜいぜいし、くしゃみが立て続けに出た。
古い貸本マンガの棚から離れると、一変して本や雑誌の切り口ばかりが見えるようになる。それらを立てたとき下にくる「地」が手前に来るように寝かせて置いてあるのだ。
蟹歩きしなければ通れないほどの狭い間隔で本棚が置かれているのは、18万冊もの冊数を収蔵するためには徹底的に無駄なスペースを省かないと全然置けない、ということなのだろう。三階と四階、いずれもマンションの一室を無理矢理、書庫にしているという感じで、それだけに公共の図書館にはない手作り感があり、生涯をかけてマンガを収集し続けた内記氏の思いがこもっていた。
その日のうちに、明治大学の米沢嘉博記念図書館も訪れた。こちらはコミケ(コミックマーケット)の創設者としても知られるマンガ評論家の米沢嘉博さんが2006年に亡くなられた後、その蔵書をもとに2009年に明治大学が設立したものだ。その一階では、内記稔夫さんが集めた貴重なマンガの一部を展示した小さな企画展、「内記稔夫〜日本初のマンガ図書館を作った男」が1月27日まで開催されている。
かたや貸本時代からのコレクター、もうひとりはコミケの創始者。世代も背景も違う二人のコレクションだけに、隣り合わせた展示には際だったコントラストがあり、それでいて補完し合っていた。彼らが残した膨大な数の蔵書は明治大学が引き受け、最終的にひとつのマンガ・アーカイブに統合されることになっている。
(このシリーズ次回に続く)
※この連載が本の雑誌社より単行本になりました。
詳しくはこちらをご覧ください。
執筆者紹介
- ノンフィクション作家。日本の旧領土や国境の島々を取材した一連の作品で知られる。「マガジン航」の連載をまとめた『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)をはじめ、著書に『僕の見た「大日本帝国」』(カドカワ)、『誰も国境を知らない』(朝日文庫)、『ニッポンの穴紀行〜近代史を彩る光と影』『ニッポンの国境』(光文社新書)、『〈日本國〉から来た日本人』などがある。
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