0円電子書籍端末から本の公共性を考える

2012年3月22日
posted by 橋本 浩

読書とは元来、金はないが、時間だけは十分過ぎるほどに持て余しているという貧乏人が、ああでもないこうでもないとだらだら思索しながら、ひねもす布団の中で読み耽ることができる道楽であった、と誰かが言っているのはどうかは分からないが、自身に照らし合わせてみれば、私が学生時代にたいして金も持っていなかった頃、古本屋で投げ売りされている本を買い漁ってきては、日がなだらだらとひねもす布団の中で読み耽っていたことは確かだ。

それが本来の読書形態のあるべき姿だとは言わない。しかし、読書形態のひとつであることは確かだろう。

日本における出版の流通形態を考慮すれば、本というモノがある程度の価格形態にならざるをえないことは十分に理解はできる。言うまでもなく、本というモノは商品であり、一冊の本というモノが書店、及び、読者の手に渡るまでには相当数の人間が関わることになる。本というモノの流通に人間が関わるということは、そこに様々な労働があるということだ。もちろん、それはその本を書いた作家の労働も含めてである。そして、労働があるということは当然対価が発生することでもある。その意味において、本というモノがある程度の価格形態にならざるをえないということは十分に理解できる、と先に私は述べた次第である。

それらのことを踏まえた上で、しかし、それでも敢えて私はこう主張してみる。本というモノは安ければ安いほど良いのだと。極論を言えば、無料なら尚更良いということにもなる。

例えば、あなたが書店に入り千円出して本を買ったとする。その後、同じ本がAmazonかどこかのオンラインショップで一円で売られていたとすれば、そのときあなたはどう思うだろうか。あるいは、あなたは作家に敬意を表して千円を妥当だと思うかもしれない。その気持ちは私にも当然ある。しかし、本というモノは商品である。そう考えるならば、商品を購入する消費者としては、千円よりは格段に安い一円の方が良いに決まっているのではないだろうか。それが商品に対する消費者の態度というものではないだろうか。

0円電子書籍端末が露呈した「本末転倒」

今現在の動向を見て、そう呼ぶに相応しいかどうかは限りなく疑わしいが、ここでは通例に習い2010年をいわゆる電子書籍元年としておこう。2010年という年は、ある作家に「グーテンベルク以来の文字文化の革命だ」と言わしめたほどに、出版に関わる人間が騒ぎ立てた年だった。その後、様々な企業が電子書籍ストアを立ち上げ、様々な端末も販売された。それらの混沌は現在においてもまだ行方が定まっていないようだが、ここではそれは特に問題にはしない。

私が問題にするのは、本来、読みたい本が、読みたい時に、瞬時に購入できるはずだと思われた電子書籍というものが、実は全くそうではないということである。ある本がどこのストアにあり、どの端末で読めるのかが分かりにくいということもここでは特に問題にはしない。それはいずれ時が解決するだろうと思われるからだ。

私が提起している、「読みたい本が、読みたい時に、瞬時に購入できるはずだと思われた電子書籍が実はそうなってはいないという問題」は、端的に言えば、現状では電子書籍を購入するためにその電子書籍を読む高価な端末を購入しなければならないということに尽きる。更には通信費まで支払わなければならない。私は電子書籍を購入したいのであって、高価な機械を弄りたいわけではないのだ。本末転倒とはまさにこのことではないだろうか

奇しくも、その本末転倒をある意味投げ売りによって更にもう一度転倒してくれた端末がここにある。2010年末にKDDIが発売した電子書籍端末「biblio Leaf SP02」である。この端末が2012年1月18日~2月29日までのキャンペーン期間中の契約に限り、実質端末代0円、通信費0円で手に入る。詳細を言えば、このキャンペーン期間中に契約すると初期事務手数料2835円が必要になり、その後二年間は端末代も通信費も0円で使い放題、二年経過後は通信費が525円必要になるが、ただし、二年経過後はいつ解約しようとも解除料は一切必要ない。そして、重要なのが無線LAN接続にも対応している点だ。

これが意味するのは、つまり、キャンペーン期間中に契約し、二年経過後に解除料無しで解約、その後は無線LAN接続で使用する場合に限り、実質、初期事務手数料2835円のみで電子書籍端末を入手できるということだ。青空文庫の作品100点がプリセットされているから、2835円で端末及び100冊を購入できたという言い方もできるかもしれない。

もちろん、ネットに無数にある「biblio Leaf SP02」の動作面における批判的なレビューは私も知っている。実際に私も使用してみて多々突っ込みたくなる部分はあった。しかし、これはあくまでも2835円でほぼ永久に使える電子書籍端末なのである。この価格で電子書籍を購入でき、更には、夏目漱石や芥川龍之介などの著作を無料でまともに読める端末が他にあるだろうか。

KDDIがなぜこのようなキャンペーンをしているのかは分からない。あまりにも端末が売れないことによる一時的なLismo book storeへの誘導作戦なのかもしれない。あるいは、KDDIはもう「biblio Leaf SP02」を捨てたのかもしれない。それはいずれ分かることだと思う。しかし、ここで重要なのは、おそらくは苦肉の策であろうと思われる今回のKDDIのキャンペーンが、奇しくも、ユーザー側からの電子書籍へのアプローチの仕方を明確にしたという点であろう。

私は「読書がしたい」だけなのに

私自身は電子書籍の今後というものを以下のような五つの角度からの視点で推測している。

(1)大手及び、中小出版社によるこれまでの紙媒体を継承した形において紙媒体と同時に発行されるテキストベースの電子書籍

(2)紙媒体で出版社からの出版経験のない作家によるほぼ自費出版的な有料無料入り乱れるテキストベースの電子書籍

(3)出版社からの出版経験の有無を問わず幾多のクリエイターによってアプリ化された動的ないわゆるリッチコンテンツとしての電子書籍

(4)ボイジャーのBinBのようなもはや電子書籍を読んでいるのか縦書きのブラウザテキストを読んでいるのか分からないような電子書籍

(5)上記からDRMを外した状態でネット上に公開されWikipediaのように複数人が書き込みできるような主体としての作家不在の電子書籍

ここに公共図書館の蔵書電子化の問題も絡んでくると思われるが、それは(1)を拡張したものとして現れてくるのではないだろうか。(2)においては既にパブーやwookがサービスを提供している。(3)においても株式会社G2010などが発行する電子書籍はこれに当て嵌まるだろう。(4)においては何かを言うまでもない。問題は(5)だが、私自身の推測としてはWeb及び携帯端末アプリにおける娯楽としての電子書籍はあのような方向へ進むだろうと思っている。それを書籍と呼べるのかどうかは甚だ疑問だが、DRMを外せば一部はそういうある種ゲーム的娯楽の方向へ進むのではないだろうか。

しかし、一読者としての私自身が最も期待しているのは(1)の充実及び、それに伴う公共図書館の蔵書電子化である。特に後者には大いに期待している。どのような形で公共図書館からの電子書籍の貸出が実現するのかという技術的な問題は私のような者が考えることではないが、おそらく、公共図書館の全ての蔵書が電子化されたとき、そのときにこそ私が思い描く電子書籍のあるべき形態、つまり、読みたい本が、読みたい時に、無料で、瞬時に自分の手元に届くという形態が実現するのだと思う。

実際、私が「biblio Leaf SP02」で小松左京の『日本沈没』を購入してみて思ったのは、その小説の優れた質とは別の意味で、なにも電子書籍端末で購入しなくとも、公共図書館に行けば無料で読めるではないか、というある種甲斐の無さである。先に述べたように「biblio Leaf SP02」を2835円で手に入れたのだからまだましだが、これを高額な端末購入を前提にして考えてみると実に甲斐の無いことこの上ない。

簡単に言ってしまえば、私は読書をしたいのである。読書をするために本を購入したいのである。読みたい本が、読みたい時に、瞬時に購入でき、それをひねもす布団の中で読み耽ることができるのならば、それ以上のことは特別望んではいないのである。更に、本は安ければ安いほど良いのだ。それらを電子書籍が実現してくれるのならば、私は進んで電子書籍を購入するだろう。私は紙書籍に拘っているわけではないのだから。

本にとって「公共性」とは何か

しかしながら、電子書籍を購入するために必要な端末を高額な値で購入しなければならないのならば、私は特に電子書籍に拘りもしないだろう。自宅から最も近隣にある公共図書館へ徒歩で行けば、人が一生かけても読み切れない過去の蔵書が好きなだけ無料で読めるのだから。しかも交通費すらかからない。更に、読書好きな友人や知人がいる人ならば、お互いに本を貸し借りしたり、譲り合うということもできるだろう。個人的には友人同士、知人同士の垣根を越え、公共の場でそのようなことが大いになされてもいいと私は思っている。

もちろん、私は本というモノ自体がある種コレクトアイテムになりうることは知っている。コレクトアイテムとして本棚に小奇麗にそれらを並べて、うっとりとそれらを眺めるというのも本の楽しみ方のひとつではあるだろう。しかしながら、先に述べたように、私はただ単に読書をしたいのである。できるだけ安く、可能な限り無料で本を仕入れ、そこに書かれている文字を読みたいのである。読後はそれを再度公共へと解き放てばいい。それを物乞い者、あるいは、ルンペンプロレタリアートとでも呼ぶならば、私は進んでそれらの言葉を「野良」として受け入れるだろう。この度、図らずもKDDIの「biblio Leaf SP02」が提示してしまった意図しない料金形態のからくりの中にこそ、私は今後の電子書籍の可能性を肯定的に見出したいと考えているほどなのだから。

かつて、若きエリック・ホッファーが、彼の父親が残した遺産300ドルを手にニューヨークからカリフォルニアのスキッド・ロウ(ドヤ街)へ移住し、近くの公共図書館で本を貪り読み漁ったように、優れた作家、及び、クリエイターが生まれるには彼らが無料で勉強できるという環境が必要不可欠だと思われる。私はその意味で青空文庫というものを高く評価しているし、今後もっともっと著作権の切れた書物は無料公開されればいいとも思っている。

私の読書体験における原風景もやはり公共図書館であった。十代半ば頃、図書館へ行く度に作業着姿の小汚い中年男がいつも図書館の片隅で読書をしていた。当時の私はなぜ真昼間から働き盛りの中年男が図書館で本など読んでいるのだろうかと不思議に思ったものだが、大人になった今だからこそ当時のその作業着姿の中年男のことがよく分かる。当然だが、彼は仕事をサボって読書をしていたのである。仕事をサボってでも読書をしたかったのか、それともただ単に仕事をサボりたかったのかは分からない。しかし、公共図書館はそのようなある意味「はぐれ者」を受容することができるし、また、受容しなければならない。

私自身は公共であるとはそういうことだと思っている。そして、同時に、読書とはそのような社会から少しはみ出てしまった人間たちにとって、限りなく自由に近づける何ものかを秘めたものであってほしいと、私は切に願っている。

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執筆者紹介

橋本 浩
(離島経済新聞記者、En-Soph発起人)