第9回 電子化された書棚を訪ねて

2013年11月18日
posted by 西牟田靖

連載の折り返し地点をすぎ、「これから後半ですよ」ということを前回の話で宣言したわけだが、それから一度も更新しないままなんと半年もの時間が流れてしまった。読者の中には首を長くして、更新を待っていた方もいるのかもしれない。遅くなってしまい、本当にすいませんでした。

ノンフィクション作家にとっての本

この連載以外の取材に取り組んでいたことも、更新が滞った一因である。では、いったい何をしていたのか。いまも続いている本の増殖と絡めて、個々の仕事のことについて言及してみたい。

僕が追いかけているテーマのひとつに日本の国境問題がある。本を何冊か出したので、そろそろ次のテーマへ完全移行したいのだが、そうもいかない。尖閣諸島では付近の海に中国の公船が常駐するようになったし、竹島も韓国の閣僚が毎年夏に上陸するようになったりと、国境問題はここ数年で膠着し、日常化してしまったためだ。加えて昨年の尖閣国有化を巡る裏の駆け引きについても、知りたいと思うようになった。そんなわけで、このテーマからますます目が離せず、資料を処分するどころか、さらに本を集めたりして、ウォッチし続けることになった。

加えて最近、本格的に始めたのが、ある未解決事件の取材である。実は僕には未解決事件の被害者となっている友人がいて、その彼女が失踪してから今年の11月24日でちょうど15年がたつのだ。

http://www.tsujidenoriko.jp/top.html

2010年に刑法・刑事訴訟法が改正され殺人事件における時効が撤廃された。そうした事情もあって事件発生から15年がたとうとしている今はもちろん、そのあとも警察による捜査が続くことになった。

事件がなぜ起こったのか、そしてなぜ迷宮入りしてしまったのか、そしてどうやったら事件の風化を防げるのか――。事件の真相に本格的に取り込もうと心に決め、春以降徐々にではあるが資料を集めたり取材をしたりといったことを始めたのだ。

国境に関してはベースとなる本が揃っているので資料がドバッと増えるわけではないが、友人が失踪した未解決事件に関しては違う。雑誌の記事のコピーが少し手元にあるだけだったので、ほぼ一から集めることにした。

法医学のプロファイリング、殺人事件の捜査の方法、警察の捜査本部の作られ方、似たような手口が考えられる事件(大久保清事件)のノンフィクション、未解決事件のあらましを集めたムック、事件が起きたときの集落の人間関係がどうなるか知りたくて買った「名張毒ぶどう酒事件」についてのノンフィクション。こうした図書資料は電子書籍などで手に入れば場所をとらなくて良いのだが、電子化されているものは少なく、紙で手に入れるしかないものが大半だ。

購入して集めた図書資料に加え、現地取材中に手に入れた資料や過去の雑誌記事などをまとめると厚さ10センチ弱のファイルになった。他には、警察など公的な機関のホームページや掲示板の書き込みといったオリジナルが電子データの資料もあるが、一度はプリントアウトして、テーマごとに封筒に入れたりするので、やはり紙のデータが増えてしまう。

とどのつまり、電子化されていようがいまいが、結局のところ、新しいジャンルに取り組むごとにどっと手持ちの資料が増えてしまうということなのだ。

書籍、紙の資料、プリントアウトした電子データ。これらはすべて紙のデータである。これらをテーマごとに段ボールに分類するわけだ。段ボールの存在感が「僕に早く書け」と静かに脅迫する。心理的な圧迫感が、僕に「今、このテーマに取り組んでるんだ!」という実感をみなぎらせ、創作意欲をかきたてる。

本を書くたび増殖する資料をどうするか

前回、「ここ7年の間、引き揚げの体験談を聞かせてもらっている年配者のひとりと、先日再会した」と書いたが、その方から聞いた話を含む、引き揚げに関する書籍の作業が9月のはじめ、ようやく目処がついた。本文の執筆とおおよその直しが終わり、ほぼ手を離れたのだ。2005年に出版した『僕の見た「大日本帝国」』とはコインの裏と表をなすような本で、テーマは同じ「大日本帝国」である。

前作は旧植民地に残る「日本の足あと」を求めて旅してまわるというものであった。それとは逆にそうした地域で生まれ育った日本人がどのようにして日本に戻ってきたのか、というのが次作のテーマである。旧日本領を訪ね歩くかわりに、体験者のもとを訪れ証言を集めてまわってストーリーを練り上げた。本のタイトルは『〈日本國〉から来た日本人』(春秋社刊)である。年内発売予定ですので、興味があればお買い上げよろしくお願いいたします。

その本を製作する過程でも実にたくさんの資料を使った。明治以後の日本人の海外移住という現象についての解説書、旧植民地からの引き揚げ体験記、戦前・戦時中の世相をあらわした小説や解説書、そのころ行われていた戦争に関する小説や体験記といった資料は自前で入手したが、それ以外に、取材させていただいた方からお借りした非売品の同窓会誌とか、玉音放送の直後に朝鮮半島南部から持ち帰ったアルバム(100年ほど前の家族写真が貼られている!)、証言者が少年時代に使っていた昭和13年・昭和18年に発行された地図帳など、なくしたら絶対に手に入らないオリジナル資料も多数ある。

ゲラの最終チェックを終え、本の装幀とタイトル、そして発売日が決まれば、僕の手を離れる。そうなるまでは、これらの資料がいつ何時、必要になるかわからないので、机の下に平置きしている。購入した書籍、お借りしている貴重なオリジナル資料のほか、取材相手にチェックや直しをしてもらったゲラや間違いを指摘する手紙――といったものが入った段ボールが2、3箱分ある。

刊行されればそれらの資料は当分、必要なくなる。そのときは、机まわりに配置する資料の入れ替えをやりたいと思う。とはいえ、使い終わった資料を捨てたり、売ったりといった方法で処分するつもりはない。あくまで遠ざけるだけだ。重版が決定した後の改訂や文庫化のときにすぐ対応できるように資料は残しておかねばならない。それに本を書くためにいろいろと集め、知識を得た資料だから、それぞれの本に愛着がある。だから処分することは忍びない。

遠ざける準備は徐々にではあるがすでに進めている。返却する必要のあるオリジナル資料は手放すと二度と手に入らないので、必要箇所を2日かけてデジカメでブツ撮りしておいた。買った書籍については、まだ整理に手をつけていない。使った本をひとかたまりにし、それ以外の紙資料はすべて封筒やファイルにまとめて、その作品に関してのコーナーをそのうち本棚に設けるつもりだが。

いくつかの解決策

自分の仕事の状況と資料の取り扱いについて、長々と書いたのには理由がある。主に小説やマンガなどを楽しみのために本を読む一般的な読者(かなりざっくりしたカテゴライズだが)と、本を書くために資料をどっさりと集める僕とでは、本の買い方や集め方、そして読み方がかなり違うんじゃないか――。そういった思いが、この連載を続ける中で大きくなってきたからである。僕だって、本を読むという行為に少なからず楽しみを求めていることは確かだ。しかし、それ以上に書くための道具として、本を利用し、活用している。

本が増えすぎてどうするか、という切羽詰まった問題の解決法探しを基点にして始まったのが、本を巡るこの旅である。その途中で、自分の本の集まり方、もっというとどうやって本を購入しようとしているのかを見つめてきた。そして、楽しそうだからとか流行っているからではなく、必要だから買っていることに、次第に気がつくようになった。

書店の店頭に平積みされているベストセラーは、主に娯楽のために消費されるのだろう。万人の心を打つ感動の物語のほかに、時代を切り取るような視点が斬新な新書がベストセラーになったりするが、そうした本も消費される、という意味では似たような買われ方をする(ちなみに図書館のリクエストのランキング上位に掲載されている本のタイトルを見ても最近は同じ傾向にある)。

僕の場合、娯楽の目的だけで本を買い、消費することはまずない。必要だから買い、活用する。その行為は、僕の場合、工業製品をつくるために、原料を買い付けて仕入れるという行為に近い。図書館や新刊書店、ネット書店によって集めた書籍にある情報や取材によって集めた情報が本の原料になるわけだ。いまのベストセラーはほとんどなく、専門書であったり、売れた本でも評価が定まっていてテーマに関係のある古い本であったりする。そしてそれは処分しなければどんどんと増えていく。

連載当初から書いているとおり、本が増え続けるという現象に対する不安は強い。本を書き終わるごとに棚を整理し、本棚にコーナーを設けるという方法ではやがては行き詰まるような気がしてならない。それを打開するには広いところに引っ越すのが一番。しかしそれは無理そうなので、それ以外の打開策を考えるしかない。

①部屋の空いたスペースを探し出し、そこに詰めたり本棚の空きスペースを徹底的になくしたり、という省スペース化を徹底するか、②本の収集をやめるか、③蔵書の大部分を捨てたり売ったりするか、④本を電子化して行くか……思いつくのはそんなところである。

この中で自分にできそうなのは、①の省スペース化か④の電子化だろうか。②は資料を大量に使う以上無理だし、③に踏み切れるほどの勇気はない。④は③に似ているが、データが残るので、集めたという痕跡はバーチャルではあるが残るし、読むことだってできる。

①はすぐに場所が埋まり、また場所を捻出するということの繰り返しで、根本的な解決にはならない。そのことはすでに体験済みだ。とすると、すぐにやれそうでなおかつ根本的な問題解決ができる可能性は④の「電子化」ぐらいしかない。

「電子化」への期待と抵抗感

自炊の話に入る前に、僕が読むという行為を普段どのように行っているのか。いま一度振り返っておこう。

僕はふだん、紙に印刷された文章と、液晶などの画面に表示された文章を同じぐらいの割合で読んでいる。紙に印刷された文章のうち、もっともたくさん読むのは書籍である。PCからプリントアウトしたり、新聞や雑誌、講演中にもらう配付資料や旅行中にもらう観光資料などもあるにはあるが、割合からすると少ない。後者はインターネットのウェブサイトが大半だ。最近ようやく買うのに抵抗がなくなった電子本や、電子化した紙資料、自炊した紙の本のデータもあるにはあるが、大した割合ではない。

紙と電子媒体とでは読み方に違いがある。というのも、紙が基本的に印刷されたものだけで完結する閉じた媒体であるのに対し、電子はネットを遮断していない限りは無限にリンクしていて読み手の意志でそのリンクをどんどんと辿っていける媒体である(電子辞書はメモリーや外付けの記憶媒体にあるデータのみという制限はあるが機器内で限定的にリンクしている)。

リンクは電子媒体の長所でもあり短所でもある。リンクをたどれば、関連している項目を次から次へとたどり、誰も思いつかなかった奇想天外なアイディアを短時間に得ることだってできる。しかし、同時にリンクをたどるという行為に没頭してしまい膨大な時間を無駄にしたり、いらない情報がたくさん頭に入ってしまうこともあるのだ。

そういった問題はともかくとして、書いたり読んだりする行為をPCなどの電子機器を使わずにすることはもはや難しい。すべてアナログですませようとする自分の姿を想像できない。文章を書くためのワープロ機能、仕事相手に限らずあらゆる人間関係を維持するツールとしてメーラーやSNSサービスは僕の生活を支える基本インフラのひとつになっている。

一方、日本では、本といえば紙媒体がいまだに主流である。その流れと同じく、僕が買う本も徐々に電子本の割合が増えてきたとはいえ、いまだに大部分は紙の本である。時代の流れに合わせて僕が買う本もそのうち紙の本よりも電子本をたくさん買うようになるのかも知れないが、そのときのことを現状では想像できない。

日常的に電子画面に接していて、後戻りができないというのに、それでも僕には液晶画面への抵抗感がぬぐえないでいる。その理由は次のような体験を日常的にしているからだ。

例えば、出来上がった原稿を読み直してチェックするときがそうだ。液晶画面で読むのと、プリントして読むのとでは、誤字脱字の発見の精度がかなり違っている。液晶に写し出した原稿で見つけられなかった誤字がプリントした原稿で見つける、ということが多々あったりする(そういうことをわかっているからか、本を出す直前、どの出版社もプリントアウトした原稿をいまだに郵送してくる)。

だからこそ精読したい文章はできれば、液晶などの光る媒体ではなく、紙で読みたいと思っている。昨年の連載開始直後、大量に電子化(400冊以上)した本を、ずっと目を通していなかったのも、「できれば紙で読みたい」という僕の好みが関係しているのだろう。

スキャンしても読まないのだから、新たな自炊に取り組む意欲は起きない。大量の電子化は400冊以上を一度にやって以降、一回もやっていない。

iPadでは「読めた」

2010年の電子書籍ブームには大いに期待した。Kindle2の英語版を買い、電子インクの見やすさを知った。しかし期待は外れた。ページをめくると数ページごとにブラックアウトすること、画面が小さいこと、さくさく動かないことを理由にあまり使わなくなってしまった。そうした前例から、iPadは使う前から、だめな道具と決めつけているフシがあった。液晶だし、Kindleに劣っているに決まっていると思い込んでいた。

ところがである。物は試しにと昨年末に買ったiPadが、思いのほか読書に使える代物であった。「i文庫HD」という読書用アプリがすごく便利だったからだ。

文字の拡大縮小も思いのままだし、ページ送りのアニメも気分を盛り上げる。それに本棚機能によって、検索もできる。物としての質感は本ではなくiPadそのものであるし、紙で読むよりは感覚的に劣る気がするが、それでも紙にかなり近い感覚で読めるようになった。このアプリのおかげもあり、一冊を読み通すことが普通にできるようになった。電子書籍への抵抗感は確実に小さくなった。

いまでは、iPadを手に入れる前はまったく買っていなかった電子本を、紙の本ほどではないが、たまには買うようになった。また、緊急避難的に自炊した400冊あまりの本も、時折読むようになった。

状況は改善されつつあるが、それでもやはり、紙に劣る電子本に蔵書をシフトしていく勇気が僕にはまだない。それはなぜだろうか。さらに読みやすくなれば、自ずと電子本にシフトしていくのだろうか。

抱いた疑問を解決すべく、初回の床抜け危機騒動のときと同じく、人に聞いて回ることにした。果たして世の中には蔵書持ちでかなりの割合を電子化してしまった人は世の中にいたりするのだろうか、いるとしたらなぜ電子化することを決断したのか、電子化して読みにくくはないのか、読書のついでに他のこともするようになって集中できなかったりはしないのだろうか――。そういったことを先駆者の人にぜひ聞いてみたい。

幼なじみSの試み

連載5回目の「自炊をめぐる逡巡」でインタビューさせてもらった自炊代行業者のスタッフによると、主な客は「本が好きな人、 本をたくさん消費する人、蔵書が増えすぎて困っている人、海外で生活する人など」で「職業はまちまち」「ジャンルは小説がメイン」とのことだった。依頼のメールの中には「(こんなサービスがあるともっと早くに)知ってたら2000冊捨てずに済んだのに」というものもあり、潜在的な需要は以前からあったようだ。多すぎる蔵書を捨てたくはないけど、なんとかしたいと思っている人がいかに多いかということが、話からうかがえた。

この業者を取材したのは2012年6月である。この時点では近しい人に大量に電子化したという人はいなかった。そのためなのか。その業者に200〜300冊も依頼しておきながら、自炊を大量に代表してスキャンしてもらう人たちの気持ちにピンと来ず、へえ変わった人もいるもんだ。だけどそんな人は僕を含めてまだ少数なんじゃないか、とそんな感じにしか思わなかった。

しかしである。2010年に「自炊」という言葉がにわかに言われ出してからというもの、蔵書を電子化する人は確実に増えていたようだ。僕の周りでは、古くからの友人がばんばん自炊していることに気がついた。

初代のiPad 64GBを買うたんは一昨年かその前の年かな。出てそんなに時間がたってないとき。自炊をはじめたんはそれからや。

そんな風にして、自炊の様子を教えてくれたのは僕の小学校時代からの友人Sである。今、43歳の僕が初めてPCに触れたのは小学校高学年のときで、彼と連れ立って自転車をこいで量販店まで触りに行った思い出がある。PCの原体験を共有した者同士なのだ。

印刷関係の仕事をしていた彼は、「蔵書を電子化しiPadで読んでる」ということを、以前、雑談のついでに教えてくれたことがある。床抜け問題を追及していくうちに、電子化という方法についての実際を知りたくなり、友達の気安さでまずは彼に聞いてみることにしたのだ。彼は印刷という仕事に関わってはいるが、商業的な印刷が専門であるので、作家やライターが資料として本を集めるのとは違う、自身の趣味に根ざした本の読み方をしているのだろう。

彼はいままでにどのぐらいの冊数を自炊したのだろう。自炊したことで、生活にどのような影響をもたらしたのだろうか。まずは蔵書の数を訊ねてみた。

オレは素人やから蔵書いうてもそんな持ってへんで。ちゃんと数えてへんから厳密にはわからんけど全部で450冊ぐらいかな。絵とか写真の多いのとか大型本、貴重な本は自炊してない。するんは漫画と単行本。漫画は少年サンデーとかの雑誌。単行本は太平洋戦争とか東京裁判とか、日本の近代史関係が多いわ。中国の古代史も最近は読んでるけどな。漫画雑誌はjpegデータ、単行本はPDFでスキャンするんやけど、漫画雑誌は紙が悪いやろ。だから裏写りすんねん。あれ困るわ。

漫画の館を訪ねた回で、古い漫画でも青いインクのものは裏写りがするのでもはや判読不可能のものがある、ということを紹介したが、これと同じことがスキャンの際に起こるということなのだ。

では何故、電子化することにしたのだろうか。

第一にスペースの問題。裁断して紙の束にした本や雑誌は廃品回収に出して処分する。そしたらその分部屋があくやろ。後は、通勤とか旅行とか、外出したときに便利ってことやな。何冊もiPadに入るから、旅先でも読めるやろ。

実家住まいの彼の自室は木造の一階にあり、本もあればPCやギター、近代史関係のドキュメンタリーDVDなどもあり、本棚ばかりが並ぶという感じの部屋ではない。彼の口から450冊と聞いたとき、部屋に置かれていた冊数の割に少なく感じたが、自炊しすっきりした後だったからこそなのだ。

では、いままでにどのぐらい自炊したのか。そしていまもやっているのか。

漫画が50冊、本は100冊ぐらいかな。一番ぎょうさんやってたときは一日5冊のペース。今はもうすっきりしたからペースは落ちた。だいたい月に2-3冊というところかな。カッターナイフで裁断して、Scansnapで両面スキャンしてた。業者は利用したことない。一冊あたり10分ってところかな。

思い出の本をばっさりと切ってスキャンしてしまったことに、心残りがあったりはしないのだろうか。スキャンしたものは読んでいるのだろうか。

オレ、所有欲、特にないから気にはしてへん。スキャンした本は読んだあとの本やからわざわざ読んだりってことはあんまりないわ。

では僕が気になっている液晶画面の視認性はどうだろう。

iPadは読書、音楽、ビデオとか、何でもこなせる万能端末として使ってる。液晶だから読みにくいかって特に気にならへんなあ。電子インク画面のKindle、見やすいそうやけど、ほんまかいな。端末をわざわざ買ってまで読みたいとは思わへんわ。

iPadはアプリ次第ではなかなか快適な読書ができるのは確かなことだ。だが、PCの画面が気にならないという感覚といい、所有欲がないという言葉といい、小さいときからある程度価値観を共有してきた友人からそういう言葉が出てくるとは思ってなかったので、意外な気がした。それとも僕が書くという仕事を始めてから、感覚にかなりズレが生じたのだろうか。

ノンフィクション作家・武田徹さんの場合

次に話を聞いたのは、以前から尊敬しているノンフィクション作家の武田徹さんである。彼がこれまでに手がけたテーマは、黎明期のIT技術、80年代の日本のロック、原発と核開発、満州国にハンセン病…と実に幅広い。しかもその手法は独特で、ジャーナリスティックであり、アカデミックでもある。ノンフィクション作家としての活動のほかに大学で教えたり、書評の仕事も手がけたりもしている。

武田さんの代表的な著作に『核論』『偽満州国論』『「隔離」という病い』という三部作がある。これらの本の参考文献リストには膨大な、しかも、一般の本読みが手を出さないような専門的なタイトルが並んでいる。かなり規模の大きな蔵書をお持ちだということは容易に想像がつく。

では、いったいどのようにして本を集め、管理していたのだろうか。武田さんにとって本とはどんな存在なのだろうか。

自分で本を持つことが大事だと思っていたので買ったものはほとんど捨てない。そういう形で無駄なものも含め、かなり蓄積していたんです。本を集めるのが好きじゃなくて、やはり資料。本を書くために、本が増えることは背に腹は替えられない。書評をやっている関係上、もらう本も多かった。集まった傾向が相当乱雑な傾向のコレクションですね。冊数はわからないですね。

武田さんのようなタイプの蔵書家はこのシリーズで何度も出てきている。ところがある出来事を境に彼の蔵書は大きく形を変えてしまうことになる。

吉祥寺の古い一軒家を借りて住んでいたんです。大家の家にある新聞少年に貸しているような貸間も借りて、そこは書庫として使っていました。そのほか、練馬区の実家、大学の研究室にも本は置いてありました。ところが震災直前の2月、吉祥寺から都心の神保町に引っ越しすることになったんです。引っ越し先はマンションです。床面積的には一軒家とそんなに変わりませんでしたが、壁面積が相当少なくなった。実家や研究室はそのままですが、貸間のスペースもなくなったわけです。もう絶対に持っていけなかった。あのときはもうだめだって絶望的な気持ちになりました。

いわば、僕が床抜け危機のときに体験したことと同じような危機に、武田さんは、もっと大きな規模で直面したのである。

そこで考え方を変えようと思った。 いつも本に囲まれていて、引っ越しするたびに大変な思いをする生活から出たいという気持ちも実はあったので、 新居には蔵書を持って行かないというのを試してみることにしました。私はそれまで文献に正確にあたるというのを主義にしていたんですが、これからはすぐに 本に頼るのではなく、もっとオリジナルに考えたかった。だからこそ自分の過去を捨てるような荒療治がしたかった。でもせっかく揃えた本を捨てるのも忍びないので、できればすべて電子化できないか。そう考えたんです。

黎明期からパソコンを使い、1995年には『メディアとしてのワープロ 電子化された日本語がもたらしたもの』(ジャストシステム)という著書を発表している武田さんだけある。転居先のキャパシティと蔵書の不一致という危機を危機とみなさず、新しいことに挑戦するチャンスとして捉えたのだ。

ひっかかったのは、数千、もしかすると万単位の蔵書を一気に、自らの手で電子化することは可能なのかということだ。個人使用の範囲ということで自身でスキャンするにしても、それだと手間がかかりすぎて、本業どころではなくなってしまうのではないか。

まだあまり自炊代行に対する逆風が強くなかった頃だったので、業者に約2000冊、発注しました。OCRはなし、ファイル名に著者・タイトルを入れてもらい、納品はDVDでお願いしました。

本のスキャンを少しでもやってみればわかるが、自炊という行為は大変疲れる。数千にのぼる本を引っ越しのさなか、自分の手でスキャンするというのは、おそらく無理だ。その是非はともかく武田さんが業者に外注したのは、状況を考えると正しい選択だったのではないか。

気になるのが、一軒家と貸間を埋め尽くしていたであろう蔵書の総数である。2000冊というのは少なすぎる。はたして蔵書すべてをスキャンしたのか。それとも別の方法で処理したのか。スキャンする本と、そうではない方法での処理はどのような基準で決めていったのか。

全部スキャンしようとしても、数が多すぎて物理的に無理だということがわかったんです。そこで買いなおせたり、図書館で借りれたりするものはこの際だから処分しよう。世の中に流通させようってことで、古本屋へ売ることにしました。片付くまでに、家と古本屋の間を相当な回数、車で往復しましたね。売ったりして処分したのは業者に自炊してもらった分の2、3倍かな。

(残す本の選択基準は、)本当に手に入りにくくて、よく参照したりする本であれば、スキャンせず現物で持つ。とりあえず今は使っていないけど、いちど手放したら手に入らないというものであれば、スキャンに出すことにしました。そんな風に判断したんですけど、今思えば、あれは捨てなきゃよかったっていう本が、たくさんあった。やけになってやり過ぎて、いっぱいミスってしまいました。

では、思い切って大部分の図書を電子化したことにどのような感想を抱いているのだろうか。

私、いま後悔してます。やはり紙の本に比べて液晶は読みにくい。iPadで部分的に読むにはいいけど、本格的に読むときには、紙に印刷したいですね。

以前、武田さんに読む媒体について聞いたところ、「電子画面と紙、どちらにするのかと排他的に考えたことはありません。私はその都度、使いやすいものを使ってきただけなんです」と答えてくれたことがあった。両方の長短がわかっている武田さんだけに、スキャンしたことを後悔していることが意外に思えた。

後日、蔵書がないという武田さんのご自宅にお邪魔した。神保町の書店街や明治大学に歩いていける、極めて便利なところにある都心のマンションの一室。招き入れられたのはソファがぽんと置いてある8畳ほどのDKで、ものはなくすっきりとしていた。

目についたのは小型の自転車で、場所がないのでやむなくというより、インテリアの一部として置いているようだった。壁ぎわのラックにやはりインテリア用に置かれたかのようないくつかの本があるだけで、床に平置きされている本はもちろんない。どこかのモデルルームのようなスタイリッシュな部屋だ。いってみれば本のない滅菌室というかクリーンルームというか、乱読し疲れた脳を癒やすには、こういった部屋ですごすのがいいのかもしれない。例外は床に置いてある、自炊用の本が詰まった段ボール一箱だが、全体のすっきり感からするとないも同然である。

この家に本はほとんどないんです。段ボール箱にこれからPDF化するのを待っている本が入っているのと、現在、書評を書いてる分が書棚にあるぐらいです。 それらの本も自宅にも簡単な裁断機が置いてありますから雑誌や薄い本は自炊できます。分厚い本は大学に持って行って断裁して、研究室でスキャンします。

引っ越して、本のない部屋で暮らすことで、心境の変化はあったのだろうか。例えば、物がないスペースにいることで精神が浄化されたりするのだろうか。

ここはそもそも物理的に入らないですからね。物は持ってこない主義で引っ越したし、今も、あえて物を置かないようにしてますから、そこは禁欲的と言えるのかもしれないね。

心の余裕とかそういう言葉を期待していたのだが、あえてストイックな生き方を自分に課しているという感じで、物がないからリラックスできるといった狙い通りの言葉は返ってこなかった。

大量の本があることで溜まっていく慢性的な疲れを払拭できた反面、周りに本がなくなったことで募る淋しさを我慢したり、電子化し物としての存在感をなくした本に対して追慕の気持ちを抱いたりしているのだろうか。もしそうだとしても、引っ越す前の状態に戻れるわけでもない。

ではいよいよ、電子化した本はどうなったのか、実際に見せてもらおう。

「そこにあるサーバーにPDFデータが入っています」といって武田さんが指さしたのは、小さなラックか何かの下に目立たないようにこっそりと置かれている、サーバーだった。

電子化された本が収められているハードディスクとサーバー。

無料のクラウドには置ききれない容量なので、自前のサーバーを持ちました。ポゴプラグというプライベートクラウドのサービスを利用しています。ネット経由でこのサーバーにアクセスすれば、 世界中どこにいても電子化した蔵書を読むことができます。PCはもちろん、iPhoneでもね。

一軒家で存在感をしめしていた本の束が電子データとして、この中に入っているかと思うと不思議である。サーバーはまるで四次元ポケットのようだ。

わざわざサーバーを購入してシステムを作り上げたのだから、電子版の書籍をさぞ読みまくって活用しまくっているのだろう、と思っていた。ところがである。武田さんの言葉は予想と違っていた。

自分で電子化した本で最後まで読んだ本はないかもしれない。というのもデータになってるのは全部、前に読んだ本なんです。一度読んでるから、次に必要なときは資料として、ここはどうだったかなという確認でしか使わない。なので最初から最後まで通読することはないですね。

武田さんは電子書棚を、読み終わった本を置くための場所として、仕事に使う資料の置き場として、使っているのだ。だからこそ、再度すべてを読み返すことがなかなかないのだ。

武田さんの使い方はこうだ。

サーバーも用意したけど電子化した本のデータは全部で73GBしかないから、HDの大きなPCには全部入っていて持ち歩いてます。内蔵HDの容量が少ないパソコンでも大容量のUSBメモリに入っちゃうのでそれをつなげれば読めちゃう。サーバーは、タブレットしか持っていない時や、USBを忘れた時のバックアップでしかない。 あと使うことが事前にわかっている本があれば、PDFデータの一部を印刷して持って行くことが多い。これなら、急に読みたくなったときPCを立ち上げて ファイルを読みに行く時間をかけず、すぐ読める。

電子よりも紙の本の方が読みやすいと明言している武田さんだけに、PDFよりもプリントアウトした文章のほうが読みやすいと判断しているらしい。だからこそ、わざわざプリントアウトするのだろう。そして、荒療治への反省の念を抱いているからか、武田さんは、いま、ほかの拠点に紙の本を増やしている。

自宅を引っ越してから、大学の研究室に置く本が増えました。本棚の空間を最大効率で使うために隙間なしに積むパズルみたいに縦横に本を入れてます。3割以上容量が増えたんじゃないかな。実家も昔は月にいっぺんぐらいしか行かなくて倉庫以外のものではなかった。献本用の自分の本を置いとくとか。でも父が病気になって以来、週に何回も帰るようになりました。研究室と同じぐらいの頻度で行くので、もはや普通の書棚として使えるかな、と。

そして父が亡くなると、書斎を引き継いだり、本棚のない廊下の壁とかもまだまだあるので、実家で本のために使えるスペースが圧倒的に増えました。本好きとして、本の置けるスペースが広がるというのはこんなに気持ちを変えるのか……みたいなね。本が置ける面積が増えたからかな、そんなにやみくもにPDFにしなくてもいいじゃないかと気持ちが変わった。

引っ越しを契機に、本の存在感を徹底的に消しにかかった。しかし父親の病気そして逝去により、武田さんは本の置き場所がまだあることに気がつき、心境が変化した。そして、いまでは、紙の本の持つ存在感と存在感ゆえの豊富な情報量を武田さんは再評価するようになった。

年をとってくると昔、何を読んだのか思い出せなくなってくるんですよ。現物を目にしていれば記憶を刺激する機能は多い。物で持っている強みってある。PDFにすると検索できるから探す手間はなくなるんだけど、出会う偶然を味方にすることはできなくなると思うんです。だって、こんな本があっただろうって記憶がなければ検索かけられないでしょ。そこをもっと考えなきゃいけなかったのかと思いますね。

紙の本のよさに改めて気がついた武田さんは、再び紙の本をたくさん買って行くのかもしれない。以前と違って本の置き場所については心配する必要はない。実家に置き場所が増えたからだ。置き場所に苦慮している僕からすると、うらやましいの一言である。大阪に実家がある僕は同じ方法がとれないからだ。かといって紙の本の存在感を消してまで、大量の本を電子化する勇気は今のところない。どうしたらいいのだろうか。

「困ってるひと」、大野更紗さんに教えを請う

昨年の6月にこの連載で、話をうかがったとき、内澤旬子さんは次のようなことを言っていた。

もうトシなんで体に負担をかけたくない、本の重さに耐えられない、100グラムでも軽くしたい、取材旅行で何冊も持ち歩きたくない。その点iPadはいい。

障害や難病などにより、紙の本を読むことが身体的に難しくなった人たちにとって、電子化しiPadなどで読むという方法はありではないか、と内澤さんの話を聞いて「マガジン航」の編集者はつぶやいた。

この話を聞いて僕は思った。実際、そうした境遇にある人で、本をたくさん読んでいそうな人は、自炊とどのように取り組んでいるのだろうかと。そのとき、真っ先に話を聞いてみたいと思ったのが大野更紗さんである。はたして本の「電子化」は難病当事者である彼女の生活の手助けになっているのだろうか。

大野さんは1984年福島県生まれ。ビルマの難民支援などに奔走していた2008年、大学院生だった彼女は突然、自己免疫疾患系の難病を発病する。その闘病エッセイである『困ってるひと』はベストセラーとなり、現在は、作家としての活動のかたわら、明治学院大学大学院社会学研究科に在籍、博士前期課程で学びつつ、ロビイングなどの社会運動もしている。それは難病患者が一人で生きていくための、リスク分散なのだと大野さんはいう。「私は私の世代として一人で生きていく。自分で実証して、実現したい」、と。

話題になっている『困ってるひと』を読んでみると、それは単なる闘病記とは一線を画した深い本であった。かなりの読書家だということは、語彙の多様さ、思考の深さ、ユーモアのセンスから感じられる。かかりつけ病院のそばのマンションに住んでいるというが、これだけの本が書けてしまう読書量と、一人暮らしをしているマンションのキャパシティとどうやって両立しているのだろうか。

もしかすると、片っ端から蔵書を電子化していたりするのだろうか。僕よりも一回り以上若い彼女は、それこそ生まれたときからデジタル機器が周りにあったはずだ。僕も抵抗感がない方の世代だとは思うが、1980年代生まれなら、さらにそうかもしれない。大量の自炊をしタブレットで読むことに全く抵抗がなかったりするのだろうか。そんなことを知りたいと思い、取材を依頼すると、仕事場でもある自宅への訪問を許可してくれた。

大野さんは、投薬しているステロイドの副作用で皮膚が薄弱化しているので、強い洗剤に触れられない。感染症にはかかりやすい上に、一回かかったら急速に重篤化するという。そのため、食器を洗ったり、洗濯物を干したりすることはできない。ほこりは厳禁で、部屋の掃除が欠かせないが、感染症を避けるために掃除ができなかったりする。だから彼女の一人暮らしにはホームヘルパーの手助けが欠かせない。毎日1時間ずつ、毎日違う人が家を訪れて、掃除をしたり、皿を洗ったり、料理を作ったりして帰って行くのだという。

彼女の城である自室の玄関には先ほどの電動車いすが置かれていた。そのすぐ後ろには同じサイズの小さな段ボールが積み重ねられている。口の開いている箱の中から本がみえる。業者へ送る分を梱包した段ボールであった。大野さんはある業者の月50冊までスキャン(OCRつき)して約1万円というサービスを利用している。それだけたくさんの本を買うということだ。

普通の人は月に50冊も買わないですよね(笑)。これは本を食い物のように消費する玄人のためのサービスなんですけど、これでも足らないぐらいです。本を買うのは95%がアマゾンです。クレジットカードは何枚か持ってるんですけど、学生の与信限度額は低いんで、超えそうになっちゃうんです。そんなときはhontoで買います。

与信限度額を超えそうになるぐらいに本ばかり買う、というのは相当の本の虫である。では実際、どんなときに本を買うのだろうか。

2万円もする専門書を「えいっ」ってクリックして買っちゃったりとか、論文にもならないラフなペーパーを書くために段ボール一箱分の本を注文したりとか。こんなに人間は本を買うものなのかって呆れられる程度に買うときがあるんです。私、高い本を買うのに何にも感じない人なんです。オタクが大枚はたいてフィギュア買ったり、おしゃれな女が高い服を買ったりするとき、何の抵抗もないと思うんです。私が高い本を買うのは、それと同じなんじゃないでしょうか。部屋のキャパシティよりも、どうやって情報にアクセスするかが気になります。一院生としては、大概、そのことばかり考えてるんです。

そんな知識欲旺盛な大野さんの部屋は縦に長いトータルで10畳ほどの1K。入ってすぐのところに「男はつらいよ」の渥美二郎のピンナップが壁のコルクボードに貼られている。手前の部屋がキッチン、奥にはベッドと作業用の机とデスクトップPCが置いてあるのが見える。蔵書家の家にありがちな、平積みしてある本で床が見えなくなっているという状態からはほど遠い。

それどころか床には一冊もない。キッチンとは反対側の壁ぎわのスライド書棚や奥の寝室兼仕事部屋にあるいくつかの書棚にきちんと収まっている。突き当たりには、彼女の言葉が紡がれる机とその上に置かれたPCがみえる。

『困ってるひと』の印税が入って来たとき、本以外で唯一、自分のために、大枚はたいたのが、この本棚付きの机とスライド書棚です。日本の机って低いんで、通常よりだいぶ高くして、パソコンを打ちやすくして、さらに本棚をつけたんです。棚にしても学術書が入るサイズのものがなかなかない。その調整とか、棚板がたわまない棚とかを工務店に相談して特別に作ってもらいました。

執筆はこの机に置いてある大きな画面のPCでないとできません。それに資料がつねに手の届くところにないと書けない。ここが私にとっての小さな自分の世界、いわば自分の「小さな部屋」なんです。

イギリスの作家、ヴァージニア・ウルフは、「女性が小説なり詩なり書こうとするなら、年に500ポンドの収入とドアに鍵のかかる部屋を持つ必要がある」と著作『自分だけの部屋』に書いているが、大野さんはそれを地でいっているのだ。

大野さんの執筆環境。書棚と机が一体になった特注のデスク。

そんな大野さんだけに、「自分だけの部屋」をより機能的に使えるよう、工夫に余念がない。たとえば、机まわりが典型的である。デスクトップPCのディスプレイを取り囲むように本棚になっていて、PCで作業する時はそれらの本の背表紙が必ず目に入るように置いてある。

部屋に置いてあるもの、視界に入るものが思考に影響を及ぼすので気をつけてます。座ったときの目線の先においてあるのは、「目指している人」の本、こちらの段は自分の手の届かない研究者の本、という具合です。

机まわり以外の本棚もそうだ。本を床に置かないのはもちろん、本の背表紙が重なって見えなくならないように、大野さんは気を配っている。

本が重なって背表紙が見えなくなると読まなくなるんですよ。読まない見ない本というのは、私にとって使えない本だということなので持ってないのと同じなんです。

そういって、大野さんは僕たちにも手伝わせ、スライド書棚の前を塞ぐように積まれていた本を片付けた。膨大な本を買いながら、かなりストイックに部屋の秩序を保っている。そのためには、日々のスキャンが欠かせない、というわけだ。

この部屋には紙の本を置ききれないんで、ときには買って翌日にスキャンに出すこともあります。そのときOCR化は絶対やります。スキャンしたのは今までに2443冊(うち某業者発注分1115冊)。それだけあれば忘れてる本もあるわけです。だけど検索をかければ、著者の本が何冊あるか、すぐに出て来ます。検索キーワードはタイトルと本文のでヒットしますから。

買ったそばから、自炊にまわすこともあるというが、自炊した本は読むのだろうか。

もちろん読みますよ(笑)。

このあたりが武田徹さんとの違いである。彼女は「自分だけの部屋」の秩序を維持するため、読んでいようがまだ読んでいまいが、割り切って片っ端に電子化する。そして、それを置いておくだけではなく、フルに活用するのだ。

こちらはスキャン用の作業台。非接触方式のスキャナーが奥に見える。

本以外の紙資料についても電子化は徹底している。

昔は全部自分で資料を紙でファイリングしてたんです。テレビの後ろに見えますよね。それは私が「ビルマ女子」としてフィールドワークを盛んにしていた時代のものなんですけど、もう捨てかかってます。以前は現物のファイルをすべてとって置いたんですけど、最近は全部、自炊して廃棄です。

スキャンは自分でやったり人に頼んだり、いろいろです。役所の書類はスキャンしてフォルダで管理します。業界紙はたまってしまうのでどんどんスキャンします。研究会で知り合った人とかにも頼んだりします。そんなわけで、入手困難な資料など、コアなものとデータしか基本的には残らない(笑)。

スキャンの手間を省くために最初から電子版を買ったりすることもあったりするのだろうか。

日本語の本は紙の本が欲しいんですよ。すぐに業者に出してPDF化してしまうのにね(笑)。だから最初から電子版を買うことは、よほどのことがない限りないですね。電子版しかないというのであれば別ですけど。

金額を考えれば、読みにくくても電子版があるものについては、わざわざ紙の本を買う必要はないのではないか。

紙で読まないと読んだ気がしないんですよ。リーダビリティ(読みやすさ)はまだ圧倒的に紙の方が上だと思うので。ただし英語の本は別です。キンドル・ペーパーホワイトの辞書機能がとてもいいので、読まなきゃいけない洋書とかは、これで辞書を引きながら読みたいんです。

紙の読みやすさを認め、電子版がある本でも、まずは紙の本を購入する。いきなり電子本を買わないというところが、大野さんの紙の本に対してのこだわりなのである。ただし、そのこだわりよりも、「自分だけの部屋」の秩序を守ることのほうが、大野さんにとって、重要なことなのだ。

一緒に議論してる院生のスタイルとか見てると、もう電子化ってのは時代の流れなんだなって思います。テキストって作品じゃなくてデータなんです。私自身も、本に愛着を持ちながらも、大量にデータを扱うタイプの人と同じような感覚でテキストを扱っている。データベースになってる方がいい。私、そんなに紙で残すことにこだわってないんです。薄情かも知れませんが。

彼女にインタビューをして、すっかり感化され、そして反省した。僕の4畳半のアパートは仕事場として全然機能していないからだ。武田さんのように置き場所を確保できない以上、リミットをもうけて、電子化を率先するしかないのではないか。そのように考え直した。その上で自分が目標とする作家の本の背表紙を見ながら書く。大野更紗さんの拠点のコンセプトと同じだが、僕も同じ路線で、「自分だけの部屋」を作るべきなんだろう。そう思うようになった。

(このシリーズ次回につづく)

※この連載が本の雑誌社より単行本になりました。
詳しくはこちらをご覧ください。

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執筆者紹介

西牟田靖
ノンフィクション作家。日本の旧領土や国境の島々を取材した一連の作品で知られる。「マガジン航」の連載をまとめた『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)をはじめ、著書に『僕の見た「大日本帝国」』(カドカワ)、『誰も国境を知らない』(朝日文庫)、『ニッポンの穴紀行〜近代史を彩る光と影』『ニッポンの国境』(光文社新書)、『〈日本國〉から来た日本人』などがある。