電書メランコリーの蚊帳の外で

2012年3月5日
posted by Kazuya Yasui(夜鷹)

「マガジン航」への寄稿を編集人の仲俣氏より依頼された時、正直言って自分は「場違い」だろうと感じたものだ。

本や出版と聞いて「普通の人々」が最初に思い浮かべるのは書店で売られる小説や雑誌の類いである。物書きを生業として四半世紀以上の歳月を生きながら、そうした商業出版物とはまるで縁がなかった──むしろ避けてきた──自分は少なくとも、その分野の達人たちが集うメディアに寄稿者として与する手合いではなかろうという思いがある。

しかし今回このような機会を与えていただいたことは光栄であると同時に、縁あって昨年末に人生初の商業出版物として上梓した「憂鬱なe-Bookの夜明け(仮)」の内容と関連させて自身の考えを世に示すチャンスであると思い直し、こうして寄稿させていただく次第である。

コンテンツ表現の視点からの電子書籍論の欠如

電子書籍元年と騒がれた一昨年あたりから「本と出版」について数々の議論を見聞きした。しかしビジネスの話かと思いきや文化論が持ち出されたり、あるいはその逆であったり、揚げ句の果てにリーダー環境やその機能性の是非が語られるなど、とかく論点が右往左往するばかりで収拾が付かないまま終るケースが少なくなかった。

「本と出版」との接点や取り組み方も各人各様だからこその「混乱」──あるいは単にポジショントークのぶつかり合い──とも言えるが、そうした状況を少しばかり好意的に捉えるなら「本と出版」は誰にとっても日常的で、普段そのように意識しなくても、何かあれば情緒的にならざるを得ないくらい「本と出版」は人々のライフスタイルの根幹を成しているのだと、ある種の感慨と共に再認識したりしたものだ。

その一方で「本と出版」に関する議論のほとんどがメディア論に終始し、メディアを通じて語られる当のコンテンツについては(少なくとも筆者には)実に軽んじられていることも再認識できた。そもそも議論の軸が「電子書籍」というメディアだから仕方ないとも言えるが、それにしても出版関係者が多く参加する場において、コンテンツ表現の視点からメディアが語られることが如何に少ないことか。

恐らくその場に参加していない大多数の普通の読者──物言わぬ顧客──にとって「本と出版」の第一義はコンテンツであろうと仮定すれば、先ずはメディアありきで論じられる「本と出版」は手段の目的化に違いなく、そうした姿勢が読者の興味を失わせ、失われた二十年と足並みを揃えてきた「出版不況」の一因となっていそうなことは容易に想像できる。

原義にさかのぼって「出版」と「本」を考えると

コンテンツとメディアの間には「鶏が先か、卵が先か」の如き、永遠のジレンマがある。それはそのまま、しばしば作家と出版社の間で持ち上がる「権力闘争」にも似た諸問題に当てはめられる。各々が相互に補完し合えば美しい「本」というパッケージが完成し、そこに読者が加わることで「本と出版」に関わる幸せな関係は成立するが、コンテンツとメディアは本来異質なものである。読者には見えにくい部分だが、その種の堂々巡りを避ける意味で「文化」としての出版と「商行為」としての出版は全くの別物である点には着目しておきたい。

「出版」の原義が「世に出して知らしめること」であるのは、英語の “publish” が “public” からの派生語であることを考えても明らかで、本来そこに商行為の匂いは一切含まれない。同様に「文化」を表す “culture” は “cultivate” からの派生語だ。原義の「土地を耕して耕作地にすること」から転じて「知識・教養を育むこと」となり、そうして得られた知識はコミュニティの中で伝承・共有され、そのコミュニティの「文化」となる。

つまり文化の形成プロセスで、知識を伝承・共有する手段として「出版」が行なわれるのであり、そこでは出版業界(今日では出版社・取次会社・書店により構成される流通システム)はそれを手助けする仲介人(メディア)の位置付けになる。ちなみに商法第502条6号には「営業的商行為」として「出版」が規定され、それが商人による仲介業であること──出版業界は作家と読者〜生産者と最終消費者の間に介在する立場であることが明示されている。

さらには「本」の意味だ。最近はとかく紙本と電書の二元論で語られがちな「本」を表す英語の “book” の原義は「記録」である。ブックキーパーは帳簿係で、ブッキングは予約を入れること──どちらも記録に関わる行為であるのは明らかだ。その文脈で考えれば、本は音楽で言うところのレコードと同じ意味になる。取り留めもない思考の流れ──表出する傍から消えてしまう精神的な活動を文字や絵で書き留めたものが本であり、語りや音楽として音溝に記録したものがレコードである。会議の議事録から、授業中に取ったノート、走り書きのメモ、あるいは、幼い子供の落書きに至るまで、それぞれの記録はそれぞれの文脈で何らかの意味を成す内容──コンテンツを備えているのだ。

コンテンツこそが「本」の出発点

コンテンツはそれを作り出した本人以外には全く無意味なこともあるが、それでも「本」の出発点には違いない。そんなパーソナルな記録を自分以外の誰かに見せることが「出版」の始まりだ。重要なことが記されていたり、内容的に優れているコンテンツなら「書写」や「複写」は普通に行なわれるだろう。そこにある意味合いは、几帳面な学生が要点を整理したノートが試験前に価値を持つのと全く同じであり、それは「本」や「出版」は誰にとっても本来とても身近な行為・営みということを意味する。

コンテンツが広く公共の利益に供するなら、活字が組まれ「版」を起こして大量に印刷されるのは間違いない。実際それこそが「出版」の歴史に他ならず、そのために様々なテクノロジーが編み出されてきた。しかし今日でもなお、何百年・何千年前の昔から何ら変わることなく「本」や「出版」はひとりの人間のごく個人的な精神活動〜パーソナルな営みから生じているのもまた事実だ。

わざわざ語源を遡ってまで筆者がこうした主張を繰り広げるのは、情報共有のためのテクノロジーが飛躍的に発展し、作家と読者がエンドツーエンドでつながれるようになった現在、本や出版に係わる営みは過去のどの時代よりも直截で、誰でも容易に取り組めるようになっている事実を改めて実感してほしいからだ。メディア論者の列に加わり、理想のプラットフォームやフォーマットを求めて終りのない議論を繰り返したり、最新のアプリやサービスの試用に埋没するよりも、むしろテキストエディターでも開いて自分にしか書けないストーリーを描き、少しずつ賛同者──ファンを獲得する努力でも始めるほうが多分はるかに生産的だ。

そうした営みが直ちに収益につながることはほとんどないかも知れない。それでも自分のストーリーを書くことを勧めるのは、それを読む人々との「関係性」が生まれるからだ。それは趣味を通じて人々とつながるのと同じで、つながることで自分ひとりの思考・経験からは及ぶべくもない展開──新しいストーリーが生まれることが期待できる。単に自分のアイディアを広めるだけでなく、アイディアを一人歩きさせて自立的な拡張・発展を促すのも「出版」の本来の目的のひとつなのだ。

何かをキッカケに人々が集い、言いたい放題ざっくばらんの意見交換(ブレインストーミング)を続けるうちに、頃合いを見て誰かが「まとめ」を作ったりする。それが記録としての「本」である。そのプロセスは某匿名巨大掲示板やツブヤキ系ソーシャルメディア界隈では日常的に見られる光景そのままだ。このように考えてみれば、いわゆる「出版不況」は関連ビジネスの周辺で局所的に起きているだけで、少なくとも作家と読者──この文脈で双方は表裏一体の存在──のコラボレーションによって形成される「出版文化」には何の影響もないことが分かる。

一枚岩が砕けた後のガレキの上から語る

無論それは原初的な「文化」に限った話だ。メディア産業の枠組みの中で生業を得る人々が危うい状況にあるのは変わりなく、同時にそうした大きな枠組みの中でしか生まれ得ないコンテンツも存在することを忘れてはいけない。

行き過ぎたヤラセやステマは問題だが、時にはそれらを駆使した「雰囲気作り」や「世界観の構築」がコンテンツを周辺から盛り上げることも欠かせないのだ。事実そういうコンテンツに囲まれて我々は育ち、それなりに楽しんできたのだから、メディア産業の衰退を「自業自得」と冷淡に突き放すのも考えものだ。何せメディア産業の本質は「商人」であり、日本人の8割は「商人」として生業を得ていることを思えば「明日は我が身」の状況なのだから。

何はともあれテクノロジーは今後も発展を続け、既存の枠組みを壊し続けるのは疑いようもない。テクノロジーそれ自身は何もしないが、それを共有・利用する我々自身が選択した行動の結果だ──後悔先に立たずどころか、今なお新しいスマートフォンやタブレットの登場を世界中が待ち侘びている。

そうして一枚岩が徐々に崩れて散り散りの細石になっても、そこに残された作家や読者──我々には自己表現のためのツールとチャンスが等しく与えられているのは幸いだ。ならば次の一言はガレキの上から自分で語ろう。この文脈では「つぶやく」ボタンやメニューコマンドの「共有」は等価である。自分で押す「いいね」は自己表現に何の貢献もない。

新しい時代の「本と出版」はそのように始まっている。細石がふたたび巌となるかも知れない。それが新たなジャパンパワーにもつながるのだ。