フリーミアム実践の舞台裏を聞いた

2009年12月12日
posted by 高森郁哉

電子メディアと出版の未来に関心のある当マガジンの読者ならすでにご存じだとは思うが、『ロングテール』のベストセラーで知られる、米『Wired』誌の編集長クリス・アンダーソンの新著『フリー』の邦訳をNHK出版が先月下旬に刊行し、その事前キャンペーンとして、1万人限定・期間限定で全編をオンライン無料公開した。

無料閲覧用PDFには約43時間で1万人がアクセスした。

無料閲覧用PDFには約43時間で1万人がアクセスした。

本書のテーマである、商品やサービスの無料と有料を戦略的に組み合わせるビジネスモデル「フリーミアム」を自ら実践した格好で、どちらかと言えば保守的な印象のあるNHK出版が業界初の試みを仕掛けた意外性もあった(もっとも、米国での原書の販売に際しても近い形で無料公開を実施していて、それを基に日本独自の工夫を加えたものではあるが)。

上のリンク先にもあるように、開始から約43時間で登録者数が1万人に到達し、無料のキャンペーン自体は成功裏に終わったが、さて肝心の「(プレ)ミアム」、つまり書籍販売の状況は果たしてどうなのか。NHK出版・学芸図書編集部の松島倫明氏に、キャンペーンの舞台裏や、発売前後のオーダー状況などについてメールで聞いた。

無料版閲覧のために43時間で1万人が登録

まずキャンペーンについては、公開すべき部数についても実施期間についても、前例がないため全くの手探り状態で企画を立てていったという。「発売日までの2週間に捌ける数」「実売を喰わない数」でありながらも、「事前プロモーションとして十分なインパクトを与える数」を考慮し、「3000部や5000部という案もありましたが、ドカンとやるならやっぱり『1万という響きが大切』、というぐらいの根拠で最終的に決めました」と松島氏は振り返る。

ただし決定したあとも、キャンペーンへの反応や実売への影響に不安はあった。2週間経っても目標の数に全然届かなかったら格好悪いので、社内でも「社員総動員して数稼ごうか」といった冗談まで交わされていたというが、IT系のネットメディアやメールマガジン、著名人のtwitterで紹介されたことで公開前からじわじわと関心が高まり、ふたを開けてみれば先述の通り2日足らずで目標を達成した。

なお松島氏は、プロモーションサイトと連動するtwitterも自ら書き込んでいて、公開の始まった11月13日金曜の午後から土曜、日曜とtwitterに張りつくことになり、リアルタイムで手応えを実感する反面、2週間かかるという見通しで週末の金曜に開始したことを少々後悔したという。

実売を喰わないかという点については、「フリーミアムで行くぜ、という気持ちと、無料にしたらみんな本を買わなくなるのでは、という気持ちの相克」だったと語る松島氏。無料閲覧をした1万人のうち、どの程度の人が本も購入したのかはデータがないものの、twitterで問いかけてみると、結構な数の人が本を購入しているとの感触を持った。

「もちろん『読みづらい』ということもあると思いますが、『いい本だから買ってみる』という声もたくさんいただいて、フリーミアムの威力を見せつけられた思いがします。これもツイッターで誰かが書いていましたが、実は昔ながらの本屋の立ち読みと変わらない。
ただここでもポイントは、『全文』を『配布コストゼロ』で『大量』に提供できるところが、21世紀のフリーということだと思います。データとしては、無料公開前後のアマゾンの順位を見ていたのですが、すでに1000冊近くあった予約が一気にキャンセルされるのでは、などといった危惧は杞憂に終わりました。前日の12日は総合で14位だったのですが、公開を始めた13日はいったん19位まで落ちたのがまた14位まで上がったり、土日も24位ぐらいまで落ちてはまた上がりを繰り返し、けっきょく1万人終了後の月曜日には14位に戻っています。動きとしては微妙なのですが、『落ちもしなかったし、上がりもしなかった』といったところでしょうか」

予約部数の数字が出てきたところで、話題を刷り部数に移す。発売前の段階で、刷り部数と販促費をどのように見積もっていたのだろうか? まず初版については、全て売れれば原価割れはしないという線で、1万5000部に設定したという。「版権を取る段階で何社かの競合オークションになり、アドバンス料も上がったので、1800円の定価付けにするとすれば、そのぐらい刷らないとペイしないということ」(松島氏)

新聞広告を一切使わずネットに注力

さらに、実質的な採算ラインとなる部数を予め算出し、その部数の商品にかける新聞広告費相当額を、新聞広告に一切使わず、今回のプロモーション費(無料公開やイベント実施など)に充てた。「つまり『発売に合わせて新聞広告で宣伝・告知する』という王道を辞めたわけです」

さて、気になる刷り部数は、これまでどのように推移してきたのだろう。

・初版1万5000部
・2刷1万部:累計2万5000部(※発売日の10日前に決定)
・3刷2万5000部:累計5万部(発売日当日に決定)
[※正式発売日は11月26日。ただしアマゾンや都内の書店などでは21日から売り始めた。]

実売部数については、まだデータが上がってきていないため把握していないものの、「アマゾンは発売以来ずっと総合順位で一桁を維持していて、すでに3000冊以上売っていただいています。丸善丸の内本店、ジュンク堂渋谷店、ブックファースト渋谷店ではビジネス書ランキングで1位、神田三省堂では2位など、大手書店でも確実にベストセラーになっています」とのこと。刊行早々に実質的な採算ラインを超えることもほぼ確実になったといい、非常に好調な出足と評価できそうだ。

ただし、松島氏はその先も見据えている。「販促を考える際に、まずはフェーズ1として、発売日までにオンラインに『フリー』の話題を充満させ、ネットビジネスやテック関係の人々、アーリーアダプターまでの誰もが知っているようにする、読んでいないとヤバイ、マストな一冊にするという目標を立てました。1万部無料をトリガーにバイラルな展開をしたことでその点は達成できたと思っています。

発売日以降の第2フェーズですが、オンラインでの評価がある程度固まったいま、今度はもうちょっとマスと言いますか、アーリーアダプターより後、キャズム越えを狙っていくつもりです。たとえばツイッターが何なのかはあまり知らないような方、ネットビジネスではなくアトム[物質]の世界でビジネスをしている方に向けて、リアルメディアを使った展開を考えています。その際には、単に本の宣伝をするのではなく、第1フェーズで起こったいろいろな出来事、1万部無料配布や、ツイッターを使った本の販促成功例といった文脈を提供できるので、ここでまた第1フェーズの成功が効いてきますし、相乗効果を狙えると思います」

「電子+紙」によるフリーミアム戦略の可能性

11月20日に行われた本書の刊行記念イベント「FREEMIUM HACKS!! (フリーミアムを攻略せよ)」でも感じたことだが、もともと本書のテーマはデジタルの世界で展開するビジネスと親和性が高く(ゲストの顔ぶれからもそのことがうかがえる)、ネットユーザーからの早期の好意的な反応はある程度予想できた。ビット(デジタル)のコピーと配信のコストは限りなくゼロに近づく。ただし、物質世界ではモノを複製(生産)し流通させるコスト、在庫のコストなど、フリーミアムを実践する際のハードルははるかに高くなる。

もちろん本文でいくつも事例が紹介されているように、無料経済そのものはパソコンやネットが登場するはるか前から存在する。だが、クリス・アンダーソンが今日的なビジネス環境に照らして切り取ったフリーミアムの概念を、アトムの世界で戦略的に活用するには、デジタルで行う以上にシビアなモデル構築と準備期間が必要になるはずだ。そう考えると、松島氏の言うような層への広がりは少し時間を要する気もするが、そのうち非デジタルの世界でフリーミアムの成功事例が登場すれば、本書もバイブル的な存在になって一気に伸びるのかもしれない。

電子メディアと紙メディアの関係に絞って考えると、日本ではまだ電子書籍端末が普及していないという状況が、『フリー』の販促にとってプラスしたという側面もあるようだ。今回のキャンペーンでは本文データをPDF形式で配信したが、ファイルをローカルに保存できない(オフラインで閲覧できない)ようにする技術的な制限を設けていた。そのせいもあってか、「PDFが読めない」という連絡を相当数受けたという。これがもし、電子書籍端末が一般的になっていて、それに対応するファイルで配信していたならば状況も違っただろう。松島氏もこう述べている。

「やはりPDFをパソコン画面で読むのはけっこう大変だと思いますし、僕自身、読み切れるかといえば自信ありません。ただ、だからこそ実物の本との間でバージョン化がうまくいったとも言えるかもしれません。これが例えばキンドル版は無料で本は有料、といったように、もっと読みやすいデバイスで無料版を配布していたら(アメリカは実際そうだったわけですが)、また結果は違ったかもしれません」

米国の電子書籍端末市場では、アマゾンとソニーの2強に続きバーンズ・アンド・ノーブルが参入し(アップルも噂があるという)、NECも最近製品投入を表明した。おそらくは、噂されるキンドルの日本語版発売に前後して、1、2年のうちにソニーとNECも日本市場に製品投入してくる。そのときは、出版におけるフリーミアム(無料+有料)戦略もまた、「電子+紙」あるいは「電子+電子」と選択肢が広がり、日本の市場に適した配分や手法が模索されるだろうが、今回の『フリー』の事例はそうした後発のフリーミアム・パブリッシャーにとっても大いに参考となるはずだ。

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