いまこそ本当の読書用iPodを

2009年9月20日
posted by セバスチャン・メアリー

まず始めに申し上げておきたいのは、この記事は電子書籍がいいものかどうかについて書いたものではない、ということです。私が今朝から考えていたのは、iPodが電子書籍としての役割を果たすときが間もなくやってくる、と期待することがいかに莫迦げており、自分はなぜそれが間違っていると思うのかについてです。私は最終的に、本のもつ「物質的な属性」がその理由である、という結論にたどり着いたのですが、多分それは、あなたが思うような方向ではありません。

まず誰かが最初に、「書籍は立体的で、感覚的で、知識も詰まっている。手触りや匂いもありますよ」と言わない限り、本の未来を議論するための要素は揃いません。たしかに私も、お風呂に浸かりながら読書するのも、余白に落書きなどをするのも好きです。でもこの問題は、私より優秀な人たちによって繰り返し論じられていますので、脇に置いておきましょう。

本の物質的な形態が内容にも影響を与えていることは間違いありません。しかし、そのために電子書籍に適したコンテンツを考えるとき、iPodと紙の本が誤って比較されていると私は思うのです。

本の物理的形態が文章の長さを決めてきた

しばらくの間、本に目を向けてみましょう。18世紀の印刷ブームという出版の開拓時代、本はお馴染みのサイズ以外にも、フォリオ判、パンフレット、ポスター、フライヤー、チラシといった、何でもありの体裁で出版されていました。しかし現代の発達した出版産業のもとでは、流通部数が増えれば増えるほど、本の物理的形状のバリエーションは減ってしまいます。大きな市場を狙った本は、幅が110~135ミリ、高さが178~216ミリという標準的サイズに当てはめられがちです。このサイズだと費用をかけずに容易に出版できるので、市場競争に耐えうる価格で販売できるからです。

本の厚さも、製造上の制約から印刷諸経費にいたる、さまざまな理由で決められています。その結果、書店の棚は『恐ろしいけどやってみるしかない』というタイトルの一文に書かれているぐらいしか内容がないのに、わざわざ一冊分に膨らませたような本で埋まってしまいました。地元の書店の「自己啓発書」や「ビジネス書」の棚をチラッと見てみれば、この手の本がたくさん見つかるはずです。これらはみな、経済的な観点から“適切な”サイズにまで水増しされた出版物なのです。

このことから分かるのは、「一定の長さをもった本という形態は、人がアイデアを伝達する方法として、(親しみがあるだけでなく)最善の手段である」と結論づけることは、多くの人は認めたがらないでしょうが、じつは間違っているということです。そして、これを電子書籍に置き換えて考えれば、長い文章を読むためのiPodのような電子書籍リーダーを期待することは、大きな間違いだとわかります。

ウェブを見てごらんなさい。そこでは「アテンション・エコノミー」が猛威をふるっています。あなたが何を書こうと、ワンクリックするだけで、ウェブには常に、もっとマシで魅力的で赤裸々で価値のある文章があります。私の書いているこの記事だって、長すぎたら誰も最後まで読まないでしょう。印刷出版の伝統のもとでは、一定の長さをもった文章こそが「よい文章」でした。しかしオンラインでは、簡潔さこそが書き手が理性的であることの証拠であり、無視されないための命綱なのです。

「文章に一定の長さがあることは、本質的にいいことだ」と想定するとしたら、ウェブは深く思考するにはふさわしくない場だ、ということになるのでしょうか? スヴェン・バーカーツ氏が『アトランティック』誌に寄稿した「キンドルに抵抗して」という記事でも、この疑問は繰り返されています。しかし、これとは反対の観点からシンプルに見れば、印刷出版のもつ物質的な制限から離れることで、私たちは新しいコミュニケーションの方法を試みているのだ、ということができます。

電子読書における「1曲」は300語の短文

私自身はやむにやまれず、本やブログを読み、ツイッターもします。これらの異なるフォーマットを活用して、異なる体験をしていることに、自分のなかで矛盾はありません。電子書籍は、一定の長さのある文章に有効だとみなされていますが、「一定の長さの文章」を読むという体験こそが、紙媒体や本という製品によって生まれてきたのだという、本質的な事実が無視されているのではないでしょうか。私が言いたいのは、そういうことなのです。

さて、「読書用のiPod」という比喩に戻りましょう。iPod擁護派は、それが「小さくて四角くて、たくさんの“音楽”を保存して楽しむ機器」である以上のことを深く考えていません。だからこそ、iPodが「小さくて四角くて、たくさんの“文章”を保存して楽しむ機器」へと、簡単に移れると考えてしまうのです。iPodにはオーディオ・ビデオ機能、凝ったリンク機能などがあるにもかかわらず、一定の長さの文章を読むための機器でもありうるという一般的な理解が、ことに出版業界の希望として、いまだに残っています。

しかしそのような考えはiPodに(より一般的にはmp3によって)音楽が、どのように配信されているかをまったく見ていません。かつて音楽は、CDやLPとしてアルバム単位で販売されていました。しかし、今では60~75分の長さではなく、だいたい3~4分の曲単位で売られるようになっています。CDやLPで60分ほどの音楽を売ることには、経済的な合理性がありました。同様に、約8万字の文章を本として売ることにも、経済的な合理性があります。しかし、iPod用の音楽は曲単位で売れるのです。ここから推定すると、読書用iPodにふさわしい文章は、音楽でいえば1曲分、つまり約300語程度の短文ということになります。

そしていま、ウェブには「純文学」が溢れています。現在に至るまでの私のウェブ放浪の中でも、「これはとても重要な文章だ」と感じるものとの出会いがありました。そんなとき、その文章を自分のために取っておける機能がウェブにあるかどうかが心配になります。ネット情報をアーカイブしてくれるWayback Machineを別にすれば、サイトへのリンクはいつか切れてしまいます。しかし、すべてをプリントアウトすることもできません。重要な記事はどうしたら保存しておくことができるのでしょう?

デジタル世代のモンテーニュが生まれる可能性

現代の「純文学」を失わないためには、文章をダウンロードしたりアーカイブしたりするために作られた、バーチャル・ライブラリーとしての機能をもつデバイスが必要だと私は考えています。そのようなデバイスや(文章の)プレイリスト、マッシュアップ、お気に入りの短文のコラージュによって、私たちは「デジタル世代のモンテーニュ」となります。私たちが集団制作した文章に注釈が付けられることで、文学としてさらに発展していくかも知れません。

ブログには現実に「純文学」が再び出現しています。ブロガーたちがその瞬間に書いてアップロードした文章にささやかな価値が認められ、バーチャル・ライブラリーのような機器にダウンロードされていけば、長いスパンで見たとき、ほんの短かい作品が、芸術の復興を生じさせるかも知れません。

印刷出版の物理的な制約のもとで生まれてきた「長い文章」を読むための機器として電子書籍をとらえるならば、ニッチな商品にとどまるでしょう。iPodでアルバムを最初から最後まで一気に通しで聴く人は、今でもいるかも知れません。しかし電子書籍デバイスで、長い文章を一気に読んで楽しむ人は少ないでしょう。少なくとも、それが主流になるとは思えません。けれどもそのデバイスで、上手な短文同士を比較したり、ページを並べたりすることができるのなら、私も欲しいです。

だから、小さな液晶画面でトルストイの『戦争と平和』を読んで、目をダメにする変な人たちのことは、もう忘れましょう。そのかわりに文章をダウンロードしたり、アーカイブしたり、注釈のタグを付けたり、共有したり、リンクが切れてウェブのどこかに消滅してしまった短い文章のプレイリストを作って、カテゴリー分けをしたりできるような、本当の読書用iPodをいまこそ実現させましょう。とても短い記事向けiTunesのビジネスモデルを開発し、デジタル短文作品のことを真面目に考えていきましょう。

(日本語訳 小西樹里)

※この記事のオリジナルはこちら
will the real iPod for reading stand up now please?