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「新元号」の前夜より

第14信(藤谷治から仲俣暁生へ)

仲俣暁生様

前回のお手紙をいただいたのが2019年3月28日で、僕がこれを書いているのは3月31日です。29日には荻窪でお会いして、マキューアンの『贖罪』について楽しくお話ししました。

「21世紀に書かれた百年の名著」というのは楽しい企画で、大いに楽しみにしています。その第1回に『贖罪』が取り上げられたというのも、あれこれ思いを巡らさせます。20世紀について考えるために19世紀のオースティンまでさかのぼり、2001年に刊行された小説である『贖罪』は、僕たち日本人も含めた世界中の文学者たちが範とした(反抗し、批判するための範でもあるでしょう)イギリス小説の結晶・代表としてふさわしいものです。

28日に手紙を受け取り、29日に『贖罪』を語り合い、今日が31日。では昨日30日は何をしていたかというと、僕は病院に行っていました。2年前に受けた下垂体の手術の予後を見るために、MRIの検査を受けたのです。下垂体にできた腺腫のために末端肥大症になり、それで僕の鼻や指や足はこんなにもバカでかいのです。手術は成功しましたが、どうやら予後を慎重に検査しないといけないらしい。検査の過程で大腸にポリープが見つかりましたので、5月にはまたしても入院しなければならないと、昨日は医者に告げられました。

55歳を老年だとは、さすがに思わないけれど、老いました。社会人になりたての頃、五十代の上司などが、俺はまだ若いとか、二十代の時と変わらない、などと言っているのを、そんなわけねーだろと思いながら聞いていました。ああいう滑稽な若ぶりの人間には、なりたくないものです。普段僕は、むしろ実感よりも衰えていると周囲に吹聴するように心がけています。「若い者に負けない」ことの、どこが偉いのかも判りませんし。

仲俣さんのいう「自分の読書生活の中心を『新刊ではない本』に少しずつ、移したい」というのが、古典回帰という意味でないのは理解しています。そもそも古典というのは回帰できる場所ではなく、人間が個々に発見し、たどり着くよりほかにないものでしょう。古典を所与のもの、すなわち情報として与えて能事足れりとするのは、「教育」とか「啓蒙」の最大の欠点です。

しかしこの欠点を克服し批判して進まなければならないのもまた教育の、啓蒙の責務でもあります。仲俣さんのいう「引いた目で『同時代』を眺める」の「引いた目」とは、恐らく単なる時代の鳥瞰ではなく、流行の中に不易を見つける、その発見のことでしょう。現代文学を古典たらしめる、というのとも、それは違うかもしれません。

先日の「21世紀に書かれた百年の名著」をめぐるトークイベントで、僕が江藤淳の名前を出したのは、そういう連想が短絡的に脳から出てきたためでした。

今の僕は江藤淳の著作に対し、そこに現れている思索の軌跡については、けっこう大きな疑問符をつけないではいられません。しかしそれでも、その文章の魅力や文学への愛は変わらずに尊敬しています。

とりわけ『成熟と喪失』には思い入れがあります。これは、あちこちで喋りもし書きもしたと思いますし、僕だけの経験ではないようですが、あの長編評論がなければ、僕は生涯、小島信夫という作家を知ることはなかったでしょう。いや、それこそ「情報」として知り、読むことはあっても、なんだこれは、どういうことだと、前のめりになって「発見」し続けようとはしなかったはずです。同じように僕は、『なつかしい本の話』によって伊東静雄を、『昭和の文人』によって中野重治を「発見」しました。

発見したのは僕です(僕の読書を発見するのは僕以外にあり得ません)。しかしその発見をうながす、いわば「発掘」をしたのは、江藤淳なのです。この「発掘」こそ評論者の役目であり、この役目を大きく果たしたという一点によって、江藤淳は僕の中で偉大な評論者であるのです。

批評とはそのようなものでした。江藤淳に限りません。間違っているかもしれませんが、柄谷行人の著作なくして、果たして中上健次はあれほど重要な作家として遇されたでしょうか。小林秀雄のいない中原中也にさえ、小宮豊隆のいない夏目漱石にすら、同じことを僕は思うのです。中上や中原は、今や偉大な文学者として歴史上に地位を得ているでしょうが(漱石は言うに及びません)、彼らがあたかも初めから文豪扱いされていたと見るのは、恐らく、正確で充分なパースペクティブではないでしょう。

こんにち、そのような批評はどこにあるでしょうか。溢れかえる新刊小説の流れを押しとどめ、世間のざわつきなど、あってなきが如く振る舞い、ただ一人の作家、ただ一作の小説を見つめる批評は。「これは傑作である(ハイ次)」「これは必読である(ハイ次)」と片付けているのも同然な書評なら、毎週、毎日のようにインターネットや新聞雑誌で見かけるのですが。

批評の凝視に耐える文学が、現代にひとつもないとは決して思わない。日本に限っても、そのような文学は必ずあります。村上春樹論のように、すでにある広範な読者の支持に追随して論じるのではなく、またベストセラー論のように、文学を社会現象として捉える(これもまた別種の追随でしょう)のでもない、批評者が独自に凝視する批評を、文学は待っているのです。

2019年3月31日にこんな話を書くのは、僕にとっては印象的です。

明日には平成の次の元号が告げられます。つまり今日は、平成の次をどう呼ぶのかを知らずに過ごす、最後の一日です。

「平成の次」が始まるのは、5月からだそうですが、その頃には世界中が、日本でそれをなんと呼ぶかを知っている。今の僕はそれを知らない。この書簡が「マガジン航」にアップされる頃には、もう僕は皆と同様、「平成の次」を知っているのでしょう。

小説家としても、一個の成熟した人間としても、僕はこの「知らない」状態をしっかりと味わいたいと思っています。

それこそ21世紀の日本の社会で、新元号の制定ほどあからさまに、非民主的な制度はほかにないでしょう。日本国政府の首長たる総理大臣だって、一応は民主的な手続きを経て決められています(僕には全く不満足な手続きですが)。それは強制力を誇示しない強制、支配力のない支配であり、僕たちは――しかしこの場合の「僕たち」とは、どこからどこまでなのでしょう?――それに、拘束されないのに拘束されることになります。

そんな不可思議な、不条理な、しかも極めて人工的な時間区分が造成されることに、僕は不愉快を感じていません。なぜなら僕は、知らないからです。そのような文字に自分(たち)の時間が拘束されるのか、どんな漢字ふた文字で呼ばれることになるのか、見当をつけていないからです。明日になれば、僕はどんな風に思うでしょう。今の自分が不愉快でなかったことに、後悔を感じるか、安堵を覚えるか。

仲俣さん、これが明日を前にした人間の、ありのままの姿ですよ。今の、今日の姿が。明日には忘れられてしまうこの平凡な姿こそ、知らない未来が間違いなくやってくる、その未来を前にした人間の姿なのです。

明々白々ではないか――ひとりの人間がもうひとりの人間を待つというのは単純な足し算であって、感情が宿る余地などない。待ってます、か。ひとりの人間がしばらく何もしないでいて、もうひとりがそっちに近づいていくというだけだ。「待つ」とは重い言葉だった。外套のような重さでのしかかってくるのが感じられた。地下室の全員、浜にいる全員が待っていた。彼女は待っているに違いないが、だから何だ? 彼女の声にそれを言わせてみても、聞こえるのは自分の声、脈打つ心臓の下あたりから伝わってくる自分の声にすぎなかった。彼女の顔さえ思い浮かべることができなかった。新しい状況――自分を幸福にしてくれるはずの状況――に考えを向けようと彼はつとめた。けれどもその細部は彼にはリアルに感じられず、切迫の度合いも失われていた。
(イアン・マキューアン『贖罪』小山太一訳)

明日が楽しみです。そしてその明日とは、皆さんがこれを読んでいる、今のことなのです。

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執筆者紹介

藤谷 治
小説家。1998年から下北沢で書店「フィクショネス」を開業(2014年に閉店)。2003年に『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』(小学館文庫)で小説家としてデビュー。『いつか棺桶はやってくる』(小学館文庫)が三島由紀夫賞候補となり、『世界でいちばん美しい』(小学館)で第31回織田作之助賞を受賞。音楽高校を舞台にした青春小説『船に乗れ!』三部作(ポプラ文庫)は2010年の「本屋大賞」で7位となったほか、2013年には交響劇として上演された。このほかエッセイ集に『船上でチェロを弾く』(マガジンハウス)、『こうして書いていく』(大修館書店)がある。
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