サイトアイコン マガジン航[kɔː]

トークイベント《文芸誌と文芸批評のゆくえ――新人小説月評における「削除」をきっかけに》を開催します

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

「マガジン航」編集発行人の仲俣です。表題のとおりのトークイベントを、5月8日(土)17時から無観客配信(オンラインのみ)で行います。イベント開催にはLOFT PROJECTの協力を得ており、配信もロフトプラスワンから行う予定です。ぜひふるってご参加ください。

以下はイベント概要です。詳細は以下のリンクにて。
https://www.loft-prj.co.jp/schedule/broadcast/177204


文芸誌と文芸批評のゆくえ――新人小説月評における「削除」をきっかけに

【出演】荒木優太、仲俣暁生、矢野利裕

文芸雑誌「文學界」(文藝春秋)が、在野研究者/荒木優太氏の原稿を一部削除した問題について、様々な議論が巻き起こっています。
文學界、荒木優太氏の「編集権の濫用」批判に反論(日刊スポーツ)

今回の件は、書き手の《自由》と編集部の《管理》のありかた、組織/フリーランスという力関係、「文芸誌とはどのような場所であるべきなのか」といった、文芸批評をめぐる様々な問いを投げかけました。とはいえ、それらの問題はじゅうぶんに深められたとは言えません。そもそも、「削除」問題の起こった「新人小説月評」ってどんなページ?

そこでこのたび、編集者/文筆家の仲俣暁生氏と、批評家/ライターの矢野利裕氏、そして荒木優太氏をお迎えして、事の経緯と共に、今後の「文芸誌と文芸批評のゆくえ」について、じっくりお話を伺います。


* * *

このイベントは批評家の矢野利裕さんからの呼びかけで始まりました。矢野さんはnoteに以下の文章を発表していますので、まずはこれをお読みください。

『文學界』の「削除」の件について
https://note.com/yanotoshihiro/n/nb6f5efd6805a

また、発端となった文学研究者の荒木優太さんの問題提起は本誌(マガジン航)に掲載された以下の二つの文章にまとめられています。

削除から考える文芸時評の倫理
https://magazine-k.jp/2021/02/06/ethics-in-literary-criticism/
『文學界』編集部に贈る言葉

https://magazine-k.jp/2021/02/12/open-letter-to-bungakukai/

矢野さん、荒木さんのこの問題(事件?)に対する基本的なスタンスはそれぞれの文章に書かれていますので、ここでは私が今回のトークに臨む際の心づもりを書きたいと思います。

今回の出来事には、議論すべき(あらたて議論することが有益な意味をもつであろう、という意味で)ポイントが三点あると私は考えます。それは、

1)文芸作品にとって批評とは何か。その観点からみて「文芸時評」とは何か。
2)文芸作品にとって文壇(文芸誌の編集部と作家との共同体)とは何か。
3)文芸作品にとってネット環境での言論とは何か。

です。

ところで、私は矢野さん、荒木さんとは個人的にある程度長い交友関係をもっています。ご存知のとおり矢野さんは「自分ならざる者を精一杯に生きる――町田康論」で第57回群像文学新人賞の評論部門で優秀賞を受賞、荒木さんは「反偶然の共生空間――愛と正義のジョン・ロールズ」で第59回群像新人評論賞の優秀賞を受賞しています(二人の賞の名称が異なるのは、59回から変更になったため)。

矢野さんと荒木さんはほぼ同時期に文芸誌で評論家(批評家)として認められたという機縁がありますが、これまで直接的に深い交流があったわけではないそうです。しかし私にとって二人は、これらの賞をとる以前から、その文筆活動に注目し期待していた信頼できる若い世代の書き手でした。それぞれ別の機会に出会った二人が相前後して文芸誌でデビューする様子を、私はたいへんに心強く思っていたのです。

また私は、遥か以前に「群像」で長編評論を発表したことがあり、いまも同誌とは一定の関係を続けています(執筆機会はずいぶん長いことありませんが!)。そうしたこともあり、荒木さんの群像新人評論賞(優秀賞)受賞の際には私も授賞式に参席しました。私は、自身も文芸評論を書いてきた、そして今後も書いていくつもりの人間であるという意味で、二人と同じ立場にあります。

また過去に執筆経験のある「群像」「新潮」「すばる」「文學界」そして「文藝」といった、いわゆる「文芸誌」が毎月送られてくる以上、私もまた広義の「文壇(文芸共同体)」の一員だというべきかもしれません(私は日本文藝家協会という団体にも参加しています)。

さらに私はこの「マガジン航」というメディアの編集発行人として、12年にわたりウェブ上での言説に関わってきました(荒木さんには本誌にも度々ご寄稿いただいています)。つまり1)から3)の論点すべてにおいて私はステイクホルダーであり、この件に対して態度表明をする責任があると考えたのです。

具体的な議論は当日、オーディエンスの方も交えて行いたいですが、私の基本的なスタンスは以下のとおりです。

・文芸誌における「文芸時評」(「新人月評」などと呼び名は雑誌によりまちまちにせよ)は、荒木さんも戸惑いつつ書いているとおり、批評や文芸評論のあり方としてはかなり特殊な来歴と実質をもつ「制度」であること。

・その「制度」を支えているのはいまなお存在する文壇(端的には「文芸誌」)という共同体であること。

・だが批評家(あるいはすべての物書き)はその制度や共同体の「内部」だけで思考し行動するわけではないし、すべきではないこと。

荒木さんの当該文芸時評で編集部に「削除」された文言の妥当性は、ひとまずここでは問いません(話題となっている岸作品を私は現在も未読です)。しかし、今回の「事件」はたんに批評の文言の是非をめぐってのものではなく、「文芸時評」「文壇」という制度をめぐる本質的な問いを孕むものだと私は考えました。

3)に挙げたネット環境における言説の流布の問題は、この問題と大きく関わります。それは現在のメディア環境において、「文壇」を支える下部構造としての出版産業が、SNSを始めとするネット環境に大きく依存していること、そこでの言説流布の在り方は「批評」の問題を飛び越えて、いわば「商売」の問題に直結するということです。

いまほど小説家や批評家が、書店(人)やフリーランスのライターや編集者が、ネット上で読み書きをしている時代は、もちろん文芸の歴史の上でも前例がないでしょう。しかしそこで流通してる「言説の水準」はといえば、文芸誌という旧い制度の上でなされてきた、また目下なされているものと比べてさえ、まだ大きな構造的問題を抱えていると言わざるを得ません。

私は今回の出来事を、1)から3)の問題が絡み合ったシンプルかつ偶発的な事件と考えており、一種の「スキャンダル」としてみる立場はとりません。また文学作品や批評の在り方を問題にする本質的な「論争」としては、まだ始まってもいないと考えています。

そこで、矢野さんのせっかくの呼びかけに応え、荒木さんにはあらためてご自身の(現在の)考えを伺ったうえで、率直な意見交換をしてみたいと考えた次第です。どのような立場や考えからであれ、この問題に関心をもつ皆さんの参加を歓迎、いや切望いたします。忌憚ない意見を交換しましょう。

執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。
モバイルバージョンを終了