第7信(仲俣暁生から藤谷治へ)
藤谷治様
新著の『燃えよ、あんず』を拝読しました。下北沢にあった藤谷さんのお店と同じ「フィクショネス」という名前をもつ本屋に集う、ちょっと変わった人たち(ぽんこつたち?)の演じる物語をたいへん楽しみました。現実のフィクショネス(と書いてから気づきましたが、こういう言い方はちょっと面白いですね)はすでにないわけですが、小説内の「フィクショネス」はとても魅力的で、あたかもまだ実在しているようでした。
前回の書簡で「編集を明確に露呈させる」ことの必要性に触れられていました。僕は自分の本業を「編集者」だと考えているので、これは真正面から答えなくてはならない問いです。藤谷さんが「小説」について考えているのと同じ密度で思考し、お返事しなくてはと思っているうちに、徒にときが過ぎてしまいました。
そこでまず先に、『燃えよ、あんず』という小説を読んで気づいたことについて書きます。前にお目にかかったときだったか、この小説は少し前に出された『小説は君のためにある』が理論編であるのに対する実践編である、と仰っていましたね。ようするにこの二冊はセットで読むと、さらにいろいろなことがよくわかるということです。
『燃えよ、あんず』には藤谷さんによく似たオサムさんという店主が出てきますが、彼はようするに狂言回しみたいなもので、主人公でも真の語り手でもありません。この小説を成り立たせているのはもちろん登場人物たちなのですが、同時に作中で多くの書物への言及があります。たとえば、フローベール『ボヴァリー夫人』、ブロンテ『嵐が丘』、ナボコフ『ロリータ』、ベルナノス『田舎司祭の日記』、そして――いや、これから読む読者の興を削がないよう、ここではこのくらいにしておきましょう。
しかも、これらの作品が小説のなかでどのような意味をもつのかは、それを実際に読んだ人にしか十分にはわからない――もちろん、一冊も読んでいなくても物語の筋を楽しむうえでは支障はないのですが――、つまり読者の教養に委ねられた部分の多い小説です。その意味でこれは、まさに「小説によって書かれた小説」「小説によって演じられている小説」だと思ったのです。
小説を書くためには、なによりもまず小説を「小説として」読まなくてはならない。書くことと読むことは表裏一体であり、もちろんそこには書かれつつある小説に対するジャッジメント――自己批評――も必要です。なんのことはない、僕が長谷川郁夫さんの本に刺激を受けて、力こぶをいれて主張した「読む人、書く人、作る人」の編集感覚のトライアングルというものを、すぐれた小説家は自分ひとりのなかで日夜ぐるぐると回しているのだな、ということに遅まきながら気づきました。
それと同時に、もう一つのことにも思い至りました。
『燃えよ、あんず』に登場する人たちの大半は、作中の「フィクショネス」という本屋となんらかの関係をもっている。「文学の教室」と「チェス将棋イベント」、この二つの定期的に開催される催しの常連メンバーたちです。現実のフィクショネス(まどろっこしくてすみません)でも「文学の教室」は開催されており、お店がなくなったいまも近所の本屋B&B に場所を移して継続中で、私も二度ほどお邪魔させていただきました。
現実のフィクショネスも、小説内の「フィクショネス」も、いわば一種のコミュニティになっている。そしてその主宰者である藤谷さんや「オサム」さんは、この場を知らず知らずのうちにか、あるいは明確な意図をもってか、私の言葉で言えば「編集」しているわけです。どのような人を受け入れ、どのような人にはご遠慮いただき、場の雰囲気やクオリティを望ましいかたちで維持する――これはまさに「編集」ですよね?
そして店とは「見世」つまり世の中に対してその場をオープンにする、つまり露呈させることです。すでにフィクショネスはある意味で、まだ小説家になる以前の藤谷さんが、自身の価値観にもとづき「編集を明確に露呈させる」場であったということです。
その後、藤谷さんはお店(場)としてのフィクショネスは閉じられましたが、「小説(フィクショネス)を書く」というかたちで同じことを続けられている。しかも、より多くの人に向けて。
こう考えると、「編集」という行為は出版編集の専門業者に委ねられるものではなく、社会にあまねく存在しうると考えたくなります。もちろん、いかなる分野にも専門家は必要ですが、少なくとも編集に関してだけは、アマチュア(本来は「愛好家」という意味であって「素人」ではありません)であること、つまりいつまでもやって飽きないことのほうがはるかに必須の条件なのです。
この往復書簡のあいだに起きた事件は、まさに出版編集の専門業者による「編集」が抱える構造的な問題を孕んでいました。そこにあったのはアマチュアの情熱ではなく、商業上の打算であり、その結果に対する責任逃れでした。
僕自身、アマチュアとしての「編集者」と、出版編集の専門業者との間で引き裂かれる気持ちになることもあります。さらに自分が著者として出版にかかわるときは、よき編集者との共同作業にめぐまれて、自分の力以上のものができることを経験してきました。だから、ここで編集者不要論のような極論をいうつもりはまったくありません。
ただ、「編集を明確に露呈させる」という問いをいただいたことに対する答えとしては、もしかすると必要なのは編集を「露呈させる」ことではなく、すでに「露呈している」編集行為を発見すること、あるいは自覚的に再演することなのではないかな、という気がしたのです。
ありがたいことに、来月には僕も7年ぶりに小さな本を出すことができそうです(文芸評論ではなく、マンガ評論の本です)。著者としての自分は編集者とのコラボレーションによってしか成り立たないし、これまでの僕の「本」はつねにそうした協業の結果でした。編集者とはなにがしかの「意図」をもって本をつくる人ではなく、作者のなかにある方向性や本質を、本をつくる作業の中で浮かび上がらせてくれる人のことでしょう。著者としての僕はどうやら、そうした編集者に恵まれてきたようです。
すべての本は、じつはそのような「編集」の結果として露呈されている。それを読み解き、わがものにするための努力は読者の側に委ねられている。いまはそう思えてならないのです。
(第1信|第2信|第3信|第4信|第5信|第6信|第8信につづく)
11月23日(祝)午後に東京・下北沢の本屋B&Bにて下記のトークイベントがあります。詳細はリンク先のサイトをご覧ください。
藤谷治×内沼晋太郎
「小説が待っている〜本を書き、本をつくり、本を売る、その先で」
『小説は君のためにある よくわかる文学案内』刊行記念
執筆者紹介
- フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。
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