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ロジスティックス革命と1940年体制の終わり

「マガジン航」のエディターズ・ノートは毎月1日に公開することにしているのだが、今月はどうしても考えがまとまらないまま最初の週末を越えてしまった。理由はほかでもない、出版物流の限界がはっきりと露呈してきたからであり、それを前提とした出版産業の未来をポジティブに考えることが難しいと思えたからである。

取次自身が認めたシステム崩壊

出版関係者の多くが読んでいると思われる二つのネット連載が、この問題に触れている。まず小田光雄氏の「出版状況クロニクル」は6月1日の記事(第121回)で「新文化」(4月26日付)や「文化通信」(5月21日付)などが伝えた大手取次のトーハン、日販の経営者の生々しい発言を紹介している。

「出版業界は未曽有の事態が起こりつつある」(トーハン・藤井武彦社長)
「取次業は崩壊の危機にある」(日販・平林彰社長)

こうした大仰な発言の背景にあるのは、取次という出版流通ビジネスの屋台骨となってきた雑誌とマンガが、電子メディアへの急速な移行によって書店でモノとして販売される必然性が失われ、これまでのような全国一律の大量物流を次第に必要としなくなりつつあることだ。

先月のエディターズ・ノートで「漫画村」騒動に触れた際に私はこう書いた。

大手出版社がここ数年、積極的に取り組んできた電子マンガ事業は、紙の雑誌やコミックスを前提としてきた従来の出版流通システムを、インターネット上に付け替えようとする一大プロジェクトだったといえる。

喩えて言うならば、これは江戸幕府が行った利根川の流れの付け替えに匹敵するほどの巨大なプロジェクトだったのではないか。元和7年(1621年)に始まった利根川東遷事業は、それまで江戸湾(現在の東京湾)に注いでいた利根川本流を、はるか東の銚子岬の方向に付け替えるという、日本史上空前の国家的な土木事業だった。

「マンガの電子化(できうることなら雑誌も)」は、少なくともマンガ週刊誌を発行するような大手出版社にとって、利根川東遷と同じくらい死活的な「事業」だったはずだ。そうでなければ「漫画村」の騒動のなかで「数兆円規模の被害を受けた」などという言葉が、軽々しく公式サイト上に載るはずがない。ましてや国がここまで口出しをするはずもない。

しかし、もしそのような「付け替え」がすっかり完了したならば、干上がるのはマンガや雑誌の物流と小売を担ってきた取次と書店だけではない。マンガとはまったく関係のない書籍流通のあり方までが、大きな影響を受けざるをえない。

日本経済新聞の6月2日の記事(「出版取次、苦境一段と日販、出版社に物流費転嫁トーハンは経営陣刷新」)では、日販の平林彰社長は「雑誌に依存した取次業は誇張ではなく崩壊の危機にある。書籍は30年以上赤字が続き、事業として成立していない」と発言したとされている。

日本の近代的な出版流通システムは、大量部数の雑誌(すでに戦前の段階で大日本雄弁会講談社の「キング」などの百万部雑誌が存在した)を全国津々浦々まで届けるために形成され、そこに書籍が乗るというかたちで発展してきた。欧米のような書籍独自の流通システムを欠いているという特殊性があるのだが、むしろそのおかげで日本の書籍は、世界的な基準からすると大幅に安い価格で消費者に供給されてきた。

書籍単体で流通を行った場合とくらべ、雑誌との一元流通は低コストで済むことが利点だが、言い換えればマンガを含む雑誌の大量流通に書籍がパラサイトしてきたとも言える。そして寄生先がなくなったときのことなど、まるで考えられていなかったのだ。

日本経済新聞の記事では、ある大手出版社の幹部の「単価が高い単行本の定価を積極的に引き上げ、安価な文庫の値上げも検討したい」という言葉が紹介されている。昨今の物流危機を反映して運送代が高騰していることの現れか、それとも流通マージンの見直しまで視野に入れた発言なのかは、これだけでは判断がつかない。だが、たんに運送費を価格転嫁して値上げをしたのでは、消費者が背を向ける結果に終わるだろう。

なにより単行本はともかく、文庫や新書は事実上の「定期刊行物」であり、大量に製造販売するからこそ廉価にでき、また廉価だからこそ大量に売れたのだ。この両者はマンガや雑誌と同様、最優先でデジタルに「付け替え」を行うべきだったのだが、いまや遅きに失した感がある。

アマゾンが達成したロジスティックス革命の意味

小田氏の記事の少し前に更新されていた、ジュンク堂書店の福島聡氏の連載コラム「本屋とコンピュータ」の188回では「現代思想」3月号の「特集 物流スタディーズ」が取り上げられていた。

私が福島氏のこの記事を読んだのも6月1日のことだ。一読後、今月のエディターズ・ノートはぜひこの「特集 物流スタディーズ」を読んでから書きたいと思い、すぐにアマゾンで「ポチった」。Kindle版で買えばすぐに読めたことにあとで気づいたが、紙の雑誌が届くのを待っていたため記事の更新が遅れてしまったのだった。

アマゾンを筆頭格とするEコマースの台頭により、あらゆる分野で小売業が壊滅的な打撃を受けている。そして従来の物流――というより、ロジスティックス=兵站と呼ぶほうがふさわしい――のあり方そのものが根本的に変わりつつある。この特集はそうした状況をビジネスの当事者やジャーナリスト、さまざまな分野の研究者の知見をあつめて掘り下げた好企画だった。

この特集には元「ワイアード」日本版編集長・若林恵氏とファブラボ・ジャパン発起人の田中浩也氏(慶應義塾大学教授)の対談「グローバルとローカルをつなぐテクノロジーの編集力」が掲載されており、この対談については福嶋氏が先のコラムでもその勘所を引用している。このほかにも神楽坂で「かもめブックス」を経営する校正会社・鷗来堂の代表取締役である柳下恭平氏の「誰でも本屋をつくることができる仕組みをつくる」など、出版ビジネスと関わる記事が見られた。

だが、この特集を読んで痛感するのは、むしろいま起きている巨大な変化を出版産業特有の歴史的文脈から切り離してみることの必要だ。ようするにアマゾンを「ネット書店」や「電子書籍ビジネス」のプレイヤーとみなすような思考法から離れることだ。

この特集の巻頭に置かれた大黒岳彦の「〈流通〉の社会哲学」には「アマゾン・ロジスティックス革命の情報社会における意義」という副題がつけられている。まさにアマゾンが行いつつあるのは「ロジスティックス革命」であり、出版業界における破壊的イノベーションにとどまらない。

2010年前後から日本でも吹き荒れた「電子書籍」をめぐる議論のほとんどは、いま思えば徒労だった。「紙の本か、電子の本か」といった神学論争が延々と繰り返されている間(そんなことは読者が決めればよい)に、アマゾンもグーグルも電子書籍にはすっかり興味を失ったようで、その後は技術的なアップデートがほとんどなされていない。この間に彼らが優先的に投資したテクノロジーは、ドローンであり、自動運転車であり、音声認識であり、深層学習を土台にしたAIである。

なかでもアマゾンはロジスティックスの革新に本腰を入れており、物流倉庫用の自走ロボット・システムを開発したKiva Systemsを2012年に買収しアマゾン・ロボティクスとして傘下に収めた。ドローンによる宅配をイメージしたPrime Airは法規制もあっていまだにデモ段階にとどまるが、音声認識技術Alexaを実装したechoはすでに商品として投入され、消費行動を変えつつある。アマゾンがこれまでのロジスティックス全体を塗り替えようとしているなかで、日本の取次はせっせと非採算の書店チェーンを買収している。彼我の認識と行動のレベルは、先の大戦末期のB29と竹槍ほどにも桁違いというしかない。

1940年体制の「外」に新たな生態系をつくる

誤解を恐れずに言えば、日本の出版流通は、基本的に「1940年体制」(野口悠紀雄)から大きく変化していないように思える。「1940年体制」とは当時の総動員体制に由来する統制的な社会システムのことだが、日本の戦後の出版流通システムは戦時体制下の1940年にそれまでの多様な出版流通を統合した日本出版配給(日配)に直接の起源をもつ。

取次大手の日販、トーハンをはじめ、ここ数年でほぼ壊滅状態となった中堅取次の多くは日配が戦後に解体されてできたものだ。交通網や物流倉庫のシステムは格段に進歩したとはいえ、彼らの出版流通の基本的な思想は、30年どころかほぼ80年にわたり、ほとんど変わっていない。それは「津々浦々の消費者に適切に配給する」という統制経済的な考え方だ。

他方、アマゾンのロジスティックス思想である「顧客第一」は、単なる安売りや便利さの追求ではない。アマゾンはまず圧倒的に大量の品揃えを顧客に示し、さらに個々のアイテムの仕様や評判を「情報」として提供する。その上で購入の(ポチる)瞬間と、モノとしての商品が到着するまでのタイムラグを、限界まで少なくするようにシステムを設計している。これがアマゾンの「顧客第一」の本当の意味なのだ、と大黒岳彦氏は「現代思想」の特集で論じている。この指摘には目から鱗が落ちた。

日販の社長がいまごろ「マーケットイン」と叫んだところで、アマゾンに勝つことはできない。そもそも本はプロダクトアウトであることにそれなりの必然性がある商品である(したがって「ロングテール」にもなる)。しかもそんな本という商品でさえ「顧客第一」で効率的に届ける仕組みを、すでにアマゾンは作り上げてしまった。

それでは、出版にもう「未来」はないのだろうか。私はそんなことがいいたくてこの文章を書いているのではない。むしろ逆である。

ここ数年、出版業界団体に属さない、ひとり出版社や小さな出版社がいくつも創業している(それに比べて、オリジナル企画で勝負する「電子出版社」はどれだけ登場しただろう?)。そうした出版社の本を扱う小規模取次も、小さな独立書店も次々と登場した。「現代思想」の特集で発言している鷗来堂の柳下氏が企画・運営する「ことりつぎ」もその一つだ。

東京・下北沢の本屋「B&B」や神保町の神保町ブックセンターwith IWANAMI Books、青森県八戸市の八戸ブックセンターといったユニークな書店や図書関連施設の運営にかかわりつつ、独自の出版活動もはじめたnumabooksの内沼晋太郎氏が上梓したばかりの『これからの本屋読本』でも、こうした昨今のさまざまな周縁的な動きが紹介されている。

彼らはアマゾンと同様、現在のインターネット環境を前提に、1940年体制から完全に抜しきれていない日本の出版業界の「外」に新しい本の生態系をつくろうとしている。戦後生まれの出版社、角川書店に起源をもつKADOKAWAが埼玉県所沢市に本社移転を計画しているのも、そうした動きの一つとしてみるべきかもしれない(そうであってほしい)。

「紙かデジタル」か、という問いがいま思えばまったく偽の命題だったように、「アマゾンか、さもなくば死か」という二者択一も私には偽の命題に思えてならない。出版界が最優先でしなければならないのはアマゾンへの対抗ではなく、まずもって自分たちの古い衣を脱ぎ捨てることではないか。

土俵際へと追い詰められつつある大手出版社や大手取次は、若い世代のなかから起きている出版再生の動きと連携し、20世紀的な(=「総動員体制的」な)ビジネス慣行からの脱皮をはかってほしい。

執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。
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