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インディー文芸誌は文芸復興の担い手となるか

あけましておめでとうございます。「マガジン航」は2009年10月の創刊以来、9度目の新年を迎えることができました。これも寄稿者および読者のみなさん、スポンサー各位のご支援のおかげです。本年もどうぞよろしくお願いします。

純文学を支える裾野の広がりと分散化

さて、新年はじめの話題は文芸出版である。ことに「純文学」と呼ばれる芸術性の高い文芸の世界について、その最初の掲載媒体となる雑誌の面から考えてみたい。きっかけは、以前「マガジン航」でも紹介したことのある書肆侃侃房が発行する文芸ムック「たべるのがおそい」(vol.4)に掲載された宮内悠介の短編「ディレイ・エフェクト」が、第158回芥川龍之介賞の候補作となったことである。以前にも同誌創刊号に掲載された今村夏子「あひる」が第155回芥川賞の候補となっている。

「純文学」というジャンルは作品の内容から定義されるというよりも、掲載媒体から逆算して類推されるといったほうがいい面がある。文芸誌と呼ばれる雑誌「新潮」「文學界」「群像」「すばる」を擁する大手出版社4社(新潮社、文藝春秋、講談社、集英社)は、いずれもそれらとは別に「小説新潮」「オール讀物」「小説現代」「小説すばる」といった小説誌を発行している(講談社は「小説現代」を2018年10月号で一時休刊し、2020年春にリニューアル創刊すると発表)。

芥川賞の候補作は基本的に前者4誌と、これらに準ずる季刊の文芸誌「文藝」から選ばれてきた(過去数年でこれら以外の候補作・受賞作の初出媒体は「早稲田文学」「小説トリッパー」「太宰治賞2013」のみ)。また候補者の多くはこれら文芸誌が行う公募新人賞の受賞者であり、そうした仕組み全体が「文壇」と呼ばれるギルド的共同体を形成してきた。

しかし、こうした雑誌の発行部数は総じて少ない。一般社団法人日本雑誌協会が発表している印刷部数公表のサイトによると、2017年7月〜9月における文芸誌各誌の印刷証明付き発行部数は「新潮」が8,933部、「文學界」が10,667部、「群像」が6,000部、「すばる」が5,500部だ。このうち公共図書館への配本や寄稿者への献本を除いた実売部数は、せいぜい2,000〜4,000部といったところだろう。これらを通じて作品にふれる純粋な「読者」は限られており、批評家や書評家など、広義の文壇関係者にとどまる。

そうしたなかで、福岡市で発行される「たべるのがおそい」という新興の雑誌が、わずか3年の間に二度も芥川賞候補作を出したのは一種の快挙といえる。もちろん、候補作はいずれも定評のある作家(今村夏子、宮内悠介はともに芥川賞のノミネート時に三島賞をすでに受賞)によるもので、その意味では文壇から完全に離れた場所ではない。だが同誌は掲載用の「小説と翻訳」を公募しており、新たな才能の発掘・育成の場であろうともしている。雑誌への信頼が高まれば、良質の新人投稿も集まるようになるだろう。

「たべるのがおそい」の快挙は、裏返していえば、一部の大手出版社が発行する文芸誌のみが純文学の「お座敷」でありつづける時代が終わりつつあるということでもある。「芸術」としての文芸を一部の大手出版社だけが経済的に支えること自体、高度経済成長のもとでの出版市場の長期にわたる拡大という、歴史的に特殊な出来事の産物だ。大手出版社がいつまで文芸のパトロン(文芸誌は基本的に採算のとれない出版物である)でありつづけるかわからない以上、「純文学」を支える裾野が広がり、地域的にも分散化していく流れは歓迎すべきだと私は思う。

本屋が「文芸誌」を出す理由

そうしたなかで、さらに新しいタイプの「文芸誌」が、より若い世代によって創刊された。やはり以前に寄稿していただいたことのある東京・赤坂の書店、双子のライオン堂が発行する「しししし」である。

「しししし」は双子のライオン堂が以前に発行していた「草獅子」を改題・再創刊した年刊雑誌で、一部の連載記事を同誌から受け継いでいる。書肆侃侃房の「たべるのがおそい」が創作中心であるのに対し、「しししし」は作家研究や批評が中心であり、(芸術としての)文芸のあらたな読者を育てていくための雑誌といえるだろう。

創刊号の宮沢賢治特集には、一線級の現役作家による書き下ろしのほか、思想家の吉本隆明、マンガ家の坂口尚といった故人の作品も再録されており、文芸への信頼と尊敬を時代や世代を超えて受け継いでいこうとする明確な意志を感じる。

さらに「本屋の思い出」と題した公募エッセー、身近な仲間たちによる読書会の記録、多くの書店が参加した「本屋日録」など読者参加型の企画も多く、多種多様な書き手による読み物ページとも相俟って、出版社ではなく本屋が「文芸誌」を出すことの面白さを十分に醸し出している。

「しししし」の巻頭言には、こんな言葉がある。

文芸誌と冠しているのは、文芸誌が単純に好きで憧れがあるだけではなく、いま弱っている雑誌、それも文芸誌を一緒に盛り上げていくことで、本屋としても復活できるはずだと信じているからだ。文学が自由であるのと同じように、文芸誌ももっと自由であって良いはずだ。

この言葉には、いまの「文芸誌」の不自由なあり方――ルーチン化した編集、情熱の欠如、そしてなにより読者不在――への静かな批判がある。「憧れ」の対象であった文芸誌がその役割を果たしていないなら、自分たちで作ってしまおう、というDIYの健康な発想がある。そしてこの文章のあとはこう続く。

幸いなことに、同じ思いで新しい文芸誌たちが各所で始まっている。そういったものに刺激を受け、こちらも与えていく存在でありたい。

もしこれから「文芸復興」がありうるとしたら、その担い手は大手出版社の出す文芸誌だけではなく、これらの新しい「文芸誌」やそれに参画する(既存作家も含めた)書き手、そしてその読者たちが形成する、より裾野の広いネットワークではないか。

「たべるのがおそい」(書肆侃侃房)と「しししし」(双子のライオン堂)。

作家発掘・作品評価のための新しい場を

こうした「純文学」や「思想」における動きとは別のところでも、既存のしくみに頼らない作家発掘・作品評価の場を生み出す活動が起きている。私も理事を務めている日本独立作家同盟というNPO法人では、2017年にはじめて「ノベルジャム」という小説創作イベントを開催し、一定の成功をおさめた。そのノベルジャムの第二回目が、今年2月に二泊三日で開催される(応募〆切は1月5日)。この催しの詳細については、昨年末にNPO法人名義での記事(ノベルジャムは「出版」を再定義する)を掲載したので、ぜひ参照してほしい。

「文芸」(小説に限らず、詩歌や戯曲も含めた)は、一方で芸術に接し、他方では商業的なエンタテインメントに接する、幅の広い表現領域だ。その広大な領域を、これまでは大手出版社を中心とする、東京の出版業界がほぼ独占的に支えてきた(「新聞連載小説」という場を提供してきた新聞社の役割も見逃せないが)。

しかしこうした状態がいつまでも続くとは思えない。新聞や雑誌といった紙媒体の急速な影響力低下は、当然それに載る文芸の読者も減らしていくだろう。それに変わる多様なプレイヤーとして、地方の出版社や小さな書店やNPO法人、コミケや文学フリマに集う同人誌、さらにはウェブ投稿小説や電子書籍にかかわるIT系メディア企業などが、広義の「文芸」の担い手として同格になる時代がまもなくやってくるのではないか。

繰り返すが、そうした時代は決して不幸な時代ではなく、むしろよい時代だと思う。文芸という表現の豊かさや多様性が、沈みゆく出版業界とともにすっかり失われてしまうよりは。

執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。
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