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「真の名」をめぐる闘争

最初から言い訳がましい話になるが、このエディターズノートは毎月、月初に書くことにしている。しかし今月はずるずると月中を過ぎても書けず、いっそのこともうやめようかとさえ思いつめた。その理由をまず最初に述べる。

崩壊後の風景

月初に書くという趣向は、もともと小田光雄さんの「出版状況クロニクル」に合わせたいという気持ちがあったからだ。日本の近代出版流通システムが崩壊していくさまを、長年にわたって出版統計等の数字で跡づけ続けている小田さんのブログを読んでいる出版業界人は多く、私もその一人なのだが、そのタイミングで毎月、出版時評をやるつもりでいた。

しかし、日本の近代出版流通システムはもう事実上、崩壊している。その影響は様々なところにあらわれているが、昨年12月の「アイヒマンであってはならない」で紹介した永江朗さんの書いた『私は本屋が好きでした』が指摘する、いわゆる「ヘイト本」(ただしこれには留保が必要で、正確には「嫌韓・反中本」と言うべきだろう)が書店の店頭で目立つ問題もその一つだ。

この記事にはSNSなどでかなりの反響があり、「アイヒマン」という強い言い方への疑義や反発も大きかった。ちなみに私はこの言い方を、たんなるレッテル貼りだとは考えておらず、思考停止状態を指すすぐれた比喩だと思ったので、この記事も「アイヒマンであってはならない」というタイトルにした。だが、それに対して議論が起きたことはよいことだったと思う。

じつは今月のエディターズノートを書くのにうんざりした理由は、ちょうど月初頃にベストセラーになっていた李栄薫(編著)『反日種族主義――日韓危機の根源』(文藝春秋)という本が、やはり日本ではこの種の「嫌韓本」として受容され、読まれているように思えたからでもあった。

この本は韓国の現在の文在寅(ムン・ジェイン)政権に対する批判を込めた政治的著作であると同時に、韓国の国民性を「反日種族主義」という独自の言葉で象徴しようとする本でもある。反体制派が自国の政権批判を行うのも、その土台にある民族文化や精神性を問題とするのもよいが、日本の読者がその尻馬にのって他国を批判する風潮に、心底うんざりしたのだった。

『それを、真の名で呼ぶならば』

そうした鬱々とした気持ちを晴らしてくれたのが、もう一つの「反体制派による自国の政権批判」の本だった。レベッカ・ソルニットの『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店刊)である。この本の書評を依頼されて読み、書評も書き上げてすっきりしたので、ようやく今月のエディターズノートにとりかかる心のゆとりができた。

レベッカ・ソルニットの名が広く日本で知られるようになったのは、東日本大震災の直前に日本でも紹介された『災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(亜紀書房)という本が、あの震災という経験を経た日本人に身に沁みて受け止められたゆえだろう。震災前に朝日新聞で柄谷行人が書いたこの本の書評も大いに影響力があったようだ。

ソルニットの著作はその後もいくつも翻訳されたが、最近では「マンスプレイニング」という言葉が広く知られる契機となった『説教したがる男たち』(左右社)が記憶に新しい。私自身はこれらの著作に加えて、『ウォークス――歩くことの精神史』(左右社)という長編文芸エッセイに心をうたれた。

彼女ははっきりと政治姿勢を打ち出すアクティヴィスト(反核運動、反グローバル化運動等にコミットし、今回のアメリカ大統領選挙ではエリザベス・ウォーレン支持を明確にしている)だが、写真というメディアの成り立ち(エドワード・マイブリッジについての著作もある)から、サンフランシスコやニューオリンズといったアメリカ諸都市の歴史や風土まで、テーマとなる対象を深く調査し理解する優れたリサーチャーであり、それゆえに一級のジャーナリストでありエッセイストでもある。そして、いかなる組織にも属しないフリーランスの書き手である。

そんなソルニットは『それを、真の名で呼ぶならば』で、2016年のアメリカ大統領選挙の結果として成立した、現在のドナルド・トランプ政権を激しく批判する。そのときに彼女が用いるツールは、正しくものごとの名を指し示すことと、それを力強い言葉で語る「ストーリーテリング」である。

この本の詳しい内容については、あとで紹介するとおり3月6日に訳者の渡辺由佳里さんと行うトークイベントで詳しく触れたいが、なぜ、この本が私の鬱々とした気持ちを晴らしてくれたのか、その理由についてだけはここで述べておきたい。

二つのストーリーテリング

ものごとの「真の名前」を呼ぶことには特別な力がある、という考え方は東アジアの古代社会(諱=忌み名というものが存在した)から、シオドーラ・クローバーが『イシ――北米最後の野生インディアン』で明らかにしたネイティヴ・アメリカンの精神世界まで(さらにはそこからインスパイアされた、クローバーの娘アーシュラ・ル=グウィンが書いた『ゲド戦記』のようなファンタジーの世界にも)広がる、人類の一つの智慧である。

しかし現在はその反対に「ポスト真実」「オルタナティヴ・ファクト」といった、ニセの真実がメディアやネット上でさかんに流布する時代でもある。もちろんソルニットは、名付けやストーリーテリングが「両刃の刀」であることをよく承知している。だからこそ、物事を適切に名付けることも、間違った名付けを引き剥がして真の名に辿り着くことも、いずれもが政治的な闘争であるということを、ソルニットはこの本でじつに力強く、過去の様々な実例を挙げつつ語っていく。

この本を読むと、韓国における反体制派政治結社(李承晩学堂)が自国のナショナリズムに対して与えた「種族主義」という言葉は、果たして「真の名」に値するものかどうか、という冷静な思考が生まれる。私は朝鮮文化史の専門家ではないから学術的な判断はできない。できるとしたら、そこで語られるストーリーに対する評価である。そして、自国民を「嘘をつく国民」とする彼らの自家撞着するストーリーテリングは、私にはなんらの説得力をもたなかった。

レベッカ・ソルニットはアメリカの現在の共和党トランプ政権(あるいは過去の様々な政権)に対する痛烈な批判者である/あったと同時に、アメリカ合衆国の民主主義の伝統のなかに、未来につながる希望の系譜を見出すストーリーを紡ぎ続けてきた人でもある。公民権運動から核実験反対運動や反グローバル化運動を経て、昨今の地球環境保護運動や#metooムーヴメントまで、その系譜は絶えることがないというのが彼女の基本的なスタンスだ(それを「政治的」というなら、そのとおりだろう)。

自国の辿ってきた歴史がもつ正負の両面を真正面から受け止めつつも、その担い手となるべき普通の人々を貶めることはせず、たとえ「暗い時代」(アーレント)のなかにあっても希望の糸を手放さない。そんな態度に、私はソルニットの書く文章の力の源泉を見出した気がした。そして彼女の本を読むことで、「種族主義」という(日本人が漢字から受ける印象としては)実にオドロオドロシイ言葉によって惑わされていた気分を、やっと晴らすことができたのだった。

人とその言葉への信頼

「アイヒマン」も「種族主義」も、ある人にとっては「真の名」であり、別の人にとっては真実から目を背けさせる「偽の名」に思えるに違いない。しかし、そこでは名前と名前との相対的な闘争が起きているにすぎないなどと、高見の見物を決め込むことは誰にもできない。完全に自由な脱政治的・超政治的な立場などは存在しないからだ。そしてソルニットはそうした冷笑主義をこそ激しく批判するのである(同書「無邪気な冷笑家たち」)。

日本の出版界に話を戻すと、いま売れている本の多くもまた、一種の「名付け」(批判的な立場からは「レッテル貼り」)や、「ストーリーテリング」の力に依拠しているように私には思える。日本という国家の歴史記述に修正を加えることを企図したベストセラー本でも、まさに「ストーリーテリング」のあり方が問題となった。

権力を握った側が編むメインストリームの物語(そもそも日本書紀や古事記はそうしたものだ)に対して、まつろわぬ者たちが語る「対抗的な物語」があるのは当然のことだが、いわゆる昨今の「嫌韓・反中本」は、少なくとも日本においては「対抗的であることを装ったメインストリーム」の言説であるからこそ、批判されなければならないと私は考えている。

最後に、レベッカ・ソルニットの『それを、真の名で呼ぶならば』から私が感銘を受けた一節を引用する。事実と感情を対比させたこの言葉にも、危うさはある。だが、それを越えてもなお残る、人とその言葉への信頼を私も共有したい。

言葉は、文字通りではない多くの働きをする。たとえばあの寒さについての短いやりとりが二人の見知らぬ他人の間に温かみを作ったように。日常的に会う人たちとの場合には、こういった小さなやりとりが、近所や、新聞売り場や、病院や、自動車修理店での、楽しく、ときには命綱となるような人間関係を作る。草原の土は、生きた草と死んだ草の両方のみごとな糸状の根っこが、地表のはるか下にまで達し、広く分布した「根茎」によって、その場につなぎとめられている。人間も交流によって、ある種の根茎が生まれ、事実というより感情から生まれた、近所やコミュニティや社会やとわたしたちが呼ぶ複合体に、人をつなぎとめているのだ。(「聖歌隊に説教をする」)


【お知らせ】

3月6日に開催を予定していた下記のトークイベントは中止となりました。新型コロナウィルスの感染拡大に伴い、米国務省が日本への渡航警戒レベルを2に引き上げました。渡辺由佳里さんの来日中、レベルがさらに上がる可能性があるため、来日そのものが中止となりました。ご了承ください。

渡辺由佳里×仲俣暁生「レベッカ・ソルニット『それを、真の名で呼ぶならば』をどう読むか――デジタル時代の新しい“書き手”の可能性」

日時:2020年3月6日(金)19時から21時ごろ(18時30分受付開始)
会場:シアター・ウィング/WIAS/GLODEA 東京都新宿区若葉1-22-16 四ッ谷ASTY B1F(Googleマップ
参加費:一般 3000円/HON.jp正会員・法人会員 無料

 

執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。
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