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福島県いわき市での、トランスローカルな対話

6月17日と18日の2日間、雑誌「たたみかた」の創刊記念イベントに参加するため、福島県いわき市に行ってきた。「たたみかた」は今年の春にアタシ社から創刊された“30代のための社会文芸誌”で、創刊号の特集テーマは「福島」。とはいえ、福島という特定の場所や、震災や原発事故そのものが対象ではない。

30代のための社会文芸誌『たたみかた』 創刊号。

震災後、あるいは福島第一原発での事故の後、「言葉」は人と人とを結びつけたり、実りのある議論を交わすためのものではなくなってしまった。多くの人が、自らの信じる「正しさ」の中に立てこもり、同じ「正しさ」を共有しない相手を論難し攻撃するものになってしまった。マスメディアからインターネットやソーシャルメディアまでが、そのような風潮を助長した。

こうしたなかで、どんな「言葉」を手がかりにしたらいいのか。「たたみかた」という雑誌が探ろうとしているのは、そのことだ。

雑誌を創刊しようと思ったのは、「苦しかったから」

「創刊するまでの話 あれから、これから。」という、創刊の辞に相当する文章の冒頭で、三根さんはこの雑誌が生まれた経緯を、次のように書いている。

東京・上野の魚屋『魚草』で刺身を食べていたときのこと。
「なんで『たたみかた』を出すことにしたの?」と、小松理虔さんに訊かれた。
私は少し考えて「苦しかったから、ですかね」と答えた。

震災以後、できるだけ信頼できる情報を探し続けていた。
何か一つの「正しさ」を探し求めていたとも言える。
でも、この6年で私がたどり着いた結論は、
『そんな「正しさ」は世界のどこにも存在しない』ということだった。

悩める(?)編集長からこの言葉を引き出した小松理虔さんは、「たたみかた」に「千円の大トロ」という文章を書いている。このなかで小松さんは、福島を知りたかったら、とりあえず上野に来てみなよ、と呼びかける。

そう、上野から福島県いわき市を経て、福島第一原発や第二原発が位置する浜通りの町々、さらに津波で大きな被害のあった宮城県亘理町や仙台までは、JR常磐線が走っている。現在は竜田から浪江の区間が不通だが、竜田〜富岡間は今年10月に運転再開が予定されている。

私が小松理虔さんの文章を最初に読んだのも、まさに『常磐線中心主義(ジョーバンセントリズム)』という本のなかでだった。東京東北部の葛飾区内で生まれ育った私には旧国鉄常磐線は親しい路線だ。上野東京ラインの開通によって常磐線の発着は品川駅になったが、私の世代にとって上野はこの沿線でいちばん大きな町であり、懐かしい場所である。

いわきは「その先」にある――そのことに気づいて、自分のなかで福島との距離感がやっと定まった。震災後、福島県を訪れる機会が一度もなかったのも、物理的に遠い以前に、心理的に遠かったのだ。

上野が、そして常磐線が、私を福島につなげてくれた。

そうした経緯もあって、「たたみかた」の創刊イベントの企画について打診された際、ぜひ小松理虔さんと話をしてみたい、できれば場所はいわきで行いたいと三根さんに伝えた。なんのことはない、いわきに行くきっかけを、私自身が求めていたのだ。

「ぼんやりしたもの」の正体

小松理虔さんは「たたみかた」について、「雛形」というサイトでこんな記事を書いていた。そのなかのこの言葉が気になった。

たぶんこの「福島」というのは「福島県」ではなくて、ぼくらが考えるのを避けてきた「ぼんやりとしたもの」の象徴なんじゃないかと思っています。本当は目を向けなくちゃいけないのに、見ないでいた、そして避けていた、そういうもの。それを、ことさらに「知れよ」ってんじゃなく、いろんな人たちの言葉から、浮かび上がらせていく。

その「ぼんやりしたもの」の正体について、小松さんやいわきの人と、東京や神奈川に暮らす私や三根さんたちとで、話をしてみたかった。

会場となったアートスペース「もりたか屋」。

じつは東日本大震災後に福島県内の地域を訪れるのは、今回が初めてだ。震災後、いわきに移住した知人がおり、「いわき経済新聞」というローカルメディアを運営している。私にとってはその知人がほぼ唯一のいわきとの接点だった。

福島についての本はたくさん読んだが、読めば読むほど、実質的な「関係」をつくるところからは遠ざかる気がした。「たたみかた」創刊号の特集サブタイトルの言葉どおり、私自身も「ほんとうは、ずっと気になって」いたにもかかわらず、具体的な関係をつくれずにいたのだ。

今回も招かれたわけではなく、いわばこちらから押しかけていったようなものだ。明確な取材目的があったわけでもない。現地で「福島」をめぐる話を、小松さんはじめ地元の方々を交えて行うとして、いったい何をどのようなスタンスで話せばいいのか。腰がさだまらず、正直、緊張していた。

私のそんな緊張をほぐしてくれたのも小松さんだった。なぜ緊張したかといえば、書物で得た知識以外に、自分がいわきや福島県の現状を何も知らないから、ということに尽きる。たぶんそういう訪問者は、過去にも多かったのだろう。トーク前のわずかな時間をつかって、小松さんは私たちをいわきの海岸まで連れて行ってくれた。

震災後に、その是非をじっくり時間をかけて議論することもなく防潮堤の建設が決まった。その結果、美しかったいわきの海岸線を巨大なコンクリートの構造物が固めてしまった。その光景を、トークの前に見せたかったのだろう。対話を始める前に、訪問者が最低でも知っておくべきことがある。いわきの場合、その一つがこの防潮堤だった。

美空ひばりの歌で有名な塩屋埼灯台にほど近い美しい浜辺も、高い防潮堤で固められていた。

当日のトークの内容については、あえてここでは触れない(「いわき経済新聞」に小さな記事が載っている)。トーク後の質疑応答が、きわめて真摯で熱心なものだったことだけを報告しておきたい。

会場となった洋品店の二階にあるアートスペース「もりたか屋」には、いわき市内だけでなく、福島の他の地域からも来場者があった。都内でよく行われるトークイベントというよりも、活発に会場からも質疑が飛び交う「車座集会」のようなものになった。参加者の多くがイベント終了後も残り、近くの中華料理店で深夜までさらに議論は続いた。こちらはまさに「車座」での議論になった。

いつものことだが、ある地域に出かけていって話をする場合、よそ者であるこちらが語りうることよりも、得ることのほうがはるかに多い。今回もそのことを痛感したが、地元の方にとっても、こちらが話す話の中身そのもの以上に、「場」を共有し、率直な言葉を交わしあうこと自体が大事なのかもしれない。

震災後、私のなかでローカルメディアへの関心が高まったのは、日本中の各地域が抱える課題や、そこで暮らす人たちとの新しい関係づくりのきっかけになりうるのではないかと考えるからだ。一つの地域だけでは解けない課題も、ローカル同士の対話によって、ヒントが見いだせるのではないか、という淡い期待もある。

そして、現在の日本が抱えるあまりにも大きな課題の前では、東京や首都圏も一つの「ローカル」にすぎない。今回のいわきでのイベントはその意味でも、トランスローカルな対話の場だったように思う。

執筆者紹介

仲俣暁生
フリー編集者、文筆家。「シティロード」「ワイアード日本版(1994年創刊の第一期)」「季刊・本とコンピュータ」などの編集部を経て、2009年にボイジャーと「本と出版の未来」を取材し報告するウェブ雑誌「マガジン航」を創刊。2015年より編集発行人となる。著書『再起動せよと雑誌はいう』(京阪神エルマガジン社)、共編著『ブックビジネス2.0』(実業之日本社)、『編集進化論』(フィルムアート社)ほか。
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