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都市と土着〜「ローカルメディアで〈地域〉を変える」に参加して

「都会的なもの」と「土着的なもの」の軋轢を、探偵小説の形で書けないだろうかと、あれこれ考えている。

土地に根付いて生きる、というのがどういうことか、僕にはよく判らない。悪い意味での都会人(先祖代々の継承は何もなく、個人主義者なのに洗練されていない)である僕には、故郷と呼べる土地はないし、子供の頃の思い出のつまった土地さえ、実際そこに住まったのは十数年ほどで、現在そこに我が一族の家はない。土着という感覚が、自分の中にない。

「あそこには、何もない」

だが平成になろうが二十一世紀になろうが、土地に根の生えた人間はいるし、その土地からどんなに離れても根を断ち切らない、絶ち切れない、絶ち切るつもりのない人間は少なくない。少なくないどころか、そういう人間の方が僕のような根なし草より、はるかに多いのである。土着というものが理解できなければ、人間は理解できない。土着が肌で感じられないのは僕の小説家としての、根本的な欠陥だ。

しかしだからといって、肌で感じられないものをあたかも感じているかのように(小説上で)振る舞うのは嘘だから、しかたなく僕はそういう自分の目で人間を見ていくしかない。故郷に根のある人々を見て、話を聞く。すると地方から上京した人が、必ずといっていいほど口にする言葉がある。

「あそこには何もない」

僕だって地方を旅したことくらいはあるから、彼らのいわんとすることは理解できる。要するに自分のふるさとには、田んぼと国道とショッピングセンターしかないという意味だ。故郷には仕事も楽しみも刺激もなく、結婚相手も、話相手すらもいない。ふるさとを嫌うわけではないが、あそこでは生きていかれない、もしくは、生きている甲斐がない。そうはっきりいった人に、僕は何人か会った。自分の里については、どんなに罵倒しても構わないという不文律が、土着的な人にはあるらしいのである。

といってそれなら彼らは東京に骨をうずめるつもりなのかというと、どうもそうでもない人がいる。あれもないこれもない、最寄りの本屋に行くには車で四十分かかると、さんざん地元の悪口をいってから、しばらくするとこれまた決まって彼らの口をつくのが、

「いつかは帰るだろう」

というひと言だ。これがにくい。老後に向かって人生は先細っていくに決まっている僕から見ると、帰るところのある彼らは不公平なほど強靭に見える。それはそれで僕の色眼鏡なのだろうけれど。

出身者から「何もない」と描写を回避された土地の側は、ではどうすればいいのか。高齢化と人口減少にさらされて朽ちていくに任せるのか。気力が失われていく土地を、年月をかけて哀しく看取っていくことしかできないのか。

そんなことは決してない、という話を聞く機会を得た。去る7月28日、表参道で行われた連続セミナー「ローカルメディアで〈地域〉を変える」の初回、「持続可能なまちづくりにメディアを活かす」がそれである。

対照的な取り組み〜城崎温泉と嬬恋村

登壇した二人は、ともに地域の活性化に大きな貢献をしている人物だったが、出自も動機も、また取り組んでいる活動も、レクチャーに取り上げられた地域の特色も、きわめて対照的だった。

左から田口幹也さん、小管隆太さん、影山裕樹さん、「マガジン航」編集発行人。

田口幹也氏は兵庫豊岡市の城崎温泉にある「城崎国際アートセンター」の館長である。出身も豊岡だそうだが、東日本大震災が起こるまでは東京にいた(のちに思い出したが僕がやっていた「フィクショネス」という本屋のお客さんでもあった)。帰郷して城崎の良さを改めて感じ、この温泉街を活性化させるべく、自称「おせっかい」を買って出てこんにちに至るのである。昔なじみのよしみで大袈裟にいわせて貰うが、まさに立志伝中の人といってもいいくらいだ。

城崎温泉はすでにして名のある観光地だ。観光資源は充分にある。しかし活かしきっているとはいえない。とりわけ観光協会が標榜している「歴史と文学といで湯のまち」のうち「文学」が充分でない。志賀直哉の「城崎にて」は、日本近代温泉文学の傑作だが、この小品を、なお観光に活用する方法はないか。また「文学のまち」としてなお進展させるにはどうしたらいいか。田口氏は頼もしい協力者とアイディアを得てこれを実践した。

「地産地読」を掲げた地域限定出版プロジェクト「本と温泉」。

その詳細は田口氏自身の言葉に譲るが、「本と温泉」だけでなく、肝心のアートセンター創設の経緯を聞いても、かつての箱モノ行政の遺物に悩まされている地方自治にとって、氏の活躍は参考になるのではないか。

一方で小管隆太氏は、群馬県嬬恋村の観光大使だが、出身は川崎で、嬬恋村だけでなく、多くの地方のローカルメディアに関わっている。これだけでも田口氏と、事情はだいぶ違う。

のみならず小菅氏が取り組んでいる嬬恋村には、城崎温泉と違ってこれといった観光資源がない。「目玉のない場所への観光誘致」は、小菅氏の仕事のメイン・テーマであるらしく、各地で実践しているらしい。嬬恋村での成功例を弾丸トークで語り倒す氏の話術は見事なものだった。

群馬県嬬恋村の地域おこしとして「日本愛妻家協会」というプロジェクトが発案された。

数十名の参加者は、文字通り全国各地から集まっていて、職種も地方行政や地方紙の出版、建築やマスコミ、図書館員など、立場も、たずさわっている地域の特色や事情も、それぞれに異なる人々だった。しかしそのいずれもが、自分の取り組んでいる課題に対して、少なからぬヒントを得られたのではないだろうか。講演後の分科会は、時間が足りないほど対話が白熱した。

「土着的なもの」がすこやかに進化しているとは思わない。むしろ問題山積だろう(そこに探偵小説の入りこむスキもあるわけである)。進化を阻むものも「土着的なもの」は含んでいる。しかしそれでもなお、地方の可能性を追求する新しい人たちの苦闘に挑戦する姿が、僕にはなんだか、うらやましいような気さえした。

* * *

閉会後に登壇者と主催者を中心に、表参道で打ち上げ会をすることになった。いまも東京に戻ると田口さんがよく使うという、安くて雰囲気のいい居酒屋に入った。

じつは表参道は、僕の生まれたところなのである。記憶もなければ思い入れもない。ましてや「老後はここに帰りたい」などと、感慨を込めて振り返れるような場所ではない。もとより馴染みの居酒屋など一軒もない。

それでもここへ来るたびに、僕はこっそり、あの交差点を少し入ったら、もしかしたら今も両親が新婚時代に暮らしたアパートが……、などと一瞬、思ってしまうのだ。そんなものが今の表参道に、あるわけがないのは判っているけれど。


【お知らせ】

この記事でレポートされている連続セミナー「ローカルメディアで〈地域〉を変える」の第3回を、2017年2月13日に東京・表参道で下記の要領にて開催いたします。ふるってご参加ください。

ローカルメディアで〈地域〉を変える【第3回/最終回】
「メディア+場」が地域を変える:瀬戸内、近江八幡、鎌倉の事例から

日時:2017年2月13日(月)14:00-18:00(開場は13:30)
会場:devcafe@INFOCITY
渋谷区神宮前5-52-2 青山オーバルビル16F
http://devcafe.org/access/
(最寄り駅:東京メトロ・表参道駅)
定員:30名
受講料:8,000円(交流会込み)

講師:

・磯田周佑(小豆島ヘルシーランド(株)マネージャー/MeiPAM代表 /(株)瀬戸内人会長)
・田中朝子(たねやグループ社会部広報室室長)
・ミネシンゴ(編集者・合同会社アタシ社代表)※講師のプロフィールなど詳しい情報と前売り券はこちらから。
http://peatix.com/event/223768/view

執筆者紹介

藤谷 治
小説家。1998年から下北沢で書店「フィクショネス」を開業(2014年に閉店)。2003年に『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』(小学館文庫)で小説家としてデビュー。『いつか棺桶はやってくる』(小学館文庫)が三島由紀夫賞候補となり、『世界でいちばん美しい』(小学館)で第31回織田作之助賞を受賞。音楽高校を舞台にした青春小説『船に乗れ!』三部作(ポプラ文庫)は2010年の「本屋大賞」で7位となったほか、2013年には交響劇として上演された。このほかエッセイ集に『船上でチェロを弾く』(マガジンハウス)、『こうして書いていく』(大修館書店)がある。
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