最近、飯田一史『ウェブ小説の衝撃――ネット発ヒットコンテンツのしくみ』(筑摩書房、2016)を読んだ。知らぬあいだに日本文芸の主力マーケットになっていたウェブ小説の出版経緯や内容分析を試みた関係者必読の一書だ。ウェブ小説とは、ネット上の小説投稿プラットフォーム「小説家になろう」や「E★エブリスタ」などで掲載されたネット発の小説が紙の本になって出版されたものを指す。
ウェブ小説は文芸誌に載った小説を単行本化する従来の出版形態とは大きく異なる。たとえば、ウェブの場合、紙面に制約されないので、短い章をコンスタントに発表していくのも一巻分の長編を構想して執筆していくのも、作者の思いのままだ。また、(しばしば実作者でもある)読者との即時的かつ直接的なインタラクションのおかげで、その時々の流行や人気傾向を作に反映させやすい。そしてなにより、ウェブ上では読者数や閲覧数を可視化できるので、出版社からみても売上の計画が立てやすい。
以上のような理由から、作者も編集者もこぞってウェブ小説に可能性を見出している。今日のネット発文芸ビジネス隆盛はここに起因している。飯田の分析は要約すると、このようなことだ。
新人賞をとっても仕事は来ない
飯田はウェブ小説の可能性を喧伝するかたわら、従来、文芸の新人発掘の役目を請け負ってきた(と見なされきた)新人賞の機能不全を繰り返し指摘する。
「賞をあげても本にしない。雑誌に載せても本にしない。そもそも賞をあげた書き手の原稿を雑誌に載せもしない。これらは恥知らずな行為である。/だがそれをさも当然のようにせざるをえないほど、既成の文芸は追い込まれている」(p.18)
出版社には新人を育てプロモーションする体力はもはや残されていない。芥川賞を受賞した、お笑い芸人・又吉直樹『火花』の盛り上がりは、新刊小説のマーケティングをTVを中心にした他のメディアに外注(アウトソーシング)する象徴的な事件だった。文壇は権威を授与するだけでいい、というか、権威ぐらいしか授与するものがない。
飯田の一連の分析は極めて説得的であるように思える。というのも、「新人(賞)の方法」で書いた通り、私自身、『群像』の新人賞を受賞しているが(といっても、評論部門、しかも優秀作にすぎないが)、半年ほど経っても特に仕事は来ないからだ。
仕事が来ないというのは、仕事が少ないという意味ではなく、(文芸関係では)全くないという意味だ。『文學界』や『新潮』に原稿を頼まれることもなければ、出身誌『群像』から書評依頼がくることさえない。完璧にゼロである。
私個人は、文壇の成員や文芸評論家になりたいわけではないので特に問題は感じないが、新人賞の触れ込みから逆算すると、いささか肩すかしに思う「新人」がいたとしても不思議ではない。
他方で、私は先々月、ウェブで連載していた文章を『これからのエリック・ホッファーのために』という単行本としてまとめ、東京書籍から出版した。これの広がりは意外と大きい。新聞から取材を受けたり、複数の編集者から執筆の勧誘を頂戴した。
このような経過を鑑みると、飯田のいう「衝撃」は、フィクションとノンフィクションという違いはあれど、実感として同意できるところが多い。新人賞でのデビューよりも、単行本刊行のデビューの方が明らかにインパクトの強度が高い。そして、私の単行本化を支えたのが、ウェブ・スペース「En-Soph」での自由な連載形式だったことは強調されていい。
ウェブ小説を読む気にはなれない
以上のように、『ウェブ小説の衝撃』は大きな説得力がある。
ただ、このようなことをここで書くのは心苦しいのだが、私は飯田が挙げるウェブ小説を一切読む気になれない。これはウェブ小説を馬鹿にしているからではない。事実、紙だったとしても現代小説一般を読む習慣がそもそも私にはない。要するに、私はいま生きている小説家に、有名だろうが無名だろうが、あまり興味がないのだ。
ならば現代小説界に容喙するな、という反論がすぐに聞こえてくるような気もする(そしてそれは完全に正しいとも思う)。が、ほんの少しばかり素人の戯言に付き合っていただきたい。
なぜこのような習慣をもったのだろうか。たとえば、古いタイプの文学部の教授は、いま生きている作家を研究対象にしてはいけない、という指導をすることがある。生きている作家は、その作家史がいまだ閉ざされておらず、今後現れるかもしれない新しい小説や評論によってその全体像が変わってしまう可能性があるから研究には向かない、というわけだ。
テクスト論以前のこのような古いタイプの考え方に私はまったく共感しない。ただ、ひとつのエートスとして私の基本的な価値観に組み込まれたのかもしれない、といま改めて反省してみることはある。
そう、私は評論家や批評家になりたいと思ったことは一度もなく、常に研究者たらんことを心がけてきた。私の現在進行形嫌いはおそらく、ここに起因している。
研究はコスパがいい
文学研究者とは、私の理解では、極めてコスパ(コスト・パフォーマンス)の良い生き物である。
研究者は小説の筋そのものに感動するという仕方で小説を(多くの場合)読まない。小説に出てくる言葉や風物の文化的・歴史的背景を探ったり、精神分析やフェミニズムといった種々の理論で登場人物間の権力関係を深読みしたり、細かいレトリックがもつ作中の効果を測定したり……。
と、要するに一つの小説に付き合う時間が極めて長い(または、長くできる)。別言すれば、読みのコンテクストを自由に設定し、再読する術を心得ている。
このような読者がマーケット(市場)と相性が悪いのは、容易に理解できる。市場を維持するには、読者は、新刊を次々と購入し読み捨てていくことが求められる。そうしなければ、資本主義は回らない。コスパのいい、つまりは少ないカネでコンテンツを長く楽しめる読者は、ビジネスにはお呼びでないのだ。
研究者は多くの場合、(作者が既に死んでいるという意味での)古典を論じる。古典が素晴らしいのは、教養主義的な武器(俺って頭イイだろ?のアクセサリー)になるというよりも、附帯する二次文献が膨大にあるということだ。夏目漱石を読んでおけば、柄谷行人や蓮實重彥の漱石論が楽しめる。そして、その評価の歴史(揺れ動きや一貫性)そのものが、また楽しい。
古典は二重三重に楽しめる貧乏人の味方だ(だからこそ、カネがないときほど人は教養を身につけなければならない……という話はまた別のところで)。
このような歴史的アドバンテージを(作家の技術や心構えがないとかいう話ではなく、論理必然的に)現代小説は超えられない。食指がのびないのはきっとそのような打算的な理由からだろうと思う。
ウェブ小説家はなにを欲望するのか?
迂回しすぎた。私のどうでもいい研究者観と『ウェブ小説の衝撃』、一体どんな関係があるというのか。
ウェブ小説なんて一時の流行で終わるのでは? という疑問に答えるときに示される飯田の次のコンテンツ観に私はまったく共感しない。
「一時の流行で終わったら何が問題なのか。長く続いたり、残ったりするものがえらいなんて、誰が決めたのか」(p.222)
私は研究者なので、「長く続いたり、残ったりするもの」が偉いと思う。「長く続いたり、残ったりするもの」は、コンテンツだけでなくコンテンツに関する歴史性が付随する。研究者からみれば、それこそが本体の価値すら上回りうる付加価値なのだ。逆にいえば、紙だろうがウェブだろうが、どんな形であれ残ればよい。
だから、後代の研究者(未来の私みたいなやつ)からすれば、少なくともやはり、残しておいてくれ、とは願うに違いない。国会図書館で古い雑誌を漁ることの楽しさを知ってる者にとって、どんなコンテンツも、時代が経てば現在との落差(ディアクロニシティ)によって貴重な資料として復活しうる。
勿論、これは実作者ではない外野の勝手な願いでしかない。しかし、こう考えてみて分からなくなるのは、実際のウェブ小説家が具体的になにを欲望しているのか、ということだ。
飯田の本から、ウェブ小説は既存文学のオルタナティブになりえ、ビジネス・チャンスの可能性もあり、マルチメディアな展開も期待できることは分かった。そして、小説をヒットに導く工夫があることも分かった。しかし、ウェブ小説の実作者たちはそもそもそのようなことを望んでいるのだろうか? 彼らは、原稿執筆に追われる生活をしたいのか、「作家」になってまわりからチヤホヤされたいのか、文学史に登録される名作を書きたいのか、小遣い稼ぎをしたいのか、創作欲求を満たしたいのか、はたまた承認欲求を満たしたいのか、自分の作品をデジタル・アーカイブとして残したいのか……。
それらの欲望は、互いに重なり合いつつも、実は本質的にはそれぞれ別の願いなのではないか。
不純な動機ならば書くな、というようなことを言いたいのではない。ウェブ小説と一言でいっても、細分化された欲望の内実によって、その採るべきウェブ上での戦略は千差万別であるように思えるのだ。ウェブ小説がどんなに流行っても、おそらくは従来型「文学者」パッケージング――作家先生と呼ばれて文学史にも登録され印税で暮らす――全体を享受することはできない。ならば、小説家的願望のセット販売が終わりバラ売り状態になったとき、優先すべき自身の欲望を自己精査する機会が彼らに訪れるだろう。
それは、プロデューサーに従っていれば「文学者」になれた(という幻想が維持されていた)前時代とは次元を異にする、ウェブ時代ならではの自主的な選択を迫るに違いない。
『ウェブ小説の衝撃』は現在の出版界を知る上でとても参考になる。ただ、これを読んで私がそれ以上に知りたいと思ったのは、『ウェブ小説の衝撃』に衝撃を受けた実際のウェブ小説家が第一に欲するところのものだ。
小説を書くことで、あなたはいったいなにを望むのか?
執筆者紹介
- 1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophやパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『小林多喜二と埴谷雄高』(ブイツーソリューション、2013)、『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)。Twitterアカウントは@arishima_takeo。
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