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「フィクショネス」という本屋の話

1998年7月4日に開業した東京・下北沢の書店「フィクショネス」を、2014年7月22日に閉店しました。本当は開業と同じ7月4日に閉店したらきっちりしてていいと思ったのですが、閉店の腹を決めたのがひと月前で、それまで十数年続けてくれた詩人カワグチタケシの「詩の教室」(毎月第3日曜日)をしっかり終えて貰うため、この日を終業日としました。

「人のいうことを聞きたくない」

「フィクショネス」を開くまでの僕は鬱屈したサラリーマンでした。横浜のポルタという地下街に今もある書店から始まって、書店中心に職場を二、三度変えました。自分は小説家であるはずなのに、なんでこんなことやってるんだと思いながら毎日満員電車に乗っていました。その鬱屈は、結果サラリーマン生活を放り出して「フィクショネス」を開いてしまった程度には、度外れたものだったと思います。貯金も保険もつぎ込んで、親からお金も借りました。

ですから心情としては第一に独立ありきだったわけですが、その心情と「本屋をやる」というのは僕の中で完全に一致していました。ほかの商売はやったことがないし、本に囲まれているのが好きなのです。というより本の詰まった本棚のないところでは、恐らく僕は生きていかれないと思います。これは書店経営者の絶対条件でもなければ必要条件ですらありません。完全に僕の物神崇拝(フェティシズム)です。

(ちなみに僕は、今ではなんの証拠も残ってないからいいますけど、優秀なサラリーマンでした。最後の勤め先は新刊書店と古書店を両方経営していて、グッズの店やネット販売もありました。僕はこれらすべての店舗がひとつのデータベースで統括されるPOSシステムをさる業者に作らせました。その後その業者から独立の記念に超格安で譲られたのが「フィクショネス」のレジスターです。知っている人は知っているが、それはあの貧弱な店には似つかわしくないほど優秀なレジスターでした。)

とにもかくにも、なんでもかんでも、サラリーマンでだけはいたくないという動機で始めましたから、やることなすこと無茶苦茶で、場当たりもいいところでした。「サラリーマンでいたくない」というのは、要するに「人のいうことを聞きたくない」ということでしたから、本屋をやろうとは思っても、取次のいいなりにはなりたくなかった。それに取次と契約するには、開業前に補償金というのが必要で、それが店舗面積一坪につき五十万という話もあったくらいで、そんな金はありませんから、自分の売りたい本を神田村へ行って買い取って売ろうという、露店みたいな発想で始めました。下北沢ならそういう商売も、なんか成り立っちゃうんじゃないかと夢想したわけです。ちなみに下北沢の物件は、「月刊店舗」という雑誌に広告が出ていて、ひと目で気に入り、ほかは見ませんでした。(あ、今思い出しましたが、田舎暮らしに憧れて、越後湯沢駅前の物件を見に行ったりしましたが、やはり無理がありました)

開店当初はそれでもずいぶんがんばりましたが、やはり袋小路の二階、しかも雑誌もエロ本も置いてないのでは、赤字もいいとこでした。僕の計算では、一人で賃貸物件で書店を経営して仕入れ代や必要経費をさっぴいて、なおかつ利益(僕の給料)を出すには、最低でも日計五万円は売り上げなければならない筈でしたが、そんなに売れた日は十六年間で五日か六日あったくらいでしょう。のちに週末に人を集めて句会、文学の教室、詩の教室、といったワークショップの真似事をしてみましたが、さしてプラスにはなりませんでした。

本ではなく「自分を売る」

こんなところで、こんなやり方では、本は売れん、ということを思い知りました。

そこで考えたわけです。本を売ろうとしても、駅前で長いことやっている町の本屋さん(当時の下北沢では北口の「博文堂」が強かったです)にはかなわない。しかしせっかく下北沢という、明日を夢見る貧乏な街に店を出したんだから、この街の特異性をこっちに引き込むことを考えよう。すなわち、やりたいことを思うさまやろう。そして本ではなく「自分」を売るべきだと。

90年代後半の下北沢には、路上で無料マッサージをやる人だの、おもちゃのピアノの弾き語りだの、漫画の朗読家だの、儲かってるかどうかは相当疑問だが、やりたいことを勝手にやっている人が溢れかえっていました。路上で呼び込みなんかは恥ずかしくてできないけれど、僕だってやりたことはあるんだから、それを前面に出して生きて行こうと考えました。

そこで実行に移したのは、おもにふたつのことでした。ひとつはお客さんに必要以上に話しかけることです。「フィクショネス」には、いちどきに不特定多数のお客さんが来ることはめったにありませんでした。そこで入ってきたお客さんに、天気の話とか、棚から取り出した本についてとか、いろいろ話しかけてみました。まず六割から七割のお客さんには相手にもされず、煙たがられたりもしましたが、これで意外と店を気に入ってくれる人が増えました。やはり下北沢を訪れる人というのは、よそと違うものを求めているのだと思います。

もうひとつは小説を書き始めたことです。小説は子供の頃から書いていましたが、本腰を入れて書くようになりました。一年かけて『ぼくらのひみつ』という小説を書いて自分でプリントして店先で売ったりしたのは、今ではこっぱずかしい思い出です。この小説はのちに全面的に書き直して早川書房で本にして貰えました。

自分を売るために実行したこのふたつのことは、結果的にいくつかの大きな成果を生みました。お客さんの中にはフリーのライターや編集者がいて、雑文書きの仕事を回して貰ったりもしました。とりわけネットの占いサイトの「診断結果」を書くのは有難い仕事でした。タロット占いは自分でも「フィクショネス」のテーブルでよくやっていました。蛇足ながら僕の占いの唯一の欠点は、絶対当たってしまうことでした。タロット占いは、あるコツさえつかめば絶対に当たります。が、そのコツはもちろん、企業秘密です。

結婚相手もお客さんから見つけました。その女性(つまり現在の妻)がプレゼントしてくれた万年筆で、五か月かけて『おがたQ、という女』という小説を書きました。これが新潮新人賞の最終候補に残りまして、浮足立っていたら、「フィクショネス」常連だったあるフリーの編集者から、

「藤谷さん、これ受賞するかもしれないんだから、今のうちから次回作を書いておいた方がいいよ」

とアドヴァイスを受け、即座に書き始めたのが『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』です。ところが案に相違して新潮新人賞は落選してしまいました。意気消沈して「次回作」も中断し、占いライターで食いつないでいました。

「宝くじ」に当たる

それが2002年のことで、明くる03年の春、背のひょろ長いお客さんが「フィクショネス」にやってきて、店内をきょろきょろ見渡しました。

「このお店は、持ち込みの本がずいぶん多いですね」
「ええ、ウチは自費出版や持ち込みは、断らずに置いてます」
「……店長さんも、何かお書きになっているんじゃありませんか?」

そういってその背の高いお客さんは、名刺を出しました。そこには、小学館文芸編集部、と書いてありました。

この人に絶叫しながら『おがたQ』のプリントコピーを渡したのが、僕の小説家人生の始まりです。宝くじに当たったようなものでした。以来僕は書き詰めに書いていますが、それはこの心細い宝くじの幸運が途切れないよう、蜘蛛の糸をおっかなびっくりよじ登っているようなものなのです。

小説家になってからも、十年間、「フィクショネス」を続けました。理由はいくつかありますが、ひとつは「フィクショネス」にいるのが好きだったからです。もうひとつは誰でも好きな時に来られるのは、小説家としての営業面に役立つだろうという計算でした。実際、未知の編集者がふらりとやってきて、今度ぜひウチにも、というようなお話をいただくことは、ままありました。

しかし最大の理由は、見たことも聞いたこともない人々を見ることができる、たまにはお話もできる、という楽しみのためでした。「フィクショネス」を訪れてくださるのは、僕を知っている人ばかりではありませんでした。中学生や就活中の学生、おばさん、俳優、大金持ち、頭のおかしい人、ファンの人が台湾から来てくれたこともありましたし、近所の閉店した風俗店の行方を追っている税務署の人も来ました。書斎にこもっていたのでは決して出会うことのなかった人々と、ちらりとでも接することができるのは、小説家として得難い経験でした。

けれども書店としての収支が赤字という状態は十数年間、ついに変わりませんでした。そうして僕は五十歳になりました。働き盛りです。執筆の佳境に自動ドアが開いたり、電話が鳴ったりすることに、ややくたびれても来ました。より家賃の安いところに引き籠もって、集中して仕事がしたくなりました。

「自分」を売りたいと思ってやってきましたが、「自分」が売れたのです。こう書くと、なんだか「フィクショネス」を見捨ててしまったような、お店に対して申し訳ない気持ちが湧き上がってきます。あの場所は本当に僕を幸運で救ってくれました。今は、なんとか「フィクショネス」という名前(ボルヘス『伝奇集』の原題です)だけは残して、今後のパブリックな活動に使おうと思っています。

*   *   *

この原稿を僕は、新しく見つけた隠れ家で書いています。ここがどこかを知っているのは、僕と妻だけです。編集者も知りません。メールアドレスと携帯番号、それに僕の自宅の住所は、関係各所に知らせてありますが、ここのことは一切秘密にしています。

ついこの間まで僕は、日本でいちばん会える小説家でした。今は行方知れずです。しばらくはこの極端な変化を楽しみたいと思っています。

在りし日の「フィクショネス」の入り口に立つ著者。

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執筆者紹介

藤谷 治
小説家。1998年から下北沢で書店「フィクショネス」を開業(2014年に閉店)。2003年に『アンダンテ・モッツァレラ・チーズ』(小学館文庫)で小説家としてデビュー。『いつか棺桶はやってくる』(小学館文庫)が三島由紀夫賞候補となり、『世界でいちばん美しい』(小学館)で第31回織田作之助賞を受賞。音楽高校を舞台にした青春小説『船に乗れ!』三部作(ポプラ文庫)は2010年の「本屋大賞」で7位となったほか、2013年には交響劇として上演された。このほかエッセイ集に『船上でチェロを弾く』(マガジンハウス)、『こうして書いていく』(大修館書店)がある。
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