ボイジャーは筆者がこれまで取材を続けてきた電子書籍の世界の中でも、独特の存在感を醸し出す会社だ。それは出版社ともIT企業とも異なる。幾度となく訪れ、泡のように消えていった電子書籍の狂騒とは一線を画す、独特の考えをもった会社としか表現しようのないものだ。
1992年の設立以来、そんなボイジャーを率いてきた代表取締役の萩野正昭氏が社長の座を譲ると知ったとき、驚きと一種の感慨を覚えた関係者は多いはずだ。そこにどんな思いがあったのか、また新社長の鎌田純子氏はボイジャーの舵をどこに向かって切ろうとしているのか。社長交代にあたり、お二人に話をうかがった。
「生涯一兵卒でやっていきます」
――やはりまず、萩野さんが社長を交代しようと考えられた理由を教えてください。
萩野:包み隠さず言えば、そこに何か大それた思いがあるわけではありません。46歳の時にボイジャーを立ち上げ、21年が経ちました。歳を取ってから起業したこともあり、僕ももう67歳です。肉体的な限界は感じていません。ただ扱っているのが書籍というコンテンツですから、現代の風俗や風潮を敏感に感じ取っていかなければならない。そこはやはり若い世代にそろそろ任せた方が良いと考えたのは事実です。
社長業で大事なことは、船の針路を決めることです。今足元で起こっていることだけじゃなくて、先を見越してビジョンを示さなければならない。67歳プラス5年、10年先を見越すって、ちょっと難しいですよね。ここで選手交代をしてボイジャー自体もリフレッシュしようと思ったんです。
でも僕自身は電子出版の仕事から足を洗うつもりは全くありません。死ぬまで、生涯一兵卒でやっていきますよ。
――なるほど。それで会長ではなく、代表権のない取締役になられた、ということですね。
萩野:本当はもう少し早く交代を、という気持ちもありました。でも、大手出版社などと違って、ボイジャーは電子本専業の言わば職人集団です。会社の規模も決して大きくありませんし、経営状態も常に安定しているわけではありません。資金調達の際には中小・中堅企業と同じく個人保証も求められますから、その重責・負荷を簡単に誰かに委ねるということはできない、という思いでここまで来たのです。
ここ最近、電子出版についての議論や理想が熱く語られる中で、「俺だったらこうする」というのを正面切ってやりたかった。でも、社長の仕事というのは、まず社員の給料を確保することなんですよ(笑)。その上で、なんとか捻出した利益で新しい仕組みやクリエイティブなものを生み出していくわけです。僕自身はずっとホントはそっちの方をやりたかったし、たぶんそっちの方が得意なんです。起業する前も映画や当時ニューメディアと呼ばれたレーザーディスクの仕事もしました。そしてインタラクティブから電子出版の仕事へ、という具合にメディアの興亡を見てきて、そこで何が起こるかということも知っている。今後はそれを伝えていきたい。
僕はずっと「人は電子で本を読むようになる」と信じてやってきた。ボイジャーをはじめた当時は、そんなのあり得ないと批判されたりもしました。たとえていえば、「江戸に行くには駕籠で行く」、だったら「東京になっても駕篭で行く」のか?みたいな議論がされていたわけです。いま上京するのに新幹線を使うのは当たり前で、Twitterだ、Facebookだという時代に、紙でしか本を読まないというのは一種の贅沢ですよね。
日本版キンドルのサービス開始もあって、電子書籍の市場がようやく大きくなってきて、その利益の部分がやっと確保できるようになってきた。だから、あとわずかの間かもしれませんが、僕としてはそこの原点に戻るという感じですね。
――発表のタイミングが青空文庫の呼びかけ人、富田倫生さんが亡くなられて少し後でした。収益の追求というところから離れて電子書籍の、ある種の理想を追求されていた富田さんが去られたことは、何か影響を与えていますか?
萩野:社長の交代については、7、8年くらい前から鎌田と話しあっていたので、直接的な関係はありません。ただ、追悼イベントでもお話ししたように、僕はビジネスを成立させていかなければならなかった。でも歩く道は違えども、電子書籍の理想――端末に何十冊も入るので本屋に行かなくて良いとかそういう次元ではなくて――彼が唱えていたようなインターネットと融合していつでも、誰もがアクセスできる本の世界、という目指す理想は同じだったと思っています。そこに求められる出版という行為もきっとあるだろうと。
彼や青空文庫のこと、そしてボイジャーの歩みを振り返っても、つくづく中身に尽きるということを痛感します。ツールがいくら整っても、中身がつまらなければ全く意味がない。一方で、ボイジャーはまずそのツールを創るのに一所懸命でもあらなければならなかった。その上で、中身を魅力的なものにしなければならなかったので、これは至難の業だったんです。
電子書籍の技術と文化について語り合える場を作る
――いま、そのツールがEPUBやその周辺の環境によって整備されつつあります。一方で、ボイジャーはこれまでエキスパンドブック、そして.bookといった電子書籍のフォーマットを開発し、それを擁していることが事業の柱でした。いま出版というお話しがありましたが、今後ボイジャー全体としてはどういう方向に進んでいくのでしょうか?
鎌田:これまで21年間ボイジャーがなぜ生き延びて来られたのか、という点からお話ししたいと思います。それは「必要以上のものを刈り取ろうとしなかった(Don’t take more than you need.)」からだと考えています。萩野と小さな部屋で起業をしたときに、よく通っていた居酒屋のおかみさんから、「寝床がある、というのが儲かっているということよ」とよく言って聞かされていたのを、いまも座右の銘にしているんです(笑)。
いまその収益を生む道具がボイジャーにはいくつかあります。ひとつはYahoo! JAPANさんはじめ各所で採用いただいているBinBです。BinBを使っていろいろな商売をしていただく、そしてそこでおカネをいただきすぎず、儲けすぎないかたちで利益を確保した上で、ボイジャーが進むべき「電子の道」を突き詰めていくというのが基本です。
客観視すれば、私たちは小さな会社です。そんな私たちができることはなんだろう、と考えた結果生まれたのが「ロマンサー」です。これはボイジャーがかつてエキスパンドブックで目指した「個人が発言できる環境を育てる」という理想の追求でもあります。
萩野:創業の言葉にも、一行目に「ボイジャーは出版社です」と宣言しています。僕も能天気だったのかもしれない、電子化の道具を使えば出版社たり得ると思っていたんだから(笑)。実際にはそんな簡単には物事は進まなかった。でも創業の精神はそこにあって、時代が進み、自分たちも本――それも電子ならではと呼べるような――を出すということがわずかながらできるようになってきた。
鎌田:ようやくここまで来た。では、これをどうやって継続して蓄積していくことができるのだろう? おカネを稼ぐ「だけ」を目的とするならば、ビューワやそれに向けたコンテンツの変換・制作業務「だけ」を請け負うというという選択肢もあるわけです。でも、私たちの目的や志と、それは少し違うなと。
そこで立ち止まって周りを見渡してみると、日本の電子書籍関係者のなかで、たとえば「デジタルのもたらす文化の是非について討論しよう」となったときに、そこに参加しようという人は数多くはいないんですよね。そんな時に萩野が招かれたサンフランシスコのBooks in Browsersというカンファレンス――これはオライリーがスポンサードしていたTools of Change for Publishingという一連のプログラムの中のひとつだったのですが――に参加し、もの凄い刺激を受けたんですね。それが現在、我々が展開するBinBのきっかけになっています。
このカンファレンスに参加している人たちが何を考えて動いているのかもっと知りたい、と思い、たまたまお声がけした方がその内容をまとめた本を出すらしいと知り、版元となるオライリーに問い合わせをしたんですね。そうしたらこの種の本の権利は独占していないということが分かり、「では日本での出版について契約しましょう」と、トントン拍子に話が進んだんです。
出版社を目指すボイジャーですが、実際そのための経験やノウハウが豊富なわけではありません。でも、拙いながらも慣れない翻訳や編集を進めていく中で、我々じゃないと出せない本、それを読みたい読者というのがいるはずだ、という確信を深めていきました。これらの本(『マニフェスト 本の未来』、『ツール・オブ・チェンジ 本の未来をつくる12の戦略』)を出すことをきっかけに、電子書籍の技術と文化について語り合える場を作って行こうと。単に本を出すということだけでなく、そういった活動全体が出版であるという捉え方をしています。
個人向け電子出版ツール「ロマンサー」
――電子書籍市場が立ち上がりつつある中で、個人出版の本格化への期待も集まっています。いまうかがったボイジャーの動きは、そういった環境とも一致する取り組みだと思います。一方で、ボイジャーが主に手がけてきた制作受託や変換業務と比べると、出版はリスクの高い取り組みにも思えますが。
鎌田:経営者としては、どちらかだけに注力するということはあり得ません。B2Bの分野はボイジャーにとっての基盤とも言える存在です。一方で出版事業を進めていく際には、売れた本からの収入というよりも、本を作る環境への対価を頂くという方が成立すると考えています。それがBinBの個人向けツール「ロマンサー」の位置づけです(正式公開前のテストサイトはこちら)。
問題は、どういう環境を用意しどのようなタイミングでおカネをいただくのが、我々と著者にとって最も合理的かという点で、エキスパンドブックでの経験も踏まえながら、検討しているところですね。
萩野:出版については、1000部というのがひとつの基準になると考えています。いままで電子本を1000部売るというのはなかなか難しかった。 ボイジャーの理想書店などで扱ってもがっかりすることも多かったんです。 でも、フォーマットが曲がりなりにもEPUBやその周辺で整い、電子書店が増え、市場が拡がったことによってだんだんその採算ラインが見えてきた。1000部を越えれば、その先に3000部、5000部という世界が拓けてくる。実際『ツール・オブ・チェンジ』は1000部を達成しています。たとえKDP――アマゾンという閉じた世界で展開されている本であっても、 まだ伸び代がある。 ウチでもやってみないか、と声が掛けられる状況になってきたんです。
鎌田:推測ですが、電子出版を主たるテーマとして捉えている人たちというのは、せいぜい国内で3000人くらいじゃないかなと。その中の1000人くらいの方が読む、つまり現状はかなり専門的な出版事業だと捉えていますが、無料配付も含めていまモニターとしての電子出版を増やしています。
EPUBでゼロから出版物を作るのは大変ですが、ロマンサーであればWordやテキストファイルからすぐ変換・配付が可能です。実際、ロマンサーで作られた作品の中には無料ながら2000人が本のURLにアクセスし読んだものもあります。もちろんマルチメディア要素を組込むにはオーサリング作業が必要ですし、我々も別のツールも準備していますが、そうではない文字と画像が組み合わさったコンテンツであれば、ロマンサーでとても簡単に、技術者でなくとも、著者や編集者が直接電子書籍を発行することができるわけです。そういった環境をご用意して、使っていただく中で、先ほど申し上げたように「必要以上には刈り取らない」精神で対価をいただければ、と思っています。
萩野:ボイジャーの規模では、アマゾンや紀伊國屋のような電子書店は展開できません。でも、一方でネットの時代になっても僕たちはなお「書店」に足を運ばなければならないのか、という疑問もあるわけです。
――富田倫生さんが理想とされていた「青空の本」にも通じるものがありますね。
萩野:そうですね。ネット上のあちこちに本が遍在していて、面白そうだなと思ったら手にとって読んだり、買ったりすることができる。そういう形でも良いと思うんですよね。アマゾンに対抗しようといったようなプラットフォームでの競争とはまるで別の出版のあり方を追求する意味で、また一兵卒で頑張ろうと思っているわけです(笑)。
鎌田:どんどんコンテンツが生まれて、気軽にアクセスして読むことができるという電子書籍の良さを実現したいという思いがあります。富田さんは青空文庫でそれを示した。ほんの10年前からの取り組みであるにも関わらず、すでにそれは1万数千冊という規模になっています。
――主に著作権切れの書籍を扱う青空文庫の場合は、決済の仕組みは用意されていないわけですが、ロマンサーは商業作品を展開する際の選択肢となるわけですね。具体的な価格体系も気になるところですが。
鎌田:検討中ではありますが、当分の間は無料ですし、売上に対する何%という仕組みにするつもりもありません。基本的には登録するコンテンツの容量が一定範囲を超えた時点でサーバーの場所代をいただくという、他のクラウドサービスが採用しているような料金体系になっていくという考えでいます。
萩野:ロマンサーを使ってコンテンツをEPUBに書き出すこともできますが、そういった機能は将来的にはプレミア会員向けという形をとるかもしれませんね。いずれにしても、ロマンサーはいわば「広場」のような存在として捉えているので、自由にそこに参加して出版に取り組めるようにしたいと思っています。
諦めて続けていくことが大事
――今日のお話を通じて、萩野さんがますます電子出版に精力的に取り組まれるということがよくわかりました。
萩野:僕はこれまでボイジャーがやって来られたのは、「諦め」があったからだと思ってるんです。この業界の人間というのは、「デジタルで何でも、簡単にできる」と盛んに言ってきたじゃないですか。でも、実際は何もできないし、全然ヒトに優しくなかった。それに何よりもそういうところから生まれたサービスは短命だったわけです。だから逆説的なんですが、アレもコレもじゃなくて、これはやっちゃいけない・やらないといった「諦め」が重要で、その中から自分たちができることに自信と誇りを持って注力して、何よりも続けていくべきだと。
――ある意味「引き算型」かもしれませんね。
萩野:そういうところから生まれてくるものって、地味なんだけどね。でも、紙の本ってもともとそういうものでしょう。あれほど何もできないパッケージが、何世紀も親しまれてきたのは、ひとえに中身が優れていたから――それに尽きる。BinBやロマンサーはその本質を突き詰めた答えのひとつです。
鎌田:諦めて続けていくこと、大事です(笑)。今年度、ボイジャーは新卒採用も行いました。社長という立場を離れた萩野のノウハウや考え方を、仕事を通じて若い彼らに継承してもらいたいと思います。また、逆に彼らが持っているデジタルネイティブとしての感覚や、いま電子出版に関心を持っている若い著者のみなさんの感覚を、ロマンサーを通じてボイジャーの中にも組み込んでいきたいですね。
* * *
筆者がはじめて萩野氏に取材を行ったのは、2010年のことだ。iPadが登場し、世間は「電子書籍元年」に浮かれていた。ascii.jpで連載を始めたばかりの筆者にとって、EPUBやDRM、表現と審査の問題などについて示唆を与えてくれたのが氏だった。そこから4年、電子書籍ビジネスから撤退する企業も現われるなか、萩野氏が現場に復帰してノウハウを伝え、鎌田氏が経営の舵を取るボイジャーがどのような世界を切り拓くことになるのか、引き続き注目していきたい。
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・電子出版はみんなのものだ、そう誰かが叫ぶべき
・「本とコンピュータ」関連書籍が続々と刊行
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執筆者紹介
- ジャーナリスト/コンテンツプロデューサー。ITベンチャー・出版社・広告代理店などを経て、現在フリーランスのジャーナリスト・コンテンツプロデューサー。ASCII.JP、ITmedia、ダ・ヴィンチ、毎日新聞経済プレミアなどに寄稿、連載を持つ。著書に『知的生産の技術とセンス』(マイナビ/@mehoriとの共著)、『ソーシャルゲームのすごい仕組み』(アスキー新書)など多数。取材・執筆と並行して東京大学大学院博士課程でコンテンツやメディアの学際研究を進める。http://atsushi-matsumoto.jp
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