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『批評メディア論』から考える三つの〈com〉

3月27日、東京堂書店にて、大澤聡と山本貴光の対談イベント「言葉が紡いだニッポンの批評空間――装置としての神保町を再考する」が催された。

日本の言論システムの根源を1930年代の膨大な資料から考える大澤初の単著『批評メディア論――戦前期日本の論壇と文壇』(岩波書店、2015)に対し、『文体の科学』(新潮社、2014)のなかで和洋文理のジャンルを問わず領域横断的に文体分析をやってのけた山本を対談相手に迎えることで、絶妙なアンサンブルが化学反応を起こしながら、盛況のうちに幕を閉じた。

このイベントの詳細は『週刊読書人』(4月17日)で文字化されるそうだ。

私はこのイベントをきっかけに、大澤の『批評メディア論』に関して三つの観点から少しばかり言葉を繰り広げてみたいように思った。私の三つの観点、それは三つの〈com〉について、つまりはコンプリートネス(completeness)、コミュニケーション(communication)、コミュニティ(community)についてである。

コンプリートネスへの欲望

さて、山本の「批評」の語源考から始まり、文学理論(たとえばナラトロジー)の非文学的対象(たとえばエッセイや科学論文など)への適用可能性、図書館の資料と長期で向き合うときに生じるある時代との擬似同期感、『批評メディア論』のパーツ分解的文体など、多くの話題を提供しながら進んだこの対談のなかで、私が最も興味深く感じたのは、大澤の研究態度だ。

大澤は『批評メディア論』を書くにあたって、当時の主要な言論雑誌をすべて読むために七年半ものあいだ図書館にこもって資料を読み続けたという。そのいささか(大澤自身がいう)「変態」的な情熱というのはどのようにして支えられているのか。

柄谷行人、浅田彰、蓮實重彦、三浦雅士らの討議をまとめた『近代日本の批評』(全三巻、福武書店、1990~1992)を読み、固有名の羅列によって形成された圧倒的な密度を誇る高文脈的な知の世界に魅せられた学部時代の大澤は、自らも批評文を書いてみたいと思うようになる。先人を超えるためには、どうしたらいいか? それは先人以上に本を読み、「勉強」するしかない。その教養主義的な勤勉さが、「コンプリート」を目指す『批評メディア論』に結実した。大澤は大体、このようなことを述べていた。

私が興味深く思ったのは、『批評メディア論』を書いたこのような「変態」的読者は、山本がいみじくも指摘していた『批評メディア論』の影の主役であるところの同時代読者たちと、決定的に異なっているようにみえる、ということだった。

1927年の円本ブーム(一冊一円の廉価版全集)をひとつの象徴的な始まりとし、1930年前後に出版大衆化が到来する。従来、言論や批評の読者として見込めなかった大衆の一定層がターゲティング可能な消費者として捉え直されていく。これで、新しい商売ができる! 大澤の卓見は、この或る時期の商売用に時代限定的に組み立てられた出版システムが今日にまで引き続く言論のプラットフォームの基礎設計として採用されていることを歴史的に示してみせたところにあった。

新時代の言論や批評と同時に、それを支える大衆的な読者たちが誕生した。大衆たる彼らは難解な言論に付き合う時間や能力や金銭に限界を抱えている。すべてをこなすことはできない。たとえば、彼らは雑誌を定期購読するのではなく、多数の雑誌のなかから月々の編集を見比べて購入を決定する、「移り気な読者」だ(p.32)。論壇時評も、アクチュアルな状況を一望できる、読み手の負荷を減らすためのレジュメ的・カタログ的・ダイジェスト的な性格を帯びていた。彼らは、手元にある批評文や具体的な言説を深く吟味することなく、反芻なしに読み捨てながら最新のモードを求めていく。軽薄で凡俗で移り気な読者たち。

「ひとびとは次から次へと新たなテクストを巡回する。もはや反芻などしない。やはり新居〔格〕の言葉を援用すれば、「意味の深い無変化よりも、意味のない変化を愛する」。そうした心性は、適時性を追求してやまぬ新聞や雑誌と相性がよい。ジャーナリズムの時代が到来する。私たちが検討してきたのは、この拡散型読書に対応する編集理念だった。求められるのは速度だ。変化であり効率だ」(『批評メディア論』、p.241、〔〕の挿入は引用者による)

すべてをこなすことのできない読者たち、つまりは、立ち止まらず読み捨てていく読者たち。いうまでもなく、このような読者像は大澤のコンプリートネスの姿勢と対照的なものである。大澤は図書館にこもり、つまりは立ち止まり、反芻し、すべての雑誌に目を通す。同時代読者と完璧に異なる読書態度がここにある。大澤は分析対象と相違するアチチュードを自覚的に身につけることで、同時代読者と融合せず、彼らとの距離を繰り広げ、徹底的な対象化=客体化を企図するのだ。

時代の空気に同調しないこと。『批評メディア論』が成功しているとすれば、その秘訣は分析対象と分析主体の読書のリズムを安易にシンクロさせない、戦略的に練られた読書法に認められるのかもしれない。

コミュニケーションへの欲望

大澤の「コンプリート」を目指す読書の方法は、必然的に他者とのディスコミュニケーションを彼に強いる。図書館でお喋りはできない。図書館にこもりきりの生活を振り返って、大澤は「淋しかったのかもしれない」と繰り返していた。実際、その「淋しさ」を埋めるが如く、本人の希望もあってか、大澤は著書刊行後に様々な場での対談やイベント参加を精力的にこなしている。

『批評メディア論』のような仕事は、その書き手(つまりは、資料の読み手)にディスコミュニケーションの環境を課す。しかし、であるならば、翻って「コンプリート」と対照的であった、あの同時代読者(「移り気な読者」)たちは、ある種のコミュニケーションの可能性に開かれていたと逆算的に読むことができるのではないか。移り気や軽薄さは、あるコミュニケーションの様式と固く結びついているのではないか。

私はイベントで次のような質問をしてみた(記憶頼みなので細部は正確ではないが大体こうだ)。

「私には同時代読者が言論や批評に付き合い続ける欲望がよく分かりません。言論がどんどん複雑化していく。だからレジュメ的ダイジェスト的機能が求められる。しかし、そんなメンドくさいものは端的に無視すればいいのではないでしょうか? たとえば、私は新聞も雑誌もテレビも見ないので、いま流行している言論界のトピックを知りませんし、お手軽にであれ知りたいとも思いません。私と彼らを分かつものとはなんなのでしょうか?」

大澤は次のように答えていたと思う。つまり、それはコミュニケーションの問題であり、人気のテレビ番組が学校でのコミュニケーションのネタになっていたように、流行の言論を介してコミュニケーションする一定の層があったのだ、と。そして、ひとつのテクストに執着するような(つまり私のような)タイプの読者は当時もいただろうが、大衆化する出版システムの本質的な問題ではないのだ、と。

当世風にいえば、コンテンツ消費/コミュニケーション消費とでも要約できる論点がここにあるだろう。映画を観て楽しむことと映画について語らって楽しむことが違うように、テクストを一人で熟読する消費のスタイルとテクストについて論じ合って交流する消費のスタイルは分けなければならない。著書のなかで大澤がロルフ・エンゲルジングを援用しながら「集中型読書」/「拡散型読書」の区別を導入しているのも(p.240)、これと対応している。ある時期以降の出版システムを主導してきたのはきっと後者の消費のスタイルなのだ。なるほど、たしかにこの説明には一定の説得力がある。

しかし、疑問のすべてが氷解したわけではない。さらに追求してみたいテーマがある。それこそ、そのコミュニケーションを支えるようにみえる、コミュニティ(共同体)の問題である。

コミュニティへの欲望

『批評メディア論』の大きな主張のひとつに、〈論壇時評は論壇に先立つ〉というものがある(第一章)。通常、メディアはあるナマの現実をそことは遠く離れた人々に伝えるための媒介として考えられている。第一に現実があって次いでメディアがある、というわけだ。だが、メディアそのものが産んでしまう特異な現実というものがしばしば存在する。メディア産出的現実ともいうべきものがある。それこそが(『批評メディア論』の範囲でいえば)「論壇」であり、論壇時評は「論壇」に先立って、「論壇」の境界画定や定義づけを行う。論壇時評があるから論壇が生まれたのだ。

ここから先は素人考えになるが、この議論を聞いて私が最初に思ったのは「なんか『想像の共同体』の縮小版みたいな話だな」ということだった。

イメージとして創出された近代的「国民」の誕生を論じたベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』。この本は、統一的な単位として表象される「国民」なるものが、新聞と小説を中心にした出版資本主義によって生じる想像的対象であると論じていた。新聞の例をみよう。

「我々はある特定の朝刊や夕刊が、圧倒的に、あの日ではなくこの日の、何時から何時までのあいだに、消費されるだろうことを知っている。〔中略〕しかし、この沈黙の聖餐式〔communion〕に参加する人々は、それぞれ、彼の行っているセレモニーが、数千(あるいは数百万)の人々、その存在については揺るぎない自信をもっていても、それでは一体どんな人々であるかについてはまったく知らない、そういう人々によって同時に模写されていることをよく知っている。そしてさらにこのセレモニーは、毎日あるいは半日毎に、歴年を通して、ひっきりなしに繰り返される。世俗的な歴史時計で計られる想像の共同体を、これ以上に髣髴とさせる象徴として他になにがあろう」(白石隆+白石さや訳、書房工房早川、2007、p.62)

「想像の共同体」のメンバーの各々は、自分や隣人以外に各地に広がる同メンバー、同じ言語を話すところの「国民」の存在に確信をもつが、そのディテール、「どんな人々であるかについてはまったく知らない」。よく知らないけど存在してるに決まっている、この奇妙なリアリティを構成しているものこそ、日々フル稼働して読み捨てられるテクストを刊行し続ける高度な出版システムなのだ。そう、「想像の共同体」とはメディア産出的現実である。

おそらくは、メディアを活用することでコミュニティ(の想像力)をデザインすることができる。「想像の共同体」(国民国家)にしろ「論壇」にしろ、メディアの自律的展開によって現実には存在しなかったコミュニティの形が幻視される。無論、両者では異なる点も多々ある――最大の差異は「想像の共同体」が一応人々の生身の身体という現実的対応物をもっているのに対し、「論壇」はメディア内メディアとして現実的対応物なしに純粋に成立している点だろうか――。しかし、スケールの差異を無視してなお観察しうるこのメディア-コミュニティという二概念の固い組み合わせは、コミュニケーションの問題に大きな影響を与えるようにみえる。

「消費」にあらがうこと

勝手な推測をしてみたい。大澤聡がディスコミュニケーションに耐える「変態」的な読者たりえたのは、既存のメディア-コミュニティを徹底的に相対化し、身を翻して、可能なる想像力から生じる可能なる共同体を新たに期待することができたためではないか。コミュニケーション消費に相当するものはいつの時代もあるだろう。しかし、想像のコミュニティを司るコードを変調さすことによって、期待されるコミュニケーションの形は縦横無尽に伸縮しよう。

コミュニケーション消費にあらがうこと。いや、コミュニケーション消費であれコンテンツ消費であれ、そもそも「消費」なるものにあらがうこと。その力はどのような条件に支えられているのか。それが私がいまだに抱き続けている疑問である。読み、読み返すことに熟練した「変態」的読者の環境的条件こそ考えねばならない。それは例えば、公共的なアーカイヴ空間としての図書館を考えることかもしれない。

大澤が最終的に行き着いたのは、コミュニティというよりも「集団」であった。対談のなかで大澤は、『批評メディア論』は匿名批評で終わっているとよく言われるがそれは間違っていて集団批評で終わっているのだ、ということを強調していた。最終章の最後は、大宅壮一の「集団」的企画が、結局のところ「大宅壮一」という固有名に回収されてしまうジレンマで終わっている(p.276)。ひとつの固有名によって統治/安定化されない集団の多声的な力能をいかに回復するか。加えていえば、その「集団」の共同性はどのようにデザインされるべきなのか、或いは、もはや共同性など要らないのだろうか?

いずれにせよ、少なくとも『批評メディア論』批評は「集団」的になされねばならない。「大澤聡」という固有名の消費に満足せず、多くの人々に読まれ、批評されなければならない。それに足る一書であることは間違いない。「コンプリート」を目指すディスコミュニケーションによって生まれたにも拘らず、読む者にコミュニカティヴな参加を求めてくるこの逆説に、『批評メディア論』の最大の魅力があるだろう。ささやかながら私も自分の宿題を片手にその一員に加わることを希望したい。

執筆者紹介

荒木優太
1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『小林多喜二と埴谷雄高』(ブイツーソリューション、2013)、『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)。Twitterアカウントは@arishima_takeo
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