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なぜ「悪いこと」は「良いこと」より強いのか

どこで暮らしていても、言いたいことを言わなくてはならない状況に直面することがある。僕の場合は、それがニューヨークで起こるため、必然的に人種や背負っている文化の違う人々との争いとなる。

自分を出していくのをよしとする人々が多いなか、僕も何度かは正面を切って相手と争ったことがある。そんないざこざの中でも、はっきりと記憶に残る争いがある。それは子供に関わることで、ある白人家族と言い争いになったものだ。これは僕と妻、向こうの夫婦、そしてベビーシッターまでを巻き込んだ争いになった。子供たち同士は仲が良いということで、幸い子供たちを巻き込むことはなかった。

数度の口頭での言い争いを経て、僕は彼らに文句のメールを出すことにした。こちらの主張をはっきり書き、いかにこちらの言い分が正しいかを書いた。不思議なことに、心の中にあった彼らに対する否定的なことを全部書いたら、気持ちが晴れ、さばさばした気分になった。この争いは、書くという行為が精神的に何らかの効果があるのではないかと感じさせる事件だった。

一方、メールの方は、結局相手に送り、向こうからは半分言い訳のようなメールが返ってきたので、一応の成功であったが、その白人家族との関係は終わってしまった。

「否定的な単語の多い文章」は書き手の健康に寄与する?

この事件の後、僕は書く行為と人の心理について興味を抱き少し調べてみた。心理学者ジェームス・ペネベーカーたちの研究によると辛かった経験を書くという行為は、精神的な健康はもちろん免疫力などの肉体的な改善ももたらすという。また、否定的で不愉快な意味を表す単語を多く使った文章は、それらの否定的な単語をわずかしか使っていない文章よりも、書き手の健康に寄与するという。

なるほどな〜と僕は思った。しかし、書くという行為は否定的な要素が良い方向に作用する例だが、自分の海外生活のことを考えれば憂鬱だと感じる時間は長く続くのに、楽しいという感情はすぐに消えてしまう。

そんなことを考えている最中に、僕はニューヨーク・タイムズのある記事(Praise Is Fleeting, but Brickbats We Recall, ALINA TUGEND, March 23, 2012)を読んだ。

これは「良いこと」と「悪いこと」が人間に与える作用について語った記事で、この記事のなかに登場するスタンフォード大学コミュニケーション学科のクリフォード・ナス教授によると「人は『良いこと』と『悪いこと』の情報を脳の違った部分で処理する」と語っている。そして、「悪いこと」の情報は「良いこと」の情報に比べ、より詳細に伝わり、その思考のための時間も多く割かれるという。

僕はこの記事を読み、「悪いこと」と「良いこと」が人にどう作用するのかをもっと調べてみようと思い立った。

文学の世界に目を向ければ、悪いことばかりが起こる作品は成立するが、良いことばかりが起こり続ける作品は成立しない。例えばジョン・リドリーの「Everybody Smokes in Hell(邦題:地獄じゃどいつもたばこを喫う)」のように登場人物のほとんどが死んでしまう、読んでいて目が点になってしまような作品はありえるが、良いことだけが起こり続ける作品というのは児童向けの絵本以外は知らない。また、ジャーナリズムの世界を見ても良いことばかりを報道する新聞は(どこかにあったような記憶があるが)報道媒体の主流にはならないだろう 。

何故だろう。

「悪いこと」が「良いこと」よりも強く人に作用するという証拠は、身の周りに転がっている。例えば、5000円を失った悔しさは、5000円を得た喜びよりも大きいという実感を持つ人は多いだろう。

心理学者のS.E.テイラーによると、これは人間の心の調整能力の違いによるという。人は短い幸福のピークを過ぎると、その幸福を与えてくれた新たな状況に慣れてしまい、新たな幸福を得る前の精神状態に戻ってしまう。一方、不幸に対してはずっとその不幸の心理を引きずるという。

この例は、その幸福や不幸の衝撃がさらに大きくなった場合のことを考えればもっと明確になってくる。

例えば、トラウマという言葉がある。これは過去に起こった衝撃的な不幸がその人の人格や人生に否定的な影響を及ぼすことを言い当てた言葉だ。トラウマは不幸についての言葉だが、幸福な事象に対するこの種の言葉は見当たらない。

やはり「悪いこと」は「良いこと」より強いようだ。

心理学者ケン・シェルドンやリチャード・ライアンたちの研究によると、良い1日はその人の翌日に大きな影響を与えないが、悪い1日は翌日にもその人の幸福感に影響を与えるという。つまり悪い1日を経験した人物は、少なくとも連続した2日間の悪い日を経験することになる。一方、良い1日の経験は良い1日を作り出すだけだ。

「悪いこと」と「良いこと」の心理学と経済学

ここまでは、自分の心の中だけの「悪いこと」と「良いこと」の関係の話だが、対人関係でも両者の力関係がある。

J.M.ゴットマンという心理学者によると、人間関係を成功させるためには相手との良い交流が悪い交流を数として上回ってなくてはならないという。その比率は良い交流5回に対し悪い交流1回。この5対1の割合に満たない人間関係は失敗に終わる可能性が高いという。

悪い出来事は、良い出来事よりも人間関係に及ぼす影響が強い。そのため、良好な人間関係を維持しようとする時、相手に良いことをするというよりも、悪いことをしない方が何倍も重要になってくる。つまり人間関係の場合、相手との良好な関係を望む人は、相手との悪い交流を避けることが大切となる。

また、敵対する人間関係においても「悪いこと」は「良いこと」よりも強いようだ。

前述のニューヨーク・タイムズの記事では、否定的な意見を言う人の方が、肯定的な意見を述べる人より頭が良いと見られることを紹介している。否定的な言葉の方が、人の注意を喚起し、思考を促すからだ。つまり人は否定的な言葉の方が肯定的な言葉よりも重要だと感じ、その否定的な言葉を発する人物に重きを置くことになる。先ほどのスタンフォード大学のナス教授は「頭の良い人々の前でレクチャーをする場合、否定的な事柄を多く言うべきだ」と語っている。

また、同じ理論で、物を創り出す人よりも、それではまだ駄目だと言う人の方が優秀だと思われる。このいわゆる「ダメ出し屋」がクリエーターよりも高い評価を受けることについては、友人である竹永浩之のTwitterがある。

同様に悪い行動を取る人間は、良い行動を取る人間よりも強い人間という印象を与える。特にそれが敵対する人間関係の場合、悪い行動を取る人間は、自分よりも強い人間だと思いがちだ。

また、企業はずっと昔から「悪いこと」は「良いこと」より強く人に作用するという真理に気づいていて、企業にとって都合のいい方法を編み出している。

企業内ではこれは「罰」と「報酬」の関係で現れる。

間違った答えに対する罰は、正しい答えに対する報酬よりも、人間に強く作用する。この罰と報酬の関係では、ロバート・ティンダルとリチャード・ラットリフの「罰環境」と「報酬環境」についての実験がある。これは子供たちを、正しい答えを出した場合にトークンを与える「報酬環境」と、間違った答えを出した場合に大きな雑音にさらす「罰環境」に置くと、「罰環境」にいる子供たちの方がずっとよい成績を上げるというものだ。

そして物事を学ぶ場合も罰からの方が、報酬からよりもずっと早く物事を学ぶという他の報告もある。

しかし、罰には副作用が伴い、人をいらいらさせたり、怒らせたり、精神不安定にさせたりする。そのため罰は結果を出させる理想的な方法とはされていないが、その副作用さえ無視してしまえば、罰は素早く、効率的に結果を出させる方法となる。

子育てや人を判断する際にも影響?

「悪いこと」が「良いこと」よりも強いという仮定を支える実験はまだ数多くある。例えば、心理学者のデビッド・ロウやクリステン・ジェイコブソンたちは『Genetic and environmental influence on vocabulary IQ: Parental education level as a moderator』という著作で親の教育レベルと子供のIQの関係を調べている。この調査は、悪い環境は子供の知的成長に悪い影響を及ぼすが、良い環境は子供の知的成長にほとんど影響を及ぼさないことを示している。

つまり、悪い親は子供のもともと持っている資質に悪影響を与えることができるが、良い親は子供が元来備えている知能をさらに向上させることはないということだ。言い方を変えれば、親は遺伝的に備えている子供のIQを低くすることができるが、高くすることはできない。

このパターンも「悪いこと」が「良いこと」よりも強いという仮説に当てはまる。

また、初対面の人の場合、悪い部分の情報が良い部分の情報に比べより強く伝わることは多くの実験で証明されており、この伝わり方の違いには「ポジティブとネガティブの非対称性(positive-negative asymmetry)」という一般的な名称がついているくらいだ。

社会心理学者のビンセント・イゼルビットとジャック=フィリップ・レインズは参加者に好感が持てる役を演じる俳優と、好感を持てない役を演じる俳優を選んでもらうという実験をおこなった。実験参加者はその俳優に対する情報を聞き判断をしていく訳だが、参加者は俳優の僅かな悪い情報で即座にその俳優は好感が持てる役には適さないと判断に達する一方、良い情報ではその俳優が好感の持てる役に適しているという判断はなかなか下さなかった。そればかりか、最初に俳優の良い情報を聞いても、次に悪い情報を聞くと、すぐに好感の持てる役には適さないと、その俳優を好感の持てる役から除外した。

相手に悪い印象を持つのに人は少ない材料で判断し、判断を下す速度も早い。また自分の持ったその悪い印象が正しいと確信する傾向にある。B.I.ボルスターとB.M.スプリングベットの『The reaction of interviews to favorable and unfavorable information』では、就職面接の際の最初の好印象は4つほどの悪い情報で不採用の判断に変わってしまうが、最初の悪い印象をぬぐい去り採用の判断に至るには9つの良い情報が必要だと述べている。

また、どんなに良いことをしていても、一度悪いことをするとそれがその人の本性だとされてしまうのはよくあることだ。そしてその確信はなかなか揺るがない。しかし、どんなに悪いことをしていても、一度良いことをすればそれがその人の本性だと思う人はまずいないだろう。この心理もポジティブとネガティブの非対称と言えるだろう。

スポーツの試合に金を賭けさせる心理実験がある。実験参加者には、まず実験会場でスポーツの試合の勝敗に対して金を賭けさせる。そして1週間後、実験会場に戻りその賭けを清算する。この時、その試合について参加者に語ってもらう。そうすると参加者は、賭けに負けた試合については長々とその過程を話すが、賭けに勝った試合にはそれほど多くを語らなかった。

これは幸福そうな人を見る時と、不幸そうな人を見る時にも当てはまる人間の心理だ。ダグラス・クリュルとジェイ・ディルの『Do smile elicit more inferences than frowns do? The effect of valence on the production on spontaneous inferences』によると、人々は不幸そうな行動に対して、その不幸の原因を推量するのには長い時間を使い、幸福そうな行動の原因の推量には多くの時間を使わなかったという。

幸福な場面に遭遇すると人々はさっさと「幸福なんだ」と答えを出してしまうが、不幸な場面に遭遇した場合「何故この人々は不幸なのか」と様々な複雑な思考をめぐらせ、答えを出すのに長い時間をかける。この人間の心理を見事についた一文にトルストイの 「幸福な家庭はそれぞれに似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」というアンナ・カレリーナの有名な出だしの文章がある。

テロリズムは「悪いこと」の衝撃を利用する

では何故、人にとって「悪いこと」は「良いこと」よりも強く作用するのだろうか。その答えは人間の生物としての本能の中にある。悪いことを良いことよりも強く意識するのはその生物の生存に関係している。もし、悪いことをすぐに忘れ、また同じ失敗を繰り返すのなら、その生物の生存は危うい。良いことに集中しその快楽の享受を生きる目的とする生物よりも、悪いことを避けるのにより大きなエネルギーを注ぐ生物の方が生き残るチャンスは増す。

生物は1日1日、毎日を生きていかなければならず、どんな素晴らしい日々も、命を落とす出来事が起こる1日とは引き換えにはできない。悪い1日は、それまでの素晴らしい日々を帳消しにしてしまう。良い1日は悪い1日ほどの重要性を生み出さないのだ。

しかし、これほど「良いこと」に比べ「悪いこと」が強いのに、人はおおまか自分の人生は幸せだと感じている。それは、何故だろうか。それは、人生の中で「良いこと」が「悪いこと」を数で上回っているせいだという。先ほどのゴットマンの数字を使えば、幸福だと思えるには悪いこと1に対し良いことが少なくとも5つは必要となる。この数字は、私たちがお互いに相手に親切に接する大切さを教えてくれている。

もうひとつの理由は、悪いことが起こった場合人は、それはたまたま独立して起こったものだと考えるからだ。一方、良いことが起こった時はそれは人生の大きな流れ中でのなんらかの結びつきで起こったものだと考える。そのため、人は自分の人生は総合的に見れば良いものだと考えるのだ。

さて、「悪いこと」は「良いこと」よりも強いというのは本当のことらしいが、問題はその事実をどう使うかだろう。最後に「悪いこと」の衝撃を道具として使うテロリズムのことを少し話したい。テロリズムは「悪いこと」の衝撃を増幅させて、その恐怖や混乱の中で自らの存在を主張していくやり方だ。

心理学者のジェームス・ブリッケンリッジとフィリップ・ジンバルドーは著作「The Strategy of Terrorism and the Psychology of Mass-Mediated Fear」で、テロリズムの社会に中に恐怖の感情を増幅させるやり方を「ソーシャル・アンプリフィケーション」と呼んでいる。著者たちはまた「The Role of the Medai」という章でテロリズムとマスメディアの関係にも深く踏み込んでいる。

「テロリズムの重要戦略としてのゴールのひとつは、暴力行為を通してコミュニケートすることにある。そのため、マスメディアはテロリズムにとって欠かすことのできない「酸素」と呼ばれている」

彼らによると、テロリズムには自分の存在やその主張を世界に流すためにマスメディアが必要で、そのテロ暴力の衝撃が強ければ強いほど、マスメディアが広く彼らの存在を訴えてくれる。また、マスメディアにとっては読者や視聴者を獲得ができるため、テロとマスメディアは「共存」の関係にあるという。

1960年後半にテレビ衛星中継が開始されて、テロの方法が変わったともいう。テロリストが文字よりもずっと強い衝撃を与えることができる画像や音声での効果を狙うようになったのだ。

そして、インターネットが広まった今、テロリストはテレビ・ジャーナリズムの検閲も簡単に飛び越えられるようになった。インターネット上で捕虜の姿を見せ、その処刑の様子を映し出し、さらなる衝撃を作り出し自分たちの存在や主張を社会に流そうとしている。

様々な「悪いこと」が頻繁に起こり続ける社会というのは、その土台が弱まっていく。テロリズムはとってはその弱さや混乱が必要なのだ。

「良いこと」は「悪いこと」に比べ、弱いのだが、個人的には弱い方の味方につきたい。きれいごとを言っているのではなく、本当にそう思う。感情があるので、常にそうできるか分からないが、できれば自分の出来る範囲で社会のなかや人との関係で良いことの数を増やす力になりたい。そうして、人への「良い」を増やせば、自分の中の「良い」も増えると感じている。「良い」は人と自分に作用して、2倍になるのかもしれない。そう考えると、「良いこと」もまんざら弱くないのだと納得することができた。

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執筆者紹介

秦 隆司
ブックジャム・ブックス主幹。東京生まれ。記者・編集者を経てニューヨークで独立。アメリカ文学専門誌「アメリカン・ブックジャム」を創刊。ニューヨーク在住。最近の著者に、電子書籍とオンデマンド印刷で本を出版するORブックスの創設者ジョン・オークスを追った『ベスセラーはもういらない』(ボイジャー刊)がある。
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