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NYタイムズはデジタル企業への脱皮をめざす

ニューヨーク・タイムズの「Innovation」と題された社内資料であるエグゼクティブ・サマリーの存在がリークによって表に出て、出版界にいる人々の間で話題となった。その後、ソーシャルメディア情報サイトであるMashableがこのサマリーの完全版を入手した。その少し前、ニューヨーク・タイムズの編集主幹であるジル・エイブラムソンが突然解雇され、リークやMashableによる資料公表と解雇になにか繋がりがあるのではないかと憶測を呼んでいる。このエグゼクティブ・サマリーを読んでみた。

1851年に創刊されたニューヨーク・タイムズ。その後、ドイツからの移民の息子で優れた新聞社経営者であるアドルフ・オックスがこの新聞社を買収し世界でも一流の新聞に育て上げた。ニューヨークのタイムズスクエアは、アドルフがニューヨーク・タイムズを42丁目に移転したところからつけられた名前だ。

現在、アドルフの子孫であるサルツバーガー家によって所有されているこの新聞社はアメリカを代表する新聞のひとつであり、その記事、特に国際的事象の報道の正確さや深さには定評がある。また、ニューヨーク・タイムズはこれまでに100を超えるピューリッツァー賞受賞記事を載せ、アメリカでは信頼できる報道をおこなう新聞として「Newspaper of Record(記録の新聞)」と呼ばれている。

突然だった編集主幹エイブラムソンの解雇

この優れた新聞社にいま大変な変化が起こっている。

そのことを知ったのは、5月26日付けニューヨーカー誌の「THE TALK OF THE TOWN」に載っていたジル・エイブラムソンについての記事を読んでからだった。ジル・エイブラムソンは女性として初めてニューヨーク・タイムズの編集主幹(エグゼクティブ・エディター)となった人物で、その彼女が突然解雇され、この「事件」はまさにニューヨークの「街の話題」となっていた。

彼女の解雇はニューヨーク・タイムズ社内でも予期せぬことで、社主であるアーサー・サルツバーガーJr.の元に集められたスタッフたちは、重役の誰かが死んだのかと思った。

そしてエイブラムソンの解雇が告げられ、彼女がその集まりに出席していないことを知ると、スタッフたちはニューヨーク・タイムズもウォール街の会社のようになったのではないかと心配した。ウォール街では解雇を告げられた社員は、コンピュータを取り上げられ、メールも止められ、その場でエスコートされながら社を去らなくてはならない場合がある。これはニューヨーク・タイムズの企業文化ではない。

実際のところは、彼女は辞職する機会を与えられ、それを自ら告げる提案も受けたがその提案を断ったのだ。

彼女の解雇を知ったニューヨークのメディアは一斉に騒ぎ出した、曰く、彼女の前任者であるビル・ケラーが自分より多い報酬を得ていたことを知ったエイブラムソンが、経営陣に文句を言い、解雇は彼女のこの「押しの強さ」が原因だった、と。「押しの強さ」は男性マネジメントの場合は褒め言葉ともなり、その態度により解雇されることはないはずだ。これは性差別だと多くのメディアは伝えていた。

高まるこの批判を受け社主のサルツバーガーJr.は、今回の突然の解雇は「マネジメント手法の問題」としたが、解雇に繋がった具体的な理由は明かしていない。

彼女の跡を継いだのはディーン・バケット元編集局長(マネージング・エディター)で、彼はニューヨーク・タイムズ社で初めての黒人編集主幹となった。この騒ぎのなか、白人男性を後任にすることはニューヨーク・タイムズとしてできない、あるいはしたくないだろうというのが一般的な見方だ。

僕がこの劇的な事件の行方を追っているなか、ボイジャーのCEOである鎌田さんからメールがきた。

「このレポートを知っていますか」とURLがついていて、それは「Innovation」とタイトルがついたニューヨーク・タイムズの社内用エグゼクティブ・サマリーへのリンクだった。このサマリーは、社主サルツバーガーJr.の息子であるアーサー・G・サルツバーガーと彼のクルーによってまとめられた、100ページ近いレポートだ。

メディア関係者必読の「デジタル戦略」レポート

このレポートを一口で言えば「ニューヨーク・タイムズ社のデジタル戦略」となるが、その規模、力の入れ方、提案の多さ、問題指摘の具体的さなどで、とても読み応えのあるレポートとなっている。最初は、エイブラムソンの解雇騒ぎを抑えるためにニューヨーク・タイムズがリークした、「ニュース編集部(Newsroom)にはいまこんな問題があり、それが彼女の解雇理由です」といったような内容だろうと思って読み始めたが、それは僕の思い違いで、そんな言い訳的なレポートとは次元が違った。メディアに関わる人間なら誰もが読まなくてはならない、危機感を伴ったとても優れたレポートだった。

The Full New York Times Innovation Report

※レポートの完全版を掲載したMashableの記事「The Full New York Times Innovation Report」へのリンクはこちら(上はそこで公開されているScribdを埋め込んだもの)

100ページ近いレポートはアメリカ人にとっても読むのが大変らしく、要点のみをまとめて伝えているサイトも多いが、僕の見たなかではこの記事がいちばん分かりやすいように思えた。

さて、この問題のサマリーだが、最初にこれをまとめた「Team」の紹介が出ている。アーサー・G・サルツバーガー率いるチームは彼を含めて10人。アドバイザーが2人の構成となっている。ビデオジャーナリスト、モバイル・エディター、戦略マネジャー、ユーザー・エクスペリエンス・デザイナー、テクノロジー・レポーター、ビジネス・レポーターなどが顔を揃え、アドバイザーの2人は副編集局長、アシスタント編集局長だ。

チームは社内、社外の数百人にインタビューをおこない、いまニューヨーク・タイムズで何が問題か、またこのデジタル時代に対応するために、どう変わらなければならないかを探っている。ニューヨーク・タイムズのレポーティングは定評があり、その質は世界でもトップクラスだ。中国指導部の金の動きをすっぱ抜き、中東の戦場の様子を伝え、アメリカで行われている人身売買の隠れた事実を暴き出してきたニューヨーク・タイムズ。この優れた新聞社が自分の組織についての調査レポーティングを本気でおこなった。それが今回のこのレポートというわけだ。

このレポートには「これが答えだ」という決定的なアイデアは載っていない。しかし、ニューヨーク・タイムズがどう変わっていかなければならないか、あるいは何故変わっていかなければならないかについての、多くの指摘が載っている。たとえば、

など、要点を挙げるだけでもどんどん出てくる。

デジタルファースト:デジタル部門だけで採算を得る

レポートの中に何回か出てくる言葉がある。それは「Digital First」だ。僕はこれを「印刷優先」に対する「デジタル優先」という意味で読んだ。この解釈は間違っていない。しかし、最近機会があってニューヨーク市立大学大学院ジャーナリズム科のクラスに参加した際、スピーカーのひとりであるジャーナリスト、ジェフ・ジャービス(『パブリック〜開かれたネットの価値を最大化せよ』の著者)が「Digital Firstという言葉の意味は、そのメディア企業がデジタルの世界だけで生存できるようになることだ、つまりデジタルの媒体だけで採算がとれるメディアになること、そして紙の媒体はデジタル媒体のバイプロダクト(副産物)となる」と言っていた。これは僕にとって衝撃的な考え方だったが、彼の講義の終わりにはそれは正しいのではないかと思い始めた。

ニューヨーク・タイムズのレポートでは「Digital First」の意味するものを、そこまでは広げていない。だが、レポートの作り手たちにはきっと、「紙媒体をデジタルのバイプロダクトにする」とまでいかずとも、ニューヨーク・タイムズをデジタルだけで採算がとれるようにするにはどうしたらよいか、という考えはあったと思う。

では、実際の内容を少し紹介してみよう。盛りだくさんで、要約だけでも相当な量となってしまうので、それは先ほど紹介したサイトをご覧になって頂くとして、ここでは僕が注目をした題材を追ってみる。

このレポートの核心は、記者たちがニュースの伝え方、ニュースに対する考え方を変えなければならない、としていることだろう。レポートではこの点について「ニュース編集部から抵抗があった」(多分いまもあるだろう)としているが、それはそうだろうなと思う。

記者たちのこれまでの立ち位置は「俺たちは記事の内容で勝負する。優れた記事を書けば、読者は読んでくれる」というものだろう。腕のよい昔気質の記者なら、それだけその思いも強いと思う。

しかし、このレポートではこの考え方に強く反対している。多くの情報サイト、ブログサイトでは書き手はタグを付け、Twitterでツイートをして、Facebookでの書き込みをして、その作業をしてからではないと記事を公開することができないという。それと同じように、ニューヨーク・タイムズの記者も記事を載せる前にソーシャルメディアを使うことが奨励されている。

また、記事を書く際に「Perfect」であるというこだわりを捨てる必要があるとしている。1本の「完成された」記事ではなく、インターネットという空間を使っていかに読者を獲得し、そのストーリーに留まらせるかが重要だとしている。

具体的な例として、ストーリーの出し方を次のように示している。(以下、p84からの要約)

  1. まずニューヨーク・タイムズのウェブの「Opinion Page」で先行する話題作りをして、読者からのコメントを集める。
  2. 以前に書かれた同じ話題に関係する記事をも復活させリンクを貼り、読者をその記事に導く。
  3. Google+のグループを組織し、同じ関心を持つ人々を集める。
  4. 記者にTwitterでのリアクションを伝えるライブブログを書かせる。
  5. いかにポストされた記事が書かれたかの裏舞台を伝える記事を書く。

その他に、Twitterのフォロワーの多い記者から読者に記事の存在を伝える、ビデオを作りそのクリップをTwitterやInstagramに載せる、などの案も挙げられている。

また、記者はTwitterでフォロワーを多く獲得することを奨励され、Twitter上で新たな記事を書くことを伝え、フォロワーを導くことも重要だとしている。

テクノロジー・チームは記事のプロモーターではない

現在、ニュース編集部の記者たちは、テクノロジー・チームのことを自分の記事をプロモートする部門だと思っている。だが、テクノロジー・チームはデータを集めてくれる部門であり、ニュース編集部はテクノロジー・チームからのアドバイスを聞き、各記事に対するソーシャルメディア戦略を用いた「ストーリー・パッケージ」を作る必要がある、というのがこのレポートのひとつの結論だ。

また、今後の新聞も含めた「出版」にはテクノロジー要素は不可欠であり、いかに新たなテクノロジーを取り入れ読者を獲得していくかを考えなければならない、そのためにニューヨーク・タイムズは優秀なテクノロジー人材を雇うことも重要だとしている。

話としては簡単だが、このレポートで紹介されているニューヨーク・タイムズの企業文化を考えれば、そう単純な話ではないことが分かる。たとえばこんなエピソードが紹介されているからだ。

タイムズ社内ではテクノロジー部門のスタッフとニュース編集部のスタッフはコミュニケーションを取るべきではないという風潮がある。ニュース編集部の記者たちはビジネス側にいるスタッフと近い関係にあることを嫌う。決定的な例としては、テクノロジー側のあるスタッフが、編集部門のスタッフたちのおこなう「brown bag meeting(各自持ってきたランチを食べながらのミーティング)」へのテクノロジー側からの出席を提案したが、編集側から拒否された。理由は「政教分離」と同じ考え方からだった。このスタッフはニューヨーク・タイムズを辞めている。このような企業文化を変えなければ、優れたテクノロジー人材を雇うことも難しい。(p68より要約)

いかに変化していくべきか

このレポートで、あるデスクは「世界でトップレベルのニュースを書き伝えていくことは、自分たちの『怠惰の形(form of laziness)』だ」と言っている。これまで自分たちがやってきたその仕事には、ある種の居心地のよさがあり、それをしている間は、本当に大変な仕事である「我々はいかに変わっていくべきか」という問いから逃れることができると言っている。

ワシントン・ポスト紙を長年所有していたグラハム家が新聞社をアマゾンのジェフ・ベゾスに売り、エズラ・クライン、グレン・グリーンウッド、カラ・スウィッシャー、ウォルト・モスバーグなどの看板記者、さらに遂にはテレビ界の人気キャスター、ケイティ・コーリックなどがITメディアに引き抜かれ、あるいはITメディアを新たに立ち上げている現在、「我々はいかに変わっていくべきか」はニューヨーク・タイムズにとって死活問題だ。このレポートはこの問題を正面から捉え、技術、手法、文化、意識をどのように変えていくべきかを具体的に示したものだ。

さて、冒頭で話題にしたジル・エイブラムソンだが、彼女の解雇はニュース編集部が真に変わっていくために必要だったのだろうか、それとも彼女がさらなる報酬を求めたせいだろうか。本当のところは、いつか分かるのかもしれない。

彼女の跡を継いだディーン・バケットは、とくにデジタルに強い人材でもない。ニューヨーク・タイムズは彼のリーダーシップのもとで変わっていくのだろうか。今回のサマリーは、まだ調査をしただけに過ぎない。いくら調査をしても、その結果を実務に反映させなければ、なにも変わらない。前任者の時代に生まれたレポートがそのまま棚晒しにされるという話も、この世界では決して珍しいものではない。その意味ではまだ道のりは遠い。

ニューヨーク・タイムズにとって有利なのは、今回のこの調査チームを率いたのがサルツバーガー家の一員であるアーサー・G・サルツバーガーであったことだ。彼は将来(たとえ社主とならなくとも)、経営陣の重要なポストを得るはずだ。このレポートをきっかけにニューヨーク・タイムズはどう変わっていくだろうか。僕はその変わり方をじっくり見ていくつもりだ。

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執筆者紹介

秦 隆司
ブックジャム・ブックス主幹。東京生まれ。記者・編集者を経てニューヨークで独立。アメリカ文学専門誌「アメリカン・ブックジャム」を創刊。ニューヨーク在住。最近の著者に、電子書籍とオンデマンド印刷で本を出版するORブックスの創設者ジョン・オークスを追った『ベスセラーはもういらない』(ボイジャー刊)がある。
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