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1 そもそも本ってなんだろう?

昨年秋、「図書館」や「本」にまつわる斬新な仕事をなさっている4人の方々(numabooksの内沼晋太郎さん、達人出版会の高橋征義さん、リブライズの河村奨さん、カーリルの吉本龍司さん)にお集まりいただき、座談会を行いました。

この座談会を開催するきっかけとなったのは、2012年に前国立国会図書館長の長尾真さんが発表した「未来の図書館を作るとは」という文章です。館長在任中に「長尾ヴィジョン」という大胆かつ画期的な「未来の図書館」像を提示した長尾さんが、あらためて幅広い論点から図書館の可能性を論じたこのテキストを若い世代はどう受けとめたか、というところからスタートし、率直かつ真摯な議論が行われました(「マガジン航」編集人が入院中だったため、長尾さんがこの文章を発表した経緯にくわしい李明喜さんに司会をお願いしました)。

この「未来の図書館を作るとは」が達人出版会から電子書籍(無償)として刊行されるのを期に、このときの座談会の内容をウェブで全公開いたします。かなりの長丁場ですので、計三回に分けての掲載になりますが、どうかじっくりお読みください(「マガジン航」編集部)。

左から内沼晋太郎さん、高橋征義さん、河村奨さん、吉本龍司さん(下北沢オープンソースカフェにて。写真:二ッ屋 絢子)

どのようなかたちで本に関わってきたか

――(司会・李明喜)前国立国会図書館長の長尾真さんが2012年にお書きになった「未来の図書館を作るとは」というテキストがあります。これは「LRG(ライブラリー・リソース・ガイド)」という雑誌の創刊号(2012年秋号)に掲載されたのですが、これに「LRG」編集発行人の岡本真さんと長尾さんとの対談を付録として加え、達人出版会から電子書籍として出版されることになっています(2014年6月刊)。

今回の座談会はその刊行にあわせて、本や図書館にかかわるユニークな活動をしている人たちの活動や考えをまとめたら面白いのではないか、というところで生まれた企画です。まず最初に、みなさんがなさっている活動と図書館とのつながりを、それぞれ自己紹介をかねてうかがえればと思います。

まずは今日集まったメンバーのなかで、図書館の世界にいちばん近しいと思われる「カーリル」の吉本さんからお願いできますか。

吉本龍司:カーリルというサービスを、かれこれ4年近くやってます。これを始めるまでは図書館業界にいたわけではなく、やり始めてから図書館のことを知るにつれて、奥が深いなあ、と(笑)。ただ、自分自身が図書館のユーザーかと言われると、公共図書館のサービス自体に現時点では魅力を感じない、というのが正直なところです。逆に現時点で満足していたら、カーリルのサービスはやめてもいい。これが勝手にクラウドで動いていて、維持管理のほか何もしなくてもいいのなら、僕じゃなくてもできる。そういうことを考えると、満足してないからこそ続けられるのかな、と思います。

カーリルを始めて数ヵ月目にできたコンセプトは、「ウェブから図書館へ」でも「図書館からウェブへ」でもいいから、「図書館という場所とウェブをつないでいきたい」ということでした。表層に見える実際のサービスとしては、自分の家や通っている会社や大学のある場所の近くにある、複数の図書館の蔵書をまとめて検索できて便利だな、というものなので、まずは使ってもらうことが重要です。その先にやっていきたいのは、大きな変化の中で、公共図書館と一緒にウェブサービスをやっていくときに、図書館の人たちは次にどうするのか? というところにいちばん興味があります。そのためのステージも、カーリルでやっていきたいと思ってます。

――このさきの話の中で、また補足してもらえればと思います。次はリブライズの河村さん、お願いします。

河村奨:私はリブライズというサービスをやっています。僕らはすべての本棚が「図書館」だと思っているんです。ふつう図書館と言ったとき、公共図書館とか学校の中での図書館を思い浮かべると思うんですけど、僕らはそれこそ10冊でもいいから本の入った棚があれば、それは「図書館」だと言ってます。英語で「Library」という場合、別にそれは図書館というほどじゃなくて図書室でもいいし、もっと小さなスペースだってライブラリーなわけです。

リブライズでやっているのは、その「本棚」に入っている本を目録としてウェブ上に出して、どんな本があるかが、その場に実際に行かなくてもすぐわかるようにすることです。(座談会会場の)隣の部屋の本棚にいま、オープンソース関連を中心に、デザインとか図書館関係の本が700冊ちょっと置いてあるんですが、ここに来なくても、ウェブ系の面白い本があるというので、気になって見に来てくれる人がいたりします(笑)。

ただ、自分たちが「図書館」と名乗りたくてそう言っているわけじゃなくて、ほかにいい言葉がない、という部分もある。本を読みたいユーザーの側からすると、本は買ってもいいし、借りてもいい、その場に行って読むのでもいい。そのあたりは、あまり気にしていない気がします。でも、それらの行為をする場をまとめる、うまい呼び名がないんですね。僕らのサービスの中では「ブックスポット」という言い方をしているんですけど、一般向けにはわかりやすく「図書館」という言葉を使っていて、それがいま全国で300カ所くらいに増えてきています。

本棚のある場所というだけなら、国内でも何十万という単位であるはずなので、最終的にはそこまで、あるいは世界中にも拡げられるなら、いたるところを「図書館」にしたいなあ、ということで活動しています。いちおう合同会社ですけど、実体は「秘密結社」みたいな感じです(笑)。

――わかりました。続きまして達人出版会の高橋さん、お願いします。

高橋征義:達人出版会代表取締役の高橋と申します。このなかでいちばん図書館と関係がなさそうな感じですが……(笑)。もともとプログラマーをやっていたのですが、思い立って電子書籍の出版社を立ち上げました。基本的にはITエンジニア向けの電子書籍なので技術書がほとんど、それに多少は読み物もありますという感じで、自分のところで本を作って販売して、というのを両方やっています。紙でいうところの「出版社」と「書店」を兼ねているというかたちですね。

図書館との関わりでいうと、逆にうちで作っている本は図書館には置いてないんですね。リブライズのように「図書館」的なものを作りたいと思っても、うちはEPUBとPDFがベースで、しかもDRMもかけない方針でやっているので、基本的にいくらでもコピーできてしまうんです。コピーも印刷全部も好きにしてください、そのかわり個人利用ということで徹底してくださいね、というかたちにしているので、仕組み的に図書館にならない。むしろ「自分で買ったものだから、この電子書籍を図書館にしたいです」とか、「これで図書館を始めました」とか言われると、すごい困るんです(笑)。

そもそも電子書籍に携わる者としては、「電子書籍の図書館はどうするんだ問題」に関して、あまりピンとこないというか、こういうふうなかたちにしたらいい、という理想的な未来がぜんぜん見えてこないのが正直なところです。

――このあとの議論のなかで、そのへんのヒントが得られるよう、みなさんに話していただきたいなと思っています。では最後に内沼さん、お願いします。内沼さんはB&Bという本屋さんを経営しておられますが、そのほかにもいろいろなことをなさっているので、それも含めて話していただければと思います。

内沼晋太郎:僕はnumabooksという屋号で、ずっとフリーランスで本に関わる仕事をしています。最初におもな仕事としてはじめたのは、洋服屋さんとか飲食店とか、そういう異業種の本の売り場をプロデュースをすることや、企業の受付とか病院の待合室とか、集合住宅の共有部分といったところに、本の閲覧用の場所をつくることでした。

そういう場所が「ライブラリー」と言われるときもあって、それは「図書館」でもあるのかしれませんが、そういった場所の選書をするのメインの仕事です。その過程で生まれてくる、ほかのいろいろな仕事もやっています。出版社や書店のコンサルティング、電子書籍のプラットフォームのプロモーションやプロデュースなど、頼まれればわりとなんでもやる。そんな感じで、本に関わる仕事をしてきました。

2012年の7月に、博報堂ケトルという会社の代表である嶋浩一郎氏と二人で、下北沢にB&Bというお店を共同で始めました。B&Bというお店は基本的に新刊書店なんですけれども、ざっくり言うと、特徴が三つあります。まず、毎晩トークイベントをやっている。しかも土日は二本やっています。基本的に、著者や雑誌の編集部の方をお呼びして、有料のトークショーを開催しているわけです。

二つ目に、ビールを中心としたドリンクの販売をやっている。B&Bという店名は「ブック&ビア」の略です。昼間から店内で普通にビールを飲みながら本を選べる新刊書店である、という。三つ目としては家具を販売している。本棚、平台に使っているテーブル、お客さんが座る椅子や照明といったお店の什器は、目黒区のKONTRASTというヴィンテージの北欧家具屋さんと提携してやっていて、これらの家具は販売もしています。

なぜこういうことをやっているかというと、そもそも新刊書店は、いまや本だけを売っていては成り立ちにくくなっている。「これからの街の本屋」がB&Bのコンセプトなんですが、「新刊書を売る」というビジネスと相乗効果のある違うビジネス、たとえばイベントを毎日やったり、ドリンクを出したり家具を売ったりして、書籍以外にもある程度の収入源をもつことで、新刊書店をやっていくうえでの健全な経営の状態をつくっているわけです。

というのも、新刊書店は他の小売と違って、ざっくり言うと経営努力がしにくい。飲食店であれば、お客さんが来ません、というときは安い食材を使って価格を下げるとか、逆に出すもののクオリティーを上げて価格を上げるとか、近隣にない業態に転換するとか、経営努力のしようがたくさんある。ところが新刊書店は本の価格も均一だし、売っている商品も同じ。だから売れなくなってきたときに努力できるポイントが明らかに少ないんですよね。

「すごくいい棚を作れば、お客さんが来る」というのは理想論だけど、2倍の時間をかけて棚づくりをしたら2倍売れるかというと、現実そうはいかない。経営努力といっても、人件費をカットして、むしろ棚を作ることからどんどん遠ざかる方向にいってしまう。ニワトリと卵の関係みたいな話なんですけど、「棚を作る」ことに力をいれるには売上が必要で、それはすごく長期的な話であって基本的には難しい。

本が全体的に売れなくなっているなかで、街の小さな新刊書店はよほど立地がいいとか、最初から自分の持ち家であるとか、そういった条件以外では、本だけを売っていては成り立たない。新規参入も僕たちが数年ぶりと言われるくらいですから、ほとんど終わったビジネスだと言っていいんですね。でも僕は、街にはきちんと本がセレクトされた本屋さんがあるべきだと思うし、僕ら自身も「街の本屋さん」が大好きなので、それが成り立つ方法として、他のビジネスと組み合わせて、その分で本屋の部分にコストをかけている。イベントやドリンクで利益を上げた分だけ、本のセレクトに時間もかけられるという、そういうことをやっているわけです。

長尾真さんの「未来の図書館を作るとは」を読んで

――ひととおり話をうかがっただけでも、みなさんのスタンスが違っていて面白いと思います。基本的に、このあとは自由にみなさんで話していただければと思うんですが、もう一つだけ、最初に長尾真さんの「未来の図書館を作るとは」を読んだ感想を伺えますか。

吉本:図書館の世界から見たときのことを、すごく網羅的にまとめてるな、というのが率直な感想ですね。長尾さんは当時、国立国会図書館長でしたから、ものすごく突飛な話でもないし極論でもない。ただ、たぶん僕の分野じゃないところもかなりあるし、一部で関わっているところもあるし、というところですね。

もともと自分自身がプログラマーという立場で図書館に出会ってきたので、「図書館」というよりも、どちらかというと「情報」という背景をもっている。だから長尾さんがここで仰られている「分類」の難しさという話などは、実は最初、あまりしっくりこなかったんです。なぜ図書館がこういうところにこだわるのか、って。読み込んでいくと、ああ、そういうことだったのか、とわかるところもあるんですが。

河村:私もこれを読んで網羅的だな、と感じました。図書館の「中の人」としてはありえないぐらい、広く見ている人だなって。全般としては、すごくバランスを感じるんだけれど、ところどころ「そうだね」と思うところと、どうしてもあまり肯定的になれない部分とがありました。

実は、あまり肯定的になれない部分が、どちらかというと情報工学の部分なんです。ご自身の専門分野であるところが、20年前の幻想を引きずっているような気配をちょっと感じてしまって。たとえば「分類」の部分などは、彼自身、もう機能しないことを認めつつも、その方法論の中で次の回答を探している感じがするのが気になるんです。

そのほかの部分でも、「図書館」という言葉を長尾さん自身、あまり固定的に使っていない。出てくる文脈ごとに、全然意味が違うんですよ。でもそれはすごく面白くて。「図書館」と「書店」もあまり区別をしていないし、後半のほうで、たとえば「書店はもっとカフェのようになるべきだ」とか、まさにB&Bみたいな話が出てくる(笑)。

私もこの「下北沢オープンソースカフェ」というコワーキングスペースをやってるんですけど、これも長尾さんの文脈に何度も出てくることを、「公共図書館ではない場所」でやっている事例かもしれない。彼が公共図書館でやるべきだと言ったり、街の書店でやるべきだと言っているところを、期せずしてここでやってるっていう。

いま、コワーキングスペースは民間の公民館みたいな機能をもちつつある。長尾さんのいうintellectual commonsが、たぶん街の中のコワーキングスペースだったり、B&Bみたいな本屋さんのかたちで生まれてきているんですね。そういった機能が公共図書館の中に生まれるべきなのかどうかは、まだちょっとよくわからないんですが、社会の要請として、いまそういう場所がどんどん生まれてるという気がして、そこの文脈はすごくしっくりきます。大枠としてはそんな感じです。

――わかりました。じゃあ高橋さん。

高橋:言葉をどうやって選ぼうかな、ということを考えていたんですが、どちらかというと不満が残るというか、もの足りないところがありました。というのも長尾館長と言えば、「長尾ヴィジョン」じゃないですか。あの「長尾ヴィジョン」が出たとき、みんながびっくりしたわけです。「えっ、図書館の中でも、国立国会図書館がこれをやるの?」みたいな感じで。しかも古典や著作権保護期間切れだけじゃなく、あらゆる本のデータを売ってもいい、みたいな感じで。「えっ、えっ?」って、みんな驚いたわけじゃないですか。それに比べると、これまでの集大成としてはこういうかたちになるのかなと思いつつも、さきほど内沼さんが仰った「これからの街の本屋」という話ではないですが、「これからの図書館」という意味では、あまり「これから」感がない、というのが正直な感想でした。

――「長尾ヴィジョン」が出たときにくらべて、網羅的にまとめられている今回のテキストでは、その勢いがダウンしてしまったという感じですか。

高橋:トーンダウンというよりは、それと同じ話にとどまっていて、「その先」にあまり行ってないな、という感じですね。もっと100年後とか1000年後の未来みたいな……そこまでいかなくてもいいですけど(笑)。とにかく、人間の図書館と「知」は長期的にどうなるのか、みたいな感じの話を、最後だからちょっと期待したんですが、あまりそういう感じではなく、普通にまとまっていた、という印象です。

内沼:すべて鵜呑みにするのはよくないですけれど、これからの図書館についてはこういう見方もあるよということを、網羅的に一人の人間が考えたことがまとまっているテキストですよね。現場の図書館員の人や書店員の人は、こんなことまで考えが及んでいないと思うので、読んでおくといいよ、というものの一つだと思いました。

ただ、僕は自分自身でも本屋をやっているし、ほかにもいろんなかたちで本の仕事をしてきたわけですが、そういうなかで培ってきた「本」の捉え方と、長尾さんにとっての「本」というものが、そもそもかなり違うんだろうな、と感じた。簡単に言うと、長尾さんにとってはその「中身」、つまりそこに「書かれていること」が「本」なんだと思うんです。大前提として、本はこれから電子化する、デジタルの方がいいよね、という前提がありますよね?

――「デジタルのほうがいいよね」とまでは仰っていませんが、電子化が進むというのは、前提としてありますね。

内沼:そうですよね。かなりの「本」が電子になることを前提に書かれていて、しかもそのときの「本」とは「そこに書かれている中身」のことで、だからこそ検索対象になったり、情報工学的に整理されていたり、図書館だから当たり前ですが、それらは学問や研究のための資料である……というのが大前提としてある。そういった「本」に書かれているさまざまな「中身」を利用して、いろんな人が研究をする、という前提に立って長尾さんはお書きになっている。

でも僕が扱ってきた本は、「中身」であると同時に「物」あるいは「プロダクト」でもある。普通の人にとって、本というのは、「かわいいから欲しい」とか、「面白そうだから欲しい」とか、そういうものでもあるんですよね。その現場に僕はずっと立ち会ってきたので、それとはだいぶ違うなぁということは感じます。

「かわいいから欲しい」とか、「これはいい本だから、ちょっともっておきたい」というときは、たとえば本の装丁とか、物としての存在感みたいなものを前提にしているわけです。それは図書館においても無視できない。研究者だけではなく、一般の人も図書館に行くわけですが、そこでどんな本を、どのように手に取るかということを考えるにあたって、その点は外せません。そういうところを含めてところどころ、「本」の捉え方が限定的なテキストであるとは感じました。

たとえば、このあいだツイッターで、ある図書館員の人が「今日は暑いですね、図書館は涼しいです。だから図書館に行こう」みたいなことをつぶやいてたんですよ(笑)。「涼しいから図書館に行こう」というのは、長尾さんの仰る図書館とは、けっこう違うなぁ、と。

『ブックビジネス2.0』でも橋本大也さんが「図書館=教会」論、つまり図書館は現代の教会だ、と言っていますね。つまり、街でなんとなく行く場所がない人とか暇な人とか、そういう人たちが自由に時間を過ごせる場所が、いまは図書館ぐらいしかない、という話だったと思います。この「図書館は教会である」という前提のもとで言うと、ツイッターで「涼しいからおいで」っていうようなあり方もあるんじゃないか。

そこからすると、長尾さんのテキストは、どうしても本あるいは図書館というものの、特定のあり方に即して書かれている感じがしてしまって、「そうじゃない部分」もあるよなぁ、と思いました。この先でいろいろ話せればいいと思うので、とりあえず、立場としてはそうです。

――司会という立場を離れて、少しだけ言わせてください。私は長尾さんのテキストは、必ずしも網羅的ではないと思ってるんですよ、むしろテーマが限定されたテキストで、読むほうが補完して読む必要があると思いました。つまりこのテキストは、長尾さんの研究者としてのキャリアの中では「総論」だけれども、「図書館」や「本屋」の未来、あるいは「知」の世界の未来についての総論ではなく、読者がその部分は補完して読むことを期待されたテキストと思うんです。

たとえば「図書館」と「研究」との関係も固定的なものではないわけです。『知はいかにして「再発明」されたか――アレクサンドリア図書館からインターネットまで』という、人類史の時代ごとに何が「知」の制度として機能してきたかを綴った本があります。これによると、古代アレキサンドリアの図書館から始まって、中世の修道院、大学、「文字の共和国」、専門分野、実験室……というふうに「知」を支える制度は、時代ごとに変わっていく。ちなみに実験室が機能していたのは1970年くらいまでで、それ以降がこの本では「インターネットへ」とされている。

この「研究室からインターネットへ」へのシフトは、これまでとはスケールが桁違いだと僕は思うんです。「知識」を扱う情報と、知識とは関係のない大衆レベルでの情報は、インターネット以前はあきらかに別のものとされていた。でもインターネット以降、「知識」と「情報」のあいだに差をつけることに意味がなくなってきている。もちろん厳密にいえば「知識」というものは体系化されていなければならないわけですが、長尾さんが研究をなさってきた時期が、まさにその「過渡期」の時代であることに考慮して読む必要があるのではないかな、と思いました。

本とは「生むときに苦しんだもの」のこと

――ところで、みなさんは「本」というものを、ご自身の活動のなかでどのようにとらえていますか? 「電子書籍」もふくめてでけっこうですが。

河村:一定量の知識が集まっているもの、でしょうか。文脈によって自分自身でも使い分けているから、それ以上は、あまり明確な定義はないですね。モノとしての実体がなくてはいけない、ということもないし、ホームページを「これは本なんだ」と言いたい人がいたら、それにも納得感があるし。さすがにツイッターの140文字を、「これは本です」と言われたら、「んん~」っていう感覚はあるけれど(笑)。でも、そこにある程度の蘊蓄などが詰まっていたら、「本」だと言われてもしょうがないかな、って。

リブライズはリアルな本を対象にしているけれど、私自身は電子ブックを発行するウェブサービスも別にやっているので、そのあたりは、両方にこだわりがあるような、両方ともにこだわりがないような……(笑)。

吉本:カーリルの中では、本をどう扱っているかははっきりしています。まず、図書館がそれを「本」として扱っている、という条件がある。たとえば図書館の実態から言えば、「雑誌」と「本」は違う、と言われるわけです。個人的には正直、そこのあたりはあまり理解していないんですが(笑)。自分自身としては、図書館でいう「本」よりは、たぶんもうちょっと広いところでとらえてはいるんだけれど、カーリルというサービスは、どうしてもそこにひきずられてしまう。

――カーリルを抜きにしていうと?

吉本:「本」というのは、生むときに苦しんだもののことなんじゃないかと。

一同:おお~!

吉本:締切とかがあって、書き手が苦しんで生んだものが「本」じゃないか、って。ツイッターでもブログでも、「本にしよう」って言った瞬間、生みの苦しみが出るんですよ(笑)。ちゃんと編集しなきゃいけない、みたいな。だから、たとえブログでも「どうしよう、毎週出さなきゃ」というストレスを感じながら書いていたら、それは「本」みたいな感じもする。それが僕の個人的な感覚ですね。

河村:私も一つ追加していいですか? リブライズをやっているなかで、だんだんはっきりしてきたんですが、「本」だったり「本棚」が、誰かの知識の座標になっていることが多いんですよ。それは文学書でも大衆小説であっても、学術書でもそうなんですが、なにかの話をするとき本や本棚が、そこにポイントをおけるアンカー(錨)みたいなものになってるケースが多いんですよ。たぶん、生みの苦しみを経たものは、そうなる確率が高いと思うんですね。たとえば長尾さんのこの文章も、私はPDFで読んだけれど、これはアンカーだと思うんですよ。

高橋:本にも普通の書店で売っている本と、同人誌みたいなものがあるでしょう。自分のなかでは、両者はだいぶ違うものだという区別があって、同人誌はあんまり「本」とは言わないんです。でも、電子になるとあんまりその区別がなくなるんですよ(笑)。

――ああーなるほど。それはなぜですか?

高橋:なぜなんですかね。その違いがどこからくるか、自分でもあまりわかってないんだけれど、紙の場合だと、同人誌と書店で売ってる本は明確に違う感じがするんです。結果論として、たまたまできているものが違うだけかもしれませんが……。

――達人出版会は電子書籍専門ですよね。いまの話からすると、紙だとそういう差が出てしまうけれど、電子では出ない、というあたりを意識したりしませんか?

高橋:ええ、だからうちで出しているものが「同人誌」なのか「同人誌じゃない書籍」なのか、あんまりよくわからない(笑)。それはどこかで区切れるものではなくて、「同人誌っぽいもの」と「同人誌っぽくないもの」が、「本」の中でなめらかに混ざっているみたいな感じがします。

内沼:社会を変えたいとか、誰かに強い影響を与えたい、という使命感で書かれたものが、たとえば「同人誌じゃないもの」で、いわゆる「同人誌」というのは、そんなに生みの苦しみを経てない、自分が書きたいものを書いたもの、というニュアンスなのですかね。お二人の話を勝手に総合してしまったけど、ひょっとしたら「苦しんでない」感じが「同人誌っぽさ」なのかもしれませんね。もちろん「苦しんでいる同人誌」もあると思いますが(笑)。

吉本:生みの苦しみの原点がなにかというと、「固定化」みたいなとこにあるのかなぁ、と。ようするに、あとで直せるというのは、苦しみに対するかなりの緩和剤になっているのかもしれない。印刷するとなると、うっかり間違ったことを書いたら直せない、そのせいで世の中が変わっちゃう、って(笑)。もうちょっとライトに考えても、ここで間違えると、直すためにはさらにお金が飛んでいく、というプレッシャーもあって。そこが生みの苦しみのもとですよね。

――高橋さんにおうかがいしたいんですが、電子だと「生みの苦しみ」はないですか?

高橋:紙に比べると全然ないですね。紙の本は、編集や出版をする側で関わったことはなくて、書き手としてしか関わっていませんが、書く方のプレッシャーはもう、紙の方がぜんぜん大変です(笑)。

吉本:紙の新聞とウェブニュースの関係に近いのかもしれない……。

内沼:ただ、「本」をどう定義するかというのは、いまはかなり個人の考え方によって違ってきてると思うんです。そのなかでも、「本」とは「生みの苦しみである」という定義は、個人的にはかなりいい線いってる。いままで聞いたなかでも、相当しっくりきたんですよ。

吉本:ほんと?(笑)。

内沼:ただ、それさえも100%の定義かというと、きっとそうではない。たとえば誰かが居酒屋で、なにも苦しむことなく適当にしゃべったことを文字に起こして、喋った本人に「本にしていいですね?」って確認をとって出したような感じでの本が、世の中には存在するでしょう? これは「本じゃない」のかというと、違うという人もいるかもしれないけど、全員が「本じゃない」とは言わないと思うんですよね。生むときにまったく苦しんでないものも、それが印刷されて紙に綴じて本屋に並んでたら、本屋さんが売ったり、図書館が所蔵したりするという意味では「本」なんだと思う。

だから実は、「本とは何ですか」みたいなことを定義することには、そんなに意味がないのかな、と思ってます。いまちょうど、『本の逆襲』(この座談会の後に朝日出版社より刊行)というタイトルの本を書いているんです。たぶん僕も、いま何かを「網羅しよう」と思って書いてるんですね。「本」というものがいまどういう状況にあって、これから本の仕事をする人たちは、どういう仕事をすることになるのかということを書いている。

この本のなかでも、やっぱり本の定義、「本とは何か」という話をするんですよ。でも最後は自分の中でも、定義できません、ということになるんですね。一般的に定義をすることよりも、本に関わりたいと思った人が、自分が思っている「本」はどこからどこまでなのかを、それぞれ自分なりに定義をすればいい。広い射程でそれをもっている人は、誰も本だとは言わないようなものを、「これは本だ」といって面白がってつくればいいい。

ひょっとしたらツイッタ―の140文字を「本」だと言う人がいてもいいし、いまこうやって喋っている時点で、もうこれが「本」なんだよね、みたいなことを言うのもありだと思うんですよ。だっていま、これは音声データがリアルタイムで取られていて、それが.mp3の音声形式になったりする。その音声を誰かが書き起こした.txtのファイルや、それをレイアウトした.pdfのファイルになった瞬間に、「これは本だ」って言う人がかなりいるわけでしょう? でも、その中身が「本」ならば、同じようなファイルとして並ぶわけだから、.mp3の時点で「本」だということにしてもいいじゃないか……というようなことを、その本で書いてるんです。

「本の定義」はわりとどうでもよくて、それぞれ自分が本にまつわる仕事、それはお金をもらわない仕事でもいいと思うんですけど、あるいは「活動」というか、それに関わる人が自分なりに「本ってこういうものだよね」と思って行動すればいいと思っています。カーリルにおいて「本」とはこれだし、リブライズにおいて「本」とはこれで、達人出版会において「本」はこれで、というのがあるように、長尾さんにとっても、「本」はこういうものだ、という話の流れでここまで来たのかな、という気がしています。

河村:いまの話をふまえてもういちど長尾さんのテキストを読み直してみると、長尾さんは映画は「本」だと思ってるんですよ。すべての情報体は本だと思っているわけですから、彼のなかでは「本」の概念が「情報」と、ほぼ一致しているんじゃないのかな、と。

――そうですね。だから定義づけというよりは、どちらの側から考えるか、という問題なんだと思います。長尾さんは、「知識」とか「情報」から本を考えている。それらのアウトプットとして「本」というかたちがあるわけです。でも本を書く人たちからすると、「生みの苦しみ」のほうが先なわけです(笑)。

内沼:そうだと思いますね。「生みの苦しみ」という定義がかなりいいなと思ったのは、ふわっとした定義ではあるけれど、一本の数直線上に「苦しい」と「苦しくない」があって、「この線より苦しんだものが本」って、それぞれが決められるところがいいと思うんです。たとえばウィキペディアで「本とは何か」を調べると、それはすでに「冊子」という形態の話をしてるんですよね。でもそうすると、企業広告のパンフレットみたいなのも「本」だということになるし、実際そう思う人もいるわけです。だけどそこで切っちゃうと、ゼロか1か、これは本だけどこれは本じゃない、みたいな話になる。それが「苦しい」「苦しくない」という線だと、どこでどう切るかは個人のさじ加減になる。だからいいなあって(笑)。

あと『WIRED』の創刊編集長のケヴィン・ケリーが、「『本』は物体のことではない。それは持続して展開される論点やナラティヴだ」と言っていますが、これもまあまあ悪くない定義だと思います。

――そういえばケヴィン・ケリーの著作選集が、達人出版会からフリーで出てますね。この本は技術書ではなくて、一種のマニフェストですよね。長尾さんの本は、「工学者が書いたマニフェスト」だと思うので、同じように達人出版会から出ることが感慨ぶかかったりします。

Part 2 につづく
(編集協力:伊達 文)

執筆者紹介

「マガジン航」編集部
2009年10月に、株式会社ボイジャーを発行元として創刊。2015年からはアカデミック・リソース・ガイド株式会社からも発行支援をいただきあらたなスタートを切りました。2018年11月より下北沢オープンソースCafe内に「編集部」を開設。ウェブやモバイル、電子書籍等の普及を背景にメディア環境が激変するなか、本と人と社会の関係をめぐる良質な議論の場となることを目指します。
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