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カネよりも自分が大事なんて言わせない

山本芳明の『カネと文学――日本近代文学の経済史』(新潮選書)は、経済=市場の観点、具体的に言えば原稿料の増減や出版景気の変化などを例にして、日本近代文学者とカネの関係を歴史的に辿ることで、教科書的な文学史からは見えなかった、生々しい文学者像を新たに浮かび上がらせている。

大正期のベストセラー作家であった有島武郎が晩年に個人雑誌を立ち上げ、その直後に美人記者と情死したのは、文学作品と恋愛というどちらも神聖な対象を商業のルールで汚すことを拒否した潔癖思想の現れではなかったのか。従来、純文学と通俗小説の綜合の試みと理解されていた横光利一の「純粋小説論」は、原稿料減少の苦境な時代にあって文学で飯を食うためのライフスタイル転換の試みだったのではないか。経済や市場という新しい視角を介入させることで、既知の文学史の風景が一転する。

カネなんて要らない?

『カネと文学』は今年(2013年)の3月に刊行された。これは極めて時宜を得た出版だったといえる。数年前から、とりわけ東日本大震災以降、出版界には「クリエーターにカネなど要らない」というメッセージがこめられた本があふれている。岡田斗司夫『なんでコンテンツにカネを払うのさ?』(福井健策との共著、阪急コミュニケーションズ、2011・12)では、多くのアマチュア・クリエーターが、その道の職業家(プロ)を目指すのではなく、複数の副業を抱えつつ、暇を見つけて自分がつくったコンテンツを無償で提供する未来が肯定的に語られている。貨幣を介入させないその営みを岡田は「評価経済」と呼ぶ。

或いは、家を造らない建築家こと坂口恭平は、『独立国家のつくりかた』(講談社現代新書、2012・5)のなかで、自身がフィールドワークして得た路上生活者の生活についての知見をもとに、ゴミとして落ちている「都市の幸」によって彼らが衣食住を0円でまかなうように、貨幣経済から離脱することが可能であり、その生全体が芸術そのものだと主張している。貨幣経済は個々人に備わった全身全霊がものを言う「態度経済」へと転換されるのだ。

風変わりなところでは、pha『ニートの歩き方』(技術評論社、2012・8)を挙げてもいい。この本では、インターネットを活用することで豊穣なコンテンツ世界をほとんど無料で無限に楽しむことができるようなった新しいニート処世術を教えているが、カネよりも大事なニート生活を訴える著者の文章からは、その本で得られる筈の原稿料がインセンティブとして働いていないのが節々で伺える。

近々ではライターに原稿料の出ない「ハフィントン・ポスト」が日本に上陸したと話題であるが、こういったメッセージ、或いはもっと漠然に雰囲気といったものは、もちろん、より以前へと遡ることができるだろう。無償をきっかけに人は読者になっていくのだ、という趣旨の内田樹的著作権論もそのような傾向のひとつだったろうし、いや、今の今まで忘れていたが、柄谷行人によれば「早晩、利潤率が一般的に低下する時点で、資本主義は終わる」(『世界史の構造』、岩波書店、2010・6)のであった。

とにもかくにも、もはや、勝間和代や堀江貴文といったような著者が掲げていた、効率的にカネを稼いでカネから自由な生活を送ろうといったような一昔前のメッセージは、もう後ろの半分しか機能しない。そしてその分割は決定的だ。なぜなら、「カネを稼いでカネから自由になろう」は「カネから自由になろう(=カネなんて要らない)」とはほとんど反対のことを言っているからだ。『カネと文学』は図らずも、現在進行形のアクチュアルなクリエーター問題を通時的な視点から捉え直してみるのに、極めて有益な本だ。

「旧来のシステムが機能不全に陥りかかり、新たなシステムが模索されている転換期において、しっかりと見据える必要があるのは、崩壊しつつあるシステムそのものではないだろうか」

とは、「あとがき」からの引用だ。

ハンス・アビング『金と芸術』を参考に

カネを介在させずに、自分の作物のほとんどをウェブ上で公開し、赤字覚悟で研究成果を自費出版までした私は、以上のような時代適応的な(或いは、時代要請的な?)クリエーター・モドキの典型例だ。私は自身の創作行為が無償であることに何の違和感も持たないし、もちろん、それを、いわゆる「職業」にしようとも思っていない(といっても私の場合は文学研究であるため、createという言葉を使用すべきではないのかもしれないが)。そして比較的、他人にもその感覚を要求する。沢山のカネを稼ぐことで得られる自由よりも、カネとは別次元の自由を重んじている。単純に、芸術家はカネに換算できない神聖な使命を帯びていると考える、ロマンティストなのだといっても差し支えない。

しかしながら、「カネなんて要らない」と声高に主張される雰囲気のたちこめる現在だからこそ、このような心性を純粋主義的な規範に照らして評価しようとする傾向には、自分自身がそうであるから尚更、距離をとらねばならない。それは私自身のためであると同時に、今後必要以上に特権化されるかもしれないある論理を予告しているように見えるからだ。

アーティストであり同時に経済学者でもあるという異色の経歴をもつハンス・アビングの『金と芸術――なぜアーティストは貧乏なのか』(山本和弘訳、grambooks、2007・1)は、文芸の話ではなく、訳者あとがきで明示されているように厳密にいえば日本の事情に不適当な所もないではない。しかし豊富な例示から導きかれる番号付の簡潔な諸テーゼには、現代のクリエーター一般に関して一定程度の普遍性があるように見える。

とりわけ、第五章「アーティストにとってのマネー」では、なぜアーティスト一般の収入は低いのか、という問いに取り組んでいる。その答えのひとつとしてアビングは芸術家志望者は、しばしば自身に適当な芸術的技量があるかどうかではなく、自身が社会的に不適合かどうかを極めて重要な判断基準として採用すると指摘している。曰く、「卓越した能力があるからではなく、他の職業ではプロのレベルになることはできないと考えているために、平均的なたくさんの人間がアーティストになることを選ぶこともあり得る」。

彼らは自分の年代で割り出されている平均的な年収を喜んで放棄し、無償か、よくて低賃金の、芸術的な仕事に進んで従事する。彼らは自らが規範的な一般社会で生き抜いていく能力を欠いている、と「信じている」からだ。だから、非日常的で刺激的でロマンチックなアートの道に進み、個人的満足を得ることで、一般社会で生きられない自分の無能を補填的に正当化しようと試みる。当然、高い収入への意欲は生じず、金銭的満足は芸術の個人的満足に代替される。このような状況は、今後大量に現れる無数の自称物書きたちにも高い確率で生じるだろう。

ここには、無能というマイナスの烙印が、そのまま変人たる芸術家の勲章に逆転する瞬間がある。一般的な勤め人の能力を予め諦めることで、その振る舞いそのものを、アーティストとしての適性の間接的な証明として利用しようとする。こんなにハチャメチャなのだから一般社会は俺を絶対に受け入れないに決まっている、だからアートに邁進するしかない、というわけだ。

しかしながら、これは極めて倒錯的な営みだ。つまり、自分は社会的な能力を欠いている、といった無能感が、そのまま全肯定されるかたちで、芸術家適性へとスライドしまい、それ以後、芸術家として生きていこうとするなら、彼は初めに持っていた無能感や絶望感を手放すことはできなくなるだろう。なぜなら、それは同時に自分を支える唯一の芸術家認定書だからだ。生きていくために絶望する。しかしそれは、絶望するために生きていくことと何が違うのか。

断っておけば、私は芸術に身を捧げる無名かつ無数の殉教者に対して好意以上に敬意を払っているし、何よりも自分自身が少なからずそのようなアート信仰を胸に日々物を書いているような人間だ。実際、私は皆無といっていいほどコミュニケーション能力がないし、それ故に一般社会に認めてもらえないだろうと「信じている」。しかし、その一方で懸念するのは、無償の物書き、ライター、アーティストの存在が一般化していくにつれ、無償行為の神話化のその背後で、同時に、駄目な自分を神聖化しようとする捩れた自己正当化の論理が強化されてしまうのではないか、ということだ。彼は成長することを禁じられる。「駄目」を克服してしまえば、認定書は破かれてしまうからだ。クリエーターはカネの代わりに無能を手に入れた。そしてカネ以上に無能を手放せなくなる。

それが悪いことだとは思わないし、「駄目なのが、逆に良いのだ」という論理が一時的に人を救うことがあるのもよく分かっている。繰り返すが、私自身だっていつもそんなことを言っている。しかし、自分が大切にしてきた場所を自分の情けなさを弁護するアジールとしてのみ使わなければならないとしたら、それは少し寂しいことだとも私は思うのだ。駄目な自分に安住してよければ、人は成長を忌避してしまうかもしれない。社交上手な小説家やアーティストがいたって、別に構いはしないのに。様々な「一般的」社会経験がエクストリームなアート表現に生かされることだってあるかもしれないのに。

何より、物を創る悦びは、自分の情けなさを弁護するなんていう、チャチな目的のためにあるのではないことを、実は誰よりも、無能感を抱く当人がよく知っているはずではないか。少なくとも私はそう思っている。

コールリッジに倣いて/背いて

「私は同情と、心からの願いのほかには何の大権も持たないで、私自身の経験にもとづきながら、愛情をこめて若い文学者たちに訓戒を述べたいと思う。それはごく簡単である。なぜなら、初めも中ほども終りも、一つの戒めに収斂されるからである。すなわち、文筆を職業としてはいけないということである。或る特殊な人間を除いては、職業を、すなわち正規の職業を持たずして、健康であり幸福だという人を私は知らない。この場合の職業とは、目下の意志には左右されず、きわめて機械的に続けられるゆえに、われわれが忠実に職務を果たすためには、或る程度の健康と、精神力と、知力の発揮だけは必要とするものである」

(サミュエル・テイラー・コールリッジ『文学評伝』第十一章、桂田利吉訳、法政大学出版局、1976・6)

驚くべきは、100年程前のイギリスの批評家が現在の出版界で活躍中の論者が如何にも主張していそうなことをもう既に述べていた点だろうか。或いは、理想主義的性格が強調されやすい英国ロマン主義運動の草分けのような詩人が、意外と堅実なアドバイスをしていた点だろうか。

もちろん理想主義的な思潮と文学専業化の拒否は簡単に両立する。文学とは少数のソフィスティケートされた読者にしか理解されない神聖なもので、職業として成り立たない以前に、カネに左右されてなすべき低俗な仕事ではないからだ。コールリッジに言わせれば、「作家先生になって飯を食いたい」などという文学青年の甘えた夢は、中途半端な現実主義でしかない。聖なる文学に飯の種を求めるなんて言語道断だ。理想の純度を下げないためにこそ、理想とは別のところで黙々と機械的な仕事を適当にこなす必要がある。理想主義も徹底化していけば、案外、現実的で堅実な解決に落ち着くものである。

いささか古臭い批評家のアドバイスに従ってみるのも悪くないだろう。様々な副業、コールリッジ風にいえば「正規の職業some regular employment」をこなすなかで、無能感も緩和されていくだろうから。当たり前のことだが、芸術家や作家を志望していたからといって、幸福であったり健康であったりしても、別にいい。自殺とかもしなくていい。

しかし、私は部分的にコールリッジに背きたいように思う。つまり、複数の副業に就きつつも、それでアートの部分を完全に無償にするのではなく、小額でも不定期でもいいから、文章を書き、それをカネで買ってもらう、そんな回路がもっと一般化すればいいと思っている。そのためにセルフ・パブリッシングや電子出版、はたまたメルマガなど、どんな手段が有効なのかは未だ判断がつかないが、ともかく、ギャランティが2万円から1万円になったという不景気の話よりも、無償なのか有償なのか、その分割線の移動の方が重要だ。

もちろん、それはカネを得ることで飯を食うためではない。カネを得て、無償行為がはらみやすい倒錯的な論理とは別の道筋を通って文章を書くことだってできるのだと示したいからだ。そして、アートの隣りや内側には一般社会が地続きにあることを示すことで、不必要な神聖視や両者の遊離を和らげていきたいからだ。それはきっとアマチュア・クリエーターたちの(どんな方向であれ)成長に資する環境を整えるだろう。文学者も芸術家もサラリーマンの隣りにいる。駅前の本屋にだってプラトンがいるのだ。

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執筆者紹介

荒木優太
1987年、東京都生まれ。在野研究者。専門は有島武郎。En-Sophパブーなど、ネットを中心に日本近代文学の関連の文章を発表している。著書『小林多喜二と埴谷雄高』(ブイツーソリューション、2013)、『これからのエリック・ホッファーのために――在野研究者の生と心得』(東京書籍)、『貧しい出版者――政治と文学と紙の屑』(フィルムアート社)。Twitterアカウントは@arishima_takeo
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