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井上ひさしの蔵書はその後、どうなったのか ── 遅筆堂文庫山形館訪問記 

コロナ禍に入って2年以上がたち、感染状況が落ち着いてきた2022年の6月、僕は旅に出た。目的地は山形県。ここは僕にとって、ずっと心残りだった地域。47都道府県の中で唯一宿泊したことがなかった。それに井上ひさしの蔵書を収めている遅筆堂文庫をまだ訪れたこともなかったのだ。なので今回は10年越しの訪問記をお伝えしたい。

その前におさらいをしておこう。

井上ひさしの自宅の床が抜けてしまった話や、遅筆堂文庫の存在については、10年前、本連載の2回目と3回目に記した通りだ。このとき、話を聞かせてくれたのは、ひさしがまだ駆け出しだった時代をよく知っているかつての妻、西舘好子さんだった。好子さんは、連載時の取材で、床が抜けたときのこと、蔵書が増殖していくときのことを次のように語ってくれた。

昭和42年(1967年)ごろの話かしらね。市川の国分に建て売り住宅を買ったのよ。床が抜けたのはその家での話です。家の庭の一角に8畳ぐらいの書斎を建て増ししていたんですよ。大量の本を置き、仕事をしているという状態でした。パネル状の四角い建材をはめ込んで作った床が、ある日、本の重みで「ぼんっ」と落ちた。3月ぐらいのことかしら。おっこちたのは部屋の端。本棚の下あたりでした。「なんだなんだ」って書斎に駆けつけると、本を積んでいたその下の部分がこのぐらい(直径1メートル強の円)にわたって陥没してたのを見つけたの。そこには鉛のような百科事典が積んでありました。重いものを積み重ねているので、床が痛みはじめ、ゆがんでしまって、すき間が広がって、最終的には抜けてしまったんでしょう。抜けたところには本がダダダッて入っちゃってるんです。だけど、床下は空洞で空気孔があって、そこからよく蛇が飛び出すっていうんで、誰も近寄らなかったわね。お寺が近かったのよ。(以下、とくに出典のない引用は連載時の記事より)

建て売りの一軒家が土地込みで約500万円だった当時で、床の修理代に20万円ほどかかったという。今の物価が当時の10倍だとすると200万円ぐらいということになる。当時、井上家は大工をしばしば家に呼び、窓をつけさせたり、本棚を作らせたりした。

ベストセラー作家としての地位を揺るぎないものとした後、井上ひさしは千葉県市川市内の別の場所に豪邸を建て、家族と共に引っ越した。驚くのはそのスペックだ。敷地の広さは200坪、建坪120坪の豪邸で、部屋数19、トイレの数6を誇っていた。さらに蔵書家の夫の書籍を収めるために、25坪ほどの家を書斎兼図書室として建て増しした。極めたのは広さだけではない。強度も図書館並みとした。

そのときは土台から掘って、本の重みに耐えられるだけの鉄骨をあるだけ全部入れました。木造なんてとんでもない駄目だってことで完全に図書館を作るつもりでそこは作ったわけ。お金は倍かかりました。2000~3000万円かかったんじゃないですか、書庫だけで。その後レール式の書庫を入れてそこに本を置きました。

そこまでしっかり建て増しをすれば本がいくら入っても大丈夫ではないか、と思ったらとんでもなかった。それ以上に本が増えるスピードが勝った。建てて数年後には、家族の部屋の枕元まで本で埋もれたという。

「亭主の仕事部屋と、書庫。そして家族の生活する場所。初めはそれぞれきちっと決まっているわけですが、こういう調子で本を買っていきますから、本は書庫からも仕事部屋からも溢れ、廊下へ這い出し、家人たちの枕許まで窺い、インベーダーみたいに家中を占拠していく。別にもう一棟、書庫を建て増ししても追いつかない。」(西舘好子・著『表裏井上ひさし協奏曲』より)

こんなことになるのも、夥しい量の本を買い続け、しかも買った本は一切捨てないからだ。

建て増しした書庫は、最初のころは余裕があると思っていたんです。ところがそのうちに、神田の古本屋さんがトラックに本を積んでくるのよ。「こういう系統の本を探そうと思うんですよ」と電話すると、「いらっしゃらなくて結構です。こちらからうかがいます」って、山ほど積んでくる。それこそ店ごと持って来たんじゃないか、という量です。いちいち選んでる時間がないので、「じゃあ全部置いてってください」ということで、本代が何百万円にもなったんです。

二人は1986年に離婚、蔵書(その大半が古本)に埋めつくされた豪邸は売りに出されることとなった。

離婚するかしないかという時期から、ひさしは郷里である山形県の町、川西町に本を寄贈している。トラックを何度も往復させて運搬した際、数えてみると約13万冊にのぼったという。さらに亡くなる少し前の『ふかいことをおもしろく 創作の原点』(2011)に掲載されているインタビューでは、約20万冊まで増えたと語っている。

いざ、遅筆堂文庫山形館へ

前置きがずいぶんと長くなった。

最終的に、井上ひさしの蔵書は22万冊にまで増えた。そのうちの約20万冊は、ひさしの生まれ故郷・川西町に1987年に建設された遅筆堂文庫に段階的に収蔵されていった。そして残りの数万冊は山形市の外れにある、遅筆堂文庫山形館に収蔵された。

僕が今回訪れたのは、山形市にある分館のほうだ。というのも同館が併設されている劇場「東ソーアリーナ」(522人収容可能)で、西舘好子さんが講演会を催す予定であることを知ったからだ。久しぶりに好子さんにお目にかかりたい。その一心で、山形館を訪れた。

「東ソーアリーナ」は、ひさしが生前、縁があったご当地の洋菓子メーカー「シベール」の社長、熊谷眞一氏が私財を投じて建てた施設だ。同アリーナに併設された遅筆堂文庫山形館は、川西町の遅筆堂文庫から2 万2 千冊の蔵書を借りて開館した。「東ソーアリーナ/遅筆堂文庫山形館/母と子に贈る日本の未来館」を紹介したパンフレットによると、次の通り。

東ソーアリーナ(旧・シベールアリーナ)と遅筆堂文庫山形館は2008年9月に開館しました。(略)作家・劇作家の井上ひさしさんが集めた蔵書を中心に、約3万冊の本が開架式の書架に並んでいます。1Fには親子でゆっくり本を楽しめるスペースがあり、2Fには井上さんの全著書を展示しています。(館内閲覧のみで、貸出しは行なっていません)2ヶ月に一度、トークショー「図書館トーク」を開催しています。

その他、ひさしが亡くなった後の2012年3月には、「母と子に贈る日本の未来館」が完成している。ここは、ひさしが初期の頃に脚本を手掛けた出世作の人形劇『ひょっこりひょうたん島』(NHK総合テレビ、1964年〜1969年)の熱心なファンだった伊藤悟さんが集めたものを中心に、ひさしにまつわる人々の資料が展示されている。

同パンフレットの表紙には、施設の誕生の意義や開館にあたっての決意表明が記された、生原稿の写真が用いられており、そこにはこう書かれている。

利益が生まれたときはその一部を社会に提供する。それが社会によって生かされてもいる企業の責務である。つまりどのような会社であれ一人ぽっちで立っているわけではなく、社会といっしょに生きているのだという哲学。このシベールの哲学が、アリーナ(劇場にもなる)と図書館を合わせ持つ複合施設を誕生させることになった。金もうけ第一主義と自分さえよければ良い主義が全盛の昨今には珍しい奇蹟である。

この奇蹟を一瞬の美談だけで終わらせてはいけない。だいたいそれではもったいない。例えば私は蔵書と演目を持ち寄って奇蹟が一秒でも長く輝くよう努めよう。そしてこの奇蹟が永く輝きつづけて日常そのものになり、この国に欠かせない社会共通資本になるためには、その最終最大の決め手は、みなさまの参加である。ここへ来ていただくだけで、奇蹟がわたしたちみんなの日常そのものになる。門は広く、そして大きく開かれている。

シベール・アリーナと遅筆堂文庫山形館が開館して1年半あまりがたった2010年4月、井上ひさしは亡くなった。触れると火傷しそうなほど情熱あふれる、この文面。もしかすると、彼はこのとき、自らの死期を悟っていたのだろうか。

上の引用文が記された井上ひさしの生原稿。

西館好子さんとの再会

6月26日(日曜日)の朝、遅筆堂文庫山形館のある山形市へ向けて僕は出発した。車を借りた酒田から、出羽三山や最上川を越え、会場のある山形市南部へ。さくらんぼが収穫される時期だったため、産地である山形では、さくらんぼの木を覆う、大ぶりなビニールハウスがあちこちで目立った。

会場前の駐車場に到着したのは、講演開始の30分ほど前の午後1時半。遅筆堂文庫山形館や東ソーアリーナのそばには、シベールのラスク工場があり、近くには、さくらんぼ狩りが楽しめる農場があった。

駐車場は、あらかた乗用車で埋まっていた。階段をあがると、左が東ソーアリーナ、真ん中は母と子に贈る未来館、そして右は遅筆堂文庫山形館となっていた。

ホールには地元の井上ひさしファンが高齢者を中心に集結しており、522席を有するホールのかなりが埋まっていた。平均年齢は60歳超というところ。ひょっこりひょうたん島世代なのか、それとも吉里吉里人ファンなのかはわからないが、井上ひさしの作品にリアルタイムで親しんできた人たちであることは間違いない。

午後2時、舞台に登場した西舘好子さん。目の覚めるようなオレンジ色のスプリングコートを着て、上手から登場した。ステージ真ん中の椅子と丸いテーブルがあるところまで歩いていくが、やや足取りがおぼつかない。というのも、最近まで、車椅子だったそうなのだ。彼女は昭和15年(1940)年生まれだから今年で82歳。うちの母親と同い年の後期高齢者。年齢を考えると無理もない。

「山形に入れる日がくるなんて夢にも思っていませんでした」と感慨深げの好子さん。しかしそう話す声はやや弱い。お身体の調子は大丈夫なんだろうか……などと心配していたら、そこは、下町生まれの江戸っ子。話しはじめたら、止まらなくなり、話せば話すほど元気になり、滑舌が滑らかになっていった。

離婚後にはじめた、子守唄の保存や普及をめざす日本子守唄協会(現・日本ららばい協会)での活動、シングルマザーの支援など、現在の活動について話したいだろうに、そこはグッと抑え、ここに集っている人たちが求める話を披露した。つまりそれは、好子さんと井上ひさしとの関係についてだ。2人がどのようにして出会い、結婚したか、ひさしが作家として成功するまでにどのように二人で頑張り、成功を収めたか、ということだ。さらには、なぜ仲が悪くなり、離婚に至ったかということにも話が及んだ。

1960年代から70年代にかけて二人は無我夢中だった。ひさしが書き、好子さんが資料を探したり、編集者の対応をしたりする。そうした連携によってテレビや舞台の脚本から小説まで、さまざまな名作が次々と生み出された。ときには三日三晩寝ないで机にかじりついていたこともあったという。そして、ひさしの念願だった劇団、こまつ座を旗揚げするに至った。

ところがだ。こまつ座の窓口を好子さんが担うようになってから、二人の関係はギクシャクした。劇団を回していくため、好子さんはそれまでのようにひさしを守るのではなく、好子さんからひさしにいろいろ注文する必要が出てきた。そのことが二人の関係に亀裂を生じさせた。

すべてを夫の創作のために捧げていた壮絶な結婚生活。好子さん自身は、夫に尽くすという感覚はなく、そうした状況を面白がってやっていたという。とはいえ、同居していた好子さんの両親、そして2人の間に生まれた娘たち3人のほうでは、巻き込まれたという感覚を持っていたのかも知れない。まさに、ひさしの創作を中心に、井上家はまわっていたのだ。

その点については、好子さんも思うところがあったようだ。「井上家は後悔だらけの欠陥家族」(西舘好子・著『家族戦争 うちよりひどい家はない!?』より)と振り返りつつも、ひさしとの結婚生活については、達観したようなところがある。

「過去に対して悔しいとか、許さないといった愛憎は越えています」(同著より)

1時間半、話し切った好子さん。講演が始まったときとは、別人のように顔色がつやつやとしているようにみえた。

終わってから楽屋に伺うと、好子さんは弾んだ声で言った。

「シングルマザーが安心して身を寄せられる場所を作ろうと思っているの。やりたいことが他にもあるのよ。まだまだ元気でいなくちゃね」

そんな好子さんの姿に僕は安堵した。

楽屋にて。西館好子さん(左)と筆者。

大江健三郎との友情

楽屋を後にした後、遅筆堂文庫山形館を訪れた。ここは東ソーアリーナと同じフロアにある、閲覧専門の図書館だ。

さきほど記したパンフレットの文面には、「作家・劇作家の井上ひさしさんが集めた蔵書を中心に、約3万冊の本が開架式の書架に並んでいます」「2Fには井上さんの全著書を展示しています」とあった。

入ってすぐ左手壁面の書棚には、ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎の書籍がまとまっておかれていた。その棚には、同じ山形の文豪、藤沢周平の書籍や、東ソーアリーナでイベントを行ったことのある作家たちの作品なども収められていた。

なかでも目をひいたのは、大江健三郎のビニールカバーに包まれた本だ。『大いなる日に』『揺れ動く(ヴァシレーション)』『救い主」が殴られるまで』。この3作品には、次のような言葉を記した手書きの付箋が挟まれていた。

「神を定義する」「救い主が成就される日」「祈りは無力か」

ハネや止めが柔らかい文字全体が丸みを帯びた、万年筆で書かれたであろうメモが挟まれていたり、数行にわたってマーカーがひかれていたり。そこからは、ひさしの思考の形跡が垣間見えた。

大江健三郎の本にはたくさんの付箋が差しはさまれていた。

開館から2ヵ月がたった平成20年(2008年)11月には、大江健三郎と二人でこの場所に来たこともあるようで、二人が並んで映っている写真のパネルが書架の上に置かれていた。この1年5ヶ月後にひさしはガンで逝去する。このときはまだ病が発覚する前であった。

「乱読」から名作が生まれた

この図書館の特徴はそのユニークなカテゴリー分類だ。例えば「対人怖症・脳の仕組み・老人・医療」、「食物・家族」、「神話・伝説」、「野球・スポーツ」といったふうに、書棚の本が独特の並びをしているのだ。そのほか、1階で目立ったのは、夏目漱石全集、西田幾太郎全集、和辻哲郎全集などの全集もののほか、『鎌田慧の記録〈1〉日本列島を往く』や『鎌田慧の記録〈2〉繁栄と貧困』、『鎌田慧の記録〈3〉少数派の声』などの「記録」シリーズや、『蒋介石秘録』『法華経大講座』『中国の歴史』(陳舜臣)といったシリーズものだった。

2階の壁面には、井上ひさしの全著作が置かれていた。医学各種の国語辞典や古典の全集はもちろんのこと、『医学大辞典』や『科学大事典』といったさまざまな分野の辞事典、もちろん古典の全集も揃っていた。

2階の書棚全景。奥の壁には井上ひさしの全著作が陳列されていた。

どの棚からも、ひさしの思想的一貫性を濃厚に感じた。たとえば、本の並べられ方に独特の癖がある。「日本共産党の党首に担ぎ上げられそうになったことがある」というだけあり、護憲についての本や戦争反対の書籍が目立つ。並んでいる本のタイトルをみるだけで、ひさしの思想遍歴をたどっているような興奮があった。

本の状態はそこそこ保たれていて、ひさしの本の扱い方が丁寧だったことも垣間見えた。特徴としては、洋書がほとんどなく、和書、つまり日本語で書かれたの本がほとんどだということだ。

「(一緒に住んでいるとき)一ヶ月に書籍代が数百万円分かかりました。もちろん全部は読んでいませんよ」(西舘好子さん)

とはいうものの、常人には想像がつかないほどの本を読んでいたことは疑いえない。膨大な読書が、数々の名作を生み出す源泉だったのだ。

同じ世代に活躍した山崎豊子や松本清張のように、どこかに出かけて人に会って書くタイプの作家と井上ひさしは違っていた。彼が話すのが得意ではなかったということもあるのかも知れないが、それよりも資料を読むことで、物語世界を膨らませるのが得意だったからではないだろうか。

名作『吉里吉里人』は、東北地方の一寒村が突然、国として独立する話だが、これも一切取材をせずに書き上げたと、西舘好子さんに聞いたことがある。

現場に行って取材をすると、その場の持っている磁場のようなものに引っ張られがちだ。あえて現場に行かず資料を読み込むことで、現場の磁場に左右されず自分自身の描きたい世界をバランスよく作り出そうとしたに違いない。

書庫に並んだ書籍を眺めながら、僕は確信した。井上ひさしはあえて取材に出ず、資料を乱読することで、広大な作品世界を構築したのだと。


[編集部追記(8月19日)]本記事の公開後、遅筆堂文庫山形館さまより、事実関係に一部誤りがあるとの指摘をいただきました。そのため、記事の内容の一部を、公開時のものから修正しました。謹んでお詫びいたします。

執筆者紹介

西牟田靖
ノンフィクション作家。日本の旧領土や国境の島々を取材した一連の作品で知られる。「マガジン航」の連載をまとめた『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)をはじめ、著書に『僕の見た「大日本帝国」』(カドカワ)、『誰も国境を知らない』(朝日文庫)、『ニッポンの穴紀行〜近代史を彩る光と影』『ニッポンの国境』(光文社新書)、『〈日本國〉から来た日本人』などがある。
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