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VRはいつか来た道?――誕生から30年を振り返る

最近は、VR(バーチャル・リアリティー)という言葉をよく目にするようになった。世界最大の電子機器展示会CESや最新デジタルコンテンツのショーケースとして人気のSXSWなどでも、常にVRが話題の中心となり派手な映像が紹介されている。

このブームとも言える状況は、もともとは2012年にオキュラス(Oculus)というベンチャー会社が、VRに使われるHMD(頭部搭載型ディスプレー)開発を始めたのがきっかけだ。フェイスブックがすぐさま2014年に同社を20億ドルで買収し、創業者のパルマー・ラッキーはTIME誌などで一躍時の人として紹介されるようになった。フェイスブックCEOのマーク・ザッカーバーグの期待は高く、「10億人に普及させる」と宣言したことから、世界中がVRに注目するようになる。

オキュラスを追うように、サムソンやグーグル、マイクロソフト、HTCなどが競うようにスマホを使った簡易型からハイエンドまで各種HMDを発売し始め、業界では2016年あたりから「VR元年」という言葉が使われ始めた。昨年の世界の市場規模は270億ドルで、今後も当分年率70%程度の成長が期待されている。

今年の5月にはスタンドアローンで使える安価なOculus Questも出され、始まったばかりの次世代通信システム5Gでは、ネット経由のVRコンテンツ配信がキラーサービスになると言われ、業界は沸き立っている。街にはVRを楽しめるテーマパークが次々とでき、スピルバーグ監督のVR映画「レディ・プレイヤー1」も公開され、いまやVRは誰もが知る次のトレンドの中心的存在ともなっている。

1990年にVPLのHMD、2019年にOculus Questをかぶる著者。

1989年に誕生

盛り上がる市場に水を差す気はないのだが、VRは実は1989年(平成元年)に最初の製品が出た古いテクノロジーだ。著者は当時、新聞や雑誌でVRを使った新奇なデモや研究者の話を取材しており、1991年に『人工現実感の世界』(工業調査会)という初のVR本を出したのだが、最近の話題を面白がる若者にその話をしても驚かれるだけで、本の版元が倒産してしまい昔の話を伝えようもない。

当時の関係者と話しても、VRの基本的な発想は変わっていないと異口同音に言われ、現在のブームでも同じような発想のデモが行われているのを見るにつけ既視感をぬぐえない。そこで、過去に論じられた夢や開発の展望など、現在でも役立つヒントがあるのではないかと考え、その後30年の話や、現在も一線で研究やビジネスを行っている専門家との対話を加えて、今年の5月に増補新版『VR原論 人とテクノロジーの新しいリアル』(翔泳社)を出すことになった。

30年前を思い返すと、世界では中国の天安門事件が起き、ベルリンの壁が崩壊するという戦後の世界の構造を大きく変える出来事が起こっており、コンピューターの世界では「マルチメディア」がトレンド語になっていた。パソコンの性能が次第に向上して、文字だけでなく音声や映像を徐々に扱えるようになり、ただの計算機ではなく個人が複数のメディアを扱えるツールとなる時代が来ようとしていた。

恐竜のような旧体制の大型コンピューター(メインフレーム)の市場規模をパソコンなどの哺乳類のような新規の小型機が上回り、戦後の市場が大きく変化している時期でもあった。とは言うものの、当時のパソコンの性能は現在の数十万分の1レベルしかなく、やっと粗い画像やパラパラマンガのようなぎごちない動画が表示できるだけで、まだとても実用に耐えるものではなかった。

そんな時代に、マルチメディアが一般化した未来の夢物語のようなVRと呼ばれる世界のデモが、1989年6月7日にサンフランシスコのハイテクイベントで公開され、そこに世界初のVRベンチャーVPL社が出したRB2というシステムが使われて注目を浴びた。二人の利用者が、アイフォン(Eyephone)という名前のHMDと手の動きを表現するデータグローブというデバイスを着けて、CGで作られた空間の中で3Dのテレビ会議をしているようなデモで、パシフィックベルという電話会社がコミュニケーションの未来像をイメージするために出展していた。このシステムは25万ドルと高価なもので、CG専用マシンが描き出すポリゴンのキャラがぎごちなく動くだけだったが、当時としては21世紀の未来を予感させるような画期的なデモだった。

サンフランシスコのテクスポ’89というイベントで披露されたVRシステム。

VPLとはVisual Programming Language(ビジュアル・プログラミング・ランゲージ)という言葉の略で、視覚的にプログラミングをするための装置を開発する会社だった。同社を起業したジャロン・ラニアーは、もともとアタリなどのゲームメーカーで働いていたプログラマーだったが、友人がエアーギターを演じる際に、指に着けてその動きを検知して音を鳴らしてくれる装置を作っているのを見て、それを使えばキーボードやマウスなどを使わなくとも、手の動きでパソコンを操作できると考え起業したという。

そして、画面にレゴブロックのように機能を実現する立体オブジェを配して、それらを視覚的に手で組み立ててプログラミングができるソフトも開発した。さらに、パソコンの画面を目の前にそのまま置いて、左右の画面で立体視ができるHMDを開発し、耳に着けるearphoneならぬ目に着けるeyephoneと名付けた。そして、こうしたテクノロジーをVRと呼び、それが一気にブームとなった。

コンピューター開発当初にルーツ

このHMDはVPLのオリジナルではなく、すでに1968年にCGの父とも呼ばれる、アイバン・サザランドが「ダモクレスの剣」と呼ばれるシステムを作っていた。サザランドは冷戦時代に、北米全土のレーダーを結んで監視する防空管制用のSAGEというシステムで使われた、オンラインでリアルタイム処理をするコンピューターを利用して、画面で敵機をマークして追跡できるようなグラフィックなシステムを、もっとデザインや民間の応用に使えないかと考えた。

アイバン・サザランドの最初のHMDシステム。

そうして考案したスケッチパッドと呼ばれるソフトウェアは、画面にライトペンでタッチして、いろいろな図形を描き操作できるものだった。彼の研究はそこで止まることなく、さらにその機能を3Dの図形にまで拡張して、対象が空中に浮かんだように見えるHMDを当時のブラウン管で作っていた。

こうした研究は、軍事や宇宙開発などの分野で、リルタイムに情報を操作するためのシステムを開発するのに巨額の予算がつくことで加速した。1980年代には空軍が、戦闘機のパイロットがヘルメットと一体化したHMDを使って、敵機を目でとらえて自動的に攻撃できるシステムVCASSを開発していた。またNASAでは宇宙ステーションに多くの機器を持ち込む代わりに、HMDでバーチャルな実験室を作ってオペレーションを行う研究を行っていた。

NASAが開発していたHMD。

こうしたさまざまな研究が、VPLによってスピンオフして一般向けの製品となったことで、コンピューター業界ばかりか90年代のカルチャーシーンにも大きな変化が生じた。

1990年10月には「VRのウッドストック」とも呼ばれる、初の一般向けVR展示イベント「サイバーソン」(Cyberthon)がサンフランシスコで開催され、1993年に創刊されたデジタルカルチャー誌WIREDでは新しい時代のアイコンとしてVRは欠かせないものになった。当時はVRの中に、60年代のカウンターカルチャー時代に流行したドラッグやサイケデリックな世界の復活を感じる人も多く、その後は一般にも普及が始まったインターネットの電子的な空間に入っていくサイバースペースに結びつけられるようにもなった。

92年にはスティーブン・キングのホラー作品にVRを取り入れたSF映画「バーチャル ウォーズ」が公開され、日本でも「横浜ホメロス」などの漫画でVRが重要なプロットとして使われた。一般にVRの認知が広がると、ネットの世界ではハビタットやセカンドライフなどのアバターを使ったソーシャルなサービスが流行し始め、現在のSociety5.0などの論議で出てくる未来の情報社会をイメージする場面にもVRが取り入れられるようになった。

VRで経験できる世界は最初はゲームが多かったが、研究の最先端ではスポーツや医療現場での手術の訓練用や、設計段階の自動車や建物などの使い心地を試すものなど、現在もよくデモやイメージで語られるものがすでに用いられていた。HMDなどの特殊な装置を使うのではなく、大型のディスプレーを使って、その中でジオラマのようにスポーツ観戦や観光地ツアーをしたり、過去や未来の世界に遊んだりする展示も90年頃から普及して、テーマパークや博物館などで人気となった。

しかし当時はまだコンピューターの性能も3D動画を扱うには十分ではなく、HMDなどの装置も一般人が買える値段ではなかった。そのうちに90年代後半から広く普及が始まったインターネットの波や、パソコンのモバイル化のなどに隠れて、VR自体は個別に論じられることが少なくなっていった。

VRがこれからの世界で持つ可能性

そうした歴史を思い起こすと、最近の第2次とも考えられる同じようなブームが起きたのは、ちょっと不思議な感じもする。しかし30年前には億単位の専用マシンでしか動かなかった3DCGが、現在のパソコンでは十分な精度とスピードで動く。HMDも昔は3キログラム近くの重さで、8万画素ほどの粗い画像しか表示できないものが100万円ほどしたが、現在の製品は300グラム程度の重さで4Kの高精細な動画が表示できて数万円で買える。こうしたデジタルテクノロジーの進化は驚異的で、昔に紹介した試みが誰もが手にできるようになれば、世の中は大きく変わるだろう。

今年に実験開始から50年を迎えるインターネットも、90年代にWWWによって専門家でない一般人が扱えるようになって普及し、世界を大きく変えることになった。最初のネットは大手メディアのサイトが中心で、現在のVRのように利用者が受け身の状況だったが、21世紀になってからは、利用者が自由に発信できるSNSが普及することで普及が爆発的に加速した。VRはまだ3Dゲームなどが中心で受け身市場だが、今後は誰もがスマホやHMDを手にできるようになり、専門知識を必要としない簡単なコンテンツ制作プラットフォームや360度カメラなどが増え、VTuberのように簡単にバーチャルなキャラクターに変身できるサービスなどが一般化して誰もが簡単に発信できるようになれば、まるで新しい局面を迎えることになるだろう。

VRの進化をパソコンの歴史と並べて比較してみると、まだマイコンが出て来てアマチュアが手作りで試行錯誤している段階なのかもしれない。VRというと、HMDを着けた3D映像とインタラクションするイメージだが、AIやIoTが普及していく今後のネット社会では、利用者の視点から多様な情報を表現してコミュニケーションをするために、VR的な発想でソフトやサービスが作られ、HMDなどの特殊な装置を使わずに、目に直接映像を投影したり、ウェアラブル機器と連動した情報がその場に合わせて表示されるようなディスプレーなどが開発されたりして一般化していくだろう。

気が付けば、VRは平成の30年間の情報化を象徴する一つのトレンドともなっていた。これからの、より多くの人がネットを活用する時代には、VRは文字中心の言葉を超え、感情や経験を直接伝えることができる可能性を開花させるかもしれない。VRのリアルさやフェイクさばかりを論じるのではなく、まずはより豊かな非言語的なコミュニケーションをする手段として、単独の分野としてでなく、コンピューターサイエンスやコミュニケーション理論のもっと大きな枠組みの中に捉えて、今後の動向を論じる必要もあるだろう。

執筆者紹介

服部 桂
元朝日新聞ジャーナリスト学校シニア研究員。1978年に朝日新聞社に入社。84年にAT&T通信ベンチャー(日本ENS)に出向。87年~89年にMITメディアラボ客員研究員。科学部記者や雑誌編集者を経て現職。著書に『人工現実感の世界』(工業調査会)、『人工生命の世界』(オーム社)、『メディアの予言者』(廣済堂出版)。主な訳書にレヴィンソン『デジタル・マクルーハン〜情報の千年紀へ』、マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』、スタンデージ『ヴィクトリア朝時代のインターネット』、同『謎のチェス指し人形「ターク」』、コープランド『チューリング 情報時代のパイオニア』(以上、NTT出版)、ケリー『テクニウム』(みすず書房)、『マクルーハンはメッセージ』(イーストプレス)、『VR原論』(翔泳社)、『<インターネット>の次に来るもの』(NHK出版)などがある。
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