サイトアイコン マガジン航[kɔː]

マクルーハンというメッセージ

マーシャル・マクルーハンという名前を聞いてハッとするのは、いまではもう中高年のメディア関係者だけかもしれない。1960年代には彼の唱えた「メディアはメッセージ」などの言葉が世界中に流布して一大ブームが起き、ニュートンやダーウィン、アインシュタインなどと並び称され、ジョン・レノンも面会に訪れ、ウディ・アレンの映画にも登場し、フランスでは「マクルーハニズム」(mcLuhanisme)という新語が創られるという事態にまでなり、日本でも評論家の竹村健一氏が紹介して世間を大いに騒がせたものだが、どういうわけか数年で表舞台から消え、1980年の大晦日に亡くなった際にはほとんど報道されなかった。

ところが昨年の7月21日に突然、グーグルが記念日を祝うロゴ(ドゥードル)で、マクルーハンの106歳の誕生日を祝うという名目で、彼の顔や理論を説明するアイコンに変わった。するとネット上で「マクルーハンって誰?」という問いかけが相次ぎ、それに合わせた解説記事などがアップされ、「いまから約100年前に生まれたにもかかわらず、ソーシャルメディアやビッグデータ、ネット炎上を予想していたんですね!!」と驚く声が上がった。

©Estate of Marshall McLuhan

カウンターカルチャー時代の寵児

このマクルーハンという毀誉褒貶の多いカナダの英文学者について語ることは、実際のところかなり勇気がいる。時代の寵児としてもて囃されたにもかかわらず、当時は彼のメッセージを理解できた人がほとんどいなかったため、学者ではなくキャッチフレーズの名手に過ぎないと学会からは冷遇され、メディア業界からは面白いが意味不明だと敬遠され、カウンターカルチャーの吹き荒れた時代の流行の象徴として消費されてしまったからだ。本人も自分の理論を理路整然と説明して相手を納得させるのではなく、「私は説明しない、探究するのみ」と公言し、「メディアはメッセージ」をもじって、『メディアはマッサージ』という本まで出すなど、本気とも冗談ともつかない対応をしたので、世間は混乱するばかりだった。

マクルーハンが世相を切る言葉は、テレビが普及し始め、戦後生まれの若者の使うロック、ヒッピー、サイケ、ドラッグなどの言葉が流行し、学生運動やベトナム戦争の抗議デモが盛んになり、時代が大きく変わった中で際立っていた。経済成長によって重厚長大のモノからサービス中心の軽薄短小へ、伝統文化から若者文化へというシフトが起き、戦前の常識が通じないさまざま社会現象が起きたとき、マクルーハンの警句のような言葉が時代の本質をずばりと言い当てているように感じられたのだ。

それにまず飛びついたのは広告業界で、彼のフレーズを取り入れようと招き、続いて大企業が次の戦略を立てようとコンサルを依頼した。しかし、「IBMは計算機や事務機器ではなく情報を処理するサービスを売る会社で、AT&Tの本業は電話を売ることではなくコミュニケーションのビジネスだ」という彼のアドバイスを、当時の幹部は変わった見方で刺激的だと思ったものの、それをどう応用していいのかわからないまま放り出した。

マクルーハンのメディア理論はまず、当時普及が加速していたテレビをどう理解するかに注目したが、その頃には評論家の大宅壮一氏が、本を読む時間を奪い「一億白痴化」を招くと断罪し、世間も不真面目で低俗なメディアだと受け取っていた。ところがマクルーハンは、テレビは本のような活字メディアとは異質の新しい電子メディアで、人間を創造的で自由にすると擁護するような発言をし、テレビ関係者はやっと世界的な文化人に評価されたと浮足立ったが、「テレビはクールだ」などという言葉に、「その場では納得しても、2時間たってみると、いったい何のことかわからん」と結局は投げ出す始末だった。

そうした一見、トンデモ論のように見えるマクルーハンを物知り顔で解説すると、当時からお調子者か物好き扱いされたことは、最初の解説者である評論家の竹村健一氏の軽快な語り口に、マクルーハンの著書を翻訳したNHKの研究者の後藤和彦氏がかみついた論争などからもうかがい知れる。現在でもメディア関係者は、マクルーハンの名前を聞いて、知ってはいるが読む気にもなれず無視もできないと苦笑いするだけで、いまさら相手にしたくないという顔を決め込む人が多い。

1990年代に入るとネット時代の混乱に彼の理論が役立つことを声高に主張する米デジタル・カルチャー誌「WIRED」や、次世代の米国のインフラとして情報スーパーハイウェーを唱えマクルーハンを多々引用するアル・ゴア副大統領などが出てくることで、著書が再版されまたブームが起きた。そしてその後はまた、理屈よりビジネス優先と彼の話題は聞かれなくなったが、今年になって、ツイッターで世界に混乱をもたらしている米トランプ大統領のことを「マクルーハン的思考を実践した初めての大統領」と前主席戦略官のスティーブ・バノンが発言して注目されるなど、あいかわらず電子メディアや現在のネット世界のあり方を論じる人々の間には彼のメッセージが生き続けていることが明らかになってきた。

そういう状況で、敢えて最近のネット状況も踏まえて、マクルーハンを再度論じてみようと、最近『マクルーハンはメッセージ』という本を上梓した。メディア業界ではいまだにドン・キホーテのような扱いを受けるかもしれないが、テレビを論じている彼の主張そのものより、その方法論から普遍的なメディアの見方を学べることが多いと思ったからだ。

服部桂著『マクルーハンはメッセージ』(イースト・プレス刊)

なぜネット時代のメディアの本質を言い当てられたのか?

そもそも、マクルーハンは何を主張していたのだろうか? 簡単に言うと、まずわれわれの社会を作っている基本はメディアであり、それは魚にとっての水のように、意識されずに社会全体のあり様を支配しているということだ。彼にとってのメディアとは、人間が自分の意思を外に向かって表現する手段すべてを指し、話し言葉から始まり、それらをより効率的に伝えるための文字や書物、ラジオやテレビなどのマスメディア、手足の動きを強化する道具やファッション、自動車などの交通手段も含むテクノロジー全般を指していた。

メディアの歴史を振り返ると、中世まではほとんどのコミュニケーションは話し言葉で行われていたが、15世紀半ばにグーテンベルクが活版印刷を発明すると、書物の普及によって文字を読む視覚中心の社会が形成され、合理的で科学的な思考が発達して近世から近代へと時代が移った。ところが19世紀になって、電信や電話などの電子的なメディアができることで、また聴覚中心の文化が復活して、中世以前のような世界が地球規模で展開することになる。

マクルーハンはそれを「グローバル・ビレッジ」、つまり地球規模の村と呼んだが、現在ネットでつながれた世界は、まさに70億人規模の村のようにウワサが飛び交い(フェイクニュースやデマや炎上)、物々交換のような個人取引(ネットオークションやメルカリのような物販)が当り前となり、プロとアマがはっきり分かれておらず(誰もがすべてをこなすプロシューマーとなる)、ウィキペディアのような集合知的なコラボレーションが登場するなど、一見、近代以前の村社会のような様相を呈している。

インターネットの空間は、全体が見わたせない超巨大な劇場空間のようにも思える。その中にいると突然どこかから人の声が聞こえてきて、その声にまた反応する声が鳴り響く、まるでエコーチェンバーのような世界でもある。こうした電子メディアの聴覚的な性格を、従来の視覚的な整然とした論理で切っても混乱するばかりだ。

マクルーハンは電信というネットワークによって生まれた近代の新聞を、まず電子メディアの代表として取り上げ、「地球のいたるところから同時的に情報を集めることを可能にすることによって、モザイク的で、同時性という本質的に聴覚的な性格を帯びるようになった」と指摘している。そしてまた、「新聞とは地域に参加する人々の集団的な告白形式だ。本は〈視点〉を持つ、個人の告白形式だ」とも述べる。つまり新聞は本に電子メディア的な性格を付加することで、はっきりした視点よりも共同体的な多様な声の集まりのようなものになったわけで、そういうメディアに理路整然とした一貫した視点を維持させるのは難しいとも指摘している。

こうした「電子メディア化した本」としての新聞のあり様は、近年のソーシャルメディアのもたらしている混乱と似たものがあった。新聞が電信や電話を使って、世界中から集めた情報を切り貼りして並べたように、いまでは個人のつぶやきや現場からの声がそのまま巨大な紙面のようなネット空間に並べられ、世界中に拡散していく。フェイクニュースもこうした中心のはっきりしない情報が、きちんとチェックされないまま広がってしまうことによって起きた問題の一つだろう。

ネットなどのメディアにどっぷりつかったわれわれがメディアを正面から論じることは、魚が水の存在を意識するぐらい難しく、新しいアプリの出来不出来やフェイクニュースなどの現象を批判していても全体像は見えてこない。マクルーハンはかつてパスツールが細菌という目に見えないミクロな存在を前提に治療しようとして、マクロな症状しか見えない仲間の医者に拒絶された例になぞらえて、メディアを論じるのにもそれを成り立たせている原因から理解しないと、それによって起きた現象をいくら批判しても何もわからないと論じた。

メディアとは、二人の人が向かい合っている間隙がツボの形に見えてくる「ルビンのツボ」の錯覚のような、通常は意識されないわれわれのリアリティーの背景にあるものだ。潜在意識を理解せずに人間の心理を本当には理解できないのと同様、社会の潜在意識ともいえるメディア自体を理解せずに、現象ばかり追っていても問題の本質は見えてこない。

電子メディアが聴覚的で中世的な感覚を取り戻すと論じるマクルーハンの言葉から、何を読み解くべきなのだろうか? 産業革命以降のテクノロジーの進歩によって、19世紀以降ひたすら効率向上や市場拡大のパラダイムで肥大してきた現在の社会は、ネット時代になっても政府や組織の問題が起きた時の対応を見ていると、トップダウンな思考がまかり通っている。むしろ時代は、20世紀までの進歩の幻想から目を転じ、本来人間が持っていたいろいろな可能性を取り戻す段階に来ているのかもしれない。AIやIoTが支配するネットの次の世界は、さらにピカピカのロボットが支配する世界というより、われわれ個々人が過去に忘れてしまった豊かさを取り戻すチャンスと考えたほうがいいのではないだろうか。


【トークイベント開催のお知らせ】

「マクルーハンからみえるメディアの未来」
服部桂 × 松島倫明 トークイベント

『マクルーハンはメッセージ〜メディアとテクノロジーの未来はどこへ向かうのか?』(イースト・プレス) の刊行を記念して、6月21日に青山ブックセンター本店(東京)でトークイベントが開催されます。

日程:2018年6月21日 (木)
時間:19:00~20:30(開場18:30)

登壇者は著者の服部桂さんと、「WIRED」日本版の新編集長に就任した松島倫明さん。詳細は以下のリンク先をご覧ください。
http://www.aoyamabc.jp/event/mcluhan/

 

執筆者紹介

服部 桂
元朝日新聞ジャーナリスト学校シニア研究員。1978年に朝日新聞社に入社。84年にAT&T通信ベンチャー(日本ENS)に出向。87年~89年にMITメディアラボ客員研究員。科学部記者や雑誌編集者を経て現職。著書に『人工現実感の世界』(工業調査会)、『人工生命の世界』(オーム社)、『メディアの予言者』(廣済堂出版)。主な訳書にレヴィンソン『デジタル・マクルーハン〜情報の千年紀へ』、マルコフ『パソコン創世「第3の神話」』、スタンデージ『ヴィクトリア朝時代のインターネット』、同『謎のチェス指し人形「ターク」』、コープランド『チューリング 情報時代のパイオニア』(以上、NTT出版)、ケリー『テクニウム』(みすず書房)、『マクルーハンはメッセージ』(イーストプレス)、『VR原論』(翔泳社)、『<インターネット>の次に来るもの』(NHK出版)などがある。
モバイルバージョンを終了