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電子書籍の「失われた◯◯年」に終止符を 〜続・「電書再販論」に思うこと

これまでの経緯

こんにちは。この「マガジン航」で以前、電子書籍への再販制度導入について、書かせていただいたことがあります(リンク)。

その時は、再販導入を主張する鈴木藤男氏(NPO法人わたくし、つまりNobody副理事長)、落合早苗氏(hon.jp代表取締役)の主張を、主に経済学的な観点から、分析しました。

紙幅の関係で、「電書再販論」のもう一人の主張者である、高須次郎氏(日本出版者協議会会長、緑風出版代表)の所論については、「後編」に回すことにしたのですが、その「後編」を書きあぐねているうちに時間がたってしまいました。すみません。

今回、「後編」として、「電書再販論」について、さらに詳しく書かせていただきます。

そもそも「再販制度」とは?

はじめに、出版物の「再販制度」とは何かについて、ちょっと整理しておきます。

独占禁止法では、商品の生産者や供給者(この場合は出版社や取次)が販売者(この場合は書店)に対して一般消費者に対する(最終)販売価格を(拘束)強制することを禁じています(法第2条第9項)。

ところが新聞、雑誌、書籍などの商品(著作物)については、法第23条第4項によって対象外とされています。これが「再販制度」と呼ばれるものです。

ただし、「制度」と名前はついていますが、

「著作物はすべて出版社の決めた価格で売らなければ違法!」

という法律があるわけではありません。

あくまでも原則は、「生産者が最終販売価格を決める契約は違法」ですが、著作物に限り、この規定の対象外としますよ、としているにすぎません。いわばお目こぼしです。

このあたりを誤解して、本や雑誌が安売りされていると聞くと、即、

「再販制度に違反している!」

とまるで犯罪でも見つけたかのように脊髄反射する人がいますが、間違っています。本の安売りは犯罪ではありません。

当事者が合意すれば原則、どのような契約でも結ぶことができる。これは「契約自由の原則」あるいは「私的自治の原則」と呼ばれる近代私法の大原則の一つです。

つまり著作物については、

生産者が最終価格を決める契約(再販契約)を結んでもいいし、
結ばなくてもいい(最終価格を決めない契約=非再販契約を結んでもいい)

というのが正確な理解です。

さて、紙の書籍や雑誌については、このように出版社が決めた価格(定価)での販売が広く行われ、それは合法なわけですが、電子書籍は現在、対象外となっています。

つまり、電子書籍については、生産者が最終価格を決める契約は、他のほとんどの商品と同じように「違法」とされるのです(実は抜け道があるのですが、これについては後述します)。

これに対して、独禁法の第23条第4項を改正するなどして、電子書籍も第2条第9項の対象から除外し、「再販制度」の適用対象とするとする動きがあります。これが「電書再販論」です。

前編のおさらい

前回、筆者は、業界誌「出版ニュース」に掲載された、二つの「電書再販論」(鈴木藤男氏、落合早苗氏)を取り上げ、それぞれの問題点を指摘しました。

鈴木氏の主張は、煎じ詰めれば、次のような内容になります。

著作物は通常の商品と異なり、自由競争になじまない。そのため、再販制度が設けられた。電子書籍も紙の書籍と同様、著作物なのだから、同じ扱いにすべきだ。

それに対して筆者は、まず、前段について、著作物が本質的に他の商品と異なる、というのは言い過ぎではないかと示唆しました。

ついでにいうなら、木下修「書籍再販と流通寡占」(アルメディア)によると、著作物に再販制度が導入されたとき(1953年)に、このような「本質論」を出版界が主張した形跡はありません。

それどころか、同書には、「文化保護のために再販を導入した、というのは後付けでつけられた理屈ではなないか」と疑わせる証言が、複数紹介されています。

とはいえ、再販導入後数十年にもわたる日本の出版の発展に、再販制度が、少なくとも、ある程度の寄与を果たした可能性は、否定できないかもしれません。

ただし、1900年から1997年まで再販制度を実施していたイギリスでは、再販廃止後、書籍の刊行点数、出版社の売上、国民の書籍の購入額、新規参入の出版社数のいずれもが、成長を続けていることにも留意すべきです(この点は前回も紹介しました)。

さらに、百歩譲って、紙の出版物ではプラスの効果があったとしても、ただ「似ている」というだけで同じ仕組みを電子書籍にも適用すべきかどうかは、別問題です。

このような理由で、鈴木氏の「電書再販論」に、筆者はあまり説得力を感じなかった、ということを書きました。

次に落合早苗氏です。同氏の主張をまとめますと、次のようになります。

電子書籍の価格は競争が激しく、下落傾向にある。米国では価格競争のせいで大手書店チェーンが倒産した。行き過ぎた価格競争はアマゾン一人勝ちの状況を生む。書籍や電子書籍は売れればいいというものではない。「電子図書」という新しいジャンルを創設し、再販制度の適用の可否について議論すべき。

これに対して筆者は、米国で苦境に立っているのは、主に金太郎飴のような大手書店チェーンであって、中小書店は健闘しているという事実を指摘しました。

また、このときは書きませんでしたが、これら書店チェーンは、オンライン書店の隆盛と並行して衰退しているのは事実ですが、それが行き過ぎた価格競争のため、という証拠はありません。

リテールの中心が、リアルからオンラインへ移行しているのは、出版物だけでありません。一般消費財、アパレル、家電、食料品など、すべての商品で起きていることです。人々がリアル店舗でなく、オンラインで購入するのは、価格が安い、ということもありますが、便利、というのがいちばんの理由でしょう。

価格競争だけで「アマゾン一人勝ち」になっているかのような言い方は牽強付会ですし、「電子図書」という別のカテゴリーを設けると、なぜそこではアマゾン一人勝ちにならないのか(価格でなく利便性が「一人勝ち」の原因だとしたら、何も変わらないでしょう)、説得力ある議論が展開されているようには思えません。

そもそも現在、再販制度下にある紙の本は、アマゾンも定価で販売しておりますが、そのことが、アマゾンがオンライン書店ビジネスで優位に立つことを防いでいるでしょうか?

「出版物販売額の実態2014」(日販)によりますと、インターネットルートによる書籍の販売額は2013年の時点で約1600億円。このうちのかなりの部分が、アマゾンジャパンによるものと見られています。

CCCの書籍・雑誌の売上高が1130億円(2014年3月時点)、紀伊國屋書店の売上が約1070億円(2014年11月期)です。アマゾンが日本での出版物売上を公表していないので、確実なことは言えませんが、日本最大の書店はアマゾン、という説は、この数字を見る限り否定できないと考えられます。

アマゾンの独占的な台頭を防ぎたいのであれば、それを可能にしている、再販制度を含む現行の出版ビジネスのやり方がまずいのではないか? と考えるのが普通の思考法でしょう。逆に、「アマゾン一人勝ち」になっている現在の紙の本の出版慣行を電子書籍にも適用すれば「アマゾン一人勝ち」を抑えられる、と考えるのは、通常の論理では、ちょっと理解ができない超展開です。普通に考えて、紙書籍で起きたことが電子書籍でも再現されるだけではないでしょうか?

価格競争のある世界で何が起きているか

ところで、世の中のほとんどの商品では、価格競争があります。たとえば、先日、筆者は冷蔵庫を買い換えたのですが、パナソニック、日立、シャープ、ハイアールなどを比較して、結局、日立のものを買いました。同等の性能の製品の中で、割安だったからです。

価格競争があるために、冷蔵庫業界では「一人勝ち」が起きているでしょうか? 日経トレンディが引用しているデータによると、2013年時点の冷蔵庫国内シェアは、パナソニックがトップで約22.6%、シャープ約21.8%、日立アプライアンス約18.5%、三菱電機約12.6%……だそうです。

同じく激しい価格競争のあるビール業界では、周知のとおり十数年にわたってキリンビールが圧倒的なシェアを持っていましたが、1987年の「スーパードライ」の登場以降この構図が崩れ、アサヒビールが首位を奪還、その後、取ったり取り返したりのシーソーゲームが続いております。ロイターによりますと、2014年時点では、アサヒが38.2%でトップ、2位のキリンが33.2%、サントリーが15.4%のシェアを獲得したそうです。

要するに、(極めて常識的な話ですが)価格競争があっても、「一人勝ち」になっている業界と、なっていない業界があるわけです。そして、価格競争以外の原因で、長年続いた「一人勝ち」が崩れることもあります。

従って、論理的に考えれば、「価格競争をなくせば『一人勝ち』がなくなる」という結論は出せないはずです。

となれば、単に、「一人勝ち」が起きている、と指摘するだけでは、制度の導入を合理化する理屈としては、あまりも弱いとしか言いようがありません。

というわけで、鈴木氏、落合氏ともに、「紙の本が再販なのだから、電子書籍も再販に」となんとなく単純に類推しているに過ぎないのではないか、というのが筆者の印象でした。

価格決定と紙への影響

鈴木氏の本質論、落合氏の競争政策論に対し、高須次郎氏は、やや違ったアプローチで「電書再販論」を主張します(「出版ニュース」2014年1月上・中旬号)。

高須氏は、中小零細出版社は電子書籍をいつでも発行できる体制にあるが、慎重姿勢をとっているとし、その理由として、電子出版物に対する出版社の権利が確保されていないこと、そして電子書籍に再販制度が適用されていないことをあげています。

(このうち、前者に関しては、2014年4月に成立し、2015年1月に施行された改正著作権法で、いわゆる「電子出版権」が導入されたことで解消されたはずです)

そのうえで、次のように主張します。

ここでは、「出版社が価格決定権を握ることが必要」という主張と、「安価な電子書籍が紙書籍の売上を阻害する」という主張の二つが提示されています。後者はいわゆるカニバリズム論(電子書籍が紙の書籍の売上を食い荒らす)ですが、こちらは後回しにして、まずは前者について見てみます。

一般論として、製造者が価格決定権を持つことが、売上を伸ばすことになるかどうかは、条件による、としかいえないはずです。

出版界は1997年をピークに、18年連続で売上が落ちています。だからこそ、システムの改革が求められているのですが、その「システム」には、再販制度も含まれています。

前項で述べたように、現在の制度がうまくいっているのであれば、それを電子書籍に適用すべき、というのも理解できるのですが、うまくいっていないことが明らかなのに、あえて援用しようとする意味がよくわかりません。

より一般化してみましょう。生産者の価格決定権について考える際、参考になりそうなエピソードがいくつか思い浮かびます。ここではその中で、「ダイエー・松下戦争」について取り上げてみましょう。

生産者が価格決定することはいいことなのか?

「ダイエー・松下戦争」、俗に「30年戦争」とも呼ばれるこの争いは、1964年、松下電器(現パナソニック)の製品を流通大手(当時)のダイエーが安売りしようとしたことから始まります。ダイエーが希望小売価格の2割引で販売しようとしたところ、松下電器が抗議、出荷を取りやめたことから始まり、30年にもわたってダイエーの店頭に松下の製品が並ばなかった、という事件です。

「流通革命」を掲げ、価格は消費者が決めるべき、と主張するダイエーに対して、松下電器側は、価格決定権はメーカー側にあると主張、ダイエーが松下を独禁法違反で提訴する騒ぎにもなりました。

ちなみに冒頭に説明したように、生産者が最終小売価格を小売店に強制することは独禁法違反ですが、「この価格で売ってほしい」という目安を提示するのは合法で、この価格を「希望小売価格」といい、こうした商習慣を「建値制」と呼びます。

この対立、今からみると、なかなか示唆に富んでいます。

パナソニックは、この一件で、一時は流通最大手だったダイエーという販路を失いました。しかし、だからといって、企業経営がこのことから直接的に、甚大な被害を受けたかというと、筆者の調べた限り、そういうことはなかったようです。

一方、ダイエーは、バブル崩壊後、阪神淡路大震災という不幸な出来事もきっかけとして、急速に経営不振に陥ります。しかし、メーカーとのこうした対立が、主要因ではありませんでした。過大投資と、「カテゴリーキラー」と呼ばれる、特定商品に特化した量販店の伸長、単に安ければいい、という価値観から実質的なお得感へと、消費者の嗜好が変化したことが理由として挙げられています。

つまり価格決定権のありかは、両社の経営にそれほどのインパクトを及ぼさなかったと考えられます。

少なくとも、高須氏の危惧するような、「生産者が価格決定権を失えば、果てしない安売り競争が始まり、生産者のビジネスが成り立たなくなる」ということには、なっていないことは明らかです。

定価(希望小売価格)こそが安売りを招く

その後、1990年頃から多くの家電メーカーは、希望小売価格の表示自体をやめてしまい、小売店に価格を任せる「オープン価格制」に移行しました。

直接のきっかけは、量販店の一般化で、希望小売価格と実際の販売価格の乖離が激しくなり、消費者に誤解を与えるとして、公正取引委員会が問題視したこと、もう一点は(驚くなかれ)希望小売価格の提示が、「安売り」を招く、という理由によるものです(小本恵照「オープン価格制の普及と取引制度の変化に関する経済分析」ニッセイ総合研究所、2006による)。

希望小売価格がある商品では、「希望小売価格から◯割引!」という形で、小売店が安売りしやすくなるからです。

大事なことなのでもう一度繰り返しますが、

メーカーが販売価格を提示すると安売りを招く

ということも理由の一つとして、家電等ではオープン価格制に移行したのです。

さらに付言するなら、建値制のもとでは希望小売価格を守る販売者に対して生産者からリベートを払う必要があり、このリベートが不明朗な取引関係を生み経営も圧迫する、ということも前掲資料で理由として挙げられています。

高須氏は別のところで、出版業界には不明朗な取引が多すぎると苦言を呈しています。

栗田出版販売の民事再生が意味するものリンク

まず「現在の正味体系」を中心とした取引条件の問題点に踏み込むことなしに、取次店の再生はないのではないか。ご承知のように出版社が販売価格を決定できる再販制度を前提に、定価の何掛けという形で現行の正味体系はできている。この正味が今や1割以上の格差になっていることである。大手・老舗版元、医書などの正味は一般に限りなく高く、中小零細・新規版元は限りなく低いのだ。高い正味では7.5掛けなどはざらで8掛けなどというのもある。

次に、歩戻しと呼ばれるバックマージンである。新刊委託をはじめとして、長期委託、常備寄託などさまざまな名目での販売協力金であるが、中小零細、新規版元ほど多くのパーセンテージを強いられている。

また、販売代金の支払い条件である。中小零細、新規版元は、新刊は6カ月精算、原則翌月払いの注文品にも、納品額の3割が6カ月間支払い保留されるなどの注文品支払い保留が強いられる。一方、大手・老舗版元には、原則6カ月精算の新刊が翌月に全額ないし一定割合が支払われる内払い、条件払いが適用される。

「正味」とは出版用語で、仕入れ値のことです。出版社から取次会社に卸す金額を「入り正味(または版元出し正味)」、取次会社から書店に支払う金額を「出し正味」などといいます。

高須氏が指摘するとおり、出版流通にはさまざまな形でバックマージン(リベート)があり、取引条件にも格差があります。そして前掲資料を見ると、家電や化粧品、その他あまたの業界で、同様の問題があり、その問題の解決のために、建値制の撤廃、オープン価格制の導入が図られた、とあります。

電子書籍に再販制を適用すれば、高須氏のいう、こうした不明朗な取引が、そのまま電子書籍にも持ち込まれてしまう恐れがあるのではないでしょうか?

紙の出版流通での不明朗な取引をやめさせたいのであれば、まずは建値(定価)、つまり再販制度をやめるべきだと、高須氏は主張すべきではないでしょうか?

建値(定価)のデメリットについてさらに付け加えましょう。現在、再販制度のもとで、新刊本には定価が表示されており、全国どこに行っても同じ値段で売っています。

そしてブックオフ等の新古書店や古書店に行くと、定価の横に販売価格のシールが貼ってあり、ひと目で割引率がわかるようになっています。

しかしこの「定価(の表示)」がなくなれば、どうなるでしょうか?

新刊書店も新古書店も独自に価格をつけるようになり、新古書店のメリットは、非常にわかりにくくなります。

誰だって古い本よりは新しい本がいいに決まっています。新刊書店でも安売りが行われ、メリットがわかりにくくなれば、新古書店に足を運ぶ人は確実に減るでしょう。

ブックオフを台頭させたのは、再販制度なのです。

電子書籍の紙の書籍に対するカニバリズム

次に高須氏の主張の二番目、電子書籍(の安売り)が、紙の書籍の売上を侵食してしまうのではないか? という懸念については、どうでしょうか。

これは、確かに重要な論点です。カニバリズムがあるのか、ないのか。もし、あるとしたら、どのような条件で負の効果を減殺できるのかについては、現在、世界的にも研究がまだ途上で、はっきりした結論は出ていないようです。

私の目にした範囲では、今までのところ、このテーマについて直接調べた研究成果は、三つしかありません。

一つは、フランスのグランゼコール(高等専門教育機関)、Telecom Paris Techの研究者などがAmazonの紙本と電子本のランキングを元に、紙本のベストセラーと電子本のベストセラーがどれだけ重複しているかを調べたもの(次表の①)。

もう一つは、米国ジョージア工科大学とカーネギーメロン大学の研究者が、2009年から2010年にかけて電子書籍の遅延刊行(delayed release of e-booksまたはe-book windowing)を実施した大手出版社の事例から、電子書籍の遅延が紙書籍にどのような影響をもたらしたかを調べたもの(次表の②)。

最後に、韓国科学技術院とカナダのマギル大学の研究者の調査で、韓国最大の書店チェーン、教保文庫が2011年〜2013年に販売した電子書籍1,828点の売上を調べた調査があります(次表の③)。

これら三つの調査の研究方法と結論をまとめてみました。

番号 研究者 タイトル 研究方法 結論
Bounie, D. et al., 2012. Superstars and Outsiders in Online Markets: An Empirical Analysis of Electronic Books Kindleストアの紙本のベストセラーと電子本のベストセラーリストを比較 スーパースター著者は、電子書籍を出すことで紙の本の売上が減る。しかし、古い本は、電子書籍を出すことで蘇り、さらに電子書籍では、新規参入が増える。
Hu, Y.J. & Smith, M.D., 2011. The Impact of Ebook Distribution on Print Sales: Analysis of a Natural Experiment 電子書籍の遅延刊行を実施した出版社の事例を検討 電子書籍の刊行を紙本から遅らせると、紙本の売上は少し上昇するが、電子書籍の売上はひどく落ちる。ただし、著者がよく知られており、電子書籍を好む読者が少ない本については、電子書籍の遅延発売が、紙本の売上を向上させる。
Lee, K. et al., 2014. How Consumers’ Content Preference Affects Cannibalization: An Empirical Analysis of an E-book Market 紙本と電子本の両方が刊行されている4万点の書籍から、ランダムに選んだ1,828点の書籍の紙本売上金額、トータル売上金額などを調査 電子書籍を好む読者が多いライトコンテンツジャンル(ロマンス、格闘、ファンタジー小説)では、電子書籍の刊行は、紙書籍だけでなくトータルの売上も向上させる。他方、ベストセラー作品の紙書籍は、電子書籍の刊行によってカニバリゼーションが起きる。

これらの研究結果を見ると、確かに、高須氏の危惧は、決して根拠のないものではないことがわかります。①、②、③とも、ある条件では、電子書籍が紙の書籍の売上を蚕食する、という結論を出しているからです。

ある条件とは、次の二つのいずれかです。

  1. 著者またはその作品が、すでに世の中で広く知られていること(一部のベストセラー作家や作品)
  2. 本の内容が、電子書籍がとくに好まれるジャンル(ライトコンテンツ)以外であること

しかし、これは逆にいうと、

  1. 著者またはその作品が、あまり知られていない(一部のベストセラー作家や作品以外)
  2. ライトコンテンツ

のいずれかであれば、あまり心配する必要はない、ということでもあります。ここでいう「ベストセラー」というのは、出版すれば必ず売り上げランキング上位に入ることが間違いないような、全体からみれば本当にごく一部の作家や作品です。そのため、出版されている本のほとんどは、上の条件1に当てはまると考えられます。

再販でなくてもマイナス効果を生まない方法はある

そもそも、最終販売価格を強制できなくても、出版社には、さまざまなかたちで商品の売り方、売られ方をコントロールする手段があります。

まず、販売価格をコントロールできなくても、卸値は制御できます。卸値で折り合う書店がなくても、電子書籍の場合は、自社サイトで売るという手段があります(コストはかかりますが)。

そして、紙版とのカニバリズムが心配であれば、先の研究で示唆されているとおり、販売日をずらしたり、希望小売価格を紙と同額にしたりするなどの方法もあります。

コミックやアニメ、アイドル関連で多用されているカニバリズム回避の手法として「特典版」の提供があります。たとえば電子書籍には紙版にない特典イラストや動画、音声などをつけて、紙版より高く売るのです。

紙書籍を「電子化」して売ろうとするから、両者が市場を取り合ってしまうのです。それならいっそのこと、「別商品」にしてしまえば、カニバリズムの心配は薄まります。

実は再販制度を導入しなくてもよい?

さらにいえば、あまり指摘されないことですが、実は再販制度がなくても、電子書籍の価格を出版社が指定することはできます。次の図を見てください。

音楽配信の委託販売(公正取引委員会のウェブサイトより)

この図はインターネットの音楽配信について、公正取引委員会が出した回答に付されていたものです。次のような説明がされています。

音楽配信サービスにおけるコンテンツプロバイダーによる価格の指定(リンク

インターネットを用いた音楽配信事業において,コンテンツプロバイダーが,ポータルサイトを提供するプラットフォーム事業者との間で,コンテンツプロバイダーが指示する価格で音楽配信することを定めた委託販売契約を締結することは,直ちに独占禁止法上問題となるものではないと回答した事例

冒頭に説明したように、メーカーが流通業者の販売価格(再販売価格)を拘束することは、原則として不公正な取引方法に該当し、違法となるとされています。

ただし、これには例外があります。同委員会が発表している「流通取引慣行ガイドライン」では「実質的にみてメーカーが販売していると認められる場合には、通常、違法とはならない」としているのです。

どういうことでしょうか? 本や雑誌のような有形財(形のある商品)では、その商品を最終消費者に届ける過程で、「仕入れ」が必ず必要で、そこにさまざまな物流コストがかかります。運送、搬入、検品、在庫管理、倉庫代、返品、店頭の陳列コストなどでしょうか。

仕入れたものが店頭に出してすぐ売れればいいですが、売れなければ、コストだけが積み上がっていきます。これが、小売店が安売りをしたくなる理由です。

ここで最終販売価格を拘束する、つまり安売りを許さない、ということにすると、取次や小売店から見れば、売上が立たないのに、一方的にコストを負担させられる、ということになり、具合が悪いのです。

ところが音楽や電子書籍のような「無形財」には、有形財のような「仕入れ」がありません。デジタルデータをアップロードしてサーバに蓄積したり、サーバを維持・管理したりするのにコストがかからないわけではないですが、一商品あたりでは微々たる額になりますし、仮に返品しても、コストはゼロです。

「仕入れ」のない無形財の世界では、契約書上での取引の扱いが実際にどうなっているかは別として、取次や小売店は、生産者から販売委託料を取って販売を代行している代理店(エージェント)にすぎないとみなすことができます。つまり純粋な委託販売です。

もともと物流・在庫のコストがゼロに近いので、売れようと売れまいと誰かに不当にコストが押し付けられることはないですし、それによる競争政策上の不利益も少ないことから、公正取引委員会は、音楽配信に関して、先の図のような立て付けで、生産者が最終価格を指定しても弊害は少ないものとみなしていると考えられます。

電子書籍は、音楽や動画と比べると、データ量はさらに小さく、物流・在庫コストもさらに僅少になります。

そのため、音楽配信と同じロジックで、同様に価格指定が認められる可能性があります。

なお、ここではわかりやすくするために、デジタルコンテンツの特性に注目した説明をしましたが、デジタルコンテンツのような無形財でなくても、卸売業者等に在庫負担を負わさないかたちの取引であれば、メーカーによる販売価格の拘束も問題ない、とした回答もあります。

単なる取次として機能する卸売業者の再販売価格の指示(リンク

メーカーとユーザーとの間の交渉により、卸売業者のユーザーへの納入価格を決定し、卸売業者はその価格でユーザーに納入して、手数料分を受け取る取引について独占禁止法上問題ないと回答した事例。

回答の要旨

相談の取引形態は、卸売業者に在庫負担のリスクを負わさない場合には、実質的にみてA社がB会に販売するものと認められ、独占禁止法上問題ない。

在庫負担の僅少な電子書籍では、現在の法制度のもとでもメーカーによる価格拘束は合法とされる可能性が高いのです。

だとすれば、わざわざコストや時間のかかる法改正を待たずとも、電子書籍の販売に乗り出せばいいのでは? と考えるのは私だけでしょうか?

まとめ

冒頭でお話したように、本稿は本来2014年の春ごろまでには書き上げる予定だったものです。

なぜ書きあぐねたかというと、「電書再販論」の主張を見ているうち、いま、この国全体に蔓延する、後ろ向きな気風、私の言葉でいうと、「帝大法学部的イデオロギー」が想起されてしかたなかったので、論じる気が失せてしまったところもあります。

「帝大法学部的イデオロギー」というのは、たとえば、以下のような考えです。

  1. 現在の制度(法律や行政システム、思考の枠組み)は、あらゆる事態に対処できるよう作られているし、そうでなければならない、と考える。
  2. 現在の制度が想定していない「現実」が現れた場合も、まずは現行の制度で、古い「現実」に対処したのと同じように対処すべきだと考え、それが難しい場合は「現実」の変化を、むしろ抑えよう、遅らせようとする(あるいはそこから、目をそむける)。
  3. 新たな「現実」への対処は、制度の改革がなければできないと考え、制度改革が実現するのを待ち続ける。
  4. そのうち「現実」は次のフェイズへと進むため、いつまでたっても「理想の制度」はできないし、「現実」への対処もできない。
  5. 社会全体の進歩は阻害されるが、本人たちは「制度」が守られて満足。

「帝大法学部的」というのを、「帝国陸軍的」とか、「開発独裁国的」とか、まあ単に「保守的」と言い換えてもいいのですけれども、こういう態度の人や組織が、この国には多すぎないでしょうか。

ここでは「制度(institution)」というのを、かなり広い意味で捉えています。物事に対処するためのマインドセット、思考の枠組み、既成概念、常識、そして法制度、組織や機関、企業といったものも含めています。

そうした広い意味の「制度」というのは、ある問題を解決するために作られたわけですが、その「問題」は現実の中に埋め込まれており、現実が変化すれば、同じ問題でも、最適な対処法、アプローチの仕方は変わってくるはずです。

大事なのは問題を解決することであって、制度を守ることではありません。しかし、往々にしてこれが逆になり、現在の制度を守るために、「問題」像は歪められ、ときには捏造すらされるということも起きるのです。本末転倒です。

電子書籍という新しいメディアができた。この新しい「現実」を前に、何をすべきか。新しいメディアを「出版」にどう活用し、どう「出版」を発展させていくか。こう考えるのが正道でしょう。

しかし、日本の出版界(の一部)では、逆の動きが目立つのです。古い出版の概念を、無理やり新しい出版の概念に当てはめ、古い出版を守ろうとして作られた制度を、新しい出版にも無批判に適用しようとしています。

出版デジタル機構に見る「帝大法学部」的発想の弊害

いま思えば、その象徴の一つが、出版デジタル機構の設立でした。出版社を束ねて、出版界手動で電子書籍の流通のインフラを整備することが、電子書籍発展に役立つ、というのがその設立の狙いでしたが、結果的に、いま彼らがやっているのは電子書籍の取次、という元からあったビジネスで、出版デジタル機構の出現で、劇的に何かが変わった兆しはありません。

多数の出版社、多数のコンテンツ、多数の書店を束ねること自体が利益になる、という発想そのもののが、紙の出版物のアナロジーに由来するものでした。

リアルの物流では、多数の事業者が参加し、多数の商品が1カ所を流れれば、一つの商品にかかる物流コストが減少し、合理化が図れます(これを規模の経済といいます)。

しかしバーチャル(デジタル・コンテンツ)の物流では、もともと一つの商品あたりの流通コストはゼロか、ゼロに近く、多数の事業者や商品を束ねても、それだけでは規模の経済が働きません。

そのため、取引規模拡大ではなく、優れた情報システムによって、広い意味の取引費用を削減できるかどうかが、競争優位に立つためのカギになります。流通コストでなく取引費用の低減が重要なのです。取引費用とは、ここでは主に「人手」です。人の手をなるべく介在させずに取引を完結させるシステムの構築が必要なのです。

出版デジタル機構設立の主力を担った出版社の上層部の方々は、きっと自分の手で電子書籍を入稿したり、売上を見たりされたことはないのでしょう。

だからこうしたことがわからないのだと思いますが、実務者は誰でも知っています。2010年の「電子書籍元年」から5年の月日を経た現時点で見ても、アマゾンやコボなどの外資系企業のシステムと、国内事業者のシステムを比べると、明らかに外資系のシステムの方が優れています。

この5年間、日本の事業者は一体何をしていたのか、と言いたくなりますが、背景には、さきほど申し上げたような、根本的な発想の違いがあると思います。改めてまとめると、以下のような対立です。

ジェフ・ベゾスがなぜネットビジネスの対象に本を選んだか。それは、米国においてさえも「本」のビジネスには不合理で無駄な部分があり、自分たちがシステムの力で合理化を進めれば、競合を出し抜けると思ったからです。

ベゾスのキャリアの出発点は、裁定取引のシステム開発でした。裁定取引とは、理論(理想)価格と乖離した値段のついた財を見つけ出し、安値で買って値上がりしたところで売る、サヤ取りの取引のことです。不合理で無駄な部分を見つけ出すのがカギです。

つまりアマゾンというのは本質的に「サヤ取り」の企業、既存流通の不合理や無駄を見つけ、そこにつけこんで成長してきた流通企業なのです。

電子書籍は、アマゾンから見れば、「サヤ取り」の最終形です。著者と読者の間を取り持っていたものを、すべて取り払うビジネス。ダイエーの創業者、中内功氏ですら望めなかった、究極の流通革命です。

そのアマゾンが起こした究極の流通革命が日本に押し寄せてきたときに、日本の出版界が出した答え。それが「出版デジタル機構」だったのですが、その設立の趣旨として打ち出された内容に、筆者や筆者の周囲の電子書籍関係者は、驚愕しました。

何しろそこには、

出版デジタル機構が電子書籍の流通インフラ整備をする。そこは非競争領域にする

という趣旨のことが書かれていたからです(「平成23年度産業革新機構の実績評価について」)。

圧倒的に優れた流通インフラを武器に上陸してきたアマゾンに対して、それを上回るイノベーションで対抗するのではなく、「競争」の芽を摘む(非競争領域にする)、というのは、普通に考えて、不合理以外の何物でもありません。

競争がない、ということは進歩がない、イノベーションがない、ということを意味します。国の支援を受けた企業が、競争をなくすために進出してくるのですから、民間企業はたちうちできるはずもなく、そうした業務領域のサービスは劣化します。そのような錆び付いた武器(流通システム)で、磨き抜かれた大太刀を持つ相手に、どう伍していけるでしょうか?

既存の「本」を支えていた「制度」からしか電子書籍という現実を見ようとせず、相手の視点で本質を見ることをしなかった。そこにこの悲喜劇の根があるように筆者には思えます。

出版デジタル機構の設立に引き続く「経産省緊急デジタル化事業」(復興予算を流用して、すでに電子書籍になっていたコンテンツも含めて「電子化」した)も、点数を増やすことを最優先した発想の始点自体が、紙書籍の発想を引きずったものだったように思います。

その後、出版界が打ち出したさまざまな施策――「電子出版権」「自炊取り締まり」「電子海賊版対策」――のいずれもが、ネット時代のメディア環境からではなく、旧来の出版秩序の側から発想した結果という点で、(紙幅の関係でここでは詳説できませんが)同じようなことが指摘できます。

電子書籍の「失われた◯◯年」に終止符を

既存の「制度」を学び、真似ることで先進国に追いついた高度成長期には、既存の制度を知悉することで頂点に立つ帝大法学部エリートの、このような発想法が功を奏したのかもしれません。

しかし、キャッチアップが終わり、真似る対象がなくなった段階では、このような発想は百害あって一利なしです。

「紙の本も再販だから、電子書籍にも再販を」という発想は、このような「帝大法学部エリート」的な思考が、出版という人類史上最古の文化的営為と結びついて、不幸な化学反応を起こした結果のように筆者には思えます。

既存の出版の枠組みに固執するのではなく、紙だろうと電子だろうと、その媒体に関係なく「出版」総体を拡大するためには何をすればいいか、それを真剣に考えなくてはなりません。

そのために解決すべき課題は、他に山積しています。電子コンテンツの流通であるのに、未だに電話や対面でのコミュニケーションに頼っているシステムの変革もそうですし、共通コード、共通書誌がないことにより、膨大にかかっている取引費用の削減もそうです。

さらに、事業者が撤退してしまうと購入した電子書籍が読めなくなる、いわゆる「消える電子書籍」問題も、閲覧権を管理する機関を設け、そこに申し込めば他事業者に引き継げる仕組みを作る必要があるでしょう。技術的には難しいことはありません。実際、KADOKAWA傘下のブックウォーカーでは、すでに実現しています。

このような課題を放置して、少なくとも「紙もそうだったのだから……」というような粗雑なアナロジーで、貴重な国家資源や時間をさらに浪費しないでもらいたいと思います。

電子書籍の「失われた5年」を、「失われた10年」にしないために、いまここで、負の連鎖を断ち切る必要があるのではないでしょうか。

執筆者紹介

林 智彦
1968年生まれ。1993年、朝日新聞社入社。「週刊朝日」「論座」「朝日新書」編集部、書籍編集部などで記者・編集者として活動。この間、日本の出版社では初のウェブサイトの立ち上げや CD-ROMの製作などを経験する。2009年からデジタル部門へ。2010年7月~2012年6月、電子書籍配信事業会社・ブックリスタ取締役。現在は、ストリーミング型電子書籍「WEB新書」と、マイクロコンテンツ「朝日新聞デジタルSELECT」の編成・企画に携わる一方、日本電子出版協会(JEPA)、電子出版制作・流通協議会 (AEBS)などで講演活動を行う。
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