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地球の裏側にある日本語書店

「本で床は抜けるのか」の書籍版が発売されてから、早いものでもう5カ月経ってしまった。発売後、ウェブサイト版同様、好評をいただき、版を重ね、4刷に達した。また、6月にはボイジャーから電子版が発売された。「マガジン航」を発行していたボイジャーから発売されるということは、鮭が生まれ故郷の川に戻ってきたようなもので、発売時、何とも言えない感慨があった。

ウェブ連載と紙や電子の本とでは、内容の方向性こそ同じだが、両者はまるで別物である。その都度一気に取り憑かれるようにして書いたウェブ版はあくまで途中経過の報告でしかない。一方、紙や電子の本は、新たな章を設けたり、全体をブラッシュアップしたりして、一つの読み物として読めるよう、相当に改良を加えた完成形である。ウェブ版しか読んでいないという方は紙か電子版の「床抜け」をぜひ手に取るかクリックして手に入れてほしい。著者である西牟田は読者からの感想を心待ちにしている。

サンパウロの日本語書店「太陽堂」

さて、ここからが今回の本題である。「本で床は抜けるのか」の紙の書籍版の加筆修正作業が終わった後の2月、僕は旅に出ていた。加筆修正作業に忙殺され、凝り固まった思考回路を、仕事とはまったく関係ない場所に出かけることで、気分一新、再スタートを切りたかったのだ。その目的地として選んだのが、南米の大国ブラジルである。一度は見てみたいと思っていたリオのカーニバルが毎年2月中旬に開催される。そのことに気がつき、背中が押された。

最初に訪れたのは南米最大の都市、サンパウロである。近郊を含めれば2000万人以上という巨大都市で、この街や周囲には日系人が約100万人も住んでいるという。東洋人街を訪れると、不動産屋や食料品店など、日本語の看板がちらほらと目立ち、「米5キロ」とか「お弁当」に「たこ焼き」に「牛丼」といった日本食に加え、カワイイ系のグッズを取りそろえる店というものもあった。現地の若者が10人ほども集まってロリータファッションで闊歩している姿もちらほらあり、古いものから新しいものまで。地球の真裏にあるこの東洋人街に、日本の文化がぎゅっと凝縮されていた。ひどい時差ボケの状態だっただけに、「地球の真裏に現れた日本」が蜃気楼のように実在しないもののようにときおり思えた。

地下鉄の1号線リベルダージ駅。東口を出たところすぐに店が見える。

サンパウロ市内の地下鉄リベルダージ駅の出口の道路向かいに「SOL 太陽堂」と記された看板を掲げる店をみかけた。店の外から本がならんでいるのがみえる。看板が日本語であることからすると、もしかすると日本語の本も扱っているのかも知れない。

中に入ると、予想を超えた品揃えだった。というのも置かれているのが日本語の本ばかりだったのだ。文庫本も雜誌も入荷する冊数が少ないせいか、平台の上に、棚差しされたように背表紙を上に向け、一冊ずつ並べられている。平台に置かれた雜誌には「週刊文春」「サンデー毎日」、「女性セブン」らしき女性週刊誌、「オール讀物」「きょうの健康」などがあった。

表紙が見えるラックには女性用のファッション誌、韓流ドラマと日本のアイドルの雑誌やムック。奥には文房具やご祝儀袋や香典袋、教科書類が置かれていて、日本国内でいえば小都市に残るやや大きめの個人書店といった品揃えであった。

女性誌は各誌そろう。ひもで縛ってあるのは、スマートフォンなどで誌面を撮影する、いわゆるデジタル万引きが横行しているためのようだ。

入り口ちかくにある独特の置き方をした平台。雜誌も文庫本も背表紙を上に向けている。

平台に一冊ずつという置き方以外のほかにも、この書店には変わった点があった。雑誌にしろ、単行本にしろ、ラインナップがやや古いのだ。訪れたのは2月の半ばだというのに週刊マンガ雑誌は新しくても12月に出たものしかなく、最新刊はない。月刊のファッション誌や総合誌・文芸誌にしても数ヶ月遅れ。ちょうどこのとき『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)の刊行に合わせ、僕が書いた長い記事を載せてくれた「本の雑誌」の最新号が日本国内では発売されていた。しかしこの書店には「絶景書斎を巡る旅!」という特集がなされた2014年7月号があるだけで、最新号はまだ届いていないようだった。

週刊の漫画雑誌は4号ずつひもでまとめてあり、4冊合計分の値段が書かれていた。「少年マガジン」が4冊で68.11ヘアイスというから、日本円で約2930円。日本での発売価格を合計すると1050円だから3倍弱の価格である。店内には日本での定価とブラジルの通貨の対応表が貼ってあり、月刊誌にしても単行本にしても、そのレートで統一されていた。

漫画雑誌コーナー。少年誌に青年誌、少女雑誌と各種そろう。週刊の漫画誌は4冊まとめて売られている。同じ雑誌でも古ければ古いほど安く売られている。

1949年創業の老舗を支える二代目店長

店内は、日系人とおぼしき、中年以上の男女を中心に賑わっていた。日本人がブラジルに渡ってから百年あまり。日本語を話せる世代は減っているはずだが、それでも日本語専門の書店が成立するほどに、この国での日本語のマーケットは依然大きいらしい。

10年ぐらい前までは「文藝春秋」が発売されたらそれこそ飛ぶように売れたものですが、それも昔となりました。「亡くなった」とか「読めなくなった」とか「身体が動かない」とか、定期購読していただいたお客さんから、そのような寂しいお話しをうかがうことが多くなりました。

そう話すのは二代目の店長で、日系二世である浦山美千枝さん。義父の故・藤田芳郎氏(2014年に逝去、享年94)が1949年に創業したこの店を彼女が引き継いだのは20年前のこと。書店の他には軍手を製造販売したり、文房具の販売も手がけたりしている。

「太陽堂」の二代目店長である浦山美千枝さん。

先代の藤田氏はなぜ日本語の書店を遠く離れたこの地に作ったのだろうか。

戦争中、日本はブラジルの敵ということで、「日系人はすごくひどい目に遭った」と義父は話していました。「二人以上集まって話しただけで警察に連れて行かれたり、日本語の本を没収されたり。わずかに持っていた日本語の本が取り上げられないよう、箱につめて山の中に埋めて隠した人もいた」と。

本屋を開業するきっかけについてはこんな風に話していました。「戦争が終わってまもなく、友達の父上から本をゆずり受けた。奥地に住んでいて没収を免れた本。それらを古本として売って回ったところ、ものすごく売れた。日本人がいかに日本語を読むのに飢えてるのかを思い知り、日本から本の輸入・販売を始めたんだよ」と。

ところが、戦争に負けただけに、日本から届いた本はがっかりするぐらいに作りが粗悪だったそうです。「初めて届いた雑誌はわずか63ページ。藁でできた粗末な紙で、それを見たとき、ずいぶんガッカリした。だから、アメリカから日本へ紙を送って印刷してもらうようにしたんだ」とのことです。

その後、日本語書籍の販売は隆盛を極める。

1960~70年代当時、日本から本を輸入するとものすごく売れたそうです。値段は3倍、発売時期も遅れているのに、店頭に並べたら、それこそ飛ぶように売れたと聞いています。そのころは16軒も日本語書店が競い合っていて、もちろん、当時は日本語の本を扱う古本屋さんもあったそうです。当店もブラジル各地に6店舗ありました。トラック6台分の日本語の本や雑誌を取り寄せていたそうです。

現在、ブラジルで日本語書籍を扱う本屋は、サンパウロ市内に4店舗あるのみです。それだけ日本語の書籍を読む人が減ってしまったという事なんですね。淋しいです。

しかも、その中の1軒は、すでに3年前に書店そのものはシャッターをおろしてしまい、いまは卸しと、定期購読をしている古くからのお客さんを対象に細々と輸入を続けているようです。残りの太陽堂、竹内書店、高野書店の3店舗はここ、同じリベルダージ区で徒歩でもごく近い距離にあります。

残った私たちは、ライバル同士というよりも、みんなで力をあわせ、協力し合ってこれから先もずっと日本の文化をブラジルに伝え続けて行きたいと、日々頑張っているところです。

国際化するMANGAと、「アマゾン」の読者

いまやかつての景気は去ってしまった。日本語を読める人が年々少なくなっているからだ。しかし、太陽堂に閑古鳥が鳴いているかというと、そうではない。

若い人を対象にした本を売ろうと頑張っているところです。おかげさまでMANGAがものすごく売れています。土日になりますとね、MANGAをもとめてやってくる若い人たちで店が満員になってしまうんです。

ここでいうMANGAとはポルトガル語に翻訳された日本の漫画のことだ。奥行きのある縦長の店の中ほどには、『ONE PIECE』や『NARUTO』、『テルマエ・ロマエ』といった人気漫画のポルトガル語版がたくさん置かれたコーナー、さらに奥には日本語教材が置かれていた。

こちらはコミックスのポルトガル語版。最近はこうした日本の漫画の翻訳版が若い人に売れているそうだ。

日本の情報文化を日本語を母語とする人たちを対象とする発信地だったのが、今では日本に関心を持つ、ポルトガル語を母語とする若い人たちを対象とする日本文化の発信地へと、時代にあわせてこの店は脱皮し、進化しているということなのだ。

ではなぜ、こうした売れ筋の本を店頭に出さないのだろうか。

前は目につくよう、店頭に置いていたんですけど、万引きが増えてしまったんですよ。店の中ほどだと店員の目が届きますから。

売れたら売れたで、問題が起こるらしい。

ところで、この本屋は取次的な役割も担っている。

この店が中継点になって、アマゾンに住んでいるお客さんが注文した本をまとめて輸入し発送したりします。定期購読のお客さんは国中に散らばっています。だから雑誌が入ってくると大変なんです。

本や雑誌はこの店からさらにアマゾン川流域などに送られる。

バックヤードに注文票を貼り付けられて積まれている本の山。これらは、国の北部にあるアマゾン川流域など遠すぎる場所に住んでいたり、または身体が不自由だったりという、何らかの理由で、店に買いに来られないお客さんのところに届けられる。

ブラジル国内には、他に日本語書店はありません。サンパウロから離れた州(日系人が多いパラナ州とか)で、何かのお店の片隅に私たちから購入した書籍をほんのわずかおいてあるところは2、3ヶ所ありますが。日本からの派遣社員が多くいる日本企業などでは、社員やその家族のために日本の本社から直接送ってもらっているようです。

日本から本が届くまでのプロセスやその期間、そして販売価格についても聞いてみた。

こちらに届くのは、日本で発売されてから2カ月後です。値段は日本の約3倍です。高いと思いますけどそれでもギリギリの価格設定なんです。船賃やコンテナ代、港からの輸送費のほかにロジスティクスの保険、燃料、通関代行の手数料が加算されるんですよ。とくにね、ブラジルは保険が高いんですよ。というのもトラックで運んでいる途中に(強盗に)狙われることが多いんです。そういうもろもろをまとめるとこうした値段になってしまうんです。

本や雑誌の輸入はすべて買いきりで、返品はできません。日本側で受け入れてくれませんから。取引先は、もう66年間もお世話になっている日本出版貿易株式会社(Japan Publications Trading Co.,ltd. )で、ここにすべて日本側の手配をお願いしています。雑誌は次の号が入ると、古本になってしまいます。そうすると1割、2割安くしていきます。だから大変なんです。

彼女の話を聞き、連想したのは、かつての日本領にあった書店のことだ。

朝鮮半島や樺太、台湾や南洋、そして満洲には日本語書店が存在した。そのことを、僕は『〈日本國〉からきた日本人』(春秋社)を書くにあたって引揚者の人たちから聞き取りをするなかで知った。それらは敗戦によって閉店を余儀なくされ、二度と営業を再開することはなかった。その結果、日本語の文化は戦後、現地語に取って代わられた。

一方、太陽堂は戦後まもなく創業し、66年後の今も営業を続けている。この店を含む4店の日本語書店が残っているからこそ、地球の裏側のブラジルに日本語が残り、日系人が祖国にアイデンティティを持ち続ける一助となっているのだろう。

執筆者紹介

西牟田靖
ノンフィクション作家。日本の旧領土や国境の島々を取材した一連の作品で知られる。「マガジン航」の連載をまとめた『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)をはじめ、著書に『僕の見た「大日本帝国」』(カドカワ)、『誰も国境を知らない』(朝日文庫)、『ニッポンの穴紀行〜近代史を彩る光と影』『ニッポンの国境』(光文社新書)、『〈日本國〉から来た日本人』などがある。
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