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電子書籍の値段は誰が決めるべきか?
〜「電書再販論」に思うこと

盛り上がる「電書再販論」

電子書籍にも紙の書籍と同様、再販制度を適用すべきだ、という議論が、一部で盛り上がりを見せている。主な舞台となっているのは、業界誌「出版ニュース」(出版ニュース社)だ。

2013年8月下旬号で、鈴木藤男氏(NPO法人わたくし、つまりNobody副理事長)の「電子『書籍』の再販について考える」という寄稿文を掲載したのを手始めに、同12月中旬号には、落合早苗氏(hon.jp代表取締役)による「いま、なぜ電子書籍に再販が必要なのか」、2014年1月上・中旬号では、高須次郎氏(日本出版者協議会会長、緑風出版代表)「紙と電子の再販制度を考える」と、賛成論を連続して取り上げている。

実は筆者も、同誌1月上・中旬号から、「Digital Publishing」というコラムを隔月で担当させていただいている。その連載の中で、電子書籍実務者の立場からは、再販制度の適用が喫緊の課題とは考えられないし、EC(電子商取引)の現状から考えると、それはむしろ推進論者の意図とは逆の効果をもたらすだろう、ということを書いた。

元の原稿では、上に挙げた諸氏の論文への言及も含め、多角的に議論を展開していたが、紙メディアであり、ウェブサイトへのリンク等ができないこと、また紙幅の都合から、論点を絞らざるを得なかった。そこで、「マガジン航」の要請で、出版ニュース社の許可を得た上で、元の原稿を復元し、さらに加筆・再編集したのが本稿である。

なお、本稿で提示される主張は筆者個人のものであり、筆者の属する企業・団体等とは無関係であることを付言しておく。

再販導入論――鈴木氏の場合

まずは各氏の再販導入論を、おさらいしておこう。鈴木藤男氏は、おおむね以下のような論拠により、電子書籍への再販制度適用を主張する。

(1)書籍(著作物)には一般の商品と違って、「反復消費」と「代替消費」がない。
(2)従って書籍(著作物)は市場の自由な競争にはなじまない。だから再販制度が設けられた。
(3)電子書籍も「著作物」である。だから書籍が再販適用なら、電子書籍も再販適用であるべきだ。

鈴木氏の議論は、煎じ詰めれば「本は特別なものであり、特別な取り扱いが必要だ、電子書籍も同じだ」と要約できる。そのため、通常の経済学等で想定されているような論理は成り立たない、と主張したいようだ。筆者も「本は特別だ」という点では同感だが、ここで鈴木氏が挙げている論拠については、それとは別に、疑問を持っている。以下、詳論しよう。

まず、(1)の「消費のされ方」についてであるが、同じ本を何冊も買ったり(反復消費)、Aという本の代わりに、似たBという本を買う(代替消費)ような人は、本当にいないだろうか?

「反復消費」についていえば、法律書や医学書、技術書では、法律や制度が変わる度に、同じ本の違う版を買い直していくことは、普通に行われている。またコミックやライトノベルでは、CDやDVDを付録として付けた「初回限定版」と「通常版」が両方流通し、そのどちらも買うファンが一定層いる。

文芸書でも、同じ作家の同じ作品の、単行本と文庫を両方買う例がないわけではない。単行本には「早く読める」というメリットがある一方、文庫版は携帯性に優れている。また日本ならではの「文庫版解説」を読みたいというニーズもあるし、高村薫氏のように、版を変える度に書き直す作家の場合、その度に買い足すのは、ファンならばむしろ当然だろう。

もちろん、前年版と本年版の法律書は、厳密に言えば同じ商品ではない。「初回限定版」と「通常版」のラノベ、単行本と文庫本も、当然違う商品だ。しかし、経済学者も、鈴木氏の考えておられるほどナイーブではない。

厳密に言えば、世の中に一つとして同じ商品などない。昨日スーパーで売っていたじゃがいもと、今日並んでいるじゃがいもは同じではない。昨晩買った灯油と、来週購入する灯油は成分が違う。昨日喫茶店で受けたサービスと、今日受けたサービスは異なる。同じ作者による益子焼の椀は、どれをとっても模様が微妙に変化している――。

こんなことは日常茶飯事である。にもかかわらず、経済学は、たとえば「じゃがいも」を一つの商品として扱う。あらゆる物体やサービスを別の「物」として扱っていては、集計的に扱うことはできないからだ。

経済学だけでなくすべての学問が、このような抽象化の上になりたっている。文学研究でさえも、太宰と芥川を同じ「日本文学」とひとくくりにして取り扱う。読み比べれば、違いの方が際だっていたとしても、である。

消費者だって、鈴木氏と筆者、あるいはこの原稿を読んでおられる読者だって、別の「人間」だ。同じ「人格」だとしても、昨日と今日では気分も違うし、分子組成が異なるだろう。

鈴木氏のいう「反復消費」論は、このような抽象化を、許さない論理になっている。そこに一片の真理を認めないわけではないが、それを認めれば、書籍に関する社会科学的な分析は、ほとんど不可能になってしまう。やや狭隘な「書籍」観ではないだろうか。

「代替消費」という点についても、似たような難点が指摘できる。例えば、東野圭吾の最新刊を買い求めに、客が書店に来たとする。

たまたま在庫がなかった場合、他の本でもいいじゃないか、ということにはならない。それはその通りである。しかし、この場合、この客はがっかりして、本を買うこと自体をやめてしまうだろうか?

それよりは、書店の棚に並んでいる他の東野作品や、他作家によるミステリー、サスペンス小説を買い求めることもあるのではないだろうか? 店頭の棚の作り方次第で、本の売り上げは大きく変わる。どんな本をどのように並べるかが、書店員の腕の見せどころだ。

読者は、一つ一つの本、一人ひとりの作者だけを目指して本を買うのではなく、漠然とした興味関心をベースに、その時々の直観や予算に応じて本を選んでいく。本の消費とは、こういうものではないだろうか?

だから東野作品を求めに来た客は、その隣に同一ジャンル、同一趣向の作品群――たとえば、道尾秀介や海堂尊、湊かなえ、恩田陸など……これは近所の書店で私が実際に目にした例――が並んでいれば、さほど低くない頻度で、それらの本を買っていくことだろう。こうした本が、お目当ての本の代わりに買われたり、まとめ買いの対象になったりする。そうでなければ、腕利き書店員による「棚作り」など、何の意味もない。

つまり東野圭吾の当該作品と、その隣に並べられる道尾秀介らの作品との間には、少なくともある程度の「代替性」があるということになる。

アマゾン等のネット書店は、「この本を買った人はこの本も買っています」というリコメンド(協調フィルタリング)技術の精度を競い合っているが、これなども、同一ジャンルの本の間の「代替性」なしには機能しないはずである。

だから本には「代替消費がない」と言い切ってしまうのには無理があるのではないだろうか。

他の商品と同様、書籍消費にもある程度の「反復消費」や「代替消費」があるとすると、それがないことを前提として説かれた「再販制度の必要性」の説得力が、かなり減じられたように感じるのは筆者だけであろうか(経済学でも、「完全代替財」だけでなく、ある程度の代替性をもった「部分代替財」を対象とした研究は普通に行われている)。

さらに(3)については、前半で紙の本であろうと電子書籍であろうと「著作物」であるから同じ法的保護を必要とする、と主張していながら、最終ページになって突然「表現されたものがすべて『著作物』ではない」という議論が飛び出して、自分で自分の論点を否定しているように見えるのはどうしたわけか。

ここで鈴木氏は、出版されたあとに創作性が「読者によって見出され」た本だけが「著作物」と呼ぶにふさわしい、と述べる。これは、著作物の質によって再販制度を適用するべきかどうかを判断すべき、ということなのだろうか?

たとえば電子書籍の大半が、創作性の乏しい作品ばかりで占められていたとしたら、これまでの議論とは関係なく、やはり現状のまま再販制度適用外とすべきなのか? やや理解に苦しむ結論であった。

なお、鈴木氏の論文には、他にも事実誤認と思われる点が散見される。

たとえば、英国にはかつて書籍に関して独禁法上の例外規定があった、としているが、英国に過去に存在した再販制度(NBA: Net Book Agreement)は出版社間の業界協定であり、独禁法に書籍は特別扱い、と書かれているわけではない。そもそも、発売後1年間を過ぎ、本で返品を拒否された本は割引が認められるなど、日本の再販制度より、かなり限定されたしくみであった(『英国書籍再販崩壊の記録―NBA違法判決とヨーロッパの再販状況』文化通信社より)。

鈴木氏は再販制度の目的は、「出版物の多様性を守ること」と論じ、その主張の補強材料として英国の例を持ち出すが、英国の書籍市場で、再販撤廃(1995〜97年)後に何が起きたか、実際に調べておられるのだろうか?

英国アイルランド書店協会(Booksellers Association)が、これについてまとめている(PDF注意)。それによると、次のようなことがわかっているという。

同資料と、再販制度崩壊を調べた他の資料のデータ(Fishwick, Francis(2008) “Book Retailing in the UK since the Abandonment of Fixed Prices”)を組み合わせて、いくつかのグラフを作成してみた。

下記の図は、刊行点数の時系列比較である。

(クリックで拡大)

これを見ると、データに連続性はないものの、少なくとも再販制度撤廃によって刊行点数が急減した、という事象は起きていないことが確認できる。

次に、これは残念ながら2001年以降の数字になるが、出版社の総売上の推移を確かめてみよう。

(クリックで拡大)

この図の範囲では、出版社の売上は順調に伸び続けている。

次の図は、英国民が書籍を購入するのに使ったお金の推移である。

(クリックで拡大)

これも2つのデータが混在しているが、青のデータは、元資料で「インフレ調整済み」とあり、緑のデータはそのような処理はされているとの記述はない。

青のデータの原資料によると、書籍に対する消費額は、「1995年から2007年にかけて、59.5%増加した」とのことである。

英国アイルランド書店協会の資料で驚くのは、この間に多数の新規出版社が生まれており、さらに、その数値も毎年増えていることだ(下図)。

(クリックで拡大)

将来性のない業界の新規参入者が増えることはないと考えられる。つまりは有望な業界だと見られている、と解釈するのが妥当なところだろう。

まとめていうと、英国アイルランド書店協会等のデータで見る限り、再販制の撤廃で英国の出版の多様性が減ったと考えるのはかなりの無理がある。刊行点数も、出版社の売上も伸びている。国民の書籍消費額が顕著に減ったというデータもなく、さらに参入者も年々増えているのである。

鈴木氏はさらに、再販制度下の英国書籍市場と米国市場を比べて、「同じ英語圏でありながら、当初から例外措置を講じなかった米国との違いは象徴的」と、あたかも米国市場が経済学でいう「完全市場」であるかのようにも述べるが、米国では、ロビンソン・パットマン法(独禁法の一つ)の規定とそれに基づいた米国書店協会(ABA)などの訴訟の和解により、「同一規模の販売者には同一の支払い・取り引き条件」で契約する義務が出版社に課されている。

日本の場合、出版社と取次の間の取引条件は、会社によってまちまちであるが、このようなことは、アメリカでは許されていないとみられる。出版社が書店と共同キャンペーンを行うような場合も、独禁法違反とならないよう、地元の事業者の要請、という形をとったりするのだという。つまり、書籍販売について、アメリカの方が規制が厳しい一面もあるのである。

疑問点はまだ尽きない。次に気になるのが、「印税支払いの基準」についてだ。鈴木氏は、「印税こそ、著作者にとって次の執筆に向けた生活の糧であり、あらたな作品に挑む意欲となるのだが、その支払いの前提である書籍の価格が販売動向によって変動したらどうであろう」とし、あたかも、本の安売りで印税支払額が減るかのような主張をしている。

だが、小売価格の自由なアメリカでも、書籍の印税支払いは「リスト・プライス(希望小売価格)」に基づいて計算されるのが一般的で、最終小売価格がどのように変動しようと、印税額は影響を受けない。これは私の知る限り、安売りが行われている日米の電子書籍においても同様だ。

だから「著者への支払い額が不安定になるから小売価格を固定しなければならない」という主張には根拠がない(ただし、「刷り部数」ベースが主流の紙書籍に対して、電子書籍は紙で言う「売り部数」ベースになるので、総じて支払い額が減る。これは再販制度とは無関係の、電子コンテンツとしての特性である)。

さらに「著作物を再販とする仏・独・日と非再販の英・米が対立している図式は、まさに各国の著作権法の違いに重なっている」といい、各国の再販制度の有無は、著作権法の「大陸法」と「英米法」の違いに起因するかのような記述も見えるが、本当にそうだろうか?

下図は、国立国会図書館調査及び立法考査局(当時)の梶善登氏が2009年に発表した調査結果であるが、再販制度のない国として、スウェーデン、フィンランド、ルクセンブルク、ベルギーなど、大陸法系の国も入っている。

(クリックで拡大)

この表を踏まえてもなお、「英米法の国は再販否定、大陸法の国は再販護持」というような結論を導き出せるであろうか?

ちなみに、著作権法における「英米法」と「大陸法」の最も大きな違いは、「英米法」が「著作人格権」を認めてこなかった点にあるとされるが、英国は、1988年の改正で著作人格権を認めている(参考:著作権情報センター

結論として、前述の論点の(1)については極論に過ぎ、(2)へ至る論理的筋道が弱く、(3)の結論にあまり説得力が感じられなかった、というのが偽らざる感想である。

とはいえ、冒頭に書いたように、筆者自身は鈴木氏の論拠とは別の理路で、再販制度については論じるべきだと考えている。これについては、後半に改めて触れたい。

再販導入論――落合氏の場合

電子書籍の検索サービスを提供するhon.jpの代表取締役である落合早苗氏は、鈴木氏とは異なり、電子書籍市場の現況に立脚しながら、再販制度適用を説く。要旨をまとめると、以下のようになる。

(1)2013年7月時点の同社調査結果によれば、2011年度には「400円以上500円未満」であった電子書籍の最多価格帯が、2012年度には「100円未満」に下がった。
(2)価格下落は、今のところ「価格破壊」というレベルにまでは至ってないものの、そうなるのは「時間の問題」だ。
(3)アメリカでは、激しい価格競争が大手書店チェーン・ボーダーズの倒産を招き、書店数が激減している。行き過ぎた価格競争による、アマゾン一人勝ちの様相だ。
(4)書籍や電子書籍は、売れればいいものではない。「市場原理とはまったくちがう理論で動かなければならないのではないだろうか」。
(5)「電子図書」というジャンルを創設し、再販制度の適用をすべきかどうか議論すべき。

順番に見ていこう。(1)については、hon.jpしか持っていないデータに基づく調査なので、「そうですか」と受け止めるよりほかないが、仔細にデータを見ると、「安売り競争」が始まっているという結論とは、矛盾する要素も見つかる。

これは落合氏自身も認めている。「平均単価は40円ほど上がっており、また価格帯分布全体を見ると、『400円以上500円未満』『500円以上600円未満』『600円以上700円未満』それぞれの価格帯が対前年比で伸びている」。

純粋に統計学的に見ても、ここから「安売り競争」が始まっている、または始まる予兆がある、と結論付けるのは、無理があるのではないか?

同統計には算術平均以外の「平均」が提示されていない。算術平均だけで全体の傾向を測ってならないのは、統計学のイロハのイである。

しかし、同氏も文中で指摘するように、低価格の自己出版本やマイクロコンテンツが、特に2012年10月のキンドルストアの日本進出以来、急速に増えていることは間違いない。自己出版本には、伝統出版本のようなゲイトキーピング(出版にあたっての関門)がないからだ。

その中で、算術平均が上昇し、紙の文庫本と同水準である、400円~600円の価格レンジの本のシェアが増えていることが、なぜ「安売り競争」の予兆と考えられるのか。すなわち、(1)から(2)を導く過程に疑問符が付く。

しかも、ここで問題とされているのは個々の本の価格だけだが、もし平均単価が下がっていたとしても、それだけで問題、ということにはならないことに注意したい。

たとえば、強力な文庫のラインアップを持つ新潮社と、新潮社と比較すれば相対的に文庫に強いとはいえない文藝春秋を比べたら、商品の平均単価は、後者が前者を上回るかもしれない。

しかし、文庫は単価が安い分、部数も出るわけで、単価が安いというだけで売上が決まるわけではない。企業の業績、業界の趨勢を語る上で重要なのは総売上であり、総利益だ。

(3)については、紙幅の関係で詳述することは避けるが、米国の出版業界シンクタンク、BISGの最新の報告によれば、独立系書店の売り上げは、2012年に8%向上したという(”Consumer Attitudes Towards E-book Reading“)。

また米国のISBNを管理しているバウカー社の発表では、独立系書店のシェアは、2010年の2.4%に対して11年、12年は3.7%と横ばいを保っているという(Digital Book World)。

ここで一言、言っておきたいことがある。米国の例を引いて日本の書店の警鐘を鳴らす論者の多くが、ボーダーズ倒産やバーンズ&ノーブルの苦境と独立系書店(前出のABAのメンバーはこちらが主体)の状況をパラレルに論じている。しかし、アメリカの書籍流通において、バーンズ&ノーブルなどのスーパーチェーンと独立系書店は、まったく別の宇宙を形成してきたということに、もっと注意が向けられてもよい。

そもそも、アメリカの出版産業において、日本人が想像するような街なかの「書店」で本を買うという行為自体が、長い間、全体から見れば一般的ではなかった。デパートや、スーパー、ドラッグストア、コストコなどの会員制ホールセールクラブ、ブッククラブなどが主要な本の購入場所であり、そこにかなり遅れて、スーパーストアが割り込んだというのが実態だ。

前出のバウカー社の資料では、確かに2010年から12年にかけて、アマゾンに代表されるECは、25.1→43.8%と急伸しているが、その分食われているのはいわゆる「街なかの書店」=独立系書店ではなくチェーン店、そしてブッククラブだ。

スーパー、ドラッグストア、ホールセールクラブなどのシェアは、さほど変わっていない(下図)。

(クリックで拡大)

つまりアマゾンはじめネット書店が食いつぶしているのは、主に全国どこへ言っても判で押したような店構えのチェーン店であり、地元密着型の古き良き「書店」などではないのだ。

落合氏はカウアイ島のボーダーズが倒産したことを嘆き、ニューススタンド、図書館、通販サイト、電子書籍しか本の入手手段がなくなった、と嘆くが、スーパーストア全盛時代以前に戻っただけであり、しかも電子書籍という選択肢が増えている。

これが「しあわせな未来とは、決して思えないのだ」と同氏はいうが、本へのアクセスにおいて、カウアイ島以下のレベルの地域に住む人々から見れば、羨ましい「未来」ではないだろうか。まして日本では、電子書籍の普及がなかなか進まないため、カウアイ島の1/10程度のコレクションの電子書籍で我慢しなければならないのだ。

カウアイ島の「ふしあわせ」について嘆く前に、日本の国内で、カウアイ島以下の条件に置かれている地域の底上げを図るべきだと思われてならない。

また、落合氏は、電子書籍がこうした「ふしあわせ」を生み出した元凶であるかのようにいうが、前出のBISGのリポートは、まったく逆の結論を導き出していることも指摘しておく。

「2009年からのデータによると、電子書籍とEC書店は、全体的な読書の拡大をもたらしているようだ(……)アマゾンは電子書籍の売り上げが77%上昇したと報告しているが、紙書籍も5%上昇している。書籍の購買数は伸びている。これは、出版業界やそのステイクホルダーにとってグレイトニューズだ」(前掲書)

(4)について。書籍や電子書籍は売れればいい、というものではない、というのはそのとおりだ。

しかし、資本主義社会に生きる以上、「売れなくてもいい」というわけでもないことも、また、確かだ。

hon.jpを支えているのも「売上」であろう。売上がなくては、こうして文化論をぶつ余裕もなくなってしまう。もちろん、筆者も日々、お金儲けをしている。

今後導入されなければならない「市場経済とはまったく違う理論」というのはなんだろうか。詳細が解説されていないので、なんともいえないが、「市場」を廃した経済の実験は、全世界で、数えきれないほどの犠牲者を出した結果、失敗したと考えられている。それに代わる経済の「理論」は、相当の努力がないと打ち立てられないだろう。

このことは、落合氏自身が、実は証明している。落合氏は電子書籍の「価格」を元に、何らかの制度的な手当なしには、文化的にマイナスの影響が及ぶ、とここで主張しているわけだが、「市場経済」とは、価格がそういった形で「シグナル」として働く社会の仕組みのことなのだ。

「市場経済とはまったく違う理論」で動かされた社会が実現すれば、そこでは価格がシグナルとして役に立たない。市場経済では、需要が供給を上回れば価格が上昇し、逆になれば下降するが、価格が人為的に決められれば、価格がそうした市場実態を反映することはなくなる。

そうなれば、落合氏がここで行ったような「価格」を元にした分析ができなくなる。何がほんとうに必要とされているのか、価格というシグナルがなくなった社会では、それがわからなくなり、経済運営自体が成り立たない。商品の価格と生産量は官僚の裁量で決まるが、それが実態と合っている保証はない。実際、旧共産圏で起きたことである。

そうした結末は、落合氏にとっては望ましいのかもしれないが、私にとっては歓迎すべきものとは到底思われない。ぜひ、市場経済の枠内での改善をお願いしたい。

(5)の「電子図書」論については、特にコメントすることはないが、それが一部の業界だけでなく、社会全体の利益(経済学の用語では「社会余剰」=「生産者余剰+消費者余剰」、つまり生産者も消費者もトクをする、ということ)になることを示してほしい。

最後に前出の鈴木氏同様、落合氏の論文にも、いくつかの事実誤認があるので指摘しておく。

アマゾンは、ライバルストアの安売りを察知すると、自社ストアの価格を自動的にマッチさせる「プライス・クローラー(プライス・マッチ)」という監視プログラムを常時走らせているとされている。

これは米国でも言われていることだし、日本においても、現実に何度も観察されているので、ほぼ間違いないと考えてよいだろう。

同氏はそのようなプログラムを「理論上は作れてしまう」としているが、すでに現実になっている(もちろん「中の人」が手動で作業している、という噂も絶えないが、個人的には、他社ストアの安売りを1時間ほどで察知していることもあるので、何らかのプログラムを動かしていること自体は疑えないと思っている)。

次に米国の書籍市場には、「再販制度も委託制度も存在しない」としているが、米国の書籍市場は委託販売が基本である。また、再販制度は確かにないが、書店における大規模な安売りは、1970年代末にバーンズ&ノーブルが始めるまでは、さほど一般的なものではなかったといわれている(スーパー等ではあった)。バーンズ&ノーブル社自身による説明がこちらにある。

以上については、別のところで詳しく説明したので、ここではこの程度にしておく。興味のある読者は、拙稿「書籍をめぐる都市伝説の真相」(CNET)をお読みいただきたい。

後編につづく)

執筆者紹介

林 智彦
1968年生まれ。1993年、朝日新聞社入社。「週刊朝日」「論座」「朝日新書」編集部、書籍編集部などで記者・編集者として活動。この間、日本の出版社では初のウェブサイトの立ち上げや CD-ROMの製作などを経験する。2009年からデジタル部門へ。2010年7月~2012年6月、電子書籍配信事業会社・ブックリスタ取締役。現在は、ストリーミング型電子書籍「WEB新書」と、マイクロコンテンツ「朝日新聞デジタルSELECT」の編成・企画に携わる一方、日本電子出版協会(JEPA)、電子出版制作・流通協議会 (AEBS)などで講演活動を行う。
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