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第10回 なぜ人は書庫を作ってまで本を持ちたがるのか

前回は電子化という方法で蔵書問題を解決したケースをみてきた。

武田徹さんと大野更紗さん。二人に共通しているのは、電子本よりも紙の本の方が読みやすいという考えだ。大量に電子化してしまったことを武田さんは後悔していた。日常的に電子化をくり返し、電子化した本を後もちゃんと読むと言った大野さんにしても「リーダビリティは紙が上」「日本語の本は紙で手に入れたい」と言ったことを話していた。

全ての蔵書を電子化してしまうのは味気ないと僕も思う。iPadなどのタブレットの出現、読みやすさを劇的に良くするアプリの開発という二点によって、「電子化された書棚」というものの活用が可能になってきた。だけれども、それは、武田さんのような尖った人の新しいことへの挑戦か、場所がないけど本をたくさん所有したいという矛盾を解決するための打開策として実践するか、どちらかでしかやる価値がないのではないだろうか。

物体としての本を増やしつつ、しっかりと維持・管理していくという方法は、財力に余裕があればやはりそれに越したことはない。僕だってそうしたい。本がまぐれ当たりして高額所得者にでもなれば、そうした方法で解決することも可能だろう。だけど数千万円というお金がいきなり入って来たら、生活費や取材費に使いたいと思うはずで、おそらく書庫建設にまでお金を回すことなど今後もずっと夢の夢なんだろう。

知人の書庫とのひょんな出会い

一昨年の床抜け騒動以後、問題の根本は何ら解決していない。置けるのは妻子と住む家とアパートだけしかないというのに、どんどんと本は増えていく。床抜けアパートから避難させた大きな二つの本棚には入りきらないようになり、本棚のまわりに本や書類を床置きして何とかしのいでいるという体たらくだ。

そんな状態なので本棚の下の段はすっかり見えなくなり、取り出すのにすら一苦労するようになってしまった。増えていく本の数に家族もあまりいい気はしていない。というか「はやくどこか持っていって」と言って嫌がっている。物としての本をこれ以上増やすのは無理があるのだろうか。だけどできれば電子化はしたくない。いったいどうしたらいいのだろうか。

そんな風にして、増え続ける蔵書や資料の多さに悩んでいた年末、ひょんな出会いがあった。杉並区の阿佐ヶ谷で用事を済ませた後、原付バイクを中野方面へ走らせているときのことだ。早稲田通り沿いに四角くてほとんど窓のない風変わりな建物を沿道に見つけた。今まで気がつかなかったのは阪急電車の客車に似た小豆色という落ち着いた色で全体が塗られているからなのかもしれない。

連載の第二回でお話をうかがった松原隆一郎さんの書庫が完成していた。

建物が気になって、徐行したところ、その建物の前を掃き掃除している一人の男性をお見かけした。立ち姿の美しいガシッとした体形には見覚えがある。さっそく僕はその男性に話しかけた。

「松原先生ですか」
「あっ、西牟田くん。こんにちは。なんでこんなところにいるの」

松原隆一郎さん。彼は東大大学院で社会経済学を教えている教授で、多数の著書を持っている。武道家としての一面を持っていたり、前衛ジャズに造詣が深かったりという多才な人だ。

この連載の二回目でも、松原さんに蔵書の話をうかがったことがある。そのときは書庫建設が着工される直前の時期であった。その後、どうなったのか気になっていたが、無事に着工、そして竣工していたらしい。

「たまたま通りがかったんです。おっしゃってた書庫、これなんですね」
「今、時間ある? 中見ていく?」

松原さんは掃除をやめ、書庫を案内してくれた。ドアを開けて中に入るとそこは別世界。中には丸い吹き抜けが上から下まで空いていた。書棚は吹き抜けのまわりの壁すべて。書棚から垂直に段違いでステップがせり出している。本棚とらせん階段は一体化していて、登ってみると絵巻物のように背表紙が展開し、登っているという実感や時間の概念が吹っ飛びそうになる。階段を登ったり降りたりしながら内壁と一体化した書棚の本を見ることができるのだ。これはすごい。

松原さんの書庫を一階から見上げたところ。天井まで吹き抜けになっている。

「壁が書棚になっているというつくりはけっこうあるんです。だけど普通は四角。外側が台形で中が丸というのは珍しいんです」

そう言って松原さんは静かに胸を張った。でもなんで中も四角にしたりとか、外も中も円形にしなかったのだろうか。床が抜けずたくさん本を置くためにはどのような工夫がなされているのだろうか。書庫という空間の居住性はどうなっているのだろうか。

建物の構造ににわかに興味がわいた僕は、建築家が来るタイミングに合わせて、後日出直すことにして、松原さんの書庫を後にした。

草森紳一の「崩れた本」の行方

実はこの年の春、似たようなタイプの書庫を先に見ていた。それは、松原さんのいう「けっこうある」というタイプの四角い書庫であった。

連載の3回目4回目で紹介した故・草森紳一が1977年に建てた「任梟盧(にんきょうろ)」である。草森紳一は博覧強記の評論家であった。ナチスや毛沢東によるプロパガンダ、中国の古典にマンガに野球とあらゆるジャンルに精通し変幻自在の評論活動を続けた。彼の活動を支えたのは3、4回で紹介したとおり、2DKのマンションに所蔵する約3万2000冊の蔵書であった。

2008年に亡くなったとき、あまりに本が多すぎて発見が遅れた。そうした逸話があるほどに、生前の草森さんは本を溜めていた。それが彼の蔵書全てだと思っていたら、彼の長年のパートナーであった東海晴美さんによると、帯広市の近郊に位置する彼の故郷・音更町には3万冊を所蔵する書庫があるという。それが「任梟盧」だ。

その話を聞いたときあまりの本の多さに「えっまだあるのかよ」と呆れて一瞬ものが言えなかった。そして連載の第4回に記したとおり、草森氏が自宅に溜めていた約3万2000冊の書籍はその後、故郷にある帯広大谷短期大学が受け入れている。現在は2000冊が短大で公開され、残りの約3万冊は廃校になった小学校に非公開で保管されているとのこと。

昨年のゴールデンウィークに家族で北海道旅行に出かけたついでに、草森さんの遺した本の行方を見てきた。向かったのは、約3万冊の蔵書が所蔵された書庫「任梟盧」、そして帯広大谷短大が受け入れた約3万2000冊である。

草森紳一の蔵書が保管されている東中音更小学校。

その旅で最初に訪れた草森蔵書の保管場所は、旧東中音更(ひがしなかおとふけ)小学校というところ。帯広大谷短大が引き受けた3万2000冊のうち、原則非公開の約3万冊が所蔵されている。牧場と畑と針葉樹林が交互に続く人口密度が少ない荒涼とした風景、その一角にぽつんとその建物はあった。平屋の旧校舎は2010年に廃校になったばかり。水洗トイレに放送室、図工室に保健室、校長室、職員室と各部屋の入口が脇にある板張りの薄暗い廊下を歩くと、建て増しされたとおぼしき新しい建物へつながっていた。1999年に改築したというから新しい部分は10年あまりしか使われなかったことになる。

重苦しい雰囲気の暗い廊下を抜ける。新しい建物に入ると、視界がわっと広がった。しかもとても明るい。頭上から外光が柔らかく射しているからだ。パネル状のカーペットが敷かれているその部屋は建物のハブになっていて、引き戸で三つの教室につながっていた。小学校の教室はそれですべてだ。6学年あるはずなのに三つしか教室がないのは、二学年ごとの複式学級だったからだ。廃校までの80年間に卒業生はわずかに624人、一学年当たり8人弱の計算である。

書棚の置かれている多目的スペースには光が射しこみとても明るい。

多目的スペースの空きスペースにはスチール製の本棚が等間隔で三列にわたって置かれている。高さ2メートル✕幅2.5メートルほどと大きさはそろえられていて、空いたスペースはあまりない。地震対策なのか、すべての本棚はレールのようなもので連結されている。

そこには、黄ばんだ箱入りの本に高そうな大型本、単行本がめだった。棚板の高さはすべて同じなので、大型本は入りきらず棚ごとに平積みとなっている。ジャンルを示す紙が棚の上部に貼られていて、「大正昭和史」「李賀 和書中国語原書含む」とあったりする。

また別の棚はコミックスと文庫本で埋め尽くされている。マンガのコレクションは時代に統一感がない。例えば60~70年代に連載が開始された『ゴルゴ13』『包丁人味平』『のたり松太郎』『釣りキチ三平』といった古いものから、90~00年代に連載された『ナニワ金融道』『ケロロ軍曹』『ヒカルの碁』という比較的新しいものまであり、草森さんがいかに長い間マンガを読み続けてきたのかがわかった。その種類もまちまちで、上記のようなストーリーマンガ、ギャグマンガに加え、有害図書指定されそうなエロマンガまであった。

文庫本は、『北朝鮮はるかなり』『おくのほそ道』『ラルフ・ローレン物語』『イスラム思想史』『更級日記』『ジャンヌダルク』『狐の嫁入り』など。日本の古典、海外物、小説、ノンフィクション等々、文庫本ということ以外、何の共通項もない。

専門書からマンガまで、草森氏の幅広い蔵書が棚ごとに整理されている。

引き戸を開けて元教室のひとつに入る。連結され並べられたスチール製の本棚がやはり目についた。どの棚もだいたい本で埋まっている。本棚だけが存在感を主張していて、教室として使われていたころの様子を連想するのは難しかった。一旦、多目的スペースに戻り、ほかの教室にも入ってみたが、同様だった。

教室の書棚には『20世紀少年』『ONE PIECE』といっただれでも知っているベストセラーのコミックスが目についた。草森さんらしいなと思ったのは、そうした人気コミックスの上の棚に『江戸深川情緒の研究』という渋いジャンルの箱入りの上製本が置かれていたことだ。

アトランダムに何冊か本を引き抜いて開いてみる。すると、赤鉛筆で単語に丸く印がしてあったり、丸から線が延びていたり、付箋が貼ってあったり。書き込みだらけの本がちらほら目立った。草森さんはこれらの膨大な本を単に野放図に買い求めたわけではなく、使い倒したのだ。

こうしてすべての本の背表紙が見えるように整理されているのを見ると、草森さんの本をめぐる壮絶なエピソードの数々がいったい何だったのか、狐につままれたような気分になった。教室三つと多目的スペースの計4部屋を費やしたとはいえ、並べてみると案外、場所をとらない。草森さんが命を削るようにして抱え込んだ蔵書の持つ迫力が、半減したような気がして拍子抜けしたのである。

しかし、こうして彼の蔵書を書架に整理し、そのタイトルを可視化することで、彼が何を考えていたのかがつまびらかになる。そんな利点があるような気がした。ここまできれいに並んでいるのだ。ほとんど整理は終わっているに違いない。そう思っていたのだが、どうも事情は違うようだ。

整理を担当するボランティアの一人、木幡裕人さんは言う。

整理の途中でどこに入れたら良いのか途中でわからなくなったものもあるんですよ。

よく見ると「不明分」と記されているコーナーが確かにあった。オールジャンルの知の巨人だけに、分類が難しく、蔵書整理のボランティアは20名以上いるというが、ずいぶん手を焼いているようだった。整理は道半ばなのかもしれない。

帯広大谷短大にはこの旧小学校とは別に40平米(12.1坪)の部屋を用意し、2000冊を展示する記念資料室とした。そこには写真集や生原稿などが置かれている。草森紳一のことを視覚的に、一目で見て理解できるような展示がなされていて、非常にわかりやすかった。しかも、担当者立ち会いのもとという条件はつくが、この資料室に設置されたPCで、没後に運び込まれた約3万2000冊にのぼる蔵書のデータベース検索ができるという。

中国の古典がそうですが、かなり高額な本も多数ありまして、東中音更小学校のほうは、そのために原則非公開としているんです。本来であれば地域の人たちが自由に見られるようにした方がいいんですが。

というのは草森本を故郷に受け入れるため中心となって尽力した帯広大谷短大教授の田中厚一さんである。

しかし、記念資料室のほうは旧小学校の書庫のようなボリュームはなく、物足りない。たとえて言えば映画の予告編のようなものだ。草森紳一に興味を持つとっかかりとしては非常に優れているが、それ以上ではない、ということだ。

帯広大谷短大には『随筆 本が崩れる』の毛筆による手書き原稿が展示されていた。

ガラスケースには『随筆 本が崩れる』の生原稿とゲラがあった。毛筆の生原稿はくずされすぎて、にわかに判読できない。その一方で、ゲラに記された万年筆での細かな直しの字は読みやすかった。同じ人物が書いているのに、筆が違うからと言って、なぜこれほどまでに読みやすさに差がつくのだろうか――。

そんなことを考えながら、ケースの中を覗き込むようにして眺めていた。すると、そばにいた、草森紳一に顔つきの似た長い白髪に野球帽をかぶった70代とおぼしき男性がわきでつぶやいた。

兄貴の直筆はもっと綺麗でしたよ。もともとは几帳面できれい好きなんです。

その方は草森紳一さんの弟である英二さんであった。

「任梟盧」を訪ねる

ボランティアの高山さんという方が運転する車に同乗した英二さん。その二人の車の後をついて走ること約15分、「任梟盧」に到着した。それは帯広駅からは車で20分ほどの、郊外の住宅地にあった。

任梟盧の外観。

高さは9メートル、幅は約7メートル、奥行きは10メートルほど。牛乳パックのような四角くて白い、屋根が三角に尖った塔である。外壁は薄くて長い板状の屋根材を横に並べウロコのように重ねてあり、洋館の屋根で全体を覆ったような外観だ(YouTubeにも映像あり)。まわりは比較的ゆったりとした敷地で仕切られた住宅街。北海道の牧場などでよくみかけるサイロと勘違いする人が多そうだ。外壁に使われている屋根材はもとは白かったようだが、経年劣化なのか、全体的にくすんでいる。草森さんが39歳だった1977年にこの書庫を建ててから、35年以上の歳月が流れているのだ。

兄貴が木造にこだわってつくったので雨漏りするんですよ。

角にガムテープが貼ってあったり、ビニールで外壁のまわりを覆ってあったり。かなり老朽化しているという事実は否めない。窓といえば身を乗り出すこともできない小さなものがかなり上の方についているだけで、光をなるべく入れないように工夫していたことがわかる。

「任梟盧」の扁額。この言葉は唐代の詩人・李賀の言葉から採られたという。

入り口には木製ドアがついている。取っ手はどこにでもあるステンレス製だ。ドアの脇には「任梟盧」と書かれた扁額がかかっている。これは井上洋介という画家が桜の木を彫って作ったもの。その人は草森作品の挿絵を手がけた画家である。

この建物の名前にはどんな由来があるのだろうか。英二さんに尋ねてみた。

兄が研究していた李賀という唐の時代に生きた詩人の詩の一節からとったんです。「任梟盧」とはサイコロ賭博の一番強い目のこと。つまり「強い目に任せる=ええいどうにでもなれ」という意味です。

というから、草森さんは自分の人生をダブらせてそういった名前を書庫に付けたのかもしれない。

英二さんがステンレスの取っ手を引いてドアを開ける。すると玄関の床はコンクリート造りだった。右脇には靴に混じって文庫本が並べられた靴箱がある。正面には一段高くなった緑のカーペット敷きの上がり框があり、そのすぐ奧は一軒家によく見かける木製階段が見えた。

中に入ると、カビの匂いが鼻腔ををつき、保存状態が大丈夫なのか、不安になった。

最初の階段を上りきって、1階半にある踊り場に出た。そこから見上げると三角屋根の内側の天井まで吹き抜けになっていた。9メートルの外壁上部は三角屋根で、その下には直角の壁がまっすぐ地面まで続いているらしい。

壁面の書棚にはハシゴに乗らないと手が届かない高さまでびっしりと本が並ぶ。

ところどころ階段に遮られているので、上から下まで壁面すべてを見渡すことはできない。しかしその壁すべてが一つの本棚だということは察しがつく。しかも前後左右、すべての面が本棚なのだ。角張っているということもあり、とても重厚で、本に取り囲まれる圧迫感がある。それだけに草森紳一という希代の読書家の知識量に圧倒されるような気がして、迫力があった。

階段を上っていく。すると、途中、踊り場に新聞紙が敷いてあり、建物が老朽化し雨漏りしていることが本当だと確認できた。このあたりにある本の中には、湿気てしまい読めなくなってしまったものも一部ありそうだ。三角の天井は、ベニヤ板のようなもので覆われていて、天窓もついているが、天井の一部に小さく開いているだけで、あまり光は射さない。

棚に挿さっている数々の本の状態はどうだろう。手に取ってみると、それらは紙も相応に劣化してはいたが、読めないというほどではなかった。南方熊楠、泉鏡花、柳田國男、フォークナーといった著名な学者や小説家の箱入りの全集が多いという点が、先に見た旧小学校でのコレクションと違っていた。マンガにしても、1970年前半の少女マンガだったり、『鉄腕アトム』『ドラえもん』『漂流教室』だったりと置いてあるものは古いものだけ。「任梟盧」が竣工した1977年の段階で止まったコレクションのようだ。

踊り場ごとに小さな読書用の書斎スペースが設けられている。

四角くとぐろを巻いている階段。その途中ところどころに踊り場があり、小さな書斎スペースとして使えるようだ。また、固定されていないはしごがある。どうやら、これがないと本が取れない棚があるということらしい。

「任梟盧」の床面積は6坪ある。そのうち吹き抜けが4坪を占めている。吹き抜けの内側には階段があり、その途中にはミニ書斎スペースとして使える踊り場が4カ所ある。一階には机の置かれた書斎部屋があり、巨大なトンボの彫刻や、愛用のジャケットが壁に掛かっている。また最上階近くには畳が置かれた寝室があった。没後まったく手をつけていないのか、部屋には草森さんの気配が濃厚にあり、見学していると、今にも後ろから草森さんがぬっと現れるような気がしてならなかった。

終の棲家となった東京の2DKは、約3万2000冊もの本が狭いスペースに置かれていたがゆえの迫力があったようだ。だからこそ「本に力をもらってる」と草森さんも生前に語ったのだろう。「任梟盧」は圧倒的な高さを持つ書棚に四方を囲まれている。これらの本の持つ存在感はすさまじい。書き手をせき立てて書く気にさせる、という意味では、終の棲家となったマンションの部屋と同じ特徴を持っている。

そもそもなぜ東京暮らしの彼が実家にこうした書庫を建ててしまったのだろうか。弟の英二さんは言う。

その頃は稼ぎが良かったし、建築の勉強もしてたから、建ててみたかったんでしょう。

「任梟盧」を作るにあたり、草森さんは設計者の山下和正氏に次のような注文を出している。

「できるだけ本が狭いスペースに収容できること、(略)「内臓空間」を表現すること、この塔の側を通る子供たちが見て、大人になっても奇妙な塔の記憶が残るようなフォルムを造ること」(『太陽』1981年11月号)

内臓空間という耳慣れない言葉がひっかかる。パートナーだった東海晴美さんによると、これは暗い倉庫のような、穴倉のような空間ではないか、とのことだ。それだけではなく、草森さんは周囲からの見られ方にも目配りしていたわけだ。でも、ちょっとやそっとで帰れないであろう、遠い故郷になぜ書庫を造ってしまったのだろう。普段住んでいた東京からこれほど離れていたら、本がたくさんあっても使えないのではないか。故郷に建てたことで本が死んだんじゃないか。

自主的にカンヅメになって執筆したいときとか、調べ物したいときとかは、ここに来ていました。その頃は東京と神戸とここに拠点があり、飛び回ってましたよ。

というから、少なくとも建てたときはそうではなかったらしい。

全集とかを家に持って帰ったりして持ち出したり、来られないときでも、「○○を送ってくれ」と私に電話して来ました。

ところが両親が亡くなってからは状況は一変する。

母が生きていたときは見舞いがてら来ていたんです。しかしその母、そして父が亡くなってからは寄りつかなくなったんです。

やはり本は活用されず、草森さん本人からすると死んだも同然の本と見なされていたのかもしれない。

兄貴は甘えてたんです。実家にこんなものを建てて、固定資産税の支払いはしないし、管理も任せっぱなしなんだから。

書庫の維持に長年携わってきた英二さんは苦笑しながら兄、紳一さんのことを批判した。

だからと言って、兄に恨みを持っていたりするわけではない。それどころか、むしろ英二さんは「任梟盧」にただならぬ思い入れを持っている。

そのうち帯広大谷短大へ行くのかもしれないけど、オレは兄貴の本を読めるだけ読みたい。

兄同様に漢文の素養がある英二さんは、残りの生涯をかけて兄の残した知の空間を守り、そして使い尽くそうとしている。

そんな英二さんの強い意志により、主を亡くした蔵書の塔は維持されている。東中音更小学校にある帯広大谷短大のコレクションと「任梟盧」の蔵書は当分、統合されないということらしい。

「仏壇の入る書庫」をつくる

僕が最初に「床が抜けるかも」という危機に見舞われたのは2012年の春のことだ。連載の最初のほうに書いたとおり、本の分散や電子化によってしのいだわけだが、その後も本に対しての不安は拭えなかった。2012年の大震災以後、「M7クラスの地震が首都圏で4年以内に7割の可能性で起こる」とか、危機感を煽るそんな報道が続くというのに、地震対策の根本的な解決策に関して、突っ張り本棚を導入する以外は何も講じていなかったからだ。

そこで、地震になれば本はどのように倒れてくるのか、その被害を想定するために、図書館を訪ねたり、蔵書家に3.11で経験したことを聞きに行ったりした。そのうちの一人が知り合いの松原隆一郎先生であった。

当時、松原さんは阿佐ヶ谷の自宅と東大の研究室のほかに、築50年近くという古い平屋を月々4万5000円で借り、そこを書庫にしていて、あわせて約3万冊所有していた。古い平屋には本棚が17棹あり、部屋を取り囲むように端に本棚を並べた結果、本の重みにより、床の真ん中が浮き上がってくる。そんな現象に頭を悩ませていた。

先の震災の被害もさんざんだったそうだ。以下は震災のときのことを伺った、2年前の取材時の会話である。

「玄関口に置いていた本棚が真っ二つに割れ、部屋の中に本が散乱しているんだよ。家の方は斜交いを通常の倍入れて補強してたんでまったくびくともしなかったけどね」

「していた」ではなく「している」という現在形で話すので、不思議に思い、確認した。

「震災から一年以上、経ってますけど、その本棚ってどうなったんですか。散らかった本は片付けたんですよね」
「いや、そのままだよ。以前はけっこう整然としてて、どこになにがあるかわかってたんだけど、いまそこは使えない状態なんです。というのもね、書庫を作ることになったんです。完成した半年後にそこは引き払う。だから整理する気持ちはなくなってるの」

いきなりの話の転換にすぐにはついて行けなかった。

「書庫ってなんですか」
「早稲田通り沿いに書庫をつくることにしたんです。来月(2013年5月)に工事を始めます」

いつも冷静な口ぶりの松原さんが嬉しそうに言った。

神戸出身の松原さんは1995年の阪神淡路大震災で妹を亡くし、実家が全壊するという災難に遭っている。さらに3.11の震災で本棚が崩壊したのだ。新しく作る書庫は地震に備えてというのが一番の理由なのだろうか。

「計画が決まったのは震災の年の秋だけど、震災前から物件は探していた」
「とすると地震対策ではないんですね。じゃ、なんで作ったんですか」
「もともとは祖父母の仏壇を入れるためです」

生前、財をなした祖父母を弔うための仏壇がある。その仏壇が、父母が亡くなったこともあって宙に浮いているそうなのだ。長男である松原さんは財産分与の点で妹と均等だった。なのに仏壇と墓の管理を任されてしまった。松原さんは思った。長男だからと言ってこの不公平感な状況をどうしたらいいのか。自分は故郷の神戸を離れて東京に住んでいる。今の家は狭いので、仏壇は置けないというのに——そんな厄介事を抱えていた。

さらに普段から毎月50冊以上が献本され、置き場所に困っていた本をどうするかという問題もあった。家庭の事情と蔵書の問題——それを同時に解決する方法として、仏壇の入る書庫の建設を思い立ったというのだ。僕が前回インタビューにうかがった2012年の春頃は、建築家との設計案がまとまり、いよいよ建設に取りかかろうとするときだった。

狭小物件の円形書庫

あれから早2年。書庫を設計した建築家の堀部安嗣さんが一年点検(不具合がないかの確認)のために来るというので、その機会にあわせて松原さんの書庫をたずねてみることにした。竣工からまる1年を目前にした2014年1月28日のことだ。

「ごめんください」

ドアの上は建物の角がちょうど雨のよけられるひさしになっていた。

「どうぞ」

松原さんと建築家がそろったこの日を選んで他のメディアが来ているのか、ドアの内側には靴が10足ほども並んでいる。中に入ると暗くて丸い、狭いのか広いのかよく分からない吹き抜け状で円形の書棚がふたたび現れた。

二階建てで半地下の物件である。地下を丸々一階掘らなかったのは、阿佐ヶ谷という名前のとおり、このあたりの土地は谷地だから掘ると水が出るからだ。大雨が降ると、地下室は冠水してしまう恐れがあるのだという。

円形の吹き抜けの周囲に書棚がらせん状に配置されている。

松原さんに招かれて、中に入る。ドアを閉めるとまるで異次元空間。広さや時間の感覚がまったくなくなってしまうような錯覚に陥る。ゆるやかならせん階段をのぼる。本は十分手に届くところにあるし、背表紙にも目が十分行き届く。絵巻物のようにするするすると一番上までいってしまう。吹き抜けになった眼下を見下ろすと思いのほか高さがあり、高所恐怖症の僕は目がくらみそうになる。カメラを落とすと下にいる人に大けがをさせてしまうはずだ。

新書、文庫、小説。そして専門の経済の各分野、そして途中に仏壇。そのあとは景観、格闘技、ノンフィクションと続いている。蔵書には先生に文庫版の解説を書いてもらった僕の単行本も含まれていた。

書棚全体が円形になっているので、棚の奥のほうが扇型のようにやや広くなっている。そのため本を抜いたり差したりという動作が簡単。箱に入った古い全集やマンガ、中国の古典といった本は見当たらないし、ぼろぼろに劣化した本も目立たない。1万冊もあればある程度は草森さんの蔵書とダブりがあるはずだと予想していたが、実のところほとんどなかった。しかし、得意分野に関する本が多い、という特徴は共通していた。

草森さんの書棚には、李賀やマンガ、ナチスのプロパガンダに関する本が多かったし、松原さんは経済学関連の本、格闘技、景観といった本がやはり多かった。二人とも読んできた無数の本に大いに影響され、知識を蓄え、思考力を鍛えてきた。草森さんにしろ松原さんにしろ蔵書に育てられ、それを活用しているということだ。

およそ1万冊の本は、松原さんなりの秩序によって、厳密に配置されている。

昔からそうなんですが、頭の中を階層化して処理しているんです。だから棚の位置を書いた表で十分です。データベースはありません。

背表紙を眺めながら、考えをまとめ、執筆する。そうした一連の行為をするために、この書庫が必要なのだ。それにしても、思いのほか古い本が目立たない。おそらく松原さんは自分にとって必要な本を常に入れ替えて、必要がなければ処分するのだろう。ほぼ満タンに埋まっているのかと思ったら、ところどころ棚が空いていることに気がついた。

空きスペースは意識的に作ろうとしています。

月に50冊献本があり、自分でも15冊は買うというだけあり、こうした本の新陳代謝が欠かせないということらしい。では要る本と要らない本をどのようにして選り分け、どう処分しているのだろうか。1万冊を上限と決めているというが、電子化するのだろうか。それとも売ってしまうのだろうか。

書類をスキャンしてとって置いたことがありますが、労力がかかる割にあとで使った試しがありません。使っていない本は要りません。要るものだけをここに持ってきて、要らない物は研究室に置くか、かなり処分しています。駒場東大前駅にある古書店にトラックでとりに来てもらったりしています。

ネットで本を検索し簡単に手に入れることができる時代。使う段になって欲しければ、改めて買えばいい、そんな思い切りが感じられる。

使うかもしれないということでデータ化したりはしません。私は古い人間なので紙のようにめくれない電子書籍はしっくりこない。それに私は本に書き込んだりして汚しますし、レジュメを作るために一部をコピーしたりして使うわけです。電子書籍じゃそれができないでしょう。だから電子書籍は一生使わないと思うんです。

松原さんは残りの人生で、使う本だけを自分の周りに置き、こうして常に並べ替えたりしながら、活用し尽くす。そのための本棚ということらしい。

書庫の建築家の話をうかがう

らせん階段をおりたところにあるテーブルには建築家の堀部安嗣さんが僕を待っていた。この半地下のスペースが応接スペースになっているのだ。年末に訪れたときはに気に止めなかったのだが、井戸の底のようなこのスペースで、松原さんはインタビューを受けたり客をもてなしたりするということらしい。書庫の底から水が湧いてくる代わりにこんこんとアイディアが湧いてきそうな感じがした。

らせん階段を昇降すると絵巻物のように書影が目に飛び込んでくるという仕掛け、外は四角で中は丸という構造、耐震性、床の強度など。なぜこうした建物にしたのか。工夫の意図について堀部さんに伺ってみた。そもそもなぜ円形なのか。草森さんの書庫のように四角く作った方がたくさん本が入るのではないか。

最初のプランは書棚も四角かったんです。土地の広さが28.7平米(8.68坪)とただでさえ狭いので、壁を薄くしたりして無駄な部分を少なくすることに心を砕きました。ただ、四角い書棚だとどうしても本にヒエラルキーができてしまう。角に置かれた本が真ん中より見にくくなってしまうわけです。それに対して円形だと一目で見渡せますから、書棚はそうすることにしました。有効床面積(円)が約14平米(約4.2坪)ですから、もったいない土地の使い方をしていると思います。だけど円形にすることで、本に包まれている感じとか、方向がわからなくなる感じがあります。実際の広さ以上の広がりや無限な感じが出せるんです。

なるほど、この書庫は草森さんの書庫のように本に急き立てられるような圧迫感がない。圧迫感は書くためのモチベーションになり得るから、それはそれで存在する意義がある。だけども丸くなったらなったで、胎内にいるような、本に包まれた感覚があり、雑念という雑念がすっと消えていくような気がして、執筆空間としてはこのうえない。

気になるのは、なぜ外側を内側にあわせて丸くしなかったのかということだ。外側も丸くした方が建てるとき簡単だし、空いた土地を有効利用できたのではないか。

隣の家の日照を確保しなきゃいけないので、屋根を斜めにカットする必要がありました。外も円形だと二階部分が本棚として使えない部分が出てきたりして、えぐいことになるんです。外を四角にしてコンクリートの肉の部分を増やすことで、いくつもの利点があります。ひとつはさっき話した屋根の問題の解決、そして遮音性。この場所は早稲田通りに面していて通行量が多いですから。それにドアの部分にひさしをつくれます。これが丸だったらそうは行かない。それに建物としての強度も出るわけです。あと、肉の部分を削ることで仏壇もぴったり入りました。

書棚の間には仏壇がスッキリと収まっている。

本の背表紙が絵巻物のように続いている書架を見ながら階段を上っていくと、二階手前に仏壇が現れる。むろん、そこだけは本がない。一見、本棚と同じ奥行きではめ込まれているようにみえたが、よく見ると仏壇の奥行きは本棚の倍以上ありそうだ。丸型の建物にすれば奥行きの分が内側か外側に飛び出ることになる。そうならないのは四角くしたため、コンクリートに余裕がでたからだ。コンクリートを内側から外側へえぐって背表紙とぴったり合うように設置したのだ。

では次に強度についてはどうなのだろうか。過去に手がけた作品を撮影した著作を見る限り、堀部さんが得意とするのは木造建築のようだ。なのになぜ得意の木にではなく鉄筋コンクリートにしたのか。耐震性や床の強度についてはどう考えているのか。

鉄筋コンクリートは木造に比べて、高さをとれるし、火や振動に強い。それに遮音性能に優れているからです。地震が来ても半地下ですからまず揺れません。床が抜ける可能性はありません。本はそれぞれの棚板が支えていますから。

そもそも僕は前提を間違えていたようだ。この建物は内側の壁が本棚になっている。普通の建物のように本棚を床に置くという構造ではないし、本棚の下は鉄筋コンクリートでその下はすぐに地面なのだ。抜ける床がそもそもないのだ。

では次に真ん中の床をなくし、吹き抜けにしたこと、常に天窓が開いているというのはなぜだろうか。

確かに真ん中を床で仕切るとそれだけ収納が増えたかもわかりません。だけど居住性も考えると吹き抜けがいい。それに本が日に焼けることを松原さんは、あまり気にしておられない。すべて人工の光というのも味気ないものです。

書庫の完成まで借りていた月4万5000円の平屋は当初、仕事場としても活用するつもりだった。しかし、四方に本棚を置くと、居ても落ち着かず、結局、2日に一回本を整理に行くだけになってしまったという。また、部屋の真ん中にも本棚を並べたときは、照明が足下の本まで届かなくなったというから、ますます居住性が落ちたのだろう。

そうした苦い経験もあって、書庫をあらたに作るにあたっては、収納性能よりも、ある程度の居住性が大事、ということで吹き抜けにしたのだという。

このように堀部さんは、僕の質問にことごとく明快に答えてみせた。なるほど建築家の仕事とは、施主が求めるあらゆる要素が絡み合った複雑な方程式を解くような行為なのだ。松原さんの書庫の場合、そこに居住空間という要素も絡んでいたのだ。

約一年間、この書庫を使い続けた感想はどうなのだろうか。松原さんは話す。

大学に行ってるとき以外は、朝から夜の7時半まで、ずっとここにいます。使い心地はすごくいいです。だけど夜は家に帰ります。いま高2の一人息子が大学に入れば一緒に夕食を食べられなくなるかも知れませんから。仕事のために出直すこともしません。

裏返せば、息子さんが進学して親元を離れたりしたら、松原さんはますますここを活用するつもりなのだろう。家から書庫まで自転車で5分しか離れてないというのに、小さなベッドルームやシャワールームすら備えている。

仕事場としての機能のほかに、それ以外にもここを建てたことで良かったことがある。仏壇のほかには戦前から敗戦にかけての写真、実家に生えていたサルスベリのウロ、万年青(おもと、ユリ科の多年草)。実家に残されていたものを書庫の建設によって継承し、イエ問題にある程度の決着をつけることができたのだ。

気がかりなこともある。それはこの書庫や集めた本をいつまで使い続けるのか、ということだ。たとえば松原さんの体が不自由になったとき、もっというと自分が死んだときのことは考えていたりするのだろうか。祖父の仏壇や庭の木々などをわざわざ移すほどに、継承にこだわっているのだ。

そう思って、松原さんには意地悪な質問をしてみた。体が不自由になったらこの建物をどうしますか、と。

いや、このまま最後まで(体が不自由にならずに)行くと思いますよ。もし不自由になったら、死んだも同じです。

実際そのとおりいくかどうかはわからない。なのにそう言ってのける松原さんの強い自信が、すごく人間くさく感じられて、なんだかしびれた。僕もこうありたい。

この書庫を建築した堀部さんも言う。

耐用年数は人の一生よりも長いですからね、誰が使っても応用がきくように作りました。だから、いざというときに売れるとは思います。バリアフリーまでは考えていません。そこまで考えると書庫は建てられません。

そのときはそのときだ。草森紳一の書庫のように、個人を慕っていた人や遺された家族が協力して、どうするのかを考えればいいことだ。不意にそんなことが起こるならば僕も協力したい。

(このシリーズつづく)

 

※松原隆一郎さんが書庫を建設した経緯は、今年2月末発売の『書庫を建てる ~1万冊の本を収める狭小住宅プロジェクト』(新潮社)に詳細に記されています。また『友人たちと仕事仲間による回想集 草森紳一が、いた』で、山下和正さんが「任梟盧」の設計の経緯について書いており、この建物の図面も掲載されています。

※この連載が本の雑誌社より単行本になりました。
詳しくはこちらをご覧ください。

執筆者紹介

西牟田靖
ノンフィクション作家。日本の旧領土や国境の島々を取材した一連の作品で知られる。「マガジン航」の連載をまとめた『本で床は抜けるのか』(本の雑誌社)をはじめ、著書に『僕の見た「大日本帝国」』(カドカワ)、『誰も国境を知らない』(朝日文庫)、『ニッポンの穴紀行〜近代史を彩る光と影』『ニッポンの国境』(光文社新書)、『〈日本國〉から来た日本人』などがある。
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